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『雨宿りの女』6

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「おい、いい加減に起きろ! 麻來鴉!」
 十文字の声に目を覚ました瞬間、麻來鴉は膝をついた。信じられない事だが、立ったまま眠っていたようだ。全身が汗で濡れている。現実を認識する暇もなく、襟首を掴まれ、強引に身を起こされる。
「立て! 跪いている場合じゃないぞ!」
 十文字の太い腕に引き摺られ、麻來鴉はソファの影に入る。
「何? 一体何なの?」
「何を言っているんだ。お前が自分で言ったんだぞ。助かる手段はこれしかないってな。おかげで、俺達は家に潰されずに済んだが……」


 ずり、ずるり、ずり。
 何か、重たい物を引き摺っているような音がする。
 不意に、麻來鴉の手の甲を、何かが這いずる感触がした。
 赤い、百足だ。
『入った入った入った入った入った入った入った入った入った』
 黒い靄の塊が、その中の大きな目玉が、ソファの影に入った二人を見下ろしていた。
「くそっ! 見つかちまったか!」
 麻來鴉は一瞬呆けた。何故こいつがここにいるのか。何だっけ――……。ああ、そうだ。確か家が潰される前に。
『入る入る入る入る入る入る入る入る入る入る入る』
 黒い目玉が近付いて来る。邪気の塊。精神を侵食するものが――


「そうか。解除したんだった、術」
「あ? おい、麻來鴉!」
 麻來鴉はおもむろに立ち上がり、靄の中の目玉を睨み付けた。
「さっきはイアーのルーンで地に帰したけど、それやるとまた家ごと潰されるから、ね――」
 言うや、麻來鴉は素早く目玉の前に指を走らせ、稲妻のようなルーンを描く。
「〝輝けシゲル〟」


 靄の体の表面に描かれた稲妻の如きルーンが爆発したような音ともに炸裂する。
「今度は帰さない。このまま消し飛ばしてやる」
 ぼっ、ぼっ、と、ガスが噴き出すかのように、大きな目玉の黒い靄が、削られた部分を修復していく。それだけではない。ドア隙間や、フローリングの下から、同じような黒い靄が噴き出し、二体、三体と目玉を一塊の怪異へ変じていく。
「ひー、ふー、みー……八つか」
 麻來鴉は首を回した。両手の指を絡めて少し曲げると、ぱきっと骨が鳴る。体が凝っている。
「まだちょっと寝ぼけているんだけど、急いでいるからね。パッパと行くよ」
 黒い靄たちが麻來鴉をせせら笑うように、その不定形の体を震わせる。次の瞬間、麻來鴉の体に入ろうと飛び掛かってきた靄の群れに麻來鴉は指先を走らせた。
照らしケン輝けシゲル勝利テュールの剣」
 宙に描かれた三つのルーンが輝き、光の剣となって猛然と迫る邪気の塊を一閃する。霧散した黒い靄たちは、しかし火口から湧いて出る雲のようにすぐさまその体を修復する。


浄められよベオーク
 すかさず麻來鴉は浄化のルーンを描いた。この家に溜められた相当量の邪気が形を成している。根っこ叩かねば。
「この家に施された悪しき術。過去を繰り返す災いの渦――……」
 黒々とした靄が伸ばす触手のような悪しき干渉を躱しつつ、麻來鴉はマントの内側からルーンが刻まれた石を取り出す。
 邪気がより濃い場所を探す――ワルツを踊る男女の人形を見る――男も、女も、その顔は人を嘲笑うかのように歪んでいる。あれは天使あいつの顔だ。
「踏み潰せ、スレイプニル!」
   エオーのルーン・ストーンを放り投げると、実体化した六本脚の馬が回転する人形を蹴り飛ばす。
 壁にぶつかった人形は胴体の半ばから砕け、陶器が割れる鈍い音を立てて転がる。
 その瞬間、けたたましい哄笑がリビングに響き渡った。


