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1.「ヒレン伝説だって?」
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弓ヶ浜海水浴場が海開きしてから、ちょうど半月がすぎた。
西伊豆町は夏真っ盛りだった。
堂ヶ島温泉ホテルの眼下の浜辺で、わたしは間宮さんとの久しぶりのデートに心踊らせていた。今日おろしたてのスタイリッシュなサンダル。ザクザクと砂利の多い浜を歩く足どりも軽い。瀬浜海岸の沖合に三つの三四郎島が鎮座しているのが見えた。
いまにも太陽が沖の彼方に落ちようとしていた。
すみれ色の空には密度の濃い積乱雲がかかり、夜の色が忍び足で勢力を広げようとしていた。
間宮さんとは上のホテルで午前十時に会い、食事し、語りあい、予約していた部屋で夕方まで寄りそって海を眺めていただけだった。
抱かれはしなかった。一年まえ、出会って間もないころは烈しく愛しあったものだが、ここ最近は身体をくっつけているだけで満たされるようになった。
浜辺をなにほども歩かないうちに、闇があたりを押し包んだ。光源はホテルの照明と月光だけ。
わたしたちはその場にうずくまり、花火をすることにした。事前に花火セットを買ってあったのだ。
「花火なんて、何年ぶりかな」と、間宮さんは白い歯をこぼして言った。「息子が十二歳のころまでは毎年やってたが、反抗期に入ってからは、とんとご無沙汰だな」
「わたしは小学六年の臨海学校以来。コンビニに寄ったら眼についてね。思わず買っちゃった」と、わたしは恥ずかしげに笑った。「暗闇にパチパチ爆ぜる火花。すてきよね。打ちあげ花火も迫力があっていいけど、これはこれで風情がある。わびさびってやつかな。派手なデザインのわりに、あっさり終わっちゃうものもあるけど」
「わびさびか」間宮さんは下を向いて手で口をかくした。「恵茉はときおり、思いがけないことを言うよな。僕は火薬の匂いが好きなんだ。なんだかおいしそうな香りだろ」
「おいしそうって、じっさい食べたら苦いでしょ」
「苦いって、なんでわかるんだい? ひょっとして身体を張った人体実験でもやったことあるの? 恵茉ならやりかねないな」
「まさか」と、わたしはパッケージを開けながら言った。「でも、苦いわよ。きっと。反抗期の優弥くんは来年、高校受験ね。どこ狙ってるの?」
「浜松西高校」
「すごいじゃない」
「苦戦を強いられると思うよ。高望みしてるんだ。いくら言っても聞かない。頑固なところが僕ソックリだ。いちど、痛い思いをすりゃいいさ」
「間宮さんって頑固者なんだ」
「反対にいえば、柔らかくはないと思うがね」ちょっとふてくされた様子で揉み手をしたあと、手をさし出した。「ほら、ライターを貸しなよ。火がないことには、花火にならないだろ」
「……弱った。てっきり間宮さんが持ってるのかと思ってた」
「今日のデートで、タバコはやってなかっただろ。やめたんだよ。ほら、見てごらん」と、ワイシャツの袖をまくって、たくましい二の腕を見せた。「禁煙パッチまで貼って、努力してるっていうのに」
「だったら万事休す。火がつけられない」
「恵茉らしいや。そんな僕のハートに火をつけたのは君の魅力という火種だったな」と言いながら、わたしの鼻をつまんだ。
「また、うまいことを言う」
「出会いは去年の夏か。早いもんだ。……こんなこともあろうかと」間宮さんは胸ポケットからマッチを取り出した。まるで手品師だ。「部屋に備えつけのをいただいてきた。まあ待て。なんで必要かと思ったかって聞いてくれるな。君が大事に持ってたビニール袋から、先読みできたさ。もしかしたら必要になるかもと思ってね」
「さすが、先見の明がある」
