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『血の海より』
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「まるでリュック・ベッソンの映画ですよ」とニッコは言った。
安物のスーツに、トンプソンを肩から下げたその格好は、まさにアクション映画に出てくるチンピラそのものだったが、ブルーノは黙って続きを待った。古アパートでは屋根にぶつかる雨音がよく響く。今夜はずっと雨かもしれない。
しいて促さなくても、ニッコはべらべらと良く喋る奴だった。
「そいつは幼い頃、悪魔に魅入られてこの世界に入った。アルプスの山の中で引退した凄腕の暗殺者に育てられ、殺しの技を磨き上げた」
さながら映画の予告編でも語るような口ぶりで、ニッコは続ける。ブルーノは嫌な予感がした。どうも聞いた覚えのある話だったからだ。
「返り血が目立たないように赤い服を着て、得物は悪魔も殺せる銀の二挺拳銃。人間離れした速さで動き、殺す相手に恐怖を刻み込む。闇の洗礼を受けた化け物。その名をアルプス育ちの――……」
「ああ、もういい……。やめろ、ニッコ」
ブルーノは呆れて言った。
二人はアパートの一室の前に立っていた。彼らのボスが帰ってくるまでの見張り番だ。
ドア一枚隔てた背後の部屋で女の泣き叫ぶ声がしていたが、二人ともそれについての感想はなかった。
「あれ? 嫌いっスか、こういう話」
「その話なら前にも他の奴から聞かされた。くだらねえ絵空事は嫌いなんだよ。そんなに映画好きなら、チャールズの兄貴の代わりにお前がマッシモさんと映画に行けばいい」
「いやっスよ。俺はオンナとしか映画行きたくないんで。あーあ、早く終わんねえかなーこの仕事」
「おい」
「二日もヤってねえんスよ? 股間マジおかしくなりそう」
「ちっ、クズ野郎が。そんなにヤリたきゃ行ってこいよ。あっちに」
そう言って、ブルーノは後ろの部屋をあごでしゃくったが、
「うるせえだけのオンナ嫌いなんスよ……」
ニッコはうんざりした顔で言った。
女の喚き声がまだ聞こえる。この業界ではむしろノーマルなほうだが、ブルーノもベッドの上で女を責めるのは嫌いではない。が、ああまで泣き叫ばれてはモノも萎れる。ヤるなら向こうもノリノリのほうがいい。
「あー……カネが欲しい。いくらになるんスかね、この仕事」
「オンナとバカンスに行けるくらいは貰えるだろうよ。いいから、黙って立ってろ。種馬野郎」
そう言いつつも、ブルーノは自分が久しく女を抱いていない事を思い出した。ニッコじゃないが、この仕事が終わったら女を買いに行くのもいいだろう。
後ろで泣き喚いている女がバカンスに行けるくらいの金に代わるのは、間違いないのだから。
夜半からひどい雨だった。だが、その日の彼にとっては都合がよかった。雨の夜に出歩く物好きはそういない。
〝小姓〟チャールズ・ブレイクは車から下りると、建物までのほんの数メートルを小走りに駆けた。傘をさしていても、横殴りの雨を防ぐ事は出来なかったが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
《スローターハウス》でのポーカーで負けが込み過ぎていた。初めの小さな負けを取り戻そうとして借金は積りに積り、気が付けば三〇〇万にまで膨れ上がっていた。返せなければ豚のように殺されるのはチャールズ自身だ。まったくスローターハウスとはよく言ったものだ。
つい今しがたもハウスの主であるスティーヴンに頭を下げ、返済までの猶予を伸ばしてもらったところだ。明朝六時。それがチャールズのタイムリミットだった。