 砕け散った人形の胴体から溢れ出たのはドロドロとした黒い粘塊だ。
浄められよベオーク!」
 すかさず指を走らせ、浄化のルーンが粘塊に転写される。湯気を立て、粘塊は溶けるように消失する。
 リビングルームに蠢いていた黒い靄が、途端に制御を失ったかのように奇怪にくねりはじめた。一度、ある場所に溜まってしまった邪気は地に帰すか浄化しなければ消える事はない。呪詛として、永遠にその場所に残り続けてしまう。
「ちっ。まだ――」
「伏せてろ、麻來鴉!」
 ぬっと大男の影が立ち上がり、銀鎖ぎんさのロザリオを振り回す。片手には開いた聖書を持っている。
「〝Marcam chapter 5 verse 8〟!」


 叫びながら十文字が、天井高く何かを放り投げた。小瓶だ。白い粉が入っている。
「〝汚れた霊、この人から出て行け〟!」
十文字はロザリオを振り回し、十字架を落下する小瓶に叩き付けた。
 白い粉が霧散した。粉は、瞬く間に広がって、まるで吸いつくかのように部屋中の黒い靄を吸収していく。
「塩……?」
 決して強くはないが、部屋中に舞う塩の中に麻來鴉は霊力を感じ取った。浄化の念を込めた際に宿ったのだろう。無論、この塩を準備したのは――……
「はあ、はあ……」


 十文字は両手を膝につき、息を切らせていた。曲がりなりにも聖書と魔除けを使った術だ。正式に退魔屋としての修行をしていない十文字は、これだけでも相当体力を消耗するのだろう。
「やるじゃん。あんたの魔除け道具も」
「冗談じゃない……俺はあくまで霊能コンサルタントだ。悪霊祓いは本職に叶わない……」
「ただの邪気だよ。まあ、助かったけど」
 十文字が唱えたのは、かのレギオンを祓う際にイエスが言った言葉だ。マルコによる福音書第5章8節。大量の邪気を祓うなら、確かに効くだろう。
「十文字、今何時?」


 外の景色がさっきと違う。まだ真昼くらいのように見える。
「一時十五分。なあ、麻來鴉。まずは説明してくれ。一体何が起こっていたんだ。家が押し潰されそうになる直前、時刻が夕方だったのは覚えている。だが、気が付けば時間はまだ昼間で、俺達はリビングで呆然としていた。当然、家も潰れちゃいない。一体何がどうなっているんだ」
「これだよ」
 麻來鴉は床に散らばった陶器の人形の破片を手に取った。
「それは……?」
「こいつが天使様の術の媒介。自分が目にした体験や術を繰り返す。わたしのイアーのルーンや、異界で使ったベムブルの技を繰り返された」
「繰り返す?」


「気を失う前、泥が降ってきたでしょ。空にはイアーのルーンがあった。あれはわたしがこの家の敷地に入った時に使ったルーン。家を潰す時に見えた天使の幻影は『破砕しろ』と言った。これも、わたしが異界で奴と戦った時に言った言葉と同じ。あいつの主たる術はあくまで受け身で、事象を反射しているだけ」
「CDみたいなものか。記録して再生する?」
「完全な再生ではなく真似てるようなものだけどね。時間感覚が狂っているのは、わたしがこの家に入った事で天使様の術が発動したから、この家自体が現実から切り離されていたんだと思う」
 過去の事象をなぞる術の性質上、その圏内では時空が歪むのだろう。
「家が壊れていないのは?」
「あの時――家が潰されそうになった直前、この『事象を繰り返す』という術の仕組みに気付いわたしは、まず墓のルーンを解除したの」


