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第3章 不確かなもの
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しおりを挟む「掃除用具を取りにいって、戻ってきたら真魚が居なくなってて…あたりを探しまわって、そしたらプールから大きな音が聞こえてきて…慌てて戻ったら、プールに真魚が沈んでた。…心臓が、止まるかと思った…」
日の傾きかけた夕暮れの保健室で、七瀬が深く息をつく。
ベッドの端に腰掛けるあたしのすぐ目の前で、七瀬はパイプ椅子に座っている。
あたしは顔をずっと上げられなくて、七瀬が今いったいどんな顔をしているのかわからなかった。
だけど膝の上で固く結んでいたあたしの手を、七瀬がぎゅっと強く握っていて、離そうとしなくて。
それが痛くて堪らなかった。
「…ごめん、七瀬…心配、かけて…」
小さく落とした言葉に、七瀬が顔を上げる。
肩からかけたタオルが水を吸って重たい。
制服も髪も、まだ乾かない。
だけど寒いとは感じなかった。
肌に張り付く感触は、気持ち悪かったけれど。
窓の外で蜩が鳴いていた。
ふと七瀬が手を伸ばす。
あたしはそれにひかれるように、顔を上げる。
西日がガラスに反射して、保健室はオレンジ色に染まっていた。
握られていた手が、少しだけ緩まる。
すぐ目の前であたしを見つめる七瀬のその瞳が、光と雫で揺れていて。
あたしはなぜか、遠い世界の誰かの、青い瞳を思い出していた。
だけどそれが誰だか、思い出せなかった。
七瀬の大きな手の平が、ぎこちなくあたしの頬に触れる。
冷たくて細い指先。少しだけ、ふるえている。
「…抱き締めて、いい?」
七瀬が泣きそうな声でそう口にした。まるで迷子のこどもみたい。つい最近もこんな顔を見た気がする。
でも誰だっけ。何処だっけ。
上手く思い出せない。思考がまとまらなくて。
あたしは七瀬のふるえるその手に自分の手を重ねた。無意識にそうしていた。
「…さっきも、してたよ?」
少しだけ笑ってそう返すと、七瀬もやっと表情を緩める。
それから一瞬の間を置いた後、あたしの視界にはもう、七瀬しか居なくなっていた。
「…真魚が、好きだよ。傍に居て、真魚…もうどこにも、いかないで」
強くつよく。七瀬の腕に抱かれながら、あたしもその背に腕をまわす。
一層強くあたしは閉じ込められて、その胸に顔を埋めた。
ひとの温もりに触れて、純粋に安堵した。
七瀬の体温があまりにも熱くて、鼓動ははやくて。
痛いくらいに気持ちを、感じたから。
涙が出るくらい、嬉しかった。
そんな風に言ってもらえたこと今までなかったから。
今まであたしのことを、必要としてくれた人なんて…
――いなかった? 本当に?
カラダのどこかで違和感が、ひとつの泡のように浮かんだ。
まわしてた手からゆっくり力が抜けていく。
自分でも自分の気持ちがよく分からない。
「…ご、めん…七瀬…すごく、すごく嬉しい…。だけど――」
自分でもよくわからなかった。
だけど消えない色があった。
泣いていたのは誰だっただろう。
あの青の向こうに、居たのは。
―――――――…
ようやく帰り着いた自宅で、ベッドに荷物を放って小さく息をつく。
やっと、ひとり。
少し慣れたひとりの部屋で、深く胸を撫で下ろす。
そのままベッドに深く体を沈めてしまいたい衝動をなんとか堪え、まだ半乾きの制服に手をかける。
シャワーを浴びて、制服も洗ってアイロンかけなければ。明日も学校だ。
ああ、なんだかすごく、面倒くさいな。
まとまりのない意識が、すぐ鼻先でぐるぐるまわっていた。
今日はなんだか疲れた。
いろんなことが、たくさんあって…七瀬と一緒に、プール掃除をしていて、プールに落っこちて。
それから七瀬に告白されて
……それから?
「…それだけ、だっけ…」
ふと向けたベッドの上で、一緒に投げ出した携帯電話のランプが点滅していた。
電話か、メールか。
たぶん、きっと、七瀬だ。
「………」
家に着いたらメールして、って言われていた。
これ以上余計な心配をかけてはいけないことも、頭ではわかっていた。
だけど、たったそれだけのことなのに、ひどく億劫だった。
携帯電話を数秒見据えてから、止まっていた手を再開する。
イイワケは後で考えよう。
今は先にシャワーを浴びたい。
とにかく今すぐ、洗い流したいんだ。
「……あれ…」
ふと、日々の条件反射のように自分の顕わになった胸元に手をやる。
それからさーっと血の気がひくのを感じた。
体の芯から一気に冷めていく。
「…うそ…」
お守りが。チェーンに通していつも首から下げていた。ずっと、ずっと肌身離さず身に付けていた、お守りが――
「ない……!」
――――――――――
―――――――…
記憶の中に残るお母さんは、少し変わった人だった。
といっても5才児の記憶なんて割とおぼろげでいい加減だ。
それでもその記憶に残る雰囲気だけは、ずっと感じていたものだけは揺るぎないものに思える。
どことなく、浮世離れしているというか…いつも海を見ていた気がする。
海のずっとずっと、向こうを。
海の見える病室の、窓際にじっと腰掛けながら。
何を見てるの、って訊いても、お母さんは笑うだけ。
霞む記憶の中で、お母さんはいつも。優しく静かに、笑うだけ。
今いうならば、心ここにあらず。
その横顔は幸せそうで、だけどどこか寂しそうで。
そうお母さんはまるで、海に恋してるみたいだった。
あの日はあたしの、誕生日で…お母さんは電話の向こうで少し意地悪く笑って、あたしに言ったんだ。
『お父さんに頼んでその家に、宝物を隠したの。見つけて、真魚。明日、答え合わせしよう』
あたしはすぐに、お母さんがいつも首からさげていた、あの青い石のことだってわかった。
だっていつもどんなにねだっても、触らせてくれなくて。
お母さんの宝物だって言ってたから、余計にあたしも欲しくて仕方なかったのだ。
あたしは必死に家中の宝探しをした。だけどそれはなかなか出てこなかった。
その日は雨が降っていて、家の中がとても暗かったことだけやけによく覚えてる。
そしてお母さんの隠した“宝物”が、あたしの欲しかった青い石ではなかったことを知ったのは、冷たくなったお母さんの首元に、まだそれがあったのを見た時だった。
宝探しはもうやめた。
だってどんなにがんばったって、もう。
答え合わせはできないんだから。
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