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Lunaphobia【月に追いかけられる!】
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プラントがシルクのような水蒸気を吹きあげている。
作業灯の白い光芒が散らばり、建物全体が緑色にライトアップされて混然一体となったコンビナート施設は、夜になると夢のようなきらめきを放射していた。庶民が寝静まる時間帯でも不夜城よろしく稼働していた。
無数のガスタンクが林立し、赤白の縞模様の煙突が天に長い指をさし、むき出しのパイプが葛のように絡みあってそびえる高さまで挑んでいた。
無機質でカオスでありながら、なぜかアートに達するほど調和のとれた眺めだった。
プラントへつながる橋の真下で、融は己が肩を抱いて怯えていた。
冬用作業着をとおして、冷気よりも凍てついた戦慄のすき間風がしみこんでくる。
厚い雲間からいましも月が姿を現そうとしていたからだ。
黒い雲が一瞬とぎれ、白々とした満月が顔をのぞかせた。融はコウモリみたいな悲鳴をあげた。
月だ。恐るべき均整のとれた円周の天体。
地球唯一の伴侶である衛星にして、まごうことなき恐怖のシンボル。
そのぽっかり浮かんだ月が、突如、海に落下しはじめたから度肝を抜かされた。
自由落下だ。初速はゆるやかだったが、しだいに加速度がまし、烈しく海面にぶつかって盛大な飛沫をあげた。しばらく海面をほの白い燐光で染めたままだったが、やがて沈んでいった。
……ように見えた。すぐに海上に浮きあがり、月の表側を向けて、こちらに弾んできた。
ポーンポーンと石切りみたいに海上をバウンドしながらこちらに迫りくる。巨大な満月が。遠近法からしてありえない。ナンセンスの極みだ。
融は悲鳴を押し殺し逃げた。月はいかんせん鈍重すぎた。必死に全力疾走すれば逃げきれそうな気がした。
プラントを目指して逃げた。
あの巨大なジャングルジムを隠れ蓑にすれば、追跡をふりきれるかもしれないし、月じたい巨大な天体なのだ。さすがに内部に侵入することはできやしまい。
もう少しで逃げおおせる、と思って背後をふり返ると、月はずいぶん小さく平面となり、フリスビーみたいに曲線を描きながらこちらに向かってきた。
まるでエンジンカッターの刃のように高速回転しながら追いすがる。あれに追いつかれたら、それこそ人体などたやすく一刀両断されてしまうだろう。冗談じゃない!
融は転がる勢いで近くのプラント内部に入った。なかは暗い。窓から外が見えた。
運動会の大玉転がしのサイズになった月が窓の向こうをふらふらと漂いながら偵察しているのが見えた。
右から左へ平行移動していく。融を捜しているつもりなのだろう。まるで意思をもった生き物だ。
融は壁に背中を押しつけ、息を殺し、闇に溶け込もうとつとめた。心臓がドラムのような高速ビートを刻み、歯が陽気なカスタネットよろしくカタカタと打ち鳴らされる。
闇のなかで、融のやけに白い眼だけがまばたきもせず屋外をにらんだ。
月はゆっくりと、青白い光を照射しながら移動していった。融はそのサーチライトを頭をひっこめてかわした。見つかれば、ただちに内部になだれこんでくるだろう。前科一犯をくらうだけでは済まない。もっと残虐な仕打ちが待っているにちがいない。
なんでいつもこんなふうになるんだろう……。融はかたく眼をつぶり、歯を食いしばって悪罵を吐いた。
クソッ!
