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『騒乱の街』5

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 三駅目で降りる。体はくたくただった。時刻は、あと十五分で四時になろうとしている。昼前からざっと四時間、人を追い掛け、人を殴り人に殴られ、人に追われた。過密スケジュールだ。誰かに見直しを求めたい。
 下らない事を考えながら、自販機で一番高い不健康そうなドリンクのロング缶を買い、駅から少し離れた公園のベンチに座る。今時珍しく、端に穴がいくつか空いた灰皿が設けてある。
 気を抜くと意識が朦朧とする。短時間でも、体を休めなくてはならない。
 プルタブを引き、エナジードリンクを呷る。懐を探り、ライターとハイライトを取り出した。少し迷ったが、吸う事にした。煙草を吸う事で癒されるのは喫煙習慣に染まった者のみだ。ナユタに来る前に多くの悪い習慣を断ち切ったが、これだけはずるずると引き摺っている。


 一口吸った途端に眩暈がした。ああ、そうだ。そういえばだいぶ血を流したんだった。思い出した途端に腕の痛みが戻ってきたようだ。ベンチからずり落ちる。ドリンク缶が地面に中身を吐き出す。右手に挟んだ煙草を何とか灰皿に捻じ込んで、叉反は立ち上がる。
 咄嗟の判断だったが、三駅目で降りたのは考えなしにじゃない。公園の近く、小さく今にも崩れそうな建物。木の看板。特徴を頭の中に巡らせる。
 あった。一軒家とも廃屋ともつかない建物に挟まれた小さな家。神(かみ)義(よし)診療所。
 公園の中をふらふらと歩き、何とか扉までたどり着く。人がいなくて良かった。今不審者として通報されるのは御免だ。


 インターホンを押す。電子的な鐘の音が響く。反応はない。もう一度押す。やはり反応はない。視界が霞んでくる。意識がおぼつかない。
 コン、と頭に軽い物がぶつかった。コンクリートで一度跳ねて、からからと転がる。
「ポイ捨てするんじゃない、この馬鹿もんが」
 聞き覚えのある嗄がれた声が、後ろから聞こえた。小柄の医師、神義がそこに立っていた。
 気が抜けそうになるのを何とか堪えて、叉反は小さく笑った。
 神義はナユタに来る前、まだ違う街で見習いをしていた頃からの顔見知りだった。ナユタからほんの少し離れたこの診療所で、表の客も裏の客も相手にしながら、ナユタが造られていくのをずっと見てきた男だ。神義、という名前以外詳しい事は何も知らない。
 何も言わずとも心得たように、神義は叉反を連れて診療所へ入ると、傷の具合を診始めた。


「全くふざけてやがるよ、フュージョナーってのは」
 治療を終えた神義が開口一番言った言葉が、これだった。
「どういう意味です」
 シャツを着ながら叉反は問い返した。汗ばんでいるが替えはない。一度車まで戻らないと。
 神義は呆れたようにため息をつくと、煙草を取り出して口に銜えた。
「どうもこうもない。傷の治りが早すぎるんだ。腕なんか相当深く抉られただろうに、もう塞がり始めてやがる。これじゃ、医者なんかいらねえよ」
 言われて、叉反は自分の頬に触れた。さっき切り裂かれた頬も、血はおろか傷跡さえほとんどあるように感じない。


「裏の世界じゃよく聞く話だがな。特に荒事絡みのフュージョナーは自己治癒力が恐ろしく高いんだそうだ。一種の回帰症って話らしいが。危険に晒されるせいか、体が少しでも早く回復しようとするんだろう。いずれにせよ普通の人間じゃ考えられん」
「人間ですよ、俺達は」
 反論したものの、叉反の胸に怒りはなかった。まだ鈍痛を残すものの、傷が塞がりつつある右腕が少し気になる。
 回帰症、という言葉にレインコートを思い出した。回帰症は、身体が持って生まれた動物や植物へと変化していく病だ。フュージョナーの発生と同じく原因は不明で、全てのフュージョナーが発症する可能性を持っている。
「人間じゃなくちゃいけないって事はねえ。どういう理由であろうと、他人とは違う体に知性を持って生まれてきちまったんだ。そこからどうするかを考えなくちゃいけない」
 神義が輪っかにした煙を吐き出す。ハイライトを取り出して火をつけると、神義が机の上で灰皿を滑らせて寄越した。


