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最終章

追憶の庭②

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 ルミナスの言っていた通り、セレナに打った鎮静剤の効果は長くは続かなかった。

 儀式に戻らざるをえないというルミナスは緊急用として一本だけ同じものを残していった。
 ただし短時間での使用は体に毒だ。副作用の懸念もある。
 命に関わる急場にだけ使用するようにと警告を残すこともルミナスは忘れなかった。
 それ以外は様子を見るようにと言われたものの、しかしそれがいつなのか判断しかねているのが今の現状だった。

 あれから一時間ほどでセレナは目を醒まし、そして再び苦痛と拒絶を訴えた。
 ベッドの上で暴れ、泣き叫び、アレスがなんとかそれを抑えつける。イリオスやゼノスも援護し加勢しようとしたけれどセレナを余計怯えさせるだけだった為にその役はアレスが担うことになった。
 セレナは益々泣き叫んでそしてたったひとりの名を呼び続けた。
 その度にその場に居た者の全員が心の深くを抉られていく。

 なんとかアレスがその体を抑えつけるもののセレナに正しい意識が戻る気配は一向になく、その手首に残る痣にアレスの心も擦り切れていく思いがした。だけど抑えておかないとセレナがその身の苦痛から自らの肌を掻きむしり血だらけにするのだ。セレナの喉元や胸や腕にはそうして抉られた傷が赤く血の痕を残している。
 物理的に縛る方法もあるがそれはできるだけ避けたかった。例え自分の腕にその爪が食い込んでも噛まれても泣いて拒絶されても、そうして少しでも同じ痛みを共有している方が余程救われる思いがした。

 それでもとうとう一番最初に泣き出したのはディアナスだった。

「…本当に…、来ない気なの、あの人…! セレナがこんなに呼んでるのに…! 本当に、このままじゃセレナは…!」
「…一応ルミナスは戻った際にセレナの現状を伝えるとは言っていたけれど…その後どうするかは彼の判断だ。今は大事な儀式の途中。そう簡単に抜けられない」
「それってセレナより大事なものなの…?!」
「彼にとっては大事なものだ。僕らが勝手に量《はか》ることはできない」

 ディアナスがぎしりと歯噛みする。噛み締めた唇の隙間からは自分の涙の味が滑り込んだ。

 本音で言えば彼に会うのは嫌だった。来て欲しくない。彼がセレナに触れるところなど見たくもない。身勝手な嫉妬に駆られた醜い本心。
 だけど認めざるをえないのは、救いを乞うセレナの手を取れるのはもう彼しか居ないのだということ。自分達ではセレナの望みは叶えてやれないのだ。
 打ちひしがれる無力感と喪失への恐怖と絶望が胸を埋める。

 求められているのに彼がここに現れない理由をディアナスは微塵も理解する気が起きない。
 今大事なのは目の前のセレナがすべてだったからだ。
 
「……おそらくノヴァは、来ないよ」

 小さく呟いたのはイリオスだった。
 ひくりとディアナスの喉が鳴りその綺麗な顔を更に歪める。
 その間もセレナの叫びは部屋に響く。
 ゼノスはもうずっと俯いて血の滲む拳をそれでも握りしめて耐えていた。

 イリオスが椅子から立ち上がりベッドへと近づく足音がやけに響いた気がした。セレナの叫びを掻き消すように。

「ノヴァはすべてを捨てて今あの場に居る。過去にセレナと逃げる道も用意した。だけどノヴァは選ばなかった。そうして選んだ道の先に今彼は居る」

 セレナを押さえつけていたアレスが距離を詰めるイリオスに顔を顰めた。
 どこにそんな力が残っているのかセレナはまだなお暴れて拒絶して泣き叫んだまま。たったひとつの本能に従ってその名を口にし続けているのだろう。一番近くでそれを感じているアレスも流石に心が折れそうだった。

「セレナのこれ・・をルミナスは拒絶反応だと言っていた。それは間違いではないと僕も思う。おそらくセレナはその内側で、もうひとつの魂と呪いを必死に拒絶し戦っている。ノヴァとこの国を守る為に。今セレナが抱えているものとノヴァが対峙しているものはそういうものだ」

 その言葉にゼノスが顔を上げる。
 イリオスの言葉の意味を理解したであろうその反応に、イリオスはただ微笑した。

「…彼女の前で、その名前を出すべきではなかった。すべてがもう、今さらだけれど」

 言って、ベッドの脇に立てかけられていたアレスの剣をごく自然な動作で手にとった。
 アレスがそれに気付いて息を呑み目を瞠る。
 ゼノスががたりと椅子を倒して立ち上がり、ディアナスは事態に追い付けていない。

