上 下
32 / 70
4.  アレクとなった俺、家族に会う

―― アレクの母、マリア ――

しおりを挟む
 両手を胸の前でにぎりあわせ、そのままぶるぶると震え始めた。
 テレーズは、女性に駆けより、
「ごめん。驚かせて」
 といいながら、女性の肩に腕をまわした。

「……アレクセイです」
 俺は、何ともいいようがなく、感情のこもらない、棒読み口調でいった。
 始めまして、ではないし、久しぶりです、も違う気がする。もともとコミュ症で口べたなのだ。こういう時、どういう言葉をつかえばよいか、わからなかった。
「援助していただき、ありがとうございます。わたしは、わたしは……」
 女性は、過呼吸におちいったかのように、激しい息づかいで、
「……マリア・モルドーです」
 テレーズが、心配そうな顔で、マリアさんの背中をさすっている。

「身体の調子は、どうですか?」
 俺は、みればわかるのに、訊いた。
 マリアさんは、何か答えようとした。が、眼から涙があふれ出し、言葉にならなかった。堰をきったように、あとからあとから涙があふれ、こぼれ落ちた。
 俺は、思わず近づいた。

「大丈夫ですか?」
 テレーズの反対側から、マリアさんの背中を、さすった。
 ばあちゃんが入院した時、慣れないベッドでうまく寝返りができないのか、床ずれで、背中が痛いと、愚痴をこぼしていた。見舞いに行った俺が背中をさすると、眼をつむって気持ちよさそうにし、楽になったと喜んでくれていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 マリアさんは、泣きながら繰り返した。
「いや、あやまらなくても……」
 背中をさするくらい、何の迷惑もこうむっていない。相手に対してへりくだる性質たちなんだろうか。

「ごめんなさい。怖かったの。とても怖かったの」
 それから、マリアさんは涙声で、少しずつ王宮を離れた事情を話してくれた。
 王都で国王と知り合ったとき、その人物が国王とは知らず。自分と同じくらいの身分の下級貴族の息子だと思っていたそうだ。
 その頃のマリアさんは、親の決めた婚約者が気にいらず、妊娠したとわかったときは、これで嫌いな婚約者とは結婚せずにすみ、この人と幸福な家庭を築けばよいと、喜んだそうだ。

「ごめんなさい。婚約を逃れるために、あなたを利用したの」
 利用したって、結果的にそうなっただけで、愛し合っていたなら、別に恥じることではない。俺は、元の世界では、何の問題もないのにと思いながら、
「昔のことだし、生まれる前のことですから……」
 マリアさんは、俺の言葉を聞いても、泣き止まなかった。何度も頭をさげながら、話しを続けた。
 国王だとわかり、側室の話がきたとき、最初は有頂天になって、いわれる通り、王宮に入った。けれど、王宮のなかは、想像とは違い、王妃と側室が激しい権力争いをする場だった。

「王妃と第二王妃から脅されて……。特に、第二王妃からは、男の子を産んだら、命はないみたいにいわれたの」
 第二王妃とは、今のニコライ殿下の母にあたるヒトだ。当時は、まだ今ほど権力が確立されておらず、地位を固めるのに、必死だったらしい。
 俺は、寒気を覚えた。
 ニコライ殿下の手段を選ばないやり方は、母親ゆずりなのかもしれない。

「あなたが生まれたとき、ああ、どうしよう、殺されてしまう、と思った」
 マリアさんは、眼をつむった。握りしめた両手が、ぶるぶると震えている。
「本当にごめんなさい」
 マリアさんは、赤くなった眼を開け、泣きはらした顔を俺に向けた。
「殺される前に逃げなきゃと思ったの。だから、陛下が来られたときに、側室をやめさせてほしいといったの。……息子はどうする、と聞かれたから、陛下におまかせします、といって、あなたを残したまま、逃げたの。もう二度と王族にかかわらないようにしようと思った……」