いつもそうだ。万人が見てもなんとも思わない満月を極度に怯え、怯えが嵩じて、その月が肉食獣のように襲ってくるのだ。
幻覚や妄想なんかじゃない。あの巨大な物体は形を変えつつも、れっきとした人を死に追いやる刺客なのだ。少なくともおれにはそう見える。身内に相談したことがあるが、一笑に付されてしまって以来、誰にも話したことがない。
よく晴れた満月の夜は命がけなのだ。
満月はどうしてああも、怖気をふるうような形をしているのだろうか。
あの完璧なまでの円周はなんだ。少なくとも地球上の自然界には存在しない異質の存在じゃないか。
したがって宇宙とは戦慄の空間だ。まかりまちがって月旅行への抽選が当選したとしても願い下げだ。誰が月なんかに近づくものか。宇宙飛行士になるべくNASAへ挑戦しようっていう人間の気が知れない。
せめての救いは、新月のときが心休まるだけだ。
これが日をおうごとに弦月となり、徐々に円形になるにつれ、見つめていると、うなじの毛がハリネズミのように逆立つ思いにさせられる。
完全な満月になるともうダメだ。直視は耐えられない。脳みそが沸騰し、気も触れんばかりになる。
満月のそこかしこに開いたクレーターが禍々しい眼に見えた。とりわけ月面南部に見えるティコと呼ばれる巨大クレーターは生理的に訴えかけてくるものがあった。
アーサー・C・クラーク原作、スタンリー・キューブリック監督の映画『二〇〇一年宇宙の旅』では、モノリスが埋められたとされる直径八十五キロメートルもの円形窪地のことで、一五〇〇キロメートルにおよぶ放射状に走った光条までもが強烈すぎた。
まるであの窪地から、眼球が現れるのではないかと、いらぬ妄想がこみあげてくる。
融は闇のなかで身体をまるめたまま月をやりすごした。奴はあさっての方向へ行ってしまったらしく、すっかり青白い燐光も見えなくなった。
鉄の構造物から外に出てみた。
プラントから吐き出された蒸気で、あたかも雲海を泳いでいるかのようだ。
周囲を見わたした。あれの姿は見えない。上を仰いでみたが、夜空のもといた場所におさまっているわけでもない。いずれにしろ、まいたようだ。
とてもこんな心理状態で職場に復帰する気にはなれそうもない。バックれることにした。
どうせ夕勤の就業間近で、次の交代勤務者と引き継ぎの時間帯に飛びだしてきたのだ。融一人消えたところで、大所帯の工場では不審に思う人間は、ほとんどいやしない。
内地につながる橋を渡ろうとしたときだった。
満月はごう、と音をたてて中空に浮かんだ。あいつは橋脚の下に隠れていたのだ。さっきと同じ、大玉転がしの大きさだ。
待ち伏せだ、と思ったのもつかの間、あいつは猛然と迫ってきた。
融は回れ右をすると、悪態をつきながら走って逃げた。
クソックソックソッ!
やっぱり出し抜くことはできない。奴は狡猾な知能をもってやがる。
建物と建物のあいだを走り抜けた。
プラントが白い吐息をもらし、海風が死者を偲ぶ口笛を吹き、どこかでスパナを放り投げて床に当たったような甲高い音がこだました。そんな天然のインダストリアル・ノイズが乱舞するさなかを融は走りに走った。
月がジグザグに揺れながら追いすがる。まるでもてあそぶかのように、わざとゆっくりと迫りくる。本気を出せば、ものの一秒であの世送りにすることができるにちがいない。
そもそも月はおれをどうするつもりなのか?
月に接触されることによって、融を吹っ飛ばし、殺すつもりなんだろうか? それもたやすいだろう。ぶつかれば背骨なんか豆腐を砕くように、いとも簡単にひしゃぐことができるにちがいない。
それとも、瞬間的に人体を氷づけにしてしまうのか? 月の表面温度は赤道付近で昼は一一〇度の熱砂地獄にして、夜ともなればマイナス一七〇度もの超極寒。温度差は桁ちがいだ。
はては、満月がバクリと大口を開け――内側にはビッシリと三角形の牙がならんでいるに決まっている――、融の肉体を食いちぎり、噛み砕き、飲み干すとでも?
わからない。
しかしながら、本能的にわかることはひとつだけある。
追いつかれることは死を意味するのだ。つかまってはならない。つまり、逃げるしかない。
入り組んだプラントの狭い回廊に転がり込んだ。できるだけ、あの生ける大玉転がしが入り込めないスペースに逃げるんだ。
パイプの梁をかいくぐり、鉄の暗渠に身体をすべり込ませた。足もとに得体の知れない汚染水が流れているが、おかまいなしに進んだ。
うしろをふり向いた。
立ち往生していた月が、またぞろ平面へと化ける、まさにその瞬間を見た。
そして高速回転しはじめた。エネルギーをたくわえているのがわかる。そら、エンジンカッターのおでましだぞ!
