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『さよならを言う前に』5
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5
喫茶ボヘミアンはストリートを半分程行ったところにあった。洒落た外装の店が立ち並ぶ中にある、レトロ風な茶色い壁の小さな店。周りの店より若干背が低く、建物の趣も周囲のモダンな造りとは違い、言ってみれば平べったい小屋というか、まあ、味のある外観だった。
店の前にはどうも素人が自分で造ったらしい、白塗りの郵便ポストがあり、その足下には民族衣装めいた格好をした男女の人形が何体か並べられている。郵便受けのすぐ下に、あえて不恰好にカットしたらしい木の板が取り付けられており、そこに筆記体で何かが書かれてあった。英語でないのは確かだ。
「フランス語か」
「読めるんですか?」
奥鐘さんが訝しげに訊いてきた。
私は趣味でフェンシングをやっている。かれこれ二年程になる。たまに海外の資料を見る事があって、フランス語はそういった資料を読むために勉強している。あまり自信はないが、筆記体も一通りは勉強した。気になったので、板の字をよく見てみる。
「……Bohemiens en voyage」
少々時間をかけて、私は看板の文字を読み上げる。
「何ですって?」
「旅のボヘミアン」
どこかで聞いた事があるフレーズだ。何か、古い本だったと思うが咄嗟に出て来ない。
「……ああ、悪の華」
私が記憶を探り当てるより早く、奥鐘さんが正解にたどり着いた。そう、詩だ。ボードレールの悪の華。
「店名の由来でしょうね。そんな事より行きましょう、部長。その先、ちょっとだけ段になっていますから気を付けてください」
軽く頷き、私は小さな階段を下りて、その奥の入り口のドアを開ける。古風なベルの音が私達の存在を店員に知らせた。
店内は思っていたより明るく、それなりに広い。木造、壁や床は黒に近い茶で塗られ、全体的に落ち着いた装いとなっている。悪くない。いや、むしろ嫌いではない。
中に客は少ない。いずれも大人ばかりで、学生服の人間は見当たらなかった。
店主にあとから一人来る事を伝えて、私達は奥のほうのテーブルへと座る。
時計を見ると、十五時まであと十分だ。
「呼び出しておいて先にいないだなんて」
奥鐘さんが呟く。同意見だが、そんなものだろうという気もする。
注文を取りに来た店員に二人分の紅茶を頼み、さて、何して時間を潰そうかと考えていると、奥鐘さんが鞄から単語帳を取り出した。
「立派ね」
「時間を無駄に出来ませんから」
こちらには目もくれず、奥鐘さんは言う。
そういえば今に限った事ではなく、奥鐘さんは部室でも暇さえあれば勉強をしている。熱心な事だ、くらいにしか思っていなかったが、つい妙な疑問が湧いて出る。数分の時間さえ惜しまず勉強をするのなら、どうして彼女は今日、ついて来てくれたのだろう?
「部長はいいんですか?」
「え?」
「月末、試験ですよ」
ああ、それでか。確かに月末には高校生活初の中間試験がある。まあ、私はあまり定期試験を意識した事はないが。
「うちの学校、学業には結構厳しいみたいですよ。少しでも勉強しておいたほうがいいんじゃないですか?」
「そうね」
とはいえ、改めて何かやる必要があるだろうか。今のところ、そう難しい事もしていないし。
「家に帰ってからにするわ。時間も中途半端だし」
「……そうですか」
言うと、奥鐘さんは再び単語帳に目を落とす。
……やはり、妙に冷たいような気がする。何となく敵対視めいたものを感じる、ような。
「お待たせしました。ストレートティーです」
何となく暗い気分になったその時、注文していた紅茶が運ばれてきた。それなりに大きめのポットから色の良い紅茶がカップに注がれ、心地よいダージリンの薫りが漂ってくる。
一口口をつける。内装同様に、好みの味わいだ。
と、入り口のほうで来客を告げるベルが鳴った。入って来たのは男女の二人組だった。どちらも学生服を着ている。女子のほうは知らない制服だが、男子のそれは三ツ花学園の物だ。
私は時計を見る。十四時五十七分。
「ほら、ギリギリになっちゃったじゃん!」
軽く息をつきながら、男子が非難がましく女子に言う。背が高い。一七〇センチはあるだろう。スポーツでもやっていそうな体格で、顔立ちは整っている。
いや、多少厳しめに見ても、あれは美形の部類に入るだろう。どちらかといえばお人好しで通りそうな雰囲気で、そこが単純に美男子とは言い難くさせている。
別にだからといって、特に魅力的なわけではない。
「えー、だってアイベルのぬいぐるみ、ちょーカワイかったんだよ? あれ取んなきゃダメっしょー!」
答える女子のほうも、これまた顔立ちは良かった。髪は明るめで、何と言ったらいいか、いわゆるギャル系と普通の女子高生を足して二で割ったような、どちらの特徴もうまく取り込んで綺麗にまとめてある。派手過ぎず、かといって大人し過ぎず。そういうセンスは悪くないようだ。
言動は、どうにも好きになれそうにないが。
どちらも普通の人間だ。私達とは違う、普通の。
「約束あるっつったじゃん。全くさあ」
男子のほうは頭を掻きながら視線を動かし、やがて私達を見つけた。
途端に、彼の表情が変わる。しまった、とでも言いたげな顔。
まず、相談メールの送り主と見て間違いないだろう。
「すんません! お待たせしました!」
人によってはさわやかに聞こえるのだろうが、この店の中では少々大き過ぎる声で、彼は言った。
奥鐘さんが何か言いたげな顔をしている。睨むように彼らを見つめながら、手早く手元の単語帳を鞄へと仕舞った。
彼らが足早に席へと近付いて来る。
「いや、本当にスイマセン。連れが駄々こねっちゃって」
「はあ!? 何それ、アタシ赤ちゃんじゃないんだけど!?」
眉間に皺の寄った奥鐘さんが口を開く前に、私は言った。
「いいえ。時間には遅れていませんから、お気になさらず」
奥鐘さんがあからさまに私を睨みつけたが、今はあえて無視する。
「どうぞ座って下さい。まず、何か注文をどうぞ」
言って、私はメニュー表を手に取る。
「あ、ありがとうございます」