「で、そんなザマになってるって事は仕事中か? 探偵さんよ」
「ええ。ちょっと状況が複雑になっていて……」
 紫煙を吐き出しながら、頭の中を纏める。
 駅で叉反を追ってきた連中。刑事だ。駅中で堂々と発砲し、周りを一切顧みず人を追い回す。ナユタ市警察の警官達の顔は大体頭に入っているが、彼らは見覚えがなかった。それに、レインコートを撃ったライフル。麻酔銃に改造してあったが、あれはスナイパーライフルだ。おそらくはレインコートを仕留めるために狙撃手ごと投入された。
 市警ではない。警視庁、それもかなり上からの差し金だ。だが、その狙いは一体何だ。ぎりぎりのタイミングであの場に登場したという事は、それなりに前から叉反ないしレインコートを見張っていたという事。もっと言えば、神出鬼没のレインコートよりは、探偵のほうがはるかに追いやすいだろうから、見張られていたのは叉反だろう。そして、警察が叉反を見張る理由といえば、思い当たるのは一つしかない。
 深田慎二、そして計画書……。


 そこまで考えた時、携帯電話が震え出した。画面を見ると、公衆電話からだ。神義は素知らぬ顔で煙草をふかし続けているので、構わず電話に出た。
「はい」
『尾賀か?』
 意外な人物の声だった。ここしばらく連絡を取っていなかったが、声の主はすぐにわかる。
 ナユタ市警察署勤務、山本銕(やまもとてつ)太郎(たろう)巡査。高校時代からの旧友だ。
「もっちー」
『もっちー、じゃねえ! 尾賀、てめえ一体何をしやがった!』
 山本巡査は激昂していた。彼は普段声を荒げる人物ではなかったが、今日はいつもとは違うようだ。
「何、とは……?」
『惚けるな! さっきから公安の人らがお前の事を探し回ってる。知り合いだっていう理由で俺の携帯も没収された。一体お前何をしたんだ、例の昼に攫われたチンピラと関係あるのかよ?』
「あ、ああ。深田さんは俺の依頼人の探し人で……」
 公安? 何故急に公安が乗り出してきた?


『事情はよくわからねえけどな、上の人はその深田ってチンピラとお前の事を血眼になって探してる。お前、今どこだ。ナユタか?』
「……詳しくは言えない。ナユタじゃない」
 言いながら、叉反は煙草を押し潰す。
『言えないじゃねえよ。どういう事情か知らねえけどな、何もしてねえんなら、早く出頭しろ。悪いようにはなんねえから!』
 嘘、ではない。少なくとも、山本にとっては。だが特殊部隊まで投入しておいて、警察がそう簡単に保護してくれるとは思わない。それに、まだ有礼との約束を果たしていない。仁の安全は確保されていないのだ。
 そういえば、有礼からの連絡がない。北駅での襲撃の件が耳に入っていても良さそうなものだが……。
「……すまないが、今から行かなければならないところがある。そちらには行けない」
『はあ!? あのなあ、ふざけてる場合じゃねえんだぞ!!』
「もっちー、頼みがある」
 相手の怒号が飛んでくるかと思ったが、叉反は続けた。
「今から言う学習塾に行って、明槻仁という少年を保護してほしい。刀山会に狙われている」
『お前何言って――』
「頼む。俺のほうは何とかするから、その子だけは守ってくれ。今回の一件とは何も関係がないんだ」
『何だってんだ……』


