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第8章 深層の歌姫
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しおりを挟む一番大きな人だかりが、このギルド街でも有名でギルドの店らしい。
クオンに連れられて、なんとか人混みをかきわけ前に進む。
耳にする会話から察するに、やはりこの後の商品がラストで目玉の商品らしい。
そしてそれは物や海図や情報ではなく、人間。
ずっと気になっていた。
だけど行ってそれを確かめて。
どうする気なのだろう、あたしは。
「ぅわっ」
「マオ、こちらへ」
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人波の中、クオンの声の方に手を伸ばす。
その手をとったクオンが力強くひく。
一瞬視界が遮られ、だけどすぐに明るく開けた。
もう日は沈みかけていて、明るいと思ったのはすぐ目の前に大きな水槽があったからだった。
水槽のガラスが西日に反射して、眩しくて目を細める。
気付けばそれは人だかりの最前列で、手元には腰あたりまでの木の柵があった。
簡易的な木の柵はひどく質素な作りで、力を込めると簡単にぐらつく。
勢い余って体重がかかってしまったせいで柵ごと倒れそうになったその時だった。
後ろから長い腕が伸びてきて、あたしの体を後ろに引き寄せる。
咄嗟に掴んだ腕は男のひとのもの。あたしはその腕の中にすっぽりと収まっていた。
「お披露目は済んでいたようですね。これから競りが始まるようです」
頭の上から、クオンの声。
背中に体温を感じた。
「商品説明用の看板が出てました。口上は“深層の歌姫”――遥か昔に姿を消したとされる人魚の末裔と言われる人種の生き残りもしくは先祖がえりだそうです。ただしそこに居るのは声すらも失い、しゃべることもできないそうですが。歌うことはできない上に尾があるわけでもないので真相は定かでは無いですが、海水無しでは生きられず足が乾くと歩くこともできないという特徴だけは伝承と同じだったのでそう銘打ったのでしょう。あれだけの見目では値も上がるでしょうね」
クオンがここに辿り着くまでに仕入れたらしい情報が、頭の上から降ってくる。
それをどこかぼんやりと聞きながら、あたしは目の前の水槽から目が離せなかった。
“商品”との境界代わりであろう柵から、僅か数メートル先。
大きな水槽の三分の一ほどは透明な水…おそらく海水で満たされていた。
その中に居る、ひとりの少女。
その表情まではっきりと判るほどの距離。
僅かに俯いていた顔が上がり、大きな瞳がまっすぐあたしの方に向く。
目が合った彼女は、僅かに口元だけで微笑んだ。
ずっと聞こえていた歌声は止んでいる。
不思議だ。確信に満ちる体と心。
あの歌声は、彼女だ。
彼女があたしを呼んでいたんだ。
水槽の中で膝を折り底に手をついた彼女は、今まで出会った人の中で一番綺麗だった。
シアやレイズも整った顔立ちだしある意味綺麗だけれど、そういうものとは異なる。
それこそ神秘に近い精鍛さを感じる。
くくられた髪は濡れているせいもあるのかひどく艶やかで、長く腰のあたりまで波打っている。
大きな瞳は琥珀色。
長い睫はそっと伏せられ、肌は陶器のように白くて綺麗だった。
薄絹のような白い衣装と、全身をとりまく真珠の装飾。
声を失った、深層の歌姫――
ガラス越しに見つめ合って、掴んだままだったクオンの腕をぎゅっと握る。
クオンの呼吸があたしの前髪を揺らした。
自分でも驚くくらいやけに冷静に、あたしが今考えていることはただひとつだった。
「クオン…クオンってお金、持ってる?」
「……そうですね。おそらく貴女が想像しているよりずっとは私はこの国にとって有能な人間で、それに見合う働きをしてきた自信もあります。国から相応の対価は頂いてます」
「あたしは、持ってないの。ただの女子高生だし…何よりこの世界のお金を持ってない」
「そうですか」
「お願いがある。お金を貸してほしい」
「お断りします。今ここで彼女を買って、どうするのですか? 貴女にはこれからやるべきことがあるんですよ」
クオンはあたしの考えていることなんてお見通しのようだ。
だけどあたしだってクオンがそう答えることくらい想像ついた。
ここで退いていられない。
「でも、あたしには分かる。彼女はあたしを…ううん、あたしの中のトリティアを、ずっと呼んでた。トリティアがずっとそれに惹かれていた。あたし達の目的は? これから行く場所は? ねぇ、クオン。もしかしたら彼女の力が必要なのかもしれない」
「……一理あるといえばありますが、確証が低すぎます。彼女の素性も正体も得体が知れない。もし彼女が相応の働きをできなかったらどうするのですか? 彼女の人生に、貴女は責任を持てるのですか? 貴女はいずれ帰る人間なのでしょう」
「お金で買った分は、責任を持つよ。だけどそれから先は彼女が決めれば良い。クオン、あたしにはやっぱり保護だとか保証だとか、身勝手にしか思えない。そうまでして生きていて幸せなんて思えない。本当にそうしなきゃ生きていけないのなら、それがきっと運命なんだよ。人は自分の力で幸せになる道を諦めちゃいけない」
だけどそれが所詮個人の価値観であることも分かっている。
だから本当の気持ちは、望みは、彼女自身に選んでもらえばいい。
トリティアがあたしに選べと言ったように。
「生きる為に選ぶ権利は、誰にでも等しくあるはずでしょう」
水槽の揺れる水の中。
彼女の足は鎖で繋がれていた。
あたしにとってはそれだけで、彼女をそこから出す正当な理由に思えた。
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