言いながら、男子は席の奥へ入り、私の向かいに座る。女子が男子の横へ座り、私の手からメニュー表を取った。
若干、ひったくるように。
「レージ、アタシ、ミルクティーがいいー」
甘えるような声で女子が言い、男子は頷く。
「じゃあ俺もそれで。すいませーん!」
店員が来るより早く、男は大きめな声で言った。
二人分の注文を店員が聞き取り、席を離れる。男子が、改まって口を開いた。
「今日は急なお話にも拘わらず、来てくださってありがとうございます。俺は一年K組の遠間(とおま)レイジです。こっちは村木エイリ。今は違う学校だけど、中学まで一緒だったんです」
「よろしくー」
スマートホンを取り出しながら、エイリという女は言った。
奥鐘さんの表情が険しいものになっていく。私も気分がいいわけではない。だが、とにかく話を聞かなければならない。
「私は忍冬忍。相談部の部長をしているわ。こちらは同じく部員の奥鐘文目さん」
「……よろしくお願いします」
さっきよりもさらに冷たい語調で、奥鐘さんは言った。
「さて、さっそくですが、話を聞きましょうか」
「あ、はい。わかりました」
遠間レイジは頷き、居住まいを正す。
「メールでもお話した通り、相談っていうのは俺の友達の事なんです。幼稚園からの友達で、山祢カオルっていうんですけど――……」
山祢カオルはナユタの旧市街に生まれた。幼い頃は市外の外にある幼稚園に通い、そこで遠間レイジと出会ったのだそうだ。
幼い頃から、絵を描くのが好きだったのだという。
「先生からクレヨン借りて、そこら中に落書きしてましたよ。やり過ぎて怒られていたくらい」
小学校でも山祢と遠間は同じクラスになり、低学年の頃は絵が上手い子として評判だったのだという。
「小四から先はクラスが離れて、特に関わる事はなかったんです。卒業してからも会わなくて、ずっと忘れてたんですけど、中学三年の時に、また一緒のクラスになったんです」
そこで遠間は言葉を切り、何故か、気まずそうにしてまた口を開いた。
「その……正直な話、俺、その時まで山祢が同じ中学にいるって知らなかったんです」
なるほど。つまり、ほとんど全く、遠間は山祢カオルという同級生には興味がなかったのだ。別に変った事ではない。お互い、生活圏が違ったのだろう。
「ただ、その時はもう小学校の頃とは全然違う感じで。髪も伸ばして、何かすっごい暗くなってたんですよ」
初め、遠間は顔を見ても山祢カオルだとは思わなかったそうだ。最初のホームルームに自己紹介をして、その時ようやく気付いたのだという。
「誰とも喋らないし、一番目立ったのは、左手に黒い革の手袋するようになってたんですよ。体育の授業の間もずっとそのままで。それでその、何て言うか、いじめの標的になってたみたいで……」
遠間の声のトーンが落ちていく。
私はその様子を想像する。
人間、自分と明らかに違う者は警戒する。『片方だけの黒革の手袋』などは、ひとまず普通の人は身に着けていないアイテムだろう。
どうも普通とは違った者が、自分達のクラスに現れたため、クラス内の大半は警戒しそして、そう時間はかからずに、クラス内のある一部の人間が攻撃を始める。
その理由はたぶん、理不尽な感情だ。『気に食わない』や『気持ち悪い』といったものなのだろう。私も経験がないわけではない。
もっとも私の場合は、ひどくなる前に両親が相手方を片付けてしまったのだが。
「最初はあいつも無視してたんですけど、だんだんエスカレートしていって、それで――」
「レージが止めに入ったんだよねー」
唐突に、村木エイリが口を開く。視線は相変わらずスマホに落とされたままだ。
「……そうなんです。いじめてる奴等の見当はついてたんで、俺が直接言ってやめさせました」
「……止まったの?」
俄かには信じ難い話だ。
「やめさせました。友達も協力してくれて、いじめてた奴等を全力で追い払ったんです。何人かは放校処分になりました」
内戦後の教育政策により、この国では小学校から高校までは義務教育期間だ。放校処分とはいえ、実際にはすぐに他の学校へ移されたのだろう。
「すごいわね」
つい、そんな感想が漏れてしまった。
人権を侵害した連中を追い払ったのだから、それは素晴らしい事だと思う。
だが、同時に妙な引っ掛かりも感じる。何だろう。感覚的過ぎてうまく言葉に出来ない。
「いえ。それでそれからは、山祢ともよく遊ぶようになったんです。北駅の周りとか回ったり、あいつの家に皆で遊びに行ったり。中学の卒業まではそんな感じで。そこまでは良かったんですけど……」
再び、遠間は口を噤む。村木エイリは無言でスマホを弄っている。
「お待たせしました。ミルクティーです」
沈黙を意に介さないかのように、店員がミルクティーのカップを二つ、テーブルに置いて行く。遠間がエイリの前にカップを置き、エイリはスマホを見つめたまま頷くだけだ。
遠間レイジが自分の口にミルクティーを運ぶ。どうも、言いかねている様子だ。
「言っちゃいなよ。それ話しに来たんじゃん」
スマホをテーブルに置き、エイリは淡々と言った。
遠間レイジは、ああ、と頷く。
「本題はここからです。高校、俺は三ツ花に行ったんですけど、エイリと山祢はナユタ高校に行ったんです。で、そこで問題が起こってしまって……」
気まずげに、遠間レイジは話を続ける。
※
問題が発生したのは、入学から二週間後の事だ。
山祢は中学と同じく美術部に入り、そこで毎日のように絵を描いていたらしい。
新しい友達は、残念ながらいなかったようだ。たまたま同じクラスになった村木エイリが見る限り、山祢が他の誰かと付き合いがあるようには見えなかったという。
それは部活でも同様で、山祢は一人、孤立したまま作業に没頭していたらしい。
最初に異変が起こったのは、美術部の二年生女子だった。
美術室で作業をしていて、途中トイレに立ち、戻ってきて、次に使う色を作ろうとした時だ。
――絵具がない。
使っていた絵具が何個かなくなったのだ。作業中、教師に呼ばれて一度席を外し、戻ってきて続きを描いていたら、ふと気付いたのだという。
席の周りを見回してみるが、どこにも絵具は落ちていない。
自分の道具箱を確認してみるが、やはり絵具は見当たらない。
まさかな、と思う。