地面に接すると盛大に金色の火花をまき散らし、暗渠を転がってきた。
融は悲鳴をあげた。
月の変幻自在ぶりに、もはや打つ手はないのか……。
いっそのことあいつに切り刻まれて楽になりたいとすら、自虐的に思えてくる。一瞬でこの世から決別できるだろう。しんどい三交代の仕事から解放されるというものだ。
だが身体が反応していた。
手近なパイプにつかまると、上によじ登った。四メートルほど真上にプラントからプラントにつながる歩道橋が見えたのだ。あそこにもぐり込めば、活路が見いだせるかもしれない。
円盤が迫ってきた。
融はパイプにしがみつき、できるかぎり身体をもちあげて縮こめた。
すんでのところで高速カッターをかわした。月は唸りをあげて通りすぎた。北朝鮮のミサイルみたいに物騒な奴め……。
あいつはサディストだ。また戻ってくるまえに逃げなくては。
融は全身全霊の力で身体をひっぱりあげた。
懸垂し、歩道橋に足をかけ、よじ登った。月が反転してきたのはほぼ同時だった。
反対側のプラント内に飛びこんで、鉄扉を閉め、閂をかけた。しゃがみ込んで扉にもたれ、背中で息をした。
どうしてこんな目にあわなきゃいけないんだ……。
うかうかしていられない。鉄扉の向こうで鉄材をダイヤモンド・ブレードで烈しく研磨する、けたたましいメロディが聞こえてきた。あいつはすぐさま歩道橋まであがり、文字通りエンジンカッターで扉を破ろうとしているのだ。
いかなカッターをもってして、厚さ一.二ミリを誇る防火戸はおいそれとは断ち切れまい。わずかではあるが時間は稼げるはずだ。
思えば、おれは満月に監視されて生きてきた。
なぜおれが選ばれなければならなかったのか、わからない。
子供のころからだ。満月が怖くて怖くてしかたないと思ったのは。
遊びから帰宅するのが遅くなったのがはじまりだった。まるで責めるかのように、満月が帰途の融を追いかけてきたのだ。
そう、まるで母の代理のように、なじるような眼差しを向けて……。
それにしても、月。
世間一般では中秋の名月の夜に供え物をし、月を愛でるのが習わしだ。月を眼にし、髪の毛が逆立つ人間などめったにいるまい。
その月だが、メルヘンチックなことに古来から月でウサギが餅つきをしていると信じられてきたものだ。
これは昔、中国から入ってきた説話からきているといわれている。
古代中国では、玉兎、月兎などと呼ばれ、月のウサギは杵を持って、不老不死の薬をついていると考えられていたという。
これが日本に伝播されると、餅をつく姿に変化したとされている。というのも、日本における満月を表す言葉の『望月』が転じて『餅つき』になったとか。ほかにも『老人のために餅つきをしている』だの、『ウサギが食べ物に困らないように』という諸説もある。
また、インドのジャータカ神話によれば、こんな仏教説話も伝えられている。
山中にてサル、キツネ、ウサギの三匹が、みすぼらしい老人が腹をすかせて倒れているのを見つけた。三匹は老人を助けるようと、サルは木の実を集め、キツネは魚を捕って、老人にあたえた。しかし非力なウサギだけはなにも得ることができない。
己の非力さを嘆くウサギ。老人を助けたい一心で、火を焚き、自身の肉を食べさせようと、火中へ飛びこんだ。
その自己犠牲に心打たれた老人は、じつは帝釈天の化身であったことを明かし、この捨て身の精神を後世まで伝えるため、ウサギを月へと昇らせた。月面に見えるウサギの姿をとり囲むような煙状の影は、ウサギ自らの身を焼いたときの煙だとされている。
融にはそんなファンタジーは通用しない。いかさまだ、月を肯定的に祭りあげるための詭弁だと思う。とても月はそんなふうには見えない。
むしろ、月面の織りなす黒い紋様は、母体の子宮内で成長途上にある逆さになった胚胎に見えてしかたがないのだ。
月の表面は上が北、下が南になっており、子午線通過したときの地形模様だ。白い部分はクレーターで構成された高地で、反対に黒っぽい部分は『海』と呼ばれる低地。そこは巨大な隕石がぶつかったあとのクレーターで、地下から玄武岩質のマグマが吹き出してクレーター内部を埋めてしまったとされている。
月の左下の黒い斑模様――『湿りの海』、『雲の海』――が逆さになった胎児の頭にあたり、『雨の海』が丸まった胴体で、『静かの海』から『豊穣の海』にかけてが縮こまった脚にあたるように見えてしまう。
そう、まさしく月に刻まれた水子にほかならない。なぜかあいつは、おれを恨んでいるんだ……。
休憩は終わりだ。そろそろ行かないと。
二階から下に階段をおりた。資材倉庫らしい。融がはじめて足を踏み入れたエリアだった。ここで契約社員として働きだしてから三年の一兵卒にすぎない融は、すべてのプラントをめぐったわけではないのだ。
助けを呼ぼうと誰かいやしないか、まわりを探したが、クソッ、こんなときにかぎって人っ子一人いやしない!
