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『翼とヒナゲシと赤き心臓』8

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 ライムントの顔に笑みが浮かんだ。レベッカは、その笑いが彼の上機嫌を示している事を知っていた。うまくいったのだ。およそ、望んだ結果を得られた時に彼が浮かべる、かつては魅力的にさえ見えていた微笑。
「手術は成功だったようだね、レベッカ君」
 モニターの中で死闘を繰り広げる探偵を横目に、ライムントは言った。
銃口は、未だ彼の額に向けられている。だが、結局そんな事は意にも解さない。この男は、そういう男だ。
「成功させなければ、彼は死んでいました」
 銃を向けてはいるものの、レベッカは内心、震えを押さえるので精一杯だった。ひとたび引き金を引けば、この《小火竜》がターゲット目がけて電撃を放つ。およそ落雷に等しい電撃を浴びせられれば、普通の人間に耐えられるわけがない。


 だからこそ、手が震えてしまう。元より殺す気はない。だが、人に凶器を向けるというのは、これほどまでに恐ろしいものなのか。
「鳶の彼の居場所を教えてもらいましょう、ライムント博士。それと、全通路に使えるマスターキーを」
「本当に逃げられると思っているのか? これだけの施設を後にして」
「貴方の研究に付き合うのもこれで終わりです。組織の事もモンストロの事も、一切公表させてもらいます」
「出来ると思うのかね? 組織の手はどこまでも及んでいる。一個人が抵抗したところでどうにもならないのは、君だってわかっているだろう?」
 胸の裡が煮えくり返る。ライムントの言っている事は事実だ。一度レベッカが逃げられた事でさえ、彼らの掌で踊っただけに過ぎないかもしれない。その全容はわからなくても、彼らがこの社会の中枢に根付いているのはわかる。そういう連中だ。組織……《結社》は。


「結局、君はここにいるのが一番安全というわけだ。君の才能を一番引き出せるのは我々だし、組織に協力する限り、君が脅かされる心配はない。何より、君は楽しんでいたんじゃないのか? 人を超越した存在を生み出す事を」
「……私がしたかったのは怪物を造る事じゃない」
 生まれながら怪物と呼ばれてしまう者を、本物の怪物にしていいわけがない。
「これ以上言い合いをするつもりもない。さあ、言った通りにして下さい。この引き金は軽いんです」
「君に引けるとは思えんよ。私から何かを聞き出したいのなら、第一に撃つべきだった」
 ライムントの蛇が、ゆらりと動く。反射的にレベッカは銃口をそちらに向けた。
 ブザーの音が部屋中に鳴り響いたのは、その時だった。
「何を!?」
「銃を向けられたのだ。緊急事態につき、警備の者を呼んだ」


 コーヒーカップに口をつけ、顔をしかめてライムントはそれをソーサーに戻す。それから、懐からカードキーを取り出して、テーブルの上に置いた。承認が必要な扉を全て開ける事が出来るマスターキーだ。
「行くのなら行きたまえ。君がどこまで逃げられるのか、やってみるといい」
「私が逃げ切れないと?」
「恐らく君は捕まるだろうね。組織にではなく、自分の心に」
「何が言いたいんです」
「己を知れという事さ」
 ライムントはそう言うと、これ以上は語らないとでも言うふうに目を閉じた。
 業腹だが、今は構っている暇はない。レベッカは仁に目で合図し、マスターキーを掴むとドアに向かって走る。
「せいぜい神の子を大事にする事だ。また会おう、レベッカ・シャーレイ。そして明槻仁」
 ライムントの戯言を聞き流して、レベッカは仁を連れて部屋を出た。



 警報がそこら中で鳴り響いている。警備の者達の足音が聞こえる。だが、マスターキーの存在が大きかった。緊急事態につき施錠された扉ですら開く事が出来る。裏口を使い、非常階段を降りた。探偵達が戦っているのは、地下二階にある大ホールだ。手術を行ったのは地下一階、通常通り被験者を移動させたのなら、同じく地下一階の一画に運んだはずだ。
「どこに行くの?」
 仁が言った。暗い階段を降りながら、レベッカは答えた。
「ひとまず鳶の彼を探す。モンストロの効果は一度切れている頃だから、今のうちに運び出さないと」
「……どうやってさ。僕もお姉さんも、男の人を抱えられるような体力はないと思うけど」
 意外に冷静で、現実的な事を言う。一回りも年下の子供が落ち着き払った言動をしている事に、レベッカは改めて、自分が浮足立っている事を自覚する。
 冷静にならなければ。落ち着いて、判断を下さなければ。何より、彼らをこの状況に巻き込んだのは、他ならぬ自分なのだから。