部員は皆、それぞれの作業に適した位置に陣取っているから、それぞれの距離は離れている。美術室の外で作業をする者もいて、扉は常に開きっぱなしだ。人の出入りもそれなりにある。
盗ろうと思えば誰にでも盗れる。
だが、そこで二年生は考えた。
いや、まさか。だって絵具だ。それも、そのうちの三、四色だ。確かに、自分はそれなりに値の張る物を使っているが、だからといって、それを羨んで盗む者がいるとは思えない。
そう思いつつも、二年生は自分の一番近くに座っていた生徒に声を掛けた。
まだあまり話した事がない新入生、山祢カオルに。
『山祢さん。ちょっといいかな?』
山祢は最初、二年生のほうを向かなかった。手を動かす事を優先していた。
二年生は再び山祢を呼んだ。山祢はようやく手を止めた。
『何でしょうか、先輩』
『ごめん。変な話なんだけど、実は私の絵具が見当たらなくて。ついさっきまでそこにあったんだけど、山祢さん、知らないよね?』
山祢はしばらくの間、二年生の顔をじっと見つめたそうだ。最初はどういう意味かわからなかったが、やがて、自分は呆れられているのだという事に二年生は気が付いた。
『知りません』
それだけ言って、山祢は作業に戻った。
それ以上は調べようがない。何とか上手く都合をつけて、二年生もまた自分の作業に戻った。
だが、失せ物はその日だけに留まらなかった。
次の日には、一年生男子のスケッチブックが消えた。作業に使っていたわけではなく、日頃から閃いたアイディアを書き留めるために持ち歩いている品だったそうだ。サイズは小さく、周囲の人間と手分けして探したが美術室には見当たらない。教室まで戻り、中を隅々まで探したが、見つからない。
結局その日、スケッチブックを見つける事は出来ず、彼は泣く泣く家に帰った。
そういえば、一度席を離れた時、山祢が自分の絵を遠くから見ていた事を、後に一年生は思い出したという。
さらに次の日。
今度は三年生の筆がなくなった。コンクール用の作品に使っていた物で、やはり止むを得ず席を離れた際に、絵筆は忽然と姿を消していたのだという。
さらに、厄介な事はもう一つ起こった。
先々日、絵具をなくした二年の先輩が、今度は自分の財布がない事に気が付いた。
使っているのが少し大きめの財布で、スカートのポケットが膨らむという理由から、普段は鞄の底に仕舞って、人目に付かないようにしていたのだそうだ。
それがなくなった。例によって教師の資料運びを手伝う事になり、思いもよらず席を長く空けてしまい、戻った際にまず鞄を調べた結果、財布がない事に気付いたのだ。
ちなみにいえば、鞄は普段作業の邪魔にならないよう、美術室外の廊下にある、鍵扉なしのロッカーの中に全員入れる規則なのだそうだ。生徒を信頼し、盗難などの問題は起こらないという前提に基づいての、このロッカーの形らしい。
さすがに、部活は一時中断となった。
教師はまず、部員全員に美術室を隅から隅まで探させた。全員が一度席を立ち、物陰や廊下に至るまで探してみたが、財布はおろか絵筆さえ出て来ない。
次に教師が取った行動が、最悪だった。
あろう事か、その場で全員の持ち物検査を行ったのだ。
疑わしきは罰せよという考えなのか、
『全員が潔白なら何も出て来ないはずだ。全員の目にわかる形で事実を確かめておいたほうがいい』
と、そう言ったのだそうだ。
とにかく、美術部の生徒は全員、その場で自分の鞄の中身を全て公開する羽目になった。
程なくして、事態は急展開を迎えた。
ある生徒の鞄の中から、それまでに美術室で消えた物が全て出て来たのだ。絵具、スケッチブック、絵筆、そして財布。
生徒の名前は、山祢カオル。
『……違う、私じゃない!』
即座に山祢は叫んだ。失せ物は剥き出しのまま、乱暴に鞄に突っ込まれていた。
『山祢、これは一体どういう事だ?』
教師の詰問が飛ぶ。山祢は狼狽えるばかりだ。
『この件については追って連絡する。今日はもう帰れ』
あくまでも厳しく教師は言い放った。
山祢は返事も出来ないまま席を立った。それまで周りの生徒が見た事のない、呆然とした表情だった。
話はこれだけでは終わらなかった。
次の日から、生徒達の間では噂話で持ち切りになった。
いわく、山祢は当初から美術部の輪に入れず、それを恨んで物を盗んだ。
いわく、山祢は嫉妬しやすかった。山祢の被害にあった人間は、皆山祢より実力があった。
しかし、何より生徒達の口に上り、何よりその気持ちを満足させたのは、次の言葉だった。
『やっぱりおかしいんだよ。フュージョナーっていうのは』
※
バン! と大きな音がした。
奥鐘さんがテーブルに拳を叩き付けていた。彼女の紅茶が僅かに零れる。
村木エイリが驚いたように顔を上げたが、すぐにまたスマホに目を戻した。
遠間レイジもまた、驚いて奥鐘さんを見つめている。私はひとまず、彼女から注意を逸らすべく、遠間レイジに質問をする。
「聞きたいんだけど、ナユタ高校は確か、フュージョナーは受け入れていないんじゃなかった?」
遠間レイジが一瞬戸惑ったような顔をする。その隙に、隣から答えが聞こえた。
「いいえ、部長。ナユタ高校は確かに普通人向けの設備ではありますが、普通人と変わらない生活が出来るのであれば、フュージョナーの入学も認められています。本当はもっとオブラートに包んだ言い方ですが」
言いながら、奥鐘さんは自分のハンカチでテーブルを拭き、冷たくなった紅茶を一口飲む。
「なら、彼女は入学当初からフュージョナーとしての差別を受けていたの?」
「いえ。山祢は自分がフュージョナーだって事、周りに隠していたみたいです。例の黒い手袋をするようになった頃から、左手が変わってきちゃったみたいで」
……《回帰症》だ。
私達フュージョナーは、その体にフュージョナー因子と呼ばれる特殊な遺伝情報を持っている。この遺伝情報は母胎の中で私達の体を造り上げ、私達を『犬の耳』や『フクロウの羽』を持った人間としてこの世に生み出す。
回帰症はそのフュージョナー因子が、当人の成長と共に肉体に働きかける病、とされている。発症するとその人の体が、生まれ持った動物や植物寄りに変化し、最終的には動植物そのものへとなってしまう。
想定していたよりも嫌な話になってきた。
奥鐘さんが険しい目で遠間を睨む。
「あなたにとっては他人事でしょうけど、私達にしてみればいつそうなるかわからないのよ?
