悪役令嬢の騎士

コムラサキ

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第一章:少年期

第8話 はじめての○○

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 いつものように魔術の練習をしていると、不意に周囲の空気が変わるのが分かった。大気がざわめいて、遠くから鳥の羽ばたきが一斉に聞こえる。

 何かが近づいてくる――その直感に僕はひどく緊張する。

 その日、はじめて魔物に遭遇することになった。

 木立の間から、トコトコと歩いてくる小さな影がふたつ。はじめは野犬か何かだと思ったけど、しだいにその姿が違うことに気づく。

 薄緑色の肌、尖った耳、赤く血走った眼――二足歩行する小鬼だ。

 いわゆる〝ゴブリン〟と呼ばれる魔物だ。〈知識の書〉に何度も登場した魔物が、現実となって目の前にあらわれる。心臓が激しく鼓動し、緊張が指先にまで伝わる。

 その小鬼は子どもほどの背丈で、粗末な布切れを腰に巻きつけていた。ぎこちない足取りで歩いてくる姿は、どこか動物的で不気味だった。

 二体の小鬼は互いに何か話しているかのように小声で囁き、時々、鋭い歯をむき出しにして笑い合ったりしている。風に乗って、鼻を突くような悪臭が漂ってきた。

 群れから〝はぐれた〟個体なのかもしれない。

 小鬼はその性質ゆえに、一体であればさほど脅威にはならない。だけど群れで行動しているときは別だ。

 彼らは数で圧倒する戦術を好むので、一度でも群れに気づかれてしまうと、生存の可能性は限りなく低くなる。

 僕は息を整えて周囲を観察する。木々の間や草陰に潜んでいる小鬼がいないか確認したけど、ほかに何かいる気配はなかった。

 その小鬼を相手にしない選択肢もあったのかもしれない。

 でも魔術を試す標的として格好の相手だったし、将来騎士になると心に決めている以上、魔物の命を奪うことにも慣れておかなくてはいけない。

 恐怖と緊張感で胸が鼓動を打つ。

 深呼吸して心を落ち着ける。それから体内に流れる魔素まそを意識していく。

 集中していくと、血液と一緒に流れる魔素を感じ取ることができた。その魔素を練り上げていくと、冷たさと熱が混在する独特の感覚が手のひらに集中していく。

「大丈夫、なにも問題はない……」
 小さな声でつぶやいて自分自身を鼓舞する。

 準備が整うと、僕は隠れていた木陰から一歩踏み出して小鬼たちの前に姿をあらわした。胸の鼓動は自分でも驚くほど速かった。

 今思うと考えなしで無謀な行動だったのかもしれない。けど、もう後戻りはできない。

 僕の姿を見つけると、小鬼の小さな黒い目が一瞬、驚きに見開かれるのが分かった。

 けれどその表情はすぐに冷酷なものに変わった。

 小鬼たちは僕がただの子どもだと理解すると、互いに顔を見合わせ、ゲラゲラと笑い声を漏らした。僕に指を向けて、甲高い声で何かを喋りながら笑い続ける。

 下品で乱暴な笑い声は、耳にまとわりついて不快だった。黄ばんで汚れた歯と、鋭い爪が見える。笑っているだけなのに、人間とは相容れない生物だと分かる。

 僕は肩をすくめると、冷静さを装いながら一体の小鬼に手のひらを向けた。

 魔素の流れを手のひらに集中させると、周囲の空気がわずかに震えて、大気中の水分が吸い寄せられるように集まるのが分かった。

 僕の意志に応えるかのように、その動きはとても自然なモノだった。

 冷たい感覚が手のひらに感じられるようになると、小石程度の大きさの氷が形成されていくのが見えた。日の光が氷の塊に反射して、ほんの一瞬だけ青白い光で周囲を照らした。

 小鬼の一体がそれに気がついて、不思議そうな表情で氷を凝視する。