「じゃないと敏腕営業マンはつとまらない。経験のちがいってやつだな」
「わたしのこと、取り柄のない工場勤務ってバカにしたな。これでもくらえ」と、わたしは砂をひっかけてやった。間宮さんはクスクス笑いながら腰を浮かして逃げた。
花火はあっさりと尻すぼみに終わった。
三四郎島の方からカップルが中州になった磯を渡ってきたから、気まずさでぜんぶを消費するまえに中断したのだ。
やってきたのは高齢の二人組だった。間宮さんは三十九歳だし、わたしだって二十八の大の大人。中高生みたいに映るんじゃないかと、恥ずかしくなった。
残った花火をゴミと一緒にビニール袋にしまい、間宮さんがそれをあずかった。
カップルは笑顔で会釈をし、通りすぎた。ホテルの方へ帰っていく。
「いまの人たち、島の方からきたらしいけど、向こうになにかあるのか? 中州を歩いてきたぞ」と、間宮さんは指さした。
「三四郎島があるじゃない。西伊豆町が誇る景勝地が。まさか、同郷に住んでいながら、知らないなんて言わせないから」わたしは立ちあがって言った。
「三四郎島っていうのか。人の名前みたいな島の名前だな。……いや、よく知らない。そこの一三六号線を通るたんびに眼にしてはきたが、興味をもったことがなかったからな。なんの変哲もない無人島じゃなかったのか」
「では教えてしんぜよう」と、わたしは腰に手をあて、おどけてみせた。
三四郎島は、沖合二〇〇メートルほどのところにある象島(別名を伝兵衛島)・中ノ島・沖ノ瀬島・高島からなる四つの無人島の総称で、見る角度により三つに見えたり、四つに見えたりすることからこう呼ばれている。
とりわけ干潮時には、一番手前の象島まで浅瀬が現れて陸続きとなり、足を濡らさずに渡ることができることで知られている。これをトンボロといい、日本ではめずらしい現象である。
「この三四郎という名前なんだけど、たしかに人名からとったとも言われてるの。島には悲恋伝説があってね」
「ヒレン伝説だって?」
「沼津出身のわたしにかかれば、お手のもの。それはこんなお話なの――」
西伊豆町は夏真っ盛りだった。
堂ヶ島温泉ホテルの眼下の浜辺で、わたしは間宮さんとの久しぶりのデートに心踊らせていた。今日おろしたてのスタイリッシュなサンダル。ザクザクと砂利の多い浜を歩く足どりも軽い。瀬浜海岸の沖合に三つの三四郎島が鎮座しているのが見えた。
いまにも太陽が沖の彼方に落ちようとしていた。
すみれ色の空には密度の濃い積乱雲がかかり、夜の色が忍び足で勢力を広げようとしていた。
間宮さんとは上のホテルで午前十時に会い、食事し、語りあい、予約していた部屋で夕方まで寄りそって海を眺めていただけだった。
抱かれはしなかった。一年まえ、出会って間もないころは烈しく愛しあったものだが、ここ最近は身体をくっつけているだけで満たされるようになった。
浜辺をなにほども歩かないうちに、闇があたりを押し包んだ。光源はホテルの照明と月光だけ。
わたしたちはその場にうずくまり、花火をすることにした。事前に花火セットを買ってあったのだ。
「花火なんて、何年ぶりかな」と、間宮さんは白い歯をこぼして言った。「息子が十二歳のころまでは毎年やってたが、反抗期に入ってからは、とんとご無沙汰だな」
「わたしは小学六年の臨海学校以来。コンビニに寄ったら眼についてね。思わず買っちゃった」と、わたしは恥ずかしげに笑った。「暗闇にパチパチ爆ぜる火花。すてきよね。打ちあげ花火も迫力があっていいけど、これはこれで風情がある。わびさびってやつかな。派手なデザインのわりに、あっさり終わっちゃうものもあるけど」
「わびさびか」間宮さんは下を向いて手で口をかくした。「恵茉はときおり、思いがけないことを言うよな。僕は火薬の匂いが好きなんだ。なんだかおいしそうな香りだろ」