雨に濡れたドアノブを掴み、古びたアパートの玄関を開ける。
「チャールズ」
チームの中では一番若いトーニオが廊下の向こうからタオルを持って駆け寄って来た。
「どうだ?」
タオルを引ったくり、チャールズはただそう言った。
「二時間前に二度目の電話をしました。向こうは要求を呑む、と」
「五〇〇万スイスフラン?」
トーニオは頷いた。
巷を歩けば十人中十人がモデルと見紛うチャールズの端正な顔に、品のない笑みが広がった。借金の返済に三〇〇、部下どもへの労いに一〇〇、残りはチャールズの懐へ入る計算だ。ちょろいものだ。
「もっとふっかけりゃあ良かったかな? なあ、トーニオ。次の電話はいつだ?」
「十分後にかける予定です」
「俺が話そう。愛しい娘を取り返したくて青くなっているパパとな」
滴を拭ったタオルを階段の手すりにかける。少し神経質なところのあるトーニオはその仕草に密かに眉をひそめたが、チャールズは気付きもしなかった。
「で、その娘はどうしてる?」
「ニッコとブルーノが見張っています」
「手を出しちゃいないだろうな」
「まさか。二人ともドアの前です。カミッロの奴がさっき食事を与えてやりました。部屋の中はアンジェロがカメラで監視を」
「ダニエルはどうした?」
「さっきから腹痛だそうで……。トイレに籠っています」
「ふん。情けねえ野郎だ」
マルボロを銜え、トーニオが差し出したライターの火に当てる。
「娘は傷一つつけるな。大事な客だ」
「もちろんです」
このアパートはチャールズが経営する売春宿だが、今日は週に一度の清掃作業で女たちは来ていない。部下どもは全員根性の腐ったろくでなしだが、チャールズに逆らってまで客に手を出そうという奴はいない。今夜の大仕事にあたっては、血の気の多い部下の手綱を最後まで握っている必要があった。
「……マッシモは?」
「さっき電話がありましたが、いつも通り答えておきました。あちらに疑われるような真似はしていませんよ」
「ならいいがな」
マッシモはチャールズの兄貴分だ。この街での売春宿の経営をチャールズに任せたのもマッシモの意向だ。この業界の者なら誰でもそうであるように、チャールズもまた、しみったれた売春宿の経営者で終わるつもりはなかった。
今夜の作戦は、のし上がるためのステップに過ぎない。部下にはそう言い聞かせてある。当然マッシモにも秘密だ。誰にも知られてはならない。
「マッシモの変態野郎に嗅ぎつけられたら終わりだ。何をされるかわかったもんじゃない。十分に気を使え、トーニオ」
「勿論です」
もし真実が知られたら、チャールズの命はない。
階段を上り、チャールズは二階の一番奥の部屋へと向かった。
トンプソンで武装したブルーノとニッコが、軽く頭を下げた。
「兄貴」
「調子はどうだ」
「今日が大雨で助かりましたよ。さっきまでぎゃあぎゃあ騒いでいやがった」
「あとちょっとでそれも終わりさ。辛抱しろ」
ニッコに目配せし鍵を開けさせ、チャールズは部屋の中へ入った。
ベッドの上の少女は泣きはらした目をこちらに向けた。美しくセットされていたであろうブロンドは、見る影もなく乱れていた。
「やあ、シニョリーナ」
チャールズが声をかけた途端、少女の目は怒りで吊り上がった。
「あんたがここのボス? この変態野郎」
テレビのやくざ者ならここで大したタマだと笑うのだろうが、あいにくチャールズはそこまで心が広くなかった。
「ヘイ、シニョリーナ。口の利き方に気をつけろ。俺たちゃお前さんを生かしておけばいいんだ。黙らせるために何かされたっておかしくないんだぜ」
「ふざけんな、この屑野郎。馬のクソから生まれた屑が、あたしに指一本でも触れてみな。後悔してもしたりないような目に遭わせてやる!」