変ってきたみたいだなんて簡単に言わないで」
「別に俺はそういうつもりじゃ……」
「無自覚なのが一番悪いわ。あなたね、私達にとって回帰症がどれだけ怖い物かわかっているの?」
再び大きな音がした。村木エイリが机を叩いたのだ。
「おい。何だよテメエ、レージが何かしたのかよ?」
「あなたは黙っていて。特に関係ないでしょ?」
「はあ? 何お前喧嘩売ってるの?」
「やめなさい、二人とも」
「エイリ、止せ」
私は奥鐘さんを抑え、遠間レイジは村木エイリを制止した。
「レージ、もう行こう? こんな奴等何の役にも立たないよ。フュージョナーなんだしさ!」
「それ、人権侵害と取っていいの?」
「はあ!? わけわかんねー事言ってんじゃねえよ!」
「奥鐘さん、やめなさい」
血が上った頭を束の間何とか抑え付けて、私は言った。
「遠間さん、あなたの話を続けましょう。聞いておきたいんだけど、あなたはどうしてこの話を知ったの? こういうケースは初めてなんだけど、学内の不祥事なんて外には出回らないでしょう?」
「それは……エイリが教えてくれたんです。俺、最近部活のほうでバタバタしてて、この間久し振りに会った時に話を聞いて」
「この間って?」
「三日前です!」
遠間は素早く言った。思いのほか、勢いのある調子で少し驚く。
「ねえ、何かそれ関係あんの?」
村木エイリの怒りの矛先が、今度は私に向いてきた。
「いいえ。ちょっと気になっただけ」
紅茶を口に運ぶ。冷めている。
「今、村木さんから話を聞いたって言ったわね。あなたは美術部なの?」
「はあ? んなわけないじゃん」
ひどく冷たい言い方で、エイリは答える。わたしが答えに詰まると、代わりに遠間が口を開いた。
「エイリの知り合いの先輩が美術部にいて、その人から話を聞いたそうです。……その、絵具と財布を失くした二年生の先輩っていうのがその人なんです」
「先輩のネイル、めっちゃセンスあんだよ。ほら、これなんかも先輩が自作した奴貼ってくれたの」
私達にではなく、あくまで遠間に向けて彼女は自分の爪を見せた。私はやらないからよく知らないが、確かに彼女の爪には白いバラの綺麗なネイルシールで装飾が施されている。
なるほど。どうりで事件の最初から最後まで、詳しく知っていたわけだ。
「タカノ先輩、かなりキレてたよ。絵具もそうだけど、財布盗んだのはマジ許せないって」
「おい。山祢が盗みなんかするわけないだろ」
「レージはお人好し過ぎるんだよ。山祢が何考えているかなんてわかるわけないじゃん」
「ああ、はい。わかった、やめて」
放っておくと、大騒ぎになりそうだ。話を先に進めないと。
「おおよその話は理解したわ。で、私達にして欲しいのは、その山祢カオルという子の、状況の改善という事でいいのかしら?」
「そうです。あいつは人の物を盗むような奴じゃない。でも、周りはあいつがフュージョナーだからって理由でほとんど決まりだと思っている。証拠は何もないのに」
――人と違うというだけで悪人と決めつけられた、か。
「今、山祢さんは?」
「ここ最近は学校を休んでいるみたいです。だよな、エイリ?」
村木エイリはふて腐れた顔をしながらも頷いた。
「連絡は取ってないの?」
「……話を聞いてからは何度かかけてるんですけど、あいつケータイの電源切ってるみたいで」
少しばかり間を空けて、遠間は言う。
つまり、最近連絡は取っていない。声も聞いていない。
不意に遠間レイジが頭を下げた。
「お願いです。どうか、あいつの無実を晴らすのを手伝って下さい! 確かに愛想は悪くなったけど、だからって人に迷惑かけたりする奴じゃないんです」
顔を伏せたまま、遠間はお願いしますと続ける。
私は静かに深呼吸する。押し付けられたとはいえ、部長という立場を思い出すと、責任感がもたげて、私の感情を抑制する。
「……一応言っておくけど、いち生徒である私達が他校の問題に口を出す事は出来ないわ」
村木エイリがすぐさま動いた。鞄を掴みざま席を立ち、私を睨みつけながら口を開く。
「聞いたでしょレージ。こいつらは所詮こういう奴等なんだよ。相談部だか何だか知らないけど、あたし達とは違うんだよ。人が困っているのを見捨てるような、人の痛みなんて全然わからない奴等なんだよ!」
「あなたにそんな事を言われる筋合いはない」
誰にでも出来る事と出来ない事があるというだけだ。私達はあくまで三ツ花学園の相談部であって、ナユタ高の事件に首を突っ込むべきではない。だが――……
「……ただ、相談を聞いた以上何もしないというわけにもいかない。私達は私達なりに、あなたの力になろうと思う」
私の言葉に遠間レイジの目に、俄かに光が宿る。
「それじゃあ……」
「ええ」
あらゆる感情を込めて、私は決断する。
どうやら、これが我が相談部初めての、まともな案件となりそうだ。
「――あなたの相談、引き受けたわ」
喫茶ボヘミアンはストリートを半分程行ったところにあった。洒落た外装の店が立ち並ぶ中にある、レトロ風な茶色い壁の小さな店。周りの店より若干背が低く、建物の趣も周囲のモダンな造りとは違い、言ってみれば平べったい小屋というか、まあ、味のある外観だった。
店の前にはどうも素人が自分で造ったらしい、白塗りの郵便ポストがあり、その足下には民族衣装めいた格好をした男女の人形が何体か並べられている。郵便受けのすぐ下に、あえて不恰好にカットしたらしい木の板が取り付けられており、そこに筆記体で何かが書かれてあった。英語でないのは確かだ。
「フランス語か」
「読めるんですか?」
奥鐘さんが訝しげに訊いてきた。
私は趣味でフェンシングをやっている。かれこれ二年程になる。たまに海外の資料を見る事があって、フランス語はそういった資料を読むために勉強している。あまり自信はないが、筆記体も一通りは勉強した。気になったので、板の字をよく見てみる。