 山本は口の中で何かを呟いていたが、やがて舌打ちして言った。
『俺ももう時間がねえ。あとできっちり説明してくれるんだろうな』
「約束する」
『しゃあねえな……』
 不満げな山本に塾の名前を告げて、叉反は電話を切った。
「――行くのか、探偵」
 頃合いを見計らって、神義が言った。
「ええ。お世話になりました」
 財布から何枚か紙幣を取り出し机の上に置く。コートを着て、叉反は診療所を出ようとした。神義の声が、再びかかった。
「おい、探偵。お前、深田ってチンピラと知り合いなのか」
 叉反は振り返った。神義はすでに新たな煙草に火をつけている。
「ええ。それが何か」
「いや、同業の奴から最近そのチンピラの話を聞いたんだよ。そうとは知らず刀山会に追われてる奴の世話をして、組の連中からえらい目に合されたってな」
「どういう事です?」
 神義は手短に語った。一分後、叉反は診療所を出て、今後の行動を検討し始めた。
 ――少しずつだが、深田が抱えている事情に近付きつつあった。



 一つ一つを順当に積み上げなければならなかった。持てる物を全て使い、活路を開く。
 コンビニで黒マジックと封筒を購入すると、叉反はでかでかとメッセージを書き、懐に収めていたボイスレコーダーを入れて交番へと向かった。
 パトロール中らしく、見たところ人はいないようだ。封筒の表に殴り書いたメッセージ――『ナユタ市警宛 尾賀叉反』――の文字を見えるように机の上に置いて、素早く交番を出る。なるべく堂々としながら人気の多い商店街へ入っていく。付近に警官の姿はない事を確かめながら、人の中をかき分けていき、そのうちに、それなりに広い道路へと出た。
 日頃の交通量と比べれば、異常とも言えるほどの渋滞だった。道の端から端まで車で敷き詰まり、信号が変わる度緩慢に進行する。車と路肩に出来た僅かな隙間をバイクが通り抜けていく。
 横断歩道の信号が青になり、叉反は走った。ナユタへと流れ込む川にかかった橋を渡り、さらに進む。適当に息が切れてきたので、全力疾走で来た道を引き返し、橋の下にある貸ボート小屋の中へと入る。中にいたのは、暇そうに佇んでいる老人一人だけだった。
「すみません……」
 息を整えながら、叉反は老人に話しかけた。管理人らしい老人は驚いた顔で叉反を見た。


「……はい。どうしました?」
「突然申し訳ないのですが、ちょっと事件に巻き込まれてしまって……。携帯の電池を切らしてしまったので、すみませんが電話をお借りできませんか」
 案の定、老人は不審そうな顔をした。
「事件? ……ええ、まあ、そりゃ構いませんがね」
 老人の視線が破けたコートと血痕に注がれる。
「ありがとうございます」
 素早く礼を言って、叉反は老人が差し出す受話器を受け取ると一一〇番を押した。センターの女性が出て、事件か事故かを聞いてきた。
「事件です。実は今、変な男にバイクを盗まれてしまって……。カワサキの赤いニンジャです。ナンバーは――」
 叉反はさっき見たバイクのナンバーを告げ、老人から小屋の住所を聞きそれも告げた。
「蠍の尻尾が生えたフュージョナーで、かなりの大柄です。東京のほうへと逃げていきました。……はい、よろしくお願いします」


 言って、叉反は受話器を置くと、老人のほうへ向き直った。
「助かりました。僕は外で警察の人を待ちます。ありがとうございました」
 きょとんとした顔して、お気をつけてと言った老人に頭を下げ、叉反は外へ出た。
 これでいい。少しだろうが、時間が稼げるだろう。今のうちに、ナユタに戻らなければ。とはいえ、電車は当然使えない。ナユタ北駅を始めとして、ナユタの各交通機関には警官が張り込んでいるはずだ。
 再び駆け出して住宅街へ入る。人気のない道を選んで進み、目立つ建物がないか見渡す。ほどなくして、適当な物が見つかった。最近廃校になったらしい中学校だ。校舎はまだ取り壊されておらず、校庭の隅に生えた草は伸び放題になっている。
 近隣のタクシー会社に連絡して、学校を目印に来てもらうよう手配する。およそ十分後、中年の運転手が乗ったタクシーがやって来た。
「ナユタまで。急ぎで」