「?」
 要領を得ないという顔をする十文字に、麻來鴉は続けて言った。
「つまり、『事象を繰り返す』という術の特性を利用したのよ。術の中の事象が『繰り返される』のなら、『術を解除する』という行動を起こせば、勝手にそれを真似て『家を潰す』という術を解除するんじゃないかなと思って」
『家を潰す』という事象の元は、麻來鴉のベムブルによる天使様を押し潰した時のものだ。麻來鴉の『術の解除』が反映されるなら、天使様の術も解除されるであろう。一種の賭けだった。
「なるほど……。ともあれ、能見さんの魂は攫われたままだ。青梅の墓地に行かないといけないが……奴に勝てるのか、麻來鴉」
「勝つか負けるかで考えていたら勝負にならない。そういう相手よ」
「どういう意味だ?」
「真っ当な戦いにはならないってこと」


 能見惣一は台所の影に隠されていた。肉体は生きているが、衰弱している。エオとシゲルの指輪は手に握ったままだったので、それを左右の指に嵌めておく。
 時間がない。策はある。だがあともう一押し欲しい。
「十文字、ちょっと手伝ってくれる?」
 昼の日差しが強い。穏やかな空気とは対照的に、この家には未だ天使が残した湿っぽい怖気が残っている。
「それと、あなたにも……」
 麻來鴉は後ろを振り返る。
 リビングに、うっすらと女性の両足が見える。



 時計の針が二時を少し過ぎた頃、車は目的地の墓地がある寺に到着した。
 立ち並ぶ墓石に降り注ぐ日差しが少し暑い。だが太陽の温度が、今、麻來鴉が存在するこの場所が、間違いなく現世の、現実の場所である事を証明している。
 能見晶子は、墓の前に座り込んでスマートフォンを弄っていた。麻來鴉たちの接近に気付くと、スマートフォンをポケットに仕舞い、億劫そうに立ち上がる。
 その両目は、赤銅色に染まっている。
「まさか、待っててくれた?」
 麻來鴉の挑発混じりの言葉に、晶子の眉根がぴくりと動く。
「天使様が言ったんだよ。ここで待ち構えていて、お前らをまとめて殺そうってさ。こんなに時間がかかるとは思っていなかったけどね。死ななかったんだ、あの家で」


「はっ、若い娘っていつもそうよね。強い言葉使ってりゃ自分が強くなったと思ってる。天使様頼りの小娘がイキってんじゃねえっての!」
 赤い目の晶子が鬼の形相になるのを見て、麻來鴉はにやりと笑った。
「十文字、下がっていて。能見さんを頼んだよ」
「ああ。そっちは任せるぞ、麻來鴉」
 能見を背負った十文字があとずさる。
 晶子の背後が揺らめき、どろりとしたコールタールが空中から流れ出す。灰色の天使が姿を現した。さっきまでと少し違うのは、両翼あったはずの象形文字のような翼が、今は片方しかない。
「やっぱり。あの家の術はあんたの力の一部を置いていたのね。術が破られれば、当然その損失はあんた自身に返る」


 力が弱まっているはずの天使は、それでもやはりあの嘲るような笑顔を繰り返すだけだった。
「天使様は余裕だって言ってるよ。お前がどんな手品を用意しようと無駄なんだよ、このクソ魔女!!」
「あーあーなんて汚い言葉なんでしょ、この娘ったら」
 言いながら、麻來鴉は懐からルーン・ストーンを取り出し、
「お父さんに叱ってもらわなくちゃ、ね?」
「天使様ッ!! ブチ殺して!!」
 ゆらりと天使の影が動く。


「ブ地子ロ死て挙ゲ――」
「あげられないから。あんたの好き勝手もここまでだよ、天使様」
 地面に放り投げた平べったいルーン・ストーンが軽く回転し、
 ――その上に、一匹のアマガエルがぴょこんと飛び乗る。
「……カエル?」
 その少女の声は、正真正銘の驚きか。
「〝ラグ〟」
 ぱちんと、麻來鴉が指を鳴らし、
「――ゲコ」
 アマガエルが、一声鳴く。
 その瞬間、ぽつりと、雨雫が石畳を濡らした。

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