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第一部 ご飯パトロン編

49. 空っぽなところを

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 0時ぴったりに、柘植野は用意していたメッセージを送った。

『お誕生日おめでとうございます。あなたがこの世に生まれてきてくれて、僕は本当に嬉しい。この先も、よい旅を』

 すぐに柴田から返信が返ってきた。
 彼には0時ぴったりにお祝いを送ってくる友人が何人もいそうなものだけど、一番に僕に返事をしてくれたのが嬉しい。柘植野の胸がくすぐったくなる。

『柘植野さんと一緒の旅がいいです!』
『今日から手をつないでくださいね!』

 柘植野はくすくすと笑った。この調子では、せっかくラブレターを用意したのに、先を越されてしまいそうだ。

『今からお話しに行ってもいいですか』

 こう送信した直後に、ドアベルが鳴った。

「柴田さん、お誕生日おめでとう」
「ありがとうございます!」

 廊下に声がひびくので、柴田は声を抑えて、でも元気に返事をした。廊下の奥の窓に、暴風雨が叩きつけている。

「どうぞ上がって。片付けたから」
「えっ!?」

 柘植野が今までに、柴田をカーテンの奥の仕事部屋に通したことはなかった。

「僕の部屋で見たもののことは言わないでくださいね。どんな本があったかも言わないで」
「分かりました! 約束します」

 柘植野は柴田をクッションに座らせた。柴田は感心して部屋を見回した。
 天井に届く本棚が2台並び、ぎゅうぎゅうに本が詰め込まれている。
 壁の空いているところには隙間すきまなく資料が貼られて、コラージュのようになっている。

「ふふ。柴田さん。世界一のラブレター……かは分からないけど」
「そこはカッコつけてください!」

 柴田のツッコミが入り、2人は笑った。

「書きました。僕の精一杯を」
「分厚い!? 何枚あるんですか!?」
「88枚。いい封筒がなくて、クリアファイルでごめんなさいね」
「いや、ありがとうございます! 88枚の手紙もらうことないですよ!? 世界一ですよ! ギネスですよ!」
「枚数で認定されても嬉しくない……」
「そうですかね。おれだったら嬉しいけど」

 柘植野はねたように唇を尖らせた。
 ちょっと子どもっぽい柘植野さんもかわいい……。柴田は柘植野の表情に見惚みとれた。

 それから気づいた。自分は88枚ものラブレターを今から読んで、返事をしなきゃいけないってことか!?

 88枚も何をそんなに書くことがあるんだろう。
 まさか柘植野さんにはもっとヤバい秘密があって、それを打ち明けてくれてるとか……?

 柴田はだんだん不安になってきた。
 おれは、本当に柘植野さんを好きでいて大丈夫なんだろうか……?

「おれ……こんなにたくさんの、ラブ、をもらうような男ですかね?」

 柘植野は目を丸くして、柴田の顔をのぞき込んだ。
 隣り合って座っている柘植野の整った顔が急に近づいて、柴田はキュンとした。

 おれは柘植野さんが好きだ。ずっと好きだった。だけど、急に不安なんだよ……。

「柴田さん、顔を触っていいですか」
「え、はい」

 柘植野は左手を伸ばして柴田の頬を包んだ。柘植野も不安な目をしていた。

「柴田さん、」
「柘植野さん? 手を怪我したんですか!?」

 柘植野の中指には絆創膏ばんそうこうが巻かれ、手首にはテーピングがしてあった。

「ああ、久しぶりに長い書き物をしたから。ペンだこが破れて、腱鞘炎けんしょうえんになりかけたからテーピングをしてるんです」
「おれ! そこまでしてほしいと思ってないです! やりすぎです! おれなんかのために——」

 柘植野が人差し指を柴田の唇に当てたので、柴田はドキッとして黙った。

「二度と『おれなんか』って言わないでください。僕の前だけじゃない。誰に対しても、二度と」
「……別に、口癖ってわけでもないし」
「そうですね」
「柘植野さんの小説を待ってる子どもがたくさんいるんですよ!? おれに88枚も書いて、大事な手を壊して、そんなことしてる場合ですか!?」

 柘植野は寂しい目をした。柴田は罪悪感で胸が苦しくなった。
 こんなに好きなのに。あんなに好き同士だったのに。
 おれのせいでめちゃくちゃになってる。どうやって元に戻したらいいのか、分からない。

「僕は別に重い男じゃないんですよ。ただ証明したかった。生きるのにおいしいご飯が必要なように、あなたが僕においしいご飯を作ってくれるように、僕はあなたが生きるのに必要な言葉をどれだけでもあげられると、証明させてくださいよ。全部読まなくていい。ただ、この厚さを感じて、それで分かってください」

 柘植野は声をおさえて話した。でも、少し震えた声だった。
 泣いてしまいそうだった。

「生きるのに、必要?」
「ご実家のこと、浅井から聞きました」

 柴田は肩をこわばらせた。

「あなたには言葉が必要でしょう。だから僕はあなたに、ファンレターを書き続けます」

 柘植野は柴田の目をまっすぐに見た。薄く涙が浮かんでいた。それでもきりりとひたむきな瞳だった。

 柴田は、柘植野が自分の中の空っぽな部分に気づいていたんだと知った。
 そして、3月にはがらんどうだった空っぽな心に、なみなみと柘植野の言葉がそそがれていることに、今気づいた。

「柘植野さん……ずっと……おれの空っぽなところを……」

 それ以上は声が震えて話せなかった。

「空っぽを抱えたあなたと、空っぽを埋める言葉を持った僕が、たまたま隣同士になっただけ。たまたまあなたにファンレターを贈る手段があったから、僕の言葉で空っぽを埋めたいと思っただけ」
「柘植野さん……!」

 柴田は、何も言葉にならなくて、思い切り柘植野を抱きしめた。大柄な身体全体で、柘植野の華奢きゃしゃな身体を確かめるように包み込んだ。

「このまま、パトロンのままでもいいんです」
「いやです!!」
「柴田さん、しー」

 柘植野は柴田の髪を優しくでながら、声を落とさせた。
 暴風雨の夜とはいえ、このマンションは音が響く。

「柴田さんが『もうお腹いっぱいです』って笑って言ってくれるまで、僕はあなたに言葉を贈り続けます」
「本気ですか、ただの隣の大学生に」
「『ただの』なんて言わないでくださいね」
「おれは……! 柘植野さんのこうやって優しくさとしてくれるとこが大好きです。言葉をくれるからっていうのももちろんあるけど、それだけじゃないんです。優しいところも、大人っぽいところも、子どもっぽいところもちょっとあって、全部大好きなんです。でもおれが今全部めちゃくちゃにしちゃって……」

 柘植野は柴田をあやすように髪をで続けた。

「大丈夫ですよ。あなたはいつもまっすぐな言葉をくれる。だからめちゃくちゃになんてなってません」
「ここから元に戻りますか」
「戻りますよ」
「こんなにめちゃくちゃ言ったあとで好きって言ってもいいんですか」
「僕も好きですよ。お誕生日おめでとう」

 柴田は感激のあまり強く強く柘植野を抱きしめたので、柘植野は「苦しい」と言って笑った。
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