「おいおい、今時はチンピラだってもう少しお上品に喋るさ。ヘイ、トーニオ。本当にこいつはカーレルの娘なんだろうな?」
「間違いありませんよ、兄貴」
トーニオが女物の財布からカードを取り出す。学生証だ。不機嫌そうな少女の顔写真の下に名前があった。マリー・カーレル。
「マリー。いい名前だ。俺に娘が出来たらマリーと名付けよう」
学生証を丁寧に仕舞ってやり、チャールズは財布をベッドの上に放り投げた。
「シニョリーナ、パパが取引に応じるそうだ。今日中には家に帰してやる。よかったな」
まるで傷口を押された猫のように、マリーの顔に敵意が広がった。
「パパを脅したの?」
「この状況でその質問は間抜けだろう、シニョリーナ。俺たちゃ悪党だ。金にするためにお前を攫ったんだ。パパが善人で安心したよ。万が一にも娘を見捨てるような男だったら困るからな」
「最低だわ」
チャールズはにやけて煙草を一本取り出そうとした。その時、トーニオがおもむろにスマートフォンを差し出して言った。
「兄貴。そろそろ時間です」
「ああ、そうか」
マルボロのケースを仕舞い、チャールズは舐めるようにマリーを見た。
「ちょっと静かにしていてくれよ。今から大事な話をするからな」
「は? ちょっと――」
娘が何かを言う前に、トーニオが拳銃を突きつけて言った。
「喋るな」
チャールズはスマートフォンの発信履歴から番号を選んだ。何度かのコール。やがて相手が出た。憔悴している男の声。
「ジョナサン・カーレルだな?」
『ああ、そうだ』
「金は用意出来たか?」
この犯罪ではお決まりの文句を、チャールズは得意げに言った。誘拐なんて人生で初めてだったが。
『あ、ああ! 五〇〇万だな! 用意出来たぞ。娘を返してくれ!』
「落ち着けよ、ミスター。今から取引の場所を指定する。娘さんとはそこで再会出来るさ」
『娘は無事なんだろうな!? 娘に代わってくれ!』
「騒ぐんじゃねえ。大事な娘が傷物になってもいいのか? ああ?」
相手の僅かな増長が許せず、チャールズはたちまち持ち前の凶暴性をちらつかせた。
「てめえは大人しく金を持ってくりゃいいんだ。ガタガタ抜かしてると娘は永遠に帰って来ないぜ」
『娘の安否を確認させてくれ。せめてひと声聞かせてくれ』
さっきより調子は弱くなったが、カーレルは要求を引っ込めはしなかった。やれやれ。チャールズはスマートフォンの画面をマリーへ向けた。
「余計な事は言うな。無事とだけ伝えろ」
チャールズが言い終わる前に、マリーは叫んでいた。
「パパ! 助けて!!」
チャールズはすぐさまスマートフォンを自分の耳に当てた。
「これで満足しただろう? じゃあ取引の場所を――」
ひどいノイズがチャールズの耳をつんざいた。思わず電話から耳を離し、顔をしかめる。
『……ああ』
スマートフォンから声が聞こえた。ただし、それはカーレルの声ではなかった。男ではない。若い女の声――
『満足したよ』
さながら氷が音となったかのような、冷たい声音が聞こえた直後。
響き渡った爆音と振動が、古アパートを揺るがした。
「トーニオ!」
電話を放り出し、チャールズは娘の胸倉を掴んで自分の元に引き寄せ、ホルスターから拳銃を抜き出した。マリーが絶叫にも近い悲鳴を上げる。
「襲撃です、兄貴!」
「わかりきった事を言うんじゃねえ! ニッコとブルーノを行かせろ! てめえはドアの前で構えてろ!」
「は、はい!」
「放して! 放してよ!?」
「ガタガタ抜かすんじゃねえ、クソアマ!」
銃口を娘のこめかみに押し付け、チャールズは冷静になろうとした。襲撃だ。しかし誰が? 俺たちの誘拐を知っている奴がいる。誰だ。一体誰だ。
