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第14章 さよならの儀式
1
しおりを挟む――誰かが、泣いている。
誰だろう。分からない。
なんて哀しい、泣き声。
小さく、泡のように。
今にも消えてしまいそうなのに、その声は段々と主張を強くする。
音のない世界に響く、きみの声。
ああ、なつかしい。
ずっとずっと昔にも、確かこんなことがあったんだ。
ぼくはきみに、呼ばれたんだ。
きみがぼくを、呼んだんだ。
待っていて。
今度こそきみに、会いにいく。
あの日の約束を、ぼくはもう二度と違えない。
ようやく永い旅が終わる。
きみを失って900年。
ひとりぼっちの、永い旅が。
―――――――…
「クオン」
呼ばれて振り返ると、暗い顔をしたイリヤが居た。手にはスープの載ったお盆を持っている。手がつけられた様子はない。
ダメだったか、と。おそらく互いに同じことを思い、重たい吐息を零す。
あれから三日経つ。
ジャスパーが亡くなってから、三日。
船は今、出来得る限りの速度で港へと向かっている。停泊もせず、まっすぐに。
通常よりも皆、睡眠を削り、精神を削り、気力を削りながら。
北の海の海域は離脱している。だけれど油断はできない。
海の上では何が起こるか分からない。だからこそ慎重に、それがレイズの本来の考えだ。
だけど今回ばかりは違った。負担を承知で無茶をして、危険を覚悟で帰港を目指す。
ジャスパーの遺体を乗せている為だ。
本来なら船上で死人が出た場合、船内の衛生上、特に感染症を防ぐ為にも、二四時間以内に水葬されるのが船乗りの習わしらしい。
だけどレイズ、ひいては船員たち全員の希望により、一度港に戻ってから再び海に出て水葬するということになった。
港に戻るなら、火葬で良いのではないか。そう言ったけれど、受け入れられなかった。
「ジャスパーはこの海の船乗りだ。死んだら海に流してくれと以前から言われていた。火葬はしない。…海に、かえす」
ジャスパーの、そして他の船員の為に。レイズは無茶を通そうとしている。
港に戻るのは、残している他の船員達と合流する為だという。
仲間であり家族である全員で、ジャスパーを見送りたいのだ。
――それが、最期の別れとなるのだから。
暗い顔で言ったレイズが、ジャスパーの遺体が置かれている船の貯蔵室へと視線を向けた。
中の荷物を出せば、調度人がふたり分ぐらいのスペースができ、そこにジャスパーの遺体を寝かせている。
室内の天井は低く、立ち上がることもできないほど狭い部屋だ。
そこに、結界と魔法を施して、ジャスパーの遺体の腐敗を留めている。
そしてもう三日。マオがそこから、出てこない。
神々の壮絶な戦い。おそらくそう形容して過言はないだろう。
あの瞬間、ぶつかり合った人には到底及ばぬ膨大な魔力の波。
誰が勝ったのか。負けたのか。そんな容易いことではないのだと、それだけは分かった。
あの海で最強といわれる戦神を、マオが退けた。その身を以て。
だけどマオはあの海で、一番大事なものを失った。その心の半分と共に。
あの後、アトラスは霧のように消え、北の海はもとの通り静寂な姿を取り戻していた。
そして消えたのはアトラスだけではなく、イリヤ曰く、マオについていたトリティアも、マオの中から消えたのだという。
理由は、分からない。
だけど確かに以前感じていたもの、おそらくトリティアの気配と呼べるものはマオから感じない。
それなのに。
マオの中にはまだなお、強大な力が渦巻いているようだった。
それはマオ自身が放つ、呼び覚まされた神としての力の波。一度あちらの世界から引き出した自身の魔力が、その内側に収まりきっていないのだ。
部屋の外から、イリヤが、レイズが、船員達が幾度も声をかける。
だけどマオは応えない。
ずっと、ジャスパーの遺体の傍らに蹲っているだけ。
他の船員たちのジャスパーとの別れの時間を、お前が取り上げるのか。顔ぐらい他のやつらにも見させてやれ、と。レイズがドア越しに怒ったお陰でドアだけはかろうじて開けられるものの、見えない壁がすべてを拒絶していた。
だから、生存だけは確認できている。
もう泣いてもいない。こちらに背を向けたまま顔すら見せようとしないので、マオが今どんな顔でそこに居るのかすら、分からない。
ただあの部屋で、ジャスパーの体の時を止めているのは、間違いなくマオの力の作用だ。
自分の魔力ではそれを留めておくには魔力を消費し過ぎて体が保たない。
自分のかけた結界を媒体とし、魔力を補填し続けているのは間違いなくマオだろうと思う。
その為にあそこに、居るのかもしれない。
マオが手当を拒むので、マオの体は傷だらけのまま。
あまつさえ部屋に結果を張ってしまっているので、もはや我々には手出しのできない状態となってしまっていた。
おそらく今マオは、ひとりで必死に戦っているのかもしれない。
見の内に収まりきらぬ膨大な魔力と、底のない哀しみと、誰に否定されても受け入れられない自責の念と。消化しようのない怒りと戸惑い。喪失の、恐怖。
今のマオにこちら側の声は、届かない。
「リュウの元へ行ってきます」
「…ボクも、いく」
何か思うことあるようで、俯いていたイリヤが顔を上げた。
断る理由はないと思い了承し、並んでリュウ達を捕えている部屋へと向かった。
アールの意識は戻ってはいないが、命は取り留めていた。
そしてリュウと共に、“捕虜”というかたちで船内に監禁しているのが現状だ。
一度は戦線を共にしたが、もとはあちら側の行動がすべての元凶。
マオ達三人を船から無理やり連れ出し、そして三人の能力と命を以て、自らの望みを叶えようとしたのだ。
そして結果。得られるものは何もなかった。
おそらくそれが、答えなのだ。
――争いというものの。
「…マオは、どうなっちゃうの…?」
ぼそりと。堪えきれなくなったように、イリヤが零す。涙と共に。
それを横目で見ながら、自分は無言で返すしかできなかった。
船のマストにとまっていた白いカラスはいつの間にか姿を消していた。
それは交信魔法だけでなく、リシュカ殿の魔法も途絶えたのだということだ。
イリヤから、祠で起こった出来事のあらましは聞いた。
白いカラスの向こうには、エルと呼ばれる男――つまり、ジョナス殿下が居たと。ジェイド様ではなく。
そこからすべてを見ていた。そして何を、思ったのか。
マオの予感が当たったのだ。更に悪い予測を付け加えるなら――
ジェイド様が捕えられ、城が陥落した。
城が、国が。アズールフェルの手に落ちたのか。
そう考えるだけで胃の中のものがせり上がってくる。
そんなことは認められない。
自分の主が、自分の居ない所で、敵の手に落ちるなどと。
だけど状況だけを鑑みると、それを否定する要素がないのもまた事実だった。
――この国が、終わろうとしているのか。
情報が一切入ってこないので、今城が、国がどうなっているのか全く分からない。
それが悔しく、もどかしい。焦る気持ちばかりが募る。
今の船の速度なら、あと二日で港に到着できるだろう。
そうすれば、多少無茶すれば自分ひとりなら時間をかけずに魔法で城まで跳べる。
自分ならそれができる。ジェイド様の、助けに。
なのに。それが心からの本心であるはずなのに。
あんな状態のマオを。置いては行けない。ひとりになどしてはいけない。
そう思う自分を振り払えない。
否定などできなかった。
例え手が届かなくとも、振り払われようとも、必要とされていなくても。
それでも。
傍に居たかった。
ひとりになど、したくなかった。
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