「……Bohemiens en voyage」
少々時間をかけて、私は看板の文字を読み上げる。
「何ですって?」
「旅のボヘミアン」
どこかで聞いた事があるフレーズだ。何か、古い本だったと思うが咄嗟に出て来ない。
「……ああ、悪の華」
私が記憶を探り当てるより早く、奥鐘さんが正解にたどり着いた。そう、詩だ。ボードレールの悪の華。
「店名の由来でしょうね。そんな事より行きましょう、部長。その先、ちょっとだけ段になっていますから気を付けてください」
軽く頷き、私は小さな階段を下りて、その奥の入り口のドアを開ける。古風なベルの音が私達の存在を店員に知らせた。
店内は思っていたより明るく、それなりに広い。木造、壁や床は黒に近い茶で塗られ、全体的に落ち着いた装いとなっている。悪くない。いや、むしろ嫌いではない。
中に客は少ない。いずれも大人ばかりで、学生服の人間は見当たらなかった。
店主にあとから一人来る事を伝えて、私達は奥のほうのテーブルへと座る。
時計を見ると、十五時まであと十分だ。
「呼び出しておいて先にいないだなんて」
奥鐘さんが呟く。同意見だが、そんなものだろうという気もする。
注文を取りに来た店員に二人分の紅茶を頼み、さて、何して時間を潰そうかと考えていると、奥鐘さんが鞄から単語帳を取り出した。
「立派ね」
「時間を無駄に出来ませんから」
こちらには目もくれず、奥鐘さんは言う。
そういえば今に限った事ではなく、奥鐘さんは部室でも暇さえあれば勉強をしている。熱心な事だ、くらいにしか思っていなかったが、つい妙な疑問が湧いて出る。数分の時間さえ惜しまず勉強をするのなら、どうして彼女は今日、ついて来てくれたのだろう?
「部長はいいんですか?」
「え?」
「月末、試験ですよ」
ああ、それでか。確かに月末には高校生活初の中間試験がある。まあ、私はあまり定期試験を意識した事はないが。
「うちの学校、学業には結構厳しいみたいですよ。少しでも勉強しておいたほうがいいんじゃないですか?」
「そうね」
とはいえ、改めて何かやる必要があるだろうか。今のところ、そう難しい事もしていないし。
「家に帰ってからにするわ。時間も中途半端だし」
「……そうですか」
言うと、奥鐘さんは再び単語帳に目を落とす。
……やはり、妙に冷たいような気がする。何となく敵対視めいたものを感じる、ような。
「お待たせしました。ストレートティーです」
何となく暗い気分になったその時、注文していた紅茶が運ばれてきた。それなりに大きめのポットから色の良い紅茶がカップに注がれ、心地よいダージリンの薫りが漂ってくる。
一口口をつける。内装同様に、好みの味わいだ。
と、入り口のほうで来客を告げるベルが鳴った。入って来たのは男女の二人組だった。どちらも学生服を着ている。女子のほうは知らない制服だが、男子のそれは三ツ花学園の物だ。
私は時計を見る。十四時五十七分。
「ほら、ギリギリになっちゃったじゃん!」
軽く息をつきながら、男子が非難がましく女子に言う。背が高い。一七〇センチはあるだろう。スポーツでもやっていそうな体格で、顔立ちは整っている。
いや、多少厳しめに見ても、あれは美形の部類に入るだろう。どちらかといえばお人好しで通りそうな雰囲気で、そこが単純に美男子とは言い難くさせている。
別にだからといって、特に魅力的なわけではない。
「えー、だってアイベルのぬいぐるみ、ちょーカワイかったんだよ? あれ取んなきゃダメっしょー!」
答える女子のほうも、これまた顔立ちは良かった。髪は明るめで、何と言ったらいいか、いわゆるギャル系と普通の女子高生を足して二で割ったような、どちらの特徴もうまく取り込んで綺麗にまとめてある。派手過ぎず、かといって大人し過ぎず。そういうセンスは悪くないようだ。
言動は、どうにも好きになれそうにないが。
どちらも普通の人間だ。私達とは違う、普通の。
「約束あるっつったじゃん。全くさあ」
男子のほうは頭を掻きながら視線を動かし、やがて私達を見つけた。
途端に、彼の表情が変わる。しまった、とでも言いたげな顔。
まず、相談メールの送り主と見て間違いないだろう。
「すんません! お待たせしました!」
人によってはさわやかに聞こえるのだろうが、この店の中では少々大き過ぎる声で、彼は言った。
奥鐘さんが何か言いたげな顔をしている。睨むように彼らを見つめながら、手早く手元の単語帳を鞄へと仕舞った。
彼らが足早に席へと近付いて来る。
「いや、本当にスイマセン。連れが駄々こねっちゃって」
「はあ!? 何それ、アタシ赤ちゃんじゃないんだけど!?」
眉間に皺の寄った奥鐘さんが口を開く前に、私は言った。
「いいえ。時間には遅れていませんから、お気になさらず」
奥鐘さんがあからさまに私を睨みつけたが、今はあえて無視する。
「どうぞ座って下さい。まず、何か注文をどうぞ」
言って、私はメニュー表を手に取る。
「あ、ありがとうございます」
言いながら、男子は席の奥へ入り、私の向かいに座る。女子が男子の横へ座り、私の手からメニュー表を取った。
若干、ひったくるように。
「レージ、アタシ、ミルクティーがいいー」
甘えるような声で女子が言い、男子は頷く。
「じゃあ俺もそれで。すいませーん!」
店員が来るより早く、男は大きめな声で言った。
二人分の注文を店員が聞き取り、席を離れる。男子が、改まって口を開いた。
「今日は急なお話にも拘わらず、来てくださってありがとうございます。俺は一年K組の遠間(とおま)レイジです。こっちは村木エイリ。今は違う学校だけど、中学まで一緒だったんです」
「よろしくー」
スマートホンを取り出しながら、エイリという女は言った。
奥鐘さんの表情が険しいものになっていく。私も気分がいいわけではない。だが、とにかく話を聞かなければならない。