放り捨てられて床に転がったスマートフォンに目をやる。電話は切られていて、画面にはひびが入っていた。さっきの声を思い出す。
「……女?」
ニッコとブルーノはほぼ同時に手すりから体を乗り出し、トンプソンの銃口を下へ向けた。
敵の姿はない。一階のロビーには、吹き飛ばされた正面玄関の扉が無残に転がっている。そして、その下には男が一人倒れていた。
「アンジェロ!」
ニッコが気色ばんだ。監視カメラをモニターしていたアンジェロがやられた。ブルーノは何度か経験があるが、ニッコはまだ鉄火場を踏んだ事がない。そしてブルーノの経験から言えば、こんな状況で倒れた仲間を見て動揺するのは、命を捨てるのと同じだ。
「やめろ、ニッコ!」
肩を掴んでニッコを下がらせようとした瞬間、視界の端で何かが光った。
「下がれ!」
鋭敏になった危険への反応が、ブルーノの身を壁際まで飛びのかせた。同時に耳をつんざく銃声がして、温かな液体が頬にかかる。ニッコの頭部が爆ぜたトマトのように真っ赤に染まっていた。力なく崩れるニッコの死体は、そのままロビーへと落下していく。
「くそっ!」
一瞬反応が遅れた自分を罵りながら、ブルーノは廊下の奥へと後退しつつ銃弾が飛んできた方向へやたらめったらに撃ちまくった。
反撃はない。仕留めたわけでもない。
「はっ、はっ――」
呼吸が浅くなる。ブルーノは気を落ち着かせようとした。一瞬だが、襲撃者の姿が見えたのだ。銃を握り、伸ばしたその腕は血のように赤いダウンジャケットに包まれていた。光ったのはシルバーフレーム――おそらく拳銃だろう。
数は一人だ。間違いない。だというのに、こちらはもう二人やられている。
通信機を使い、一階に残る仲間に向かってブルーノは叫んだ。
「カミッロ、アンジェロとニッコがやられた。俺たちで片付ける。ダニエルとお前で奴を挟み込め――」
幸いな事に、ブルーノは襲撃者よりも上方のポジションにいる。一階で挟み撃ちにし、二階から攻撃すれば相手がどれほどの手練れだろうと勝機はあるまい。
「カミッロ、返事しろ。カミッロ!」
『カミッロならもういない』
通信機から返ってきたのは、聞き慣れない声だ。同時に、一階でどさりと何かが倒れる音がした。
一階の廊下にカミッロが倒れていた。おそらく、もう息はない。
「ダニエル、ダニエル!」
返事はなかった。元々、ダニエルはビビリ屋だ。殺されていなければケツをまくったのだろう。
裏口のほうから小柄な人影が動いた。赤いダウンジャケット。一本に結んだ長い黒髪。それだけ見えれば十分だ。
物陰から飛び出し、一階めがけてサブマシンガンの引き金を引く。けたたましい音を立てて放たれる銃弾の雨が、木製の床を抉り、仲間の遺体を傷つける。
――いない。
ガキッ、と鈍い嫌な感触がする。弾切れだった。慌てて予備弾倉に手を伸ばした時、ブルーノは視界に相手の姿を認めた。
それは、まるで幽鬼のような足取りで、一歩一歩階段を上がってきた。硝煙の漂う古アパートの中では、それの姿は質の悪い怪談から抜け出してきた怪物そのものだった。
長い、艶やか黒髪。血で染めたかのような真っ赤なダウンジャケット。両手には、シルバーフレームの自動拳銃。だが何よりも悪い冗談めいていたのは、その襲撃者がまだ年端も行かぬ少女であるという事。
あの世から人を殺すためにやってきたかのようなその少女は、今まさに廊下の向かいから、ブルーノに止めを刺すために歩み寄ってくる。
人間とは思えない異常なスピード。真っ赤な衣服を纏った二挺拳銃使い――
「……アルプス育ちの天魔」
ニッコの話がいやでも頭をよぎる。まさか、あれが――……
目の前に迫る少女が、薄く笑った。
「へえ」