「――セレナがその戦いに負けてその身を奪われば、呪いはノヴァに向かい国王は失われこの国も傾く。彼女はそれを、望まない」
 
 すらりと自身のものでもない剣の刀身を慣れた手つきで鞘から抜き、イリオスはまっすぐセレナを見据えて剣を握った。
 ベッドの上で体の下にセレナを組み敷いたままそれに対峙する形のアレスが思わず「イリオス」と呼んだ。情けないくらい小さな声だった。セレナは状況を理解できずにただもがいている。

「しっかり抑えていて、アレス。なるべく苦しませたくない」
「待て、正気か? おまえ今何をしようとしているのか解っているのか」
「――約束した。セレナと。誰も何も傷つけさせない。彼女の望みは僕が叶える」

 イリオスがその視線でアレスを見据えた。思わずその雰囲気に気圧される。そこに揺るぎのない信念と思いが滲んでいた。
 ごくりとアレスの喉が鳴る。怒りか哀しみでかは分からない。ただ腹の底から込み上げてくるこの感情は、イリオスの意思を拒むものだった。

「…セレナの命より国をとるのか」
「どう受け取ってくれても構わない。ただ僕はセレナとの最後の約束を守りたいだけだよ。彼女がどんな思いで僕にそれを託したか、知っているのは僕だけだ」
「自分だけ優越に浸るなよイリオス。セレナが託した約束は何もおまえだけにあるものじゃない。セレナはおまえに“最期”を託したわけじゃない」

 呻るように言い捨ててたアレスの言葉にイリオスが僅かに目を細めた。
 そうして生じた迷いにアレスは畳みかける。

「守る為に奪うことは何の言い訳にもならない。おまえだって所詮セレナを自分のものにしたいだけだろう。すべてを自分のものにはできないと解っているからその最期を手に入れたいだけだ。その口実にセレナの覚悟を使うな。この手が使えたら今すぐに殴っているぞイリオス…!」
「…この状況で、随分冷静じゃないか、アレス。君は僕を嫌っていると思っていたけれどどうやら勘違いだったのかな。随分と僕のことを知っているような口をきく」
「おまえの事なんて嫌でも知っているさ何年兄弟をやっていると思っている…! だからこそ俺はおまえが嫌いだ、イリオス…! いつだっておまえはすぐに諦めて手離す。おまえもせいぜい最後まで足掻けば良い…!」

 言ってアレスはちらりと視線をイリオスから外し、それに気付いたイリオスがその先を追った。だけどその時には既に遅かった。握っていたはずの剣がイリオスの手の内から一瞬でかき消えた。
 はっとイリオスが気づいた時には自分の周りに残る魔力の残滓と視界の端に煌めく銀色の残像だけ。

 イリオスの脇をすり抜けたゼノスがセレナの手首に鎮静剤を打っていた。
 消えた剣はディアナスが震える腕で抱きかかえている。
 アレスとの会話に気をとられゼノスの魔法の気配に気がつかなかった。それ程までにイリオスは余裕も冷静さも欠いていたのだと今思い知る。

 ベッドの上でセレナが再び束の間の眠りに落ちてアレスがそっと拘束を解いた。長く重たい溜息を吐きながら。それから心底疲れたようにベッド脇にどかりと腰を下ろす。
 その状況を理解してイリオスも、ようやく緊張と見せかけの覚悟を解いた。

「…兄上は、彼が今どこに居るのか、知っているんですよね」

 呟いたのはイリオスのすぐ傍に居たゼノスだった。
 ルミナスから預かり役目を終えた注射器がその手で鈍い音と共に握り潰される。
 イリオスは体面を崩さず内面では冷静さを取戻しながらゼノスの言葉に頷いて肯定を示した。空っぽの手を強く握る。

 そっとゼノスの無傷の方の手が、セレナの涙に濡れた頬を優しく撫でた。まるで別れの合図のようなそれにアレスは微かに眉を顰める。そこにゼノスの何かしらの意志と覚悟を感じた。だけど言及はしない。
 何より気力体力共に限界だった。少しで良いから休みたい。このままここで寝ても今なら許される気がした。

 そんなアレスの元へと戸惑いながらディアナスが歩み寄り、おそるおそる抱えていた剣を差し出す。律儀にイリオスが放り投げだ鞘も拾って一緒に持ってきてくれた。
 目だで礼を伝えそれらを受け取り元の鞘に収める。この刃がセレナを傷つけずに済んだことに心底安堵した。
 ベッドの向こうではまだ兄と弟の本気の思いが交錯していた。