「私は忍冬忍。相談部の部長をしているわ。こちらは同じく部員の奥鐘文目さん」
「……よろしくお願いします」
さっきよりもさらに冷たい語調で、奥鐘さんは言った。
「さて、さっそくですが、話を聞きましょうか」
「あ、はい。わかりました」
遠間レイジは頷き、居住まいを正す。
「メールでもお話した通り、相談っていうのは俺の友達の事なんです。幼稚園からの友達で、山祢カオルっていうんですけど――……」
山祢カオルはナユタの旧市街に生まれた。幼い頃は市外の外にある幼稚園に通い、そこで遠間レイジと出会ったのだそうだ。
幼い頃から、絵を描くのが好きだったのだという。
「先生からクレヨン借りて、そこら中に落書きしてましたよ。やり過ぎて怒られていたくらい」
小学校でも山祢と遠間は同じクラスになり、低学年の頃は絵が上手い子として評判だったのだという。
「小四から先はクラスが離れて、特に関わる事はなかったんです。卒業してからも会わなくて、ずっと忘れてたんですけど、中学三年の時に、また一緒のクラスになったんです」
そこで遠間は言葉を切り、何故か、気まずそうにしてまた口を開いた。
「その……正直な話、俺、その時まで山祢が同じ中学にいるって知らなかったんです」
なるほど。つまり、ほとんど全く、遠間は山祢カオルという同級生には興味がなかったのだ。別に変った事ではない。お互い、生活圏が違ったのだろう。
「ただ、その時はもう小学校の頃とは全然違う感じで。髪も伸ばして、何かすっごい暗くなってたんですよ」
初め、遠間は顔を見ても山祢カオルだとは思わなかったそうだ。最初のホームルームに自己紹介をして、その時ようやく気付いたのだという。
「誰とも喋らないし、一番目立ったのは、左手に黒い革の手袋するようになってたんですよ。体育の授業の間もずっとそのままで。それでその、何て言うか、いじめの標的になってたみたいで……」
遠間の声のトーンが落ちていく。
私はその様子を想像する。
人間、自分と明らかに違う者は警戒する。『片方だけの黒革の手袋』などは、ひとまず普通の人は身に着けていないアイテムだろう。
どうも普通とは違った者が、自分達のクラスに現れたため、クラス内の大半は警戒しそして、そう時間はかからずに、クラス内のある一部の人間が攻撃を始める。
その理由はたぶん、理不尽な感情だ。『気に食わない』や『気持ち悪い』といったものなのだろう。私も経験がないわけではない。
もっとも私の場合は、ひどくなる前に両親が相手方を片付けてしまったのだが。
「最初はあいつも無視してたんですけど、だんだんエスカレートしていって、それで――」
「レージが止めに入ったんだよねー」
唐突に、村木エイリが口を開く。視線は相変わらずスマホに落とされたままだ。
「……そうなんです。いじめてる奴等の見当はついてたんで、俺が直接言ってやめさせました」
「……止まったの?」
俄かには信じ難い話だ。
「やめさせました。友達も協力してくれて、いじめてた奴等を全力で追い払ったんです。何人かは放校処分になりました」
内戦後の教育政策により、この国では小学校から高校までは義務教育期間だ。放校処分とはいえ、実際にはすぐに他の学校へ移されたのだろう。
「すごいわね」
つい、そんな感想が漏れてしまった。
人権を侵害した連中を追い払ったのだから、それは素晴らしい事だと思う。
だが、同時に妙な引っ掛かりも感じる。何だろう。感覚的過ぎてうまく言葉に出来ない。
「いえ。それでそれからは、山祢ともよく遊ぶようになったんです。北駅の周りとか回ったり、あいつの家に皆で遊びに行ったり。中学の卒業まではそんな感じで。そこまでは良かったんですけど……」
再び、遠間は口を噤む。村木エイリは無言でスマホを弄っている。
「お待たせしました。ミルクティーです」
沈黙を意に介さないかのように、店員がミルクティーのカップを二つ、テーブルに置いて行く。遠間がエイリの前にカップを置き、エイリはスマホを見つめたまま頷くだけだ。
遠間レイジが自分の口にミルクティーを運ぶ。どうも、言いかねている様子だ。
「言っちゃいなよ。それ話しに来たんじゃん」
スマホをテーブルに置き、エイリは淡々と言った。
遠間レイジは、ああ、と頷く。
「本題はここからです。高校、俺は三ツ花に行ったんですけど、エイリと山祢はナユタ高校に行ったんです。で、そこで問題が起こってしまって……」
気まずげに、遠間レイジは話を続ける。
※
問題が発生したのは、入学から二週間後の事だ。
山祢は中学と同じく美術部に入り、そこで毎日のように絵を描いていたらしい。
新しい友達は、残念ながらいなかったようだ。たまたま同じクラスになった村木エイリが見る限り、山祢が他の誰かと付き合いがあるようには見えなかったという。
それは部活でも同様で、山祢は一人、孤立したまま作業に没頭していたらしい。
最初に異変が起こったのは、美術部の二年生女子だった。
美術室で作業をしていて、途中トイレに立ち、戻ってきて、次に使う色を作ろうとした時だ。
――絵具がない。
使っていた絵具が何個かなくなったのだ。作業中、教師に呼ばれて一度席を外し、戻ってきて続きを描いていたら、ふと気付いたのだという。
席の周りを見回してみるが、どこにも絵具は落ちていない。
自分の道具箱を確認してみるが、やはり絵具は見当たらない。
まさかな、と思う。
部員は皆、それぞれの作業に適した位置に陣取っているから、それぞれの距離は離れている。美術室の外で作業をする者もいて、扉は常に開きっぱなしだ。人の出入りもそれなりにある。
盗ろうと思えば誰にでも盗れる。
だが、そこで二年生は考えた。
いや、まさか。だって絵具だ。それも、そのうちの三、四色だ。確かに、自分はそれなりに値の張る物を使っているが、だからといって、それを羨んで盗む者がいるとは思えない。