「おいしそうって、じっさい食べたら苦いでしょ」
「苦いって、なんでわかるんだい? ひょっとして身体を張った人体実験でもやったことあるの? 恵茉ならやりかねないな」
「まさか」と、わたしはパッケージを開けながら言った。「でも、苦いわよ。きっと。反抗期の優弥くんは来年、高校受験ね。どこ狙ってるの?」
「浜松西高校」
「すごいじゃない」
「苦戦を強いられると思うよ。高望みしてるんだ。いくら言っても聞かない。頑固なところが僕ソックリだ。いちど、痛い思いをすりゃいいさ」
「間宮さんって頑固者なんだ」
「反対にいえば、柔らかくはないと思うがね」ちょっとふてくされた様子で揉み手をしたあと、手をさし出した。「ほら、ライターを貸しなよ。火がないことには、花火にならないだろ」
「……弱った。てっきり間宮さんが持ってるのかと思ってた」
「今日のデートで、タバコはやってなかっただろ。やめたんだよ。ほら、見てごらん」と、ワイシャツの袖をまくって、たくましい二の腕を見せた。「禁煙パッチまで貼って、努力してるっていうのに」
「だったら万事休す。火がつけられない」
「恵茉らしいや。そんな僕のハートに火をつけたのは君の魅力という火種だったな」と言いながら、わたしの鼻をつまんだ。
「また、うまいことを言う」
「出会いは去年の夏か。早いもんだ。……こんなこともあろうかと」間宮さんは胸ポケットからマッチを取り出した。まるで手品師だ。「部屋に備えつけのをいただいてきた。まあ待て。なんで必要かと思ったかって聞いてくれるな。君が大事に持ってたビニール袋から、先読みできたさ。もしかしたら必要になるかもと思ってね」
「さすが、先見の明がある」
「じゃないと敏腕営業マンはつとまらない。経験のちがいってやつだな」
「わたしのこと、取り柄のない工場勤務ってバカにしたな。これでもくらえ」と、わたしは砂をひっかけてやった。間宮さんはクスクス笑いながら腰を浮かして逃げた。
花火はあっさりと尻すぼみに終わった。
三四郎島の方からカップルが中州になった磯を渡ってきたから、気まずさでぜんぶを消費するまえに中断したのだ。
やってきたのは高齢の二人組だった。間宮さんは三十九歳だし、わたしだって二十八の大の大人。中高生みたいに映るんじゃないかと、恥ずかしくなった。
残った花火をゴミと一緒にビニール袋にしまい、間宮さんがそれをあずかった。
カップルは笑顔で会釈をし、通りすぎた。ホテルの方へ帰っていく。
「いまの人たち、島の方からきたらしいけど、向こうになにかあるのか? 中州を歩いてきたぞ」と、間宮さんは指さした。
「三四郎島があるじゃない。西伊豆町が誇る景勝地が。まさか、同郷に住んでいながら、知らないなんて言わせないから」わたしは立ちあがって言った。
「三四郎島っていうのか。人の名前みたいな島の名前だな。……いや、よく知らない。そこの一三六号線を通るたんびに眼にしてはきたが、興味をもったことがなかったからな。なんの変哲もない無人島じゃなかったのか」
「では教えてしんぜよう」と、わたしは腰に手をあて、おどけてみせた。
三四郎島は、沖合二〇〇メートルほどのところにある象島(別名を伝兵衛島)・中ノ島・沖ノ瀬島・高島からなる四つの無人島の総称で、見る角度により三つに見えたり、四つに見えたりすることからこう呼ばれている。
とりわけ干潮時には、一番手前の象島まで浅瀬が現れて陸続きとなり、足を濡らさずに渡ることができることで知られている。これをトンボロといい、日本ではめずらしい現象である。
「この三四郎という名前なんだけど、たしかに人名からとったとも言われてるの。島には悲恋伝説があってね」
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