一階につくと、退路を確認した。
資材を搬入するシャッター開きの出入り口がある。右手にスイッチ。融は押してシャッターをあげた。かろうじてくぐれるほどの高さまでになると、スイッチをとめ、もぐり込んだ。
数台のフォークリフトが整然と停まっているエリアに入った。背をかがめ、そそくさと進んだ。背後でバタンと、鉄塊が倒れる音がした。奴め、もう扉を切断したらしい。
グズグズしていられないぞ!
リフト置き場をすぎ、トラック搬入口まできた。納骨堂みたいにうすら寒く、どんよりと暗かった。
すぐに一階のシャッターを断ち切った白い円盤が追ってきた。
どうやら月はおれを逃がしてくれる気はさらさらないらしい。もはやケツまくって、対決するしかないのか――。
満月がもとの球形へと姿をかえ、ずい、と近づいてきた。のしかかるようにそれは大きくなった。
白い燐光が輝き、明滅をくり返した。
月面南部にあいたティコの円形窪地に亀裂が入った。
音もなく割れて、なにかがむき出しになった。
やっぱりだ……。人間の片目が現れたではないか。
まばたきもせず、ぎろりと見開かれたまま、融を非難するかのように見つめた。白目の部分には血走った毛細血管まで見えた。
黒目が融を見おろし、まさぐるように融を求め、とらえると、なじるかのように射抜いた。
夜空に向かって融の断末魔の絶叫があがったが、おびただしいプラントががなり立てる音響にかき消された。
了
うんこ、ブリ~~~~~ッ!
作業灯の白い光芒が散らばり、建物全体が緑色にライトアップされて混然一体となったコンビナート施設は、夜になると夢のようなきらめきを放射していた。庶民が寝静まる時間帯でも不夜城よろしく稼働していた。
無数のガスタンクが林立し、赤白の縞模様の煙突が天に長い指をさし、むき出しのパイプが葛のように絡みあってそびえる高さまで挑んでいた。
無機質でカオスでありながら、なぜかアートに達するほど調和のとれた眺めだった。
プラントへつながる橋の真下で、融は己が肩を抱いて怯えていた。
冬用作業着をとおして、冷気よりも凍てついた戦慄のすき間風がしみこんでくる。
厚い雲間からいましも月が姿を現そうとしていたからだ。
黒い雲が一瞬とぎれ、白々とした満月が顔をのぞかせた。融はコウモリみたいな悲鳴をあげた。
月だ。恐るべき均整のとれた円周の天体。
地球唯一の伴侶である衛星にして、まごうことなき恐怖のシンボル。
そのぽっかり浮かんだ月が、突如、海に落下しはじめたから度肝を抜かされた。
自由落下だ。初速はゆるやかだったが、しだいに加速度がまし、烈しく海面にぶつかって盛大な飛沫をあげた。しばらく海面をほの白い燐光で染めたままだったが、やがて沈んでいった。
……ように見えた。すぐに海上に浮きあがり、月の表側を向けて、こちらに弾んできた。
ポーンポーンと石切りみたいに海上をバウンドしながらこちらに迫りくる。巨大な満月が。遠近法からしてありえない。ナンセンスの極みだ。
融は悲鳴を押し殺し逃げた。月はいかんせん鈍重すぎた。必死に全力疾走すれば逃げきれそうな気がした。
プラントを目指して逃げた。
あの巨大なジャングルジムを隠れ蓑にすれば、追跡をふりきれるかもしれないし、月じたい巨大な天体なのだ。さすがに内部に侵入することはできやしまい。
もう少しで逃げおおせる、と思って背後をふり返ると、月はずいぶん小さく平面となり、フリスビーみたいに曲線を描きながらこちらに向かってきた。
まるでエンジンカッターの刃のように高速回転しながら追いすがる。あれに追いつかれたら、それこそ人体などたやすく一刀両断されてしまうだろう。冗談じゃない!