「この先の保管庫にモンストロの調整剤がある。それを使えば、万全とは言えないまでも、彼の体調を戻す事が出来る。あと、地下一階には地上出口まで通じる、搬送用のエレベーターがあるの。そこまで運べば、外までは一直線で行ける」
「叉反はどうするんだよ。置いて行く気?」
「貴方は鳶の彼と一緒にそのエレベーターで脱出して。貴方達がエレベーターまで乗り込んだら、私は探偵の救出に向かう」
「僕とあの人だけで逃げろって?」
「他の連中は私が引き付けておく。出口はエレベーターを降りてすぐだから」
 レベッカは言って、仁の手に握られた小火竜を指した。


「それは最後の手段として持っておいて。足辺りを狙えば、大怪我をさせずに済むから」
「嫌な事言うなあ……」
 掌より少し大きいくらいの電撃銃を見て、仁は眉を顰める。
「……本当に、申し訳ないと思っている。貴方達を巻き込んでしまって」
 状況を考えるなら、歩みを止めている場合ではない。だが、レベッカは少年に頭を下げた。今は、これくらいしか出来ない。
 困惑気味に少年は返答する。
「うーん……。まあ、気にしないでいいよって言ったら嘘だけどさ、今、そんな事言っても仕方ないんじゃない? 詳しい話はあとで聞くしかないよ」
「そう……ね」


 ともすれば冷たいような物言いだ。だが、少年の言葉には希望があった。レベッカの『話』を聞くためには、ここを脱出するしかないのだ。彼には、その意思がある。
「でも、これだけは聞かせて。探偵はあのままで大丈夫なの? 一体叉反に何をしたの?」
 自分を見つめる少年の瞳が痛い。
「……順を追って説明するわ」
 誠実に、しかし言葉を選ぶ必要がある。
「この組織が出来るずっと前の事、組織の中核となるメンバーは、秘境と呼ばれる場所である物を発見したの。電流を伴う緑の液体と、その中で白い物体が蠢く謎の泉。調べるうちに彼らはそれが、この地球上ではそれまで確認されていなかった形態の生命だという事を突き止めた。豊富な栄養素を含む液体の中で暮らす、『生きる』という活動そのものが体を得たかのような生命体。彼らはその発見を喜び、早速サンプルを採取して研究を始めた」


 歩みを再開しながら、レベッカはそこで一旦言葉を切った。仁は黙って話を聞いている。
「研究を進み、ほどなくして彼らは動物実験に移った。緑の液体をラットに摂取させる事から始め……それから、液体の中の生命もラットに摂取させた」
 レベッカは直接その実験を見たわけではない。全ては、実験を執り行った当人から聞いた事だ。あの男から。
「ラットは変化を起こした。急速に成長し、肉体も知能も我々が知るラットとは異なるものになった。ラットは自らの身体を自在にコントロールするに至り、人間さえも超えた、新たな肉体を得た。彼らはその現象を《超越イクシード》と呼び、そして現象を引き起こした生命体に名前を付けた。一個の生命を怪物じみた存在に変化させる生命体――《モンストロ》と」
 そう、あの男が名付けたのだ。あの規格外の頭脳を持つ、ドクター・ライムントが。


「人類が次のステージに行くため、だっけ。……ねえ、どうしてお姉さんは、あんな奴等に協力していたの?」
 仁は、結局核心を突いた。レベッカの胸中に苦い物が浮かぶ。
 しかし、答えないわけにはいかない。
「騙された、と言えば言い訳になるわ。でも、私が研究に加わった時、彼らはこの世から回帰症を失くすためと言ったのよ」
「回帰症を?」
「ええ。モンストロの効能を持ってすれば、確かに人体のフュージョナー因子をコントロール出来る。私はその研究に期待したの。……過剰なほどに」
「……お姉さん?」
 レベッカは頭を振った。地下一階フロアへの階段が見えていた。
「……続きはここを出てからにしましょう。まずは鳶の彼を助けないと」



 依然として、警報は鳴り止まない。だが、地下一階フロアには、人の気配がなかった。
 マスターキーを使って保管庫のドアを開ける。厳重な自動扉がゆっくりと開いていく。左手側には、アンプルに入った各種薬品が低温保存された棚がある。右手には研究資料の棚だ。
必要な物は二つあった。調整剤と、そして、もう一つ。レベッカは資料棚の奥を探る。書類を乱暴にならない程度に放り出し、棚を動かす。
「な、何やってんの?」
仁の疑問には答えず、レベッカは壁を指でなぞりながら調べを続けた。ここに連れてこられた時に取り上げられた物が、この保管庫にあるはずだ。