 僕は〈射出〉の魔術を組み合わせて、その氷のつぶてを一気に解き放った。氷の塊は小さな音を立てて空気を切り裂き、小鬼に向かって真っ直ぐ飛んでいく。

 それは〈氷礫ひょうれき〉の魔術だ。

 大気中の水分を集め、凍らせて射出する。すごく単純な魔術だけど、練度が上がれば馬鹿にならない破壊力になる。

 実際のところ、発射された〈氷礫〉は一直線に小鬼の左目に直撃して、そのまま眼球に食い込んで脳まで到達した。血煙が噴き出して、頭部の中をグチャグチャに破壊する。

 小鬼は喉の奥でひとつ短い叫びを上げると、脚をもつれさせるようにして倒れた。

 緊張が解けたのか、手が微かに震えていることに気づいた。僕はそれを意識から追い払い、もう一体の小鬼に視線を向けた。

 驚愕と恐怖で硬直した小鬼の顔が視界に映る。今、僕の中に芽生えた感情がどういうものなのか、その時はまだ理解していなかった。

 僕が放った〈氷礫〉によって仲間を失った小鬼は、一瞬その場に立ち尽くしていた。だけど次の瞬間、怒り狂ったような叫び声をあげる。

 その鋭い声は耳をつんざき、鳥たちが驚いて一斉に飛び立つ。

 小鬼は地面に落ちていた棍棒を拾い上げると、目に憎悪を宿しながら突進してくる。

 走るたびに飛び散るよだれと、裸足で踏み鳴らす地面の音が混ざり合い、緊迫した空気を作り出していく。

 そんな小鬼の姿に慌ててしまうけど、冷静さを取り戻そうと意識を集中させた。

 そして地面にそっと手をつけると、体内の魔素を一気に放出する。

 それは地面に波紋のような変化を起こす。小鬼の足元に低く不規則な土の壁がいくつも形成されていくけど、小鬼はそれに気づかずに無防備に突っ込んでくる。

 そして土壁に足を引っかけると、バランスを崩して前のめりに倒れ込む。棍棒は手を離れて、コロコロと地面を転がる。

 倒れ込んだ小鬼は戸惑いの表情を浮かべて、なにが起きたのか理解しようとしていた。

 僕は小鬼に近づくと、再び手をかざし、冷気を手のひらに集めていく。そして目の前に横たわる小鬼の後頭部を狙い、〈氷礫〉を撃ち込んだ。

 小鬼の後頭部に氷の礫が食い込んだ瞬間、小さな身体が跳ねて、それから糸の切れた人形のように動かなくなる。

 青黒い血液がじわりと地面を濡らし、再び静寂が戻ってきた。

 完全勝利である。

 はじめての戦いの結果を前に僕は息を吐き出した。その勝利の味は、ほろ苦く、そして何よりも冷たかった。

 足元に視線を落として倒れた小鬼たちを見下ろすと、自分の心が次第に重くなるのを感じた。これが命を奪うことなのだと嫌でも悟る。

 難なく小鬼を退けることができたものの、緊張で身体は強張り、心臓は胸の中で狂ったように跳ねている。

 息を整えようと深呼吸しても、その鼓動は簡単に収まらなかった。

 乾いた口で唾を飲み込む。冷たい汗が背中を伝い、ひんやりとした感触が気になった。

 そこでふと、自分が物語の主人公たちのような感情を抱いていないことに気がつく。勝利の歓喜や罪悪感、ドラマチックな後悔すらも感じられなかった。

 それが奇妙に思えて、思わず眉をひそめた。

 もしかしたら僕の心はどこか壊れているのかもしれない――あるいは、ただのサイコパスなのかもしれない。

 いずれにせよ、僕にとって大事なことは戦いを生き延びられたという事実だ。

 僕は息を整えると、小鬼の死骸を土の魔術で埋めることにした。

 作業が終わると、少し乱れた服を直しながら息を吸い込んだ。陽は傾きかけていて、茜色の光が木々の間に差し込んでいた。

 これ以上の危険を冒す必要はない。街に戻ろう。足元の乾いた草を踏みしめ、帰路につこうとしたその時だった。

 カサリ、と近くの茂みが揺れた。全身の神経が一瞬で張り詰め、僕は音のする方に視線を向ける。すると、そこには――
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