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第14章 さよならの儀式
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しおりを挟むイベルク港の宿屋で部屋をとり、備え付けのお風呂でお湯を浴びる。
体のあちこちに血の痕。それをお湯で溶かしながら、タオルで擦り落とす。
固まって古くなったとはいえ、元は液体。今のあたしなら、全身の血を落とすことは容易くできることを分かっていた。だけどそれはしない。したくない。
自分の手で、落としたい。神の力など使わなくても、できるのだから。
時間をかけて血と汚れを洗い落とし、それから張ってあった湯に体を沈める。
湯気が視界を覆って、目の前がぼやける。そのままとぷんと、頭のてっぺんまでお湯の中に体を沈めた。いくつもの泡の粒が鼻先で踊る。
ああ、本当に居なくなっちゃったんだ、と。ぽつりと浮かんだ。
今、あたしの中にトリティアは居ない。なぜかそれがはっきりと分かった。
あの海に帰ったのだろう。ずっと帰りたかった、故郷の海に。
最初、トリティアが自分の中に居ると知ったとき。
こわかった。得体の知れないその存在が。もたらされる力が。選ばされる覚悟が。
でも、こうしてひとりになって漸く気付く。
守られていたんだと。
ひとりになってしまったんだと。
せめてもう少し傍に。居てほしかった。
「――マオ!!」
感傷に浸っていると、突然許可もなく浴室のドアが開けられる。
驚いて顔だけ湯船から出すと、なぜか裸にタオルを巻いたイリヤの怒った顔。思わず目を瞬かせる。
「い、イリヤ…?」
「やっぱり! お医者さまに湯船は浸かっちゃダメだって言われたでしょう! 傷口にばい菌がはいるって!」
「あ、そ、そうだった…」
すっかり忘れていた。
ちらり、と湯船に沈んでいる自分の脇腹へと視線を向ける。
薄紫の皮膚に太い糸が縫われた傷口。
薬で今は痛みを感じないせいで、すっかり忘れていた。この傷を縫ったのは僅か数十分前の出来事なのだ。
魔力の暴走で裂けた皮膚の傷は掠り傷程度だった。時間が経った今は殆ど痛まないし、じきに薄れる。
だけどこれは違う。アトラスの魔力に灼かれた痕。
その威力の殆どはジャスパーの腹を抉り、そして避けきれなかった一部があたしの脇腹を僅かに抉った。
すぐに適切な処置をせず放置していたせいで、イベルクの港の町医者にこっぴどく怒られた。
皮膚の一部が壊死しかけている。それでも魔法で血ごと固めていたおかげか、傷口の周辺の皮膚だけを焼き切り縫合することで、手術は内臓までには及ばずに済んだ。
クオンが麻酔代わりの神経麻痺の魔法をかけてくれていたおかげでそこまで痛かった記憶はない。ただ意識があるまま自分の肌を焼かれ、そこに針と糸が通る感覚は、鮮明だった。鎮痛剤が切れたら熱が出るとは言われている。
おそらくこれは、痕が残ると言われた。一生消えないと。
同情の目を向けられて、付き添ってくれていたイリヤやクオンは顔を歪ませていたけれど、あたしはなんとも思わなかった。
本来は麻酔で意識ごと奪ってから施す処置。だけどそれは拒否した。
無理を言ってクオンに魔法で誤魔化しながら処置をしてもらった。
時間がなかったからだ。
もうすぐ船は弔いの海と呼ばれる場所へ出航する。
ジャスパーの遺体の水葬の為だ。
最後の、見送り。乗り遅れるわけにも、乗り過ごすわけにもいかなかった。
その魔法の作用と薬の影響でか、体の感覚が未だ掴めないのが現状だ。
そんなあたしをイリヤが心配してきてくれたんだろう。裸の理由は分からないけど。
「もー! 待っててって、言ったのにボク! ほら、体洗ったんならさっさと出る! 傷に障っちゃう! ボクがやってあげるって言ったのに!」
「そ、そうだったっけ…?」
「も~~!!」
頬を膨らませながらイリヤが大きなバスタオルで頭からぐるぐるとあたしを簀巻きにする。
それからその見た目から想像もできないような力でひょいとあたしを担いで浴室を出、ベッドに放った。一応ケガ人なんだけど。
「傷口、見せて」
イリヤに言われてごそごそと、タオルの隙間から這い出て自分のお腹を晒す。
ギシリとあたしの隣り、ベッドに腰掛けたイリヤがその琥珀色の瞳を傷口に向けた。哀しそうな顔で。
そっと。その冷たく細い指先が、歪な傷口をなぞる。感覚は殆ど無いので痛くはない。視覚的にくすぐったい気がしただけだった。
「…マオが、ぜんぶ神さまだったら…ボクが治してあげれたのに」
「…そう、なんだ…」
「でも、ボクは。マオが半分人間で、良かった」
「……」
琥珀色のその瞳が、まっすぐあたしを見つめる。
その言葉の真意があたしには見えず、ただ無言で返すしかできない。