 ほどなくして、レベッカは壁の中に目を凝らさなければわからないほど細い、直線の切れ目を見つけた。
 隠し棚だ。さらに壁を探ると、ある一点で壁の一部に光が灯った。光に触れると、たちまち電子光のテンキーが浮かび上がってくる。暗号式だ。ここに物を入れられるのも、取り出せるのも限られた者だけらしい。
 誰がこの機能を知っているか、を考えれば、自ずと答えは浮かんでくる。この施設で最も権限を持っている、あの男の事を。
 研究において使用していた、原液の加工に関わる重要な数値を思い出し、一つ一つ入力していく。最後の一つを打ち終わると、キーの下に細く小さな横穴が空いた。マスターキーを差し込み、壁の中の機械に読み取らせる。
 どうやら一回目で正解のようだった。切れ目から壁がスライドしていき、隠し棚の中身が見えてくる。
角ばったジェラルミンケース。取り出し蓋を開け、目当ての中身が入っている事を確認する。
「何それ?」


 後ろから、仁が覗き込んできた。
「切り札よ」
 レベッカは言って、ケースの蓋を閉じた。あとは薬だ。アンプルが並んだ棚へと足を向ける。
 黄緑の薬品のアンプルと滅菌された注射器を手に取る。鳶の男と、そして探偵に使う分を。回収した道具を、レベッカは白衣から取り出した持ち運び用のケースに仕舞う。
次は、鳶の男を探さなければ……。
「お姉さん!」
 仁の声に振り返った時、レベッカは自分の迂闊さを呪った。同時に、手は素早く電撃銃を構えていた。
「……よし。お前達、そこまでだ。銃を下せ。勝ち目はねえぞ」
 コンビニにいた二人組の片割れ、痩身の男が、入り口に立っていた。ショットガンの銃口をこちらに向けている。レミントンM870。昔、父の職場にあった銃だ。


 問題は一つだった。男とレベッカの間、二人の射線がぶつかり合う間に、仁がいる。
「レベッカ・アンダーソン。お前が銃を下せば、俺もそうしよう。ガキを殺したいわけじゃないだろう。言う通りにすれば、身の安全だけは保証してやる」
「信じられるわけがない。仁、こっちに来て」
「おっと、動くなよガキ。てめえが動いた瞬間に俺は撃つ。この距離なら二人まとめて死ぬぞ」
 仁の顔が強張った。幸いな事に、彼が持つ電撃銃は体の影に隠れて、男からはぎりぎり見えていないらしい。
「結局撃っちゃうんだ。どういう命令されてんのさ?」
「抵抗するなら殺せ、だ。ガキ、てめえも死にたくないんだったら、大人しくしてろ」
「殺すとか死ぬとか、いい歳して恥ずかしくないわけ?」
「仁、やめなさい!」


 男の顔色が変わっていた。血の気が引いた顔で、銃口が少年へと向けられる。
「ガキ、一つ教えといてやる。俺達ゃな、もう人殺しなんて何とも思っちゃいないんだよ!」
「仁!!」
 反射的にレベッカは飛び出していた。引き金を引くより、彼の体を射線からずらせれば、あるいは――
 しかし、銃声は聞こえてはこなかった。代わりにしたのは、痩身の男の呻き声だ。男の体が崩れ落ちる。その後ろに、誰かが立っている。荒い息遣いが聞こえた。
「無事か……あんたら」
 息の切れ間から、その男が言った。
「おじさん……」
 鳶の男が、苦しげに息を漏らす。変身は解け、元の姿へと戻っている。よろよろとした足取りで、男はレベッカ達の元へ歩み寄る。


「なあ……薬か何かないのか……。体が、さっきから破裂しそうなんだ」
「わかってる。これを使って」
 取り出したばかりのアンプルをへし折り、薬液を注射器に吸わせる。男の腕の血管を探り、薬液を注射する。
 男が奥歯を噛みしめた。
「おじさん、大丈夫?」
「……トビだ」
「え?」
「トビと呼べ。まだおじさんって歳じゃない」
 男――トビの発汗がひどい。安定剤を注射したものの、効き目があるかどうか……。


「! どけ、お前ら!」
 トビが叫んだ。その瞬間に銃声が響いた。
 トビの腹部から、瞬く間に血が溢れ出した。
 ポンプ・アクションの音がする。痩身の男が、次の弾を装填した。
「クソフュージョナーどもが。てめえらまとめて地獄に送ってやる……ッ!」
 右手が瞬時に動いた。ポケットに入れた電撃銃を抜きざま引き金を引く。〝小火竜〟が火を吹いた。音もなく迸る電撃が男の体に直撃する。
「あ、あああああああああッ!?」
 神経伝達を一瞬阻害し、相手を行動不能にして制する。護身のために父が作った、小さな竜。
 今度こそ、男は倒れた。着ていた白衣を脱ぎ、急いでトビの傷を止血する。彼の体には固形化したモンストロが入っている。動作すれば自己治癒するはずだが、その気配はない。
 足音が聞こえる。かなり早い。追手が来ている。
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