魔物を見てしまったが故の硬直から、ブルーノは一瞬だけ解き放たれた。それは生存を求める肉体の条件反射だったかもしれない。
「よく知っている」
「――ッ!!」
コッキング。空の弾倉を捨て、予備弾倉を装填。狙いをつけ、引き金を――
娘の姿は、すでにない。
「くそ、どこに!」
――銃声。
返答の代わりに与えられた、無慈悲な二発の銃弾がブルーノの胸を貫通した。
視界が瞬く間に遠くなっていく。崩れ落ちるブルーノを、いつの間にか近くにいた死神が見つめている。灰色の目の美しい死神。
「お前……知ってるぜ。闇の洗礼とやらを受けたんだろ? なあ、アーデルハイド?」
「わたしも有名になったものね」
絞り出すようにして告げたその名に、少女は凄惨な笑みを見せた。
気味の悪い娘だ。ブルーノは最期にそう言おうとしたが、その口はもう動かなかった。
断続的に聞こえていた銃声が止んだ。ちょうどこの部屋の前で、だ。
だが、ブルーノもニッコも返事をしない。
「トーニオ、やっちまえ」
マリーのこめかみに銃を当てたまま、チャールズは言った。
「いや、しかし兄貴……」
「馬鹿野郎、ビビってんじゃねえ。相手の位置はわかってるんだ。突っ込んできたところをぶちかませ」
扉の向こうは静まり返っている。トーニオは拳銃を向けたままクローゼットに手を伸ばし、片手で戸を開ける。中に隠してあったステアーを掴むと、拳銃を仕舞いドアに向けて構えた。
鈍い振動音がしたのは、その時だった。床に投げ出したスマートフォンが、何者かからの着信を知らせている。本来、相手の電話番号が表示されるはずの画面には映っていない。
「出ろ」
チャールズは小さくマリーに言った。
「ボタンを押してスピーカーにしろ」
銃口はこめかみに当てられたままだ。マリーは何とか腕を伸ばし、画面に触れて電話に出た。スピーカーのボタンを押すと同時に、氷のような声が聞こえてきた。
『……まだ電話は通じるようね』
子どもの声だ。チャールズは直感した。十九、いやもう少し若いかもしれない。だがこの落ち着きぶりは、少女のものではない。
『取引をしましょう。マリーを開放すれば命だけは助けてあげる。抵抗すれば……』
「おいおい。そっちが取引を持ち掛けられる立場か? よく考えるんだな。妙な真似をしたらこの娘を殺すぞ」
『強がりはよせ、〝小姓〟チャールズ』
冷たい声音のまま、少女が言った。
『三秒で決めろ。娘を放すか、一人で死ぬか』
「ふん。ほざいていろよ」
トーニオに向かって顎をしゃくる。マリーを引き摺りながら壁際まで下がった。簡単なゲームだ。突入するにはドアを破るしかない。相手が勇んで突撃してきたところをトーニオが仕留める。あと二秒。
「いいか、この俺がそんなこけおどしに――」
破壊されたドアとともに、トーニオの体が目の前を吹っ飛んでいった。床のスマートフォンの上に落ちたトーニオは、気を失ったのかそのままぴくりとも動かない。チャールズもマリーも、しばらく開いた口が塞がらなかった。
悠然とした足取りで、赤いダウンジャケットを身に纏った少女が入ってきた。黒曜石が溶けだしたような黒髪を一本結びにし、手には二挺の拳銃が握られている。
美しい灰色の目がチャールズを捉えた。見惚れるほどの美人だ。だが、こいつは人間じゃない。いつだったか、マッシモに見せられた映画に出てくるような、気味の悪い怪物。
「カ……」
マリーが唐突に口を開いた。
「カウントは?」
この場にはそぐわない、実に間の抜けた質問に、少女の視線が問うた者へと移る。そして答えた。ただひと言。
「三秒経った」
「経ってないよね……」
少女は答えず、銀の銃口をチャールズへと向けた。
「終わりよ、小悪党。マリーを放しなさい」