 後部座席に乗り込んで、叉反はあえてぶっきらぼうに言った。ルームミラーに運転手の怪訝そうな顔が映った。
「お客さん、それなら電車のほうが早いですよ」
「いや電車は無理なんだ。見張られているからな」
 足を開き、手を組んで深く腰をかける。もっとも尾があるので実際には窮屈だが、出来る限り大物らしく振舞った。高身長が役立つ時だ。運転手には申し訳ないが、威圧させてもらう。
「他の組の若い奴等にカチコミかけられてね。面倒だが、人目につかないようにナユタまで戻らなくちゃならない」
「降りて下さいよ」
 運転手がヒステリー気味に言った。声に怯えが混じっている。
「妙な事に巻き込まれるのは御免です。警察を呼びますよ」
 必死の言葉に叉反は笑い声を上げた。なるべく相手の恐怖を煽るように。完全にヤクザ者になり切って。
「呼びたきゃ呼べばいい。ここら一帯の道路はえらく渋滞しているから、お巡りが来る前に奴等に追いつかれてしまうよ。俺だって巻き込みたいわけじゃないが、自分の命が優先なんでね。乗せてってもらえれば助かる」
 言って、叉反は窓の外を確かめる振りをしながら、蠍尾を振った。そうして、ミラーに映った太い毒針に運転手の目がいくのを、しっかりと確認した。


「……今、ナユタはそこらで検問をやってますよ。昼間のゴクマのせいで」
「知っているよ。だからまあ、実際にはナユタまで入る必要はない。検問を避けて、大回りして旧市街の手前で停めてくれ。そうしてくれたら、あとは知らん顔で帰っていい」
 言い終えて、眠るように目を閉じる。一種の賭けだが、他に方法が思いつかない。答えが出るまで、闇を見つめて待った。
 舌打ちともため息ともつかない声が、運転手の口から漏れた。キーが回され、エンジンがかかる。それでも運転手はブレーキを踏んだままだったが、やがてもう一度嘆息すると、車を動かし始めた。


 四十分後、叉反は旧市街にある工場のすぐ傍まで来ていた。旧市街にも警察の手は入っているだろうが、より警戒されているであろう新市街から戻るよりははるかにましだ。
 工場裏手のフェンスを乗り越え、旧市街に入る。まだ警官の姿はない。辺りに気を付けながら、昼間置き去りにした車のところまで戻った。
 叉反のミニバンは無事だった。中も外も何かされた形跡はない。
 妙だと思った。もう一度辺りを見回すが、人影はない。通りには誰の姿もない。
 例えば、これが相手方の手であるなら、この車は間違いなく囮だ。のこのこ出て来て車に近付いた叉反は、今まさにこの瞬間にでも、罠を張った者の手に落ちるだろう。それが警察であれ、ゴクマであれ、だ。
 だが、誰かが現れる気配はない。車も手付かずだったところ見ると、この辺りを捜査していた警官達は叉反の車を発見出来なかったのだろうか。そんなはずはない。確かに隠し場所には気をつかったが、あの時は急いでいたし、それに隈なく探せば見つかる場所だ。