融は転がる勢いで近くのプラント内部に入った。なかは暗い。窓から外が見えた。
運動会の大玉転がしのサイズになった月が窓の向こうをふらふらと漂いながら偵察しているのが見えた。
右から左へ平行移動していく。融を捜しているつもりなのだろう。まるで意思をもった生き物だ。
融は壁に背中を押しつけ、息を殺し、闇に溶け込もうとつとめた。心臓がドラムのような高速ビートを刻み、歯が陽気なカスタネットよろしくカタカタと打ち鳴らされる。
闇のなかで、融のやけに白い眼だけがまばたきもせず屋外をにらんだ。
月はゆっくりと、青白い光を照射しながら移動していった。融はそのサーチライトを頭をひっこめてかわした。見つかれば、ただちに内部になだれこんでくるだろう。前科一犯をくらうだけでは済まない。もっと残虐な仕打ちが待っているにちがいない。
なんでいつもこんなふうになるんだろう……。融はかたく眼をつぶり、歯を食いしばって悪罵を吐いた。
クソッ!
いつもそうだ。万人が見てもなんとも思わない満月を極度に怯え、怯えが嵩じて、その月が肉食獣のように襲ってくるのだ。
幻覚や妄想なんかじゃない。あの巨大な物体は形を変えつつも、れっきとした人を死に追いやる刺客なのだ。少なくともおれにはそう見える。身内に相談したことがあるが、一笑に付されてしまって以来、誰にも話したことがない。
よく晴れた満月の夜は命がけなのだ。
満月はどうしてああも、怖気をふるうような形をしているのだろうか。
あの完璧なまでの円周はなんだ。少なくとも地球上の自然界には存在しない異質の存在じゃないか。
したがって宇宙とは戦慄の空間だ。まかりまちがって月旅行への抽選が当選したとしても願い下げだ。誰が月なんかに近づくものか。宇宙飛行士になるべくNASAへ挑戦しようっていう人間の気が知れない。
せめての救いは、新月のときが心休まるだけだ。
これが日をおうごとに弦月となり、徐々に円形になるにつれ、見つめていると、うなじの毛がハリネズミのように逆立つ思いにさせられる。
完全な満月になるともうダメだ。直視は耐えられない。脳みそが沸騰し、気も触れんばかりになる。
満月のそこかしこに開いたクレーターが禍々しい眼に見えた。とりわけ月面南部に見えるティコと呼ばれる巨大クレーターは生理的に訴えかけてくるものがあった。
アーサー・C・クラーク原作、スタンリー・キューブリック監督の映画『二〇〇一年宇宙の旅』では、モノリスが埋められたとされる直径八十五キロメートルもの円形窪地のことで、一五〇〇キロメートルにおよぶ放射状に走った光条までもが強烈すぎた。
まるであの窪地から、眼球が現れるのではないかと、いらぬ妄想がこみあげてくる。
融は闇のなかで身体をまるめたまま月をやりすごした。奴はあさっての方向へ行ってしまったらしく、すっかり青白い燐光も見えなくなった。
鉄の構造物から外に出てみた。
プラントから吐き出された蒸気で、あたかも雲海を泳いでいるかのようだ。
周囲を見わたした。あれの姿は見えない。上を仰いでみたが、夜空のもといた場所におさまっているわけでもない。いずれにしろ、まいたようだ。
とてもこんな心理状態で職場に復帰する気にはなれそうもない。バックれることにした。
どうせ夕勤の就業間近で、次の交代勤務者と引き継ぎの時間帯に飛びだしてきたのだ。融一人消えたところで、大所帯の工場では不審に思う人間は、ほとんどいやしない。
内地につながる橋を渡ろうとしたときだった。
満月はごう、と音をたてて中空に浮かんだ。あいつは橋脚の下に隠れていたのだ。さっきと同じ、大玉転がしの大きさだ。
待ち伏せだ、と思ったのもつかの間、あいつは猛然と迫ってきた。
融は回れ右をすると、悪態をつきながら走って逃げた。
クソックソックソッ!