そう思いつつも、二年生は自分の一番近くに座っていた生徒に声を掛けた。
まだあまり話した事がない新入生、山祢カオルに。
『山祢さん。ちょっといいかな?』
山祢は最初、二年生のほうを向かなかった。手を動かす事を優先していた。
二年生は再び山祢を呼んだ。山祢はようやく手を止めた。
『何でしょうか、先輩』
『ごめん。変な話なんだけど、実は私の絵具が見当たらなくて。ついさっきまでそこにあったんだけど、山祢さん、知らないよね?』
山祢はしばらくの間、二年生の顔をじっと見つめたそうだ。最初はどういう意味かわからなかったが、やがて、自分は呆れられているのだという事に二年生は気が付いた。
『知りません』
それだけ言って、山祢は作業に戻った。
それ以上は調べようがない。何とか上手く都合をつけて、二年生もまた自分の作業に戻った。
だが、失せ物はその日だけに留まらなかった。
次の日には、一年生男子のスケッチブックが消えた。作業に使っていたわけではなく、日頃から閃いたアイディアを書き留めるために持ち歩いている品だったそうだ。サイズは小さく、周囲の人間と手分けして探したが美術室には見当たらない。教室まで戻り、中を隅々まで探したが、見つからない。
結局その日、スケッチブックを見つける事は出来ず、彼は泣く泣く家に帰った。
そういえば、一度席を離れた時、山祢が自分の絵を遠くから見ていた事を、後に一年生は思い出したという。
さらに次の日。
今度は三年生の筆がなくなった。コンクール用の作品に使っていた物で、やはり止むを得ず席を離れた際に、絵筆は忽然と姿を消していたのだという。
さらに、厄介な事はもう一つ起こった。
先々日、絵具をなくした二年の先輩が、今度は自分の財布がない事に気が付いた。
使っているのが少し大きめの財布で、スカートのポケットが膨らむという理由から、普段は鞄の底に仕舞って、人目に付かないようにしていたのだそうだ。
それがなくなった。例によって教師の資料運びを手伝う事になり、思いもよらず席を長く空けてしまい、戻った際にまず鞄を調べた結果、財布がない事に気付いたのだ。
ちなみにいえば、鞄は普段作業の邪魔にならないよう、美術室外の廊下にある、鍵扉なしのロッカーの中に全員入れる規則なのだそうだ。生徒を信頼し、盗難などの問題は起こらないという前提に基づいての、このロッカーの形らしい。
さすがに、部活は一時中断となった。
教師はまず、部員全員に美術室を隅から隅まで探させた。全員が一度席を立ち、物陰や廊下に至るまで探してみたが、財布はおろか絵筆さえ出て来ない。
次に教師が取った行動が、最悪だった。
あろう事か、その場で全員の持ち物検査を行ったのだ。
疑わしきは罰せよという考えなのか、
『全員が潔白なら何も出て来ないはずだ。全員の目にわかる形で事実を確かめておいたほうがいい』
と、そう言ったのだそうだ。
とにかく、美術部の生徒は全員、その場で自分の鞄の中身を全て公開する羽目になった。
程なくして、事態は急展開を迎えた。
ある生徒の鞄の中から、それまでに美術室で消えた物が全て出て来たのだ。絵具、スケッチブック、絵筆、そして財布。
生徒の名前は、山祢カオル。
『……違う、私じゃない!』
即座に山祢は叫んだ。失せ物は剥き出しのまま、乱暴に鞄に突っ込まれていた。
『山祢、これは一体どういう事だ?』
教師の詰問が飛ぶ。山祢は狼狽えるばかりだ。
『この件については追って連絡する。今日はもう帰れ』
あくまでも厳しく教師は言い放った。
山祢は返事も出来ないまま席を立った。それまで周りの生徒が見た事のない、呆然とした表情だった。
話はこれだけでは終わらなかった。
次の日から、生徒達の間では噂話で持ち切りになった。
いわく、山祢は当初から美術部の輪に入れず、それを恨んで物を盗んだ。
いわく、山祢は嫉妬しやすかった。山祢の被害にあった人間は、皆山祢より実力があった。
しかし、何より生徒達の口に上り、何よりその気持ちを満足させたのは、次の言葉だった。
『やっぱりおかしいんだよ。フュージョナーっていうのは』
※
バン! と大きな音がした。
奥鐘さんがテーブルに拳を叩き付けていた。彼女の紅茶が僅かに零れる。
村木エイリが驚いたように顔を上げたが、すぐにまたスマホに目を戻した。
遠間レイジもまた、驚いて奥鐘さんを見つめている。私はひとまず、彼女から注意を逸らすべく、遠間レイジに質問をする。
「聞きたいんだけど、ナユタ高校は確か、フュージョナーは受け入れていないんじゃなかった?」
遠間レイジが一瞬戸惑ったような顔をする。その隙に、隣から答えが聞こえた。
「いいえ、部長。ナユタ高校は確かに普通人向けの設備ではありますが、普通人と変わらない生活が出来るのであれば、フュージョナーの入学も認められています。本当はもっとオブラートに包んだ言い方ですが」
言いながら、奥鐘さんは自分のハンカチでテーブルを拭き、冷たくなった紅茶を一口飲む。
「なら、彼女は入学当初からフュージョナーとしての差別を受けていたの?」
「いえ。山祢は自分がフュージョナーだって事、周りに隠していたみたいです。例の黒い手袋をするようになった頃から、左手が変わってきちゃったみたいで」
……《回帰症》だ。
私達フュージョナーは、その体にフュージョナー因子と呼ばれる特殊な遺伝情報を持っている。この遺伝情報は母胎の中で私達の体を造り上げ、私達を『犬の耳』や『フクロウの羽』を持った人間としてこの世に生み出す。
回帰症はそのフュージョナー因子が、当人の成長と共に肉体に働きかける病、とされている。発症するとその人の体が、生まれ持った動物や植物寄りに変化し、最終的には動植物そのものへとなってしまう。
想定していたよりも嫌な話になってきた。
奥鐘さんが険しい目で遠間を睨む。
「あなたにとっては他人事でしょうけど、私達にしてみればいつそうなるかわからないのよ?