 とすれば、あえて手を付けずにいたのか。今考えたような罠を張るために――……。
 考えても答えは出ない。叉反は車に乗り込んだ。仮に警察に見つかったとしても、車ならスピードが出せるし、最悪乗り捨てて逃走手段を変える事も出来る。
 エンジンをかける。ブラックのウィッシュXが唸りを上げた。
ひとまず向かうべきは新市街だ。気になる事があった。考えをまとめるために、ナユタ北駅の近くまで行く必要がある。
 慎重に車を走らせた。土曜の夕方になれば、都会のナユタは人で溢れ返る。雑踏の中で警官の目がいくつも光っている気がして、正直いい気分ではない。本来なら彼らとは仕事の範囲が違うし、追われるような事など決してやっていないのだが。
 ナユタ北駅からそれなりに遠い位置に、大きなデパートがある。叉反はそこの駐車場に入ると六階の空きスペースに車を停めた。無論買い物のために寄ったのではない。車から降りて外を見れば、北駅とそれに隣接するショッピングモール、さらに円形の細長いビルが見える。ランガムホテル《ナユタ》。イギリスにある有名ホテルのナユタ支店だ。この国ではナユタだけでなく、東京、京都にそれぞれ一店ずつ構えている。
 それら三つの建築物を見ながら、叉反は思考を回転させた。気になっているのは、ゴクマが今どこに潜伏しているのか、という事だった。


 これまでの道筋を思い出す。鈴木の携帯に入った留守電を聞いて、叉反が旧市街に着いたのが一時。そこから刀山会に連れ去られ、有礼の前に引きずり出される。その間の移動時間が、およそ三十分。有礼と会話し、深田からロッカーの事を聞き、再び車に乗せられて北駅に向かう。有礼は時間を破らなかっただろうから、駅にはほぼ間違いなく、三時に到着している。
 当然、ゴクマの連中――鍵の渡し役だったサラリーマン風の男と、レインコート――も、三時に到着していたのだ。急な取り決めだったにも拘わらず、時間通りに、計画書が隠されたロッカーの鍵を持って。
 電話の時に、深田は初めて計画書の場所を暴露した。ロッカーの鍵をどこに持っていたのかは不明だが、鍵まで自分の身から遠ざけていたというのも考えにくい。これまでの経歴上、ナユタは彼にとってそこまで馴染みのある街ではないし、そういう街で要の鍵は手放さないだろう。そして、ゴクマはその鍵を持って来た。二時間もなかったというのに。その事実が指し示す事は何か。


結論、ゴクマは深田と共にナユタにいる。昼間の中央街道での攻防戦の後、どうやったのかナユタ市内に戻ったのだ。そして二、三時間、深田を痛めつけた後で、有礼との取引に応じた。
 そこまで考えて、叉反はふと北駅に向かう途中で電話が震えていた事を思い出した。取り出して、着信履歴をチェックする。
 メールが一件に、電話着信が三件。メールのほうは、何と山本からだった。時間は三時丁度。文面は一言、『何しやがった』だ。別に何もしていない。仕事をしただけだ。
 着信履歴のほうは、全て依頼人の電話からだった。予想はしていた。昼間ニュースを見た後に電話してそれっきりだ。気にならないほうがおかしい。
 留守電も三件残っている。一件ずつ再生する。
『もしもし……。尾賀さんですか。今どうなっているんですか。連絡を下さい』
 女性の声が再生される。間違いなく、依頼人からだった。何かをしながらかけているのか、電話の奥で雑音が聞こえた。着信した時間は、二時三十八分だった。
 二件目を再生する。さっきよりも周りの音が聞こえる。車が走る音。人のざわめき。咄嗟に嫌な予感がした。
『尾賀さん。どうしても気になったので、今、りんを連れてホテルを出ました。ごめんなさい。連絡下さい』
「何だと!」


 思わず声に出してしまった。という事は、依頼人は今、ナユタ市内をうろついている事になる。危険だから出るなとあれほど言ったのに。
 昂ぶる気持ちを抑えつつ、着信時間を見る。二時五十五分。画面を操作して、三件目を再生する。時間は二時五十七分。伝言は短い。
『事務所に向かっています。着いたら連絡します』
 聞き終えた瞬間、携帯電話を叩き付けたい衝動に駆られた。どうする。どうすればいい。この足で、一度事務所に戻るか? 否、それで見つかればいいが、もしいなかった場合はどうする。それに、依頼人が泊っていた安ホテルから叉反の事務所までは一時間ほどだ。それで、何故四回目の連絡がない? 故意に電話をしていないならともかく、もし万が一、電話をかけられない状況に陥っていたとしたら――……。
 電話を操作して依頼人にかける。コール音は鳴らない。留守電にも繋がらず、圏外か電源が入っていないという音声が流れる。嫌な予感が、胸の中に広がっていく。