やっぱり出し抜くことはできない。奴は狡猾な知能をもってやがる。
建物と建物のあいだを走り抜けた。
プラントが白い吐息をもらし、海風が死者を偲ぶ口笛を吹き、どこかでスパナを放り投げて床に当たったような甲高い音がこだました。そんな天然のインダストリアル・ノイズが乱舞するさなかを融は走りに走った。
月がジグザグに揺れながら追いすがる。まるでもてあそぶかのように、わざとゆっくりと迫りくる。本気を出せば、ものの一秒であの世送りにすることができるにちがいない。
そもそも月はおれをどうするつもりなのか?
月に接触されることによって、融を吹っ飛ばし、殺すつもりなんだろうか? それもたやすいだろう。ぶつかれば背骨なんか豆腐を砕くように、いとも簡単にひしゃぐことができるにちがいない。
それとも、瞬間的に人体を氷づけにしてしまうのか? 月の表面温度は赤道付近で昼は一一〇度の熱砂地獄にして、夜ともなればマイナス一七〇度もの超極寒。温度差は桁ちがいだ。
はては、満月がバクリと大口を開け――内側にはビッシリと三角形の牙がならんでいるに決まっている――、融の肉体を食いちぎり、噛み砕き、飲み干すとでも?
わからない。
しかしながら、本能的にわかることはひとつだけある。
追いつかれることは死を意味するのだ。つかまってはならない。つまり、逃げるしかない。
入り組んだプラントの狭い回廊に転がり込んだ。できるだけ、あの生ける大玉転がしが入り込めないスペースに逃げるんだ。
パイプの梁をかいくぐり、鉄の暗渠に身体をすべり込ませた。足もとに得体の知れない汚染水が流れているが、おかまいなしに進んだ。
うしろをふり向いた。
立ち往生していた月が、またぞろ平面へと化ける、まさにその瞬間を見た。
そして高速回転しはじめた。エネルギーをたくわえているのがわかる。そら、エンジンカッターのおでましだぞ!
地面に接すると盛大に金色の火花をまき散らし、暗渠を転がってきた。
融は悲鳴をあげた。
月の変幻自在ぶりに、もはや打つ手はないのか……。
いっそのことあいつに切り刻まれて楽になりたいとすら、自虐的に思えてくる。一瞬でこの世から決別できるだろう。しんどい三交代の仕事から解放されるというものだ。
だが身体が反応していた。
手近なパイプにつかまると、上によじ登った。四メートルほど真上にプラントからプラントにつながる歩道橋が見えたのだ。あそこにもぐり込めば、活路が見いだせるかもしれない。
円盤が迫ってきた。
融はパイプにしがみつき、できるかぎり身体をもちあげて縮こめた。
すんでのところで高速カッターをかわした。月は唸りをあげて通りすぎた。北朝鮮のミサイルみたいに物騒な奴め……。
あいつはサディストだ。また戻ってくるまえに逃げなくては。
融は全身全霊の力で身体をひっぱりあげた。
懸垂し、歩道橋に足をかけ、よじ登った。月が反転してきたのはほぼ同時だった。
反対側のプラント内に飛びこんで、鉄扉を閉め、閂をかけた。しゃがみ込んで扉にもたれ、背中で息をした。
どうしてこんな目にあわなきゃいけないんだ……。
うかうかしていられない。鉄扉の向こうで鉄材をダイヤモンド・ブレードで烈しく研磨する、けたたましいメロディが聞こえてきた。あいつはすぐさま歩道橋まであがり、文字通りエンジンカッターで扉を破ろうとしているのだ。
いかなカッターをもってして、厚さ一.二ミリを誇る防火戸はおいそれとは断ち切れまい。わずかではあるが時間は稼げるはずだ。
思えば、おれは満月に監視されて生きてきた。
なぜおれが選ばれなければならなかったのか、わからない。
子供のころからだ。満月が怖くて怖くてしかたないと思ったのは。
遊びから帰宅するのが遅くなったのがはじまりだった。まるで責めるかのように、満月が帰途の融を追いかけてきたのだ。
そう、まるで母の代理のように、なじるような眼差しを向けて……。
それにしても、月。
世間一般では中秋の名月の夜に供え物をし、月を愛でるのが習わしだ。月を眼にし、髪の毛が逆立つ人間などめったにいるまい。
その月だが、メルヘンチックなことに古来から月でウサギが餅つきをしていると信じられてきたものだ。