変ってきたみたいだなんて簡単に言わないで」
「別に俺はそういうつもりじゃ……」
「無自覚なのが一番悪いわ。あなたね、私達にとって回帰症がどれだけ怖い物かわかっているの?」
再び大きな音がした。村木エイリが机を叩いたのだ。
「おい。何だよテメエ、レージが何かしたのかよ?」
「あなたは黙っていて。特に関係ないでしょ?」
「はあ? 何お前喧嘩売ってるの?」
「やめなさい、二人とも」
「エイリ、止せ」
私は奥鐘さんを抑え、遠間レイジは村木エイリを制止した。
「レージ、もう行こう? こんな奴等何の役にも立たないよ。フュージョナーなんだしさ!」
「それ、人権侵害と取っていいの?」
「はあ!? わけわかんねー事言ってんじゃねえよ!」
「奥鐘さん、やめなさい」
血が上った頭を束の間何とか抑え付けて、私は言った。
「遠間さん、あなたの話を続けましょう。聞いておきたいんだけど、あなたはどうしてこの話を知ったの? こういうケースは初めてなんだけど、学内の不祥事なんて外には出回らないでしょう?」
「それは……エイリが教えてくれたんです。俺、最近部活のほうでバタバタしてて、この間久し振りに会った時に話を聞いて」
「この間って?」
「三日前です!」
遠間は素早く言った。思いのほか、勢いのある調子で少し驚く。
「ねえ、何かそれ関係あんの?」
村木エイリの怒りの矛先が、今度は私に向いてきた。
「いいえ。ちょっと気になっただけ」
紅茶を口に運ぶ。冷めている。
「今、村木さんから話を聞いたって言ったわね。あなたは美術部なの?」
「はあ? んなわけないじゃん」
ひどく冷たい言い方で、エイリは答える。わたしが答えに詰まると、代わりに遠間が口を開いた。
「エイリの知り合いの先輩が美術部にいて、その人から話を聞いたそうです。……その、絵具と財布を失くした二年生の先輩っていうのがその人なんです」
「先輩のネイル、めっちゃセンスあんだよ。ほら、これなんかも先輩が自作した奴貼ってくれたの」
私達にではなく、あくまで遠間に向けて彼女は自分の爪を見せた。私はやらないからよく知らないが、確かに彼女の爪には白いバラの綺麗なネイルシールで装飾が施されている。
なるほど。どうりで事件の最初から最後まで、詳しく知っていたわけだ。
「タカノ先輩、かなりキレてたよ。絵具もそうだけど、財布盗んだのはマジ許せないって」
「おい。山祢が盗みなんかするわけないだろ」
「レージはお人好し過ぎるんだよ。山祢が何考えているかなんてわかるわけないじゃん」
「ああ、はい。わかった、やめて」
放っておくと、大騒ぎになりそうだ。話を先に進めないと。
「おおよその話は理解したわ。で、私達にして欲しいのは、その山祢カオルという子の、状況の改善という事でいいのかしら?」
「そうです。あいつは人の物を盗むような奴じゃない。でも、周りはあいつがフュージョナーだからって理由でほとんど決まりだと思っている。証拠は何もないのに」
――人と違うというだけで悪人と決めつけられた、か。
「今、山祢さんは?」
「ここ最近は学校を休んでいるみたいです。だよな、エイリ?」
村木エイリはふて腐れた顔をしながらも頷いた。
「連絡は取ってないの?」
「……話を聞いてからは何度かかけてるんですけど、あいつケータイの電源切ってるみたいで」
少しばかり間を空けて、遠間は言う。
つまり、最近連絡は取っていない。声も聞いていない。
不意に遠間レイジが頭を下げた。
「お願いです。どうか、あいつの無実を晴らすのを手伝って下さい! 確かに愛想は悪くなったけど、だからって人に迷惑かけたりする奴じゃないんです」
顔を伏せたまま、遠間はお願いしますと続ける。
私は静かに深呼吸する。押し付けられたとはいえ、部長という立場を思い出すと、責任感がもたげて、私の感情を抑制する。
「……一応言っておくけど、いち生徒である私達が他校の問題に口を出す事は出来ないわ」
村木エイリがすぐさま動いた。鞄を掴みざま席を立ち、私を睨みつけながら口を開く。
「聞いたでしょレージ。こいつらは所詮こういう奴等なんだよ。相談部だか何だか知らないけど、あたし達とは違うんだよ。人が困っているのを見捨てるような、人の痛みなんて全然わからない奴等なんだよ!」
「あなたにそんな事を言われる筋合いはない」
誰にでも出来る事と出来ない事があるというだけだ。私達はあくまで三ツ花学園の相談部であって、ナユタ高の事件に首を突っ込むべきではない。だが――……
「……ただ、相談を聞いた以上何もしないというわけにもいかない。私達は私達なりに、あなたの力になろうと思う」
私の言葉に遠間レイジの目に、俄かに光が宿る。
「それじゃあ……」
「ええ」
あらゆる感情を込めて、私は決断する。
どうやら、これが我が相談部初めての、まともな案件となりそうだ。
「――あなたの相談、引き受けたわ」
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