だけど、あたしは。
神さまでも人でもある、あたしは。
「……あたしは、もう」
自分で力を求めた。神の力と分かっていて、神に近づくと分かっていて。
だけど所詮、受け止めきれなかった。その代償に大切な人を失った。
はじめから、求めなければ。分不相応に弁えていれば。
もっと違ったかたちがあったのかもしれない。失わずに済んだのかもしれない。
思いあがったその罰が、きっとこれなのだ。
「神さまにもなれないし、ただの人にも戻れない。あたしが帰る場所は…もう、ないのかもしれない」
自分でも、自虐的なことを言っていると。今さら過ぎるのだと分かっていた。
だけど、もう。
信じることができなかった。
自分自身を。
「…マオの、本当の気持ちを、教えてほしい」
ぎゅ、と。熱の失われていくあたしの両手を、イリヤがつよく握りしめる。
真っ直ぐ見つめる眼差しは、揺るぎない。
「…もとの世界に、帰りたい…?」
「……」
その言葉に、自分の心臓が撥ねる。
いつかは帰る場所。帰らなければいけない場所。
なによりジャスパーとの約束がある。
あたしはこの世界で自分の役目を終えて、そしていつか必ず――
「…わから、ない…今、帰っても…逃げてるだけでしかないって、わかってる。だってこんな状態で、帰って…もう二度とこの世界に、戻ってこれなかったら…!」
トリティアはもう居ない。
そしてもし帰れたとしても、今までこの世界にくる為に使っていた、ふたつの世界を繋ぐ場所、旧校舎のプールはもう取り壊される。
入口を失う。そしたら、もう二度と――
「あたしの、知らないところで…! みんなが傷つくのは、ぜったいに嫌…!」
どんなに後悔しても、悩んでも迷っても。
そこに、行き着く。この心は。
あたしはこの世界を捨てることなんてできない。
だってもう、知ってしまったのだ。関わってしまった。繋がりを、繋いでしまった。
固く、強く。
「……本当に。欲張りだね。マオ」
「…イリヤ…?」
「人も、神さまも。守れるものなんてたかが知れてる。神さまは決して万能じゃない。信仰の失われた時代で衰えていくように、不必要なものは淘汰される。そして必要とされるものだけが、生き残っていく。マオ、それが今の時代、そしてこの世界だよ」
「…どういうこと…?」
イリヤの言葉の意味が、言わんとすることが、上手く呑み込めない。
おそらく間抜けな顔するあたしに、イリヤはふ、と息を吐き出すように笑った。
それからするりとその両手が、あたしの頬を包み込む。
「もうこの世界に、神さまは不必要なんだ。だからボクの一族はボクでその役目を終える。そして、マオ、もうこの世界に」
笑うイリヤが、すぐ鼻先で甘い吐息を吐く。
その瞬後にそれが、あたしの心を蝕む毒になる。
「神さまなんて要らない」
だったら、あたしは。
どうしてここに居るの。
零れた言葉を、流れた涙を、イリヤのその唇が受け止める。
残酷な言葉を吐いたその唇が、あまりにもやさしいキスをくれるから。
あたしは流れる涙を止められなかった。
その内のいくつかが、パラパラと不揃いな結晶になって床を転がった。
また自分の心の不安定さに振り回される力。
タオル越しの肌は熱く、どちらの熱か分からない。
ただその熱さに頭がくらくらした。
薬が切れてきたのかと、そんなことをぼんやり思って。
イリヤの細い体があたしを抱き締めるのに身を任せる。
「…だから、マオ。忘れないで」
その胸に頭を押し付けられて、聴こえてくるイリヤの心臓の音。
歌うように優しいその声音は頭上よりあたしの鼓膜を揺らす。
不思議と。自分の中で荒れていた波が、少しずつ静まっていくような、そんな錯覚がした。
不鮮明だった自分の内側。ぐちゃぐちゃに傷ついて、跡形もなくなって。
ひとつの波がさらっていく。そしてその後に残ったもの。涙はいつの間にか止まっていた。
「ボクらが居てほしいのは神さまなんかじゃない。誰かの為に涙して、無力だと嘆く、たったひとりの女の子。その子が笑って生きてくれるなら、ボクらはもう、何も要らないんだ」
静かな、凪の海が脳裏に浮かんだ。
僅かにはやくなる鼓動。熱い体。
まわされた腕はあたしが思っていたよりずっと逞しく、いつか同じように、抱き締めてくれた人が居たことを思い出した。
どこにもいかないでと。そう言ってくれた。
あたしもそう願っていた。
置いていかないで、と。
置いていかれるのは、こわい。
さみしい。
ずっと誰かを呼んでいた。
ここに居て、と。
叫んでいた。
――水平線に日が沈む。
永遠に暗い海の底。そこに日は昇らない。光は届かない。
そうだ。思い出した。
――愛しいひと。
光は、きみだった。
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