これは昔、中国から入ってきた説話からきているといわれている。
古代中国では、玉兎、月兎などと呼ばれ、月のウサギは杵を持って、不老不死の薬をついていると考えられていたという。
これが日本に伝播されると、餅をつく姿に変化したとされている。というのも、日本における満月を表す言葉の『望月』が転じて『餅つき』になったとか。ほかにも『老人のために餅つきをしている』だの、『ウサギが食べ物に困らないように』という諸説もある。
また、インドのジャータカ神話によれば、こんな仏教説話も伝えられている。
山中にてサル、キツネ、ウサギの三匹が、みすぼらしい老人が腹をすかせて倒れているのを見つけた。三匹は老人を助けるようと、サルは木の実を集め、キツネは魚を捕って、老人にあたえた。しかし非力なウサギだけはなにも得ることができない。
己の非力さを嘆くウサギ。老人を助けたい一心で、火を焚き、自身の肉を食べさせようと、火中へ飛びこんだ。
その自己犠牲に心打たれた老人は、じつは帝釈天の化身であったことを明かし、この捨て身の精神を後世まで伝えるため、ウサギを月へと昇らせた。月面に見えるウサギの姿をとり囲むような煙状の影は、ウサギ自らの身を焼いたときの煙だとされている。
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むしろ、月面の織りなす黒い紋様は、母体の子宮内で成長途上にある逆さになった胚胎に見えてしかたがないのだ。
月の表面は上が北、下が南になっており、子午線通過したときの地形模様だ。白い部分はクレーターで構成された高地で、反対に黒っぽい部分は『海』と呼ばれる低地。そこは巨大な隕石がぶつかったあとのクレーターで、地下から玄武岩質のマグマが吹き出してクレーター内部を埋めてしまったとされている。
月の左下の黒い斑模様――『湿りの海』、『雲の海』――が逆さになった胎児の頭にあたり、『雨の海』が丸まった胴体で、『静かの海』から『豊穣の海』にかけてが縮こまった脚にあたるように見えてしまう。
そう、まさしく月に刻まれた水子にほかならない。なぜかあいつは、おれを恨んでいるんだ……。
休憩は終わりだ。そろそろ行かないと。
二階から下に階段をおりた。資材倉庫らしい。融がはじめて足を踏み入れたエリアだった。ここで契約社員として働きだしてから三年の一兵卒にすぎない融は、すべてのプラントをめぐったわけではないのだ。
助けを呼ぼうと誰かいやしないか、まわりを探したが、クソッ、こんなときにかぎって人っ子一人いやしない!
一階につくと、退路を確認した。
資材を搬入するシャッター開きの出入り口がある。右手にスイッチ。融は押してシャッターをあげた。かろうじてくぐれるほどの高さまでになると、スイッチをとめ、もぐり込んだ。
数台のフォークリフトが整然と停まっているエリアに入った。背をかがめ、そそくさと進んだ。背後でバタンと、鉄塊が倒れる音がした。奴め、もう扉を切断したらしい。
グズグズしていられないぞ!
リフト置き場をすぎ、トラック搬入口まできた。納骨堂みたいにうすら寒く、どんよりと暗かった。
すぐに一階のシャッターを断ち切った白い円盤が追ってきた。
どうやら月はおれを逃がしてくれる気はさらさらないらしい。もはやケツまくって、対決するしかないのか――。
満月がもとの球形へと姿をかえ、ずい、と近づいてきた。のしかかるようにそれは大きくなった。
白い燐光が輝き、明滅をくり返した。
月面南部にあいたティコの円形窪地に亀裂が入った。
音もなく割れて、なにかがむき出しになった。
やっぱりだ……。人間の片目が現れたではないか。
まばたきもせず、ぎろりと見開かれたまま、融を非難するかのように見つめた。白目の部分には血走った毛細血管まで見えた。
黒目が融を見おろし、まさぐるように融を求め、とらえると、なじるかのように射抜いた。
夜空に向かって融の断末魔の絶叫があがったが、おびただしいプラントががなり立てる音響にかき消された。
了
うんこ、ブリ~~~~~ッ!
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