「はっ。何度も言わせるなよ。お前こそ銃を捨てな、シニョリーナ。誰の差し金か知らないが、せっかく助けにきた娘の頭が吹っ飛ぶところを見たいのか?」
チャールズに返ってきた答えは銃弾だった。銀の銃口から硝煙が立ち上り、壁には9ミリパラベラム弾がめり込んでいる。
「あんたの指よりわたしのほうが早い。試すだけ無駄だ」
「お、お前……」
銃を持つ手が震える。少女の銃弾は紙一重でチャールズの頬を掠めるに留まっていた。相手がその気なら、今頃自分は床に転がっていただろう。
「何者だ。何故、俺たちの邪魔をする……?」
「名前には意味がない。わたしはその子を取り返しに来ただけ。さあ、何度も同じ事は言わない。その子を放しなさい。弾は無駄にしたくないの」
「そうよ! さっさと放してよ!」
チャールズは喉の奥で唸った。ここでマリーを放す手はない。この娘がいなければ命の保証はない。それに……何より金が。
「兄貴!」
聞こえてきたのはダニエルの声だ。今までどこに隠れていたのか、トンプソンを構えて飛び込んできた。すかさず少女の腕が動く。ダニエルのほうさえ見ず、引き金は引かれた。ダニエルが呻き声を上げて倒れる。が、銃声が響いたその瞬間、チャールズもまた動いていた。マリーの体を放り出し、窓を目がけて走り出す。
「あ、お前!」
さっきまでの緊張感をもたらしていた少女とは思えない声が聞こえた。だが、その時には、チャールズはすでに窓ガラスへと飛び込んでいた。喚き声もガラスの破砕音に掻き消える。このアパートはそこまで高くない。石畳に着地し、少し転げたものの、チャールズはすぐに立ち上がると夜の裏通りを走り出した。
「はあ、はあ――冗談じゃねえ!」
ダニエルの奴が逃げ出していなかったのは僥倖だった。おまけに身代わりにもなってくれた。まだ運が離れていない証拠だ。仲間は皆死んだが、どの道こういう商売だ。誰もがいつかはあんな死に方をする。だが、俺は違う! 俺にはまだ生きる目がある。
少し先に夜の街の光が見えた。雨はいつの間にか上がっていた。濡れた石畳を蹴り、チャールズは必死になって駆けた。もうすぐだ。夜の街に紛れれば逃げられる――……
無慈悲な銃弾が、チャールズの右足を貫通した。
「っ!?」
唐突に脱力した足は路面に滑り、チャールズは顔面から転げた。
「急に逃げるな、全くもう」
状況にしてはあまりにものんびりとした声。あいつだ。あの少女だ。
出血が頭の回転を鈍らせ、痛みに苛まれながらも、もっとも大きくチャールズを支配していたのは、恐怖の感情だった。
「残念ね〝小姓〟。今回の件に関わった者は生かして帰すなというのが、わたしの受けた任務。お前が大人しくマリーを返していれば一発で済ませてやったのに……」
「ふ、ふざけるな! お、お前、こんな事してただで済むと思ってんのか!? ああ!?」
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ハーフシルバーフレームの銃口がチャールズの額に照準される。
「こ、この殺人鬼が! どいつもこいつも殺しやがって! てめえこそ、まさに馬のクソ以下のアバズレだ! どぶ川から生まれてきたゴミクズだッ!」
「そんなひどいものじゃない。小さい頃はお花を摘んで山羊と一緒に遊んだの。あんたら下衆とは育ちが違うわ。それからね、わたしの生まれは――」
路地裏に一発の銃声が響き渡った。
誘拐の主犯であった男の体は崩れ落ち、その額から流れる赤い血で石畳を汚していく。
「父さんと母さんの血で出来た、真っ赤な海だよ」
自らが殺した者への餞に、少女――アーデルハイドはそう言った。
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