 気を鎮めろ。叉反は必死に自分に言い聞かせた。頭の血を下げて、まずは一つ、だ。一つずつ目の前の事を片付けなければならない。煙草を吸いたくなったが、駐車場内は禁煙だ。深呼吸を何度か繰り返して、気を落ち着かせる。
 少しは感情が冷えきた。深呼吸をしながら、一一〇をプッシュする。
『一一〇番です。事件ですか、事故――』
「探偵の尾賀叉反だ。深田慎二の妻、深田美恵子(みえこ)と娘の凜が行方不明だ。三時直前に電話があって以降連絡がない。深田慎二の一件で事件に巻き込まれた可能性がある。至急手配してくれ」
『待って下さい――』
 二度は言わない。電話を切った。
改めて、叉反は着信時間を確認する。二時三十八分、五十五分、五十七分。三十八分の時点で、車はまだ移動中だ。五十五分の時には、既に駅構内でロッカーを目指して歩いていた。五十七分の時、鍵を持つ男と接触した。
 やはり、ゴクマ側の行動が早い。電話での約束から一時間と少しで駅まで来ている。単純に考えれば、奴らの隠れ家はナユタ北駅から一時間以内、という事だろう。
 だが、さらにここで疑問が増える。


 レインコートの事だ。奴のようにあからさまな不審者が、一時間近くも街の中を移動出来るだろうか? 警察に一度あの姿を晒し、しかも今日の街道での騒ぎのせいで、ただでさえ警戒が強まっていたナユタの街の中を。
 無理だ。奴がいくら速く走れようと、あの姿を見咎められないのは考えにくい。
 レインコートは、叉反が鍵を手に入れたそのすぐ後、不意に現れて有礼の部下を殺してみせた。劇的な登場だが、舞台裏を考えるなら、叉反達のすぐ傍で襲いかかるタイミングを計っていたのだ。その潜伏時間も、決して長くはない。五分もあの姿でいて、怪しまれないわけはない。奴はおそらく、叉反が鍵を手に入れる直前に、あの場に乱入したのだろう。
 あくまでそうだと仮定して、ならばゴクマの隠れ家は、ナユタ北駅の直近にあるはずだ。
 ショッピングモールか、ホテル。駅のすぐ傍といえばその二つだ。隠れられそうなところが思い当たらないので、駅の中というのは候補から除外する。


 ショッピングモールせよホテルせよ、人の目から逃れられるのが第一だ。さらに長時間籠る事が出来て、怪しまれない場所。
 ホテルに部屋を取った。モールの倉庫に隠れた。――どちらも、駄目だ。倉庫はいずれ人の出入りがあるだろうし、ホテルの部屋で暴行したのなら誰かしら気付く。深田が大声を上げる可能性もある。物音そのものを遮断出来るような場所でないといけない。
 他の手がかりを考えて、叉反は有礼の事務所でかけた電話の事を思い出した。


 あの時、オープントークに設定された電話口からは、深田の声がはっきりと聞こえた。声だけが。マイクは他の音を拾わなかった。さっき聞いた依頼人からの電話では、周囲のざわめきが聞こえてきたというのに。
 叉反は遠くのショッピングモールとホテルを睨みつける。もし、深田があの二か所のうちどちらかに監禁されているとして、周囲の音が入らないような位置というのはどこだ。
 地下か、高所。高所ならば最上階かその近くの階。いずれにせよ極端な位置だ。そこなら人に気付かれず、周りの音も入らないかもしれない……。
 車に戻る。他に情報もない。ひとまず当たってみる事にした。
 細長い塔のようなランガムホテルに向けて、叉反は車を発進させた。西日がかなり眩しい。ナユタ市に日が沈もうとしている。
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