 俺は、マリアさんの背中をさすりながら、彼女が感じていた恐怖感を、想像しようとした。が、できなかった。人命尊重が当たり前の世界で育った俺には、殺すと脅されても、実感が湧かない。元いた世界でも、殺すぞ、とか死ね、とかの言葉がネットにあふれていた。でも、誰も、本気でそれをやるつもりだとは考えない。
 この世界では、殺すといわれたら、本気で殺されることを心配しなければならない。
 俺は、マリアさんがかわいそうで、何か慰めの声をかけたかった。けれど、何を、どう話しかければよいのか、わからない。俺は、ばあちゃんにしていたように、ただただ背中をさすり続けた。

 そうしていると、俺のなかにマリアさんを救いたい、どうにか平穏に暮らせるようにしてあげたい、という強い想いが生まれた。俺の内部の何かが、あふれだし、背中にあたる手を通ってマリアさんのなかに入ってゆく。
 一緒に背中をさすっていたテレーズが、はっと顔を上げた。俺の手からマリアさんの背中にかけて、ほんの少しだが、薄い魔法の膜のようなものが、できていた。
 俺の魔力が反応して、何らかの魔法が働いている。魔法の経験に乏しい俺には、どういう魔法が働いているのかわからない。ただ、悪い影響をあたえるものではないようだった。
 テレーズも、こちらをじっとみているが、止めようとはしない。

 マリアさんの呼吸が変わってきた。ゼイゼイという喉の響きが静まり、スー、ハーという正常な呼吸音に戻った。
「ありがとうございます。……楽になりました」
 マリアさんの表情がおだやかになり、何かを思い出そうとするように眼をつぶった。
「生まれたあなたは、ほんとうに小さくて柔らかくて、抱くと、手の隙間から落ちてしまいそうだった」
 気づくと、マリアさんは、スースーと、おだやかだけれど、力強い息をしながら、眠ってしまっていた。

「おやすみなさい。母さん……」
 自然と、言葉がでた。
 しまった! 母上といわなければいけなかった。元の世界の自分が出てしまった。
 ベッドの向こう側にいるテレーズは、おだやかに眠るマリアさんを見ている。
 テレーズ自身もおだやかな表情をしていて、俺のことばに反応した様子はなかった。
 よかった。大丈夫だ、気づかれなかった。
 アレクだったら、自分を置いて王宮から逃げた母親に、思うことがあったかもしれない。が、俺はアレクではない。マリアさんは、不幸な人生を送った哀れなひととしか、思えなかった。

 眠ってしまったマリアさんをそのままにして、ドアまで見送ってくれたテレーズは、少し緊張した面持ちで、
「ありがとう。あんたのことを誤解していたみたいだ。母さまを嫌っていると思ってた。治癒魔法が使えるんだな」
 あの発動していた魔法は、治癒魔法だったのか。悪いものではないとは思っていたが。

「また、会いにきてくれ。いつでも歓迎する」
 俺は、アレクに似合わない行為をやってしまったと思い、言い訳した。
「わたしには、母の記憶はない。あの女性を、嫌うも嫌わないもない。実の母とされる女性をやまいのまま、放っておいて死なせたなどと、悪評がたつのを避けたかっただけだ」
 テレーズは、にやっとした。
「本心を隠したいんだな。あんたが治癒魔法を使ったことは、誰にもいわないよ。でも、使える魔法は、その人の魂に呼応してる。人を助けたいとか、救いたいとか、そういう願いを、嘘偽りなく持っていなければ、治癒魔法は使えない」
 どんなに隠そうとしても、治癒魔法を使った時点でバレバレだという。

 これは大変だ。人前で治癒魔法は、絶対に使ってはいけない。アレクではないと疑われるきっかけになるかもしれない。
  俺は、さらに用心深くしなければと、気を引きしめて、テレーズの家を後にした。
「こっちからも、会いに行くからな!」
 テレーズは、顔全体で微笑みながら、見送ってくれた。

しおりを挟む

処理中です...