「…連れていってください、その場所に。おれが直接彼と話します」


 ------------------------------


 目が覚める前、懐かしい夢を見ていたことを思い出した。


 真っ白な部屋。自分の輪郭すらもその白に溶けそうになる。
 ぼんやりと視界に映る天井が滲み、そっと目元を覆う手の平に視界は遮られた。
 よく知る手の平と温もり。もう自分に触れるのはその手だけ。
 本当の家族の顔は暫く見ていない。自分がそう望んだからだ。
 幼い頃に約束した通りにその人は、自分を最期まで見届けてくれる為にここに居る。

『もう少し、寝てた方が良い。移動で疲れたでしょう』

 おそらくそれが、最後の転院だった。
 無機質なこの白い部屋が自分の最後の部屋となるだろう。

 周りの誰もそう言わないけれど、ちゃんとわかっていた。
 もう苦痛に麻痺しがちな体とはいえ自分の身体からだだ。先日の手術の経過が良くないことくらい分かるし、薬の種類が変わり量が減っていることにも気づいている。
 
 もう手立てがなくなったのだ。効果の見込める薬もなくなった。
 最後に残る薬は鎮痛効果のあるものと慰めの時間だけ。
 薬で与えられる苦痛と希望はもう尽きたのだ。

 逆を言えば、もう苦しまなくて良くなった。足掻き苦しむ段階は過ぎた。それを悟って胸がすっと軽くなるのを感じた。
 代わりに少しずつ身体への負担と自由が戻ってきている。一時の間、仮初の自由だ。

『もう少し体が楽になったら…外に行こう。少しくらいなら許可も出る』

 自分の視界を奪ったその手が僅かに震えていた気がした。その声音も声色も白い部屋に反響する。
 たぶん涙を見せない為に自分の視界を奪ったのだろう。だから気付かないふりをして小さく頷いた。ちゃんと応えられていたかは分からない。

『大丈夫、ずっと、一緒だよ』
『――うん、おにい、ちゃん…』

 本当の兄ではない。病院で出会った当初、まだ自分が恐怖に泣き叫ぶことを許された子どもだった時。彼のほうから家族役をかって出てくれたのだ。この長い闘病生活においてその存在は支えだった。
 赤の他人である自分にまるで本当の妹のように心を砕き傍に寄り添ってくれた。彼が居たから越えられた夜はいくつもあった。
 だから恋をするのも当然だった。結末の知っている恋はある意味気楽で良かったのかもしれない。未来はなくても生きる希望だったのだ。

 それでも自分の最期を悟り、自分の残りすべてを考え始めてようやくその身勝手さと愚かさに気付いた。
 ――自分にはもう未来さきはない。だけど彼には未来がある。彼をこれ以上縛り付けるべきではない。

 彼はあくまで最初の手術で立ち会って、それから何かと気にかけてくれるようになった何人かいる主治医の内のひとりだ。その中で一番年が若くそれで兄だと慕う素振りで彼の同情をひきつけた。

 心優しい彼は幼かった自分の手を握りここまで一緒に戦ってくれた。それに縋って離せなかったのは自分のほう。もういい加減、開放してあげなくては。

『おにいちゃん……おにいちゃん、わたし』

 それだけは、言っては駄目だとわかっていたのに。
 だけどもうそれしかないとも解っていた。
 だから、彼を、傷つけた。
 ぎゅっと握りしめていたその手をわたしの方から手離した。
 彼は決して離してはくれないから。
 そういう人だから。


 ――さよならは、言えなかった。


 ------------------------------


 ――本当は。
 国のこととか、世界のこととか、誰かを救ったり救われたりなんて、本当は全部どうても良い。
 ただわたしはわたしの世界のほんの一握り。出会ってわたしを生かしてくれた、大切だと思うひと達を。その人たちを守れるのならそれだけで良かった。薄情だと言われても。

 こんなわたしが守れるものなんて限られているだろう。それ以外のものはこの手から零れていくだけ。
 そこに罪悪感を感じる程度に良心はあるけれど、すべてを救えると思っているほど自惚れてもいないしわたしは所詮聖女じゃない。

 ならばわたしが今ここに居る意味はなんだろう。


 ――大きな水たまりの中で目が覚めた。
 ゆっくりと体を起こす動きが伝わり広がる波紋。
 薄い水の張られた地面はどこまでも遠く広がっていて果ては見えない。
 自分が今いったいどこに居るのか分からない。ただ真っ白な空間がどこまでも続いている。
 体の感覚はどこまでも遠い。指先の温い水の感触にふと視線が落ちた。

 その、向こうに。
 懐かしいひとが居た。


「……おにいちゃん…」




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