15 / 88
1章. ゆい
machi.14
しおりを挟む
仕事で同僚に厳しいことを言われたり、
翔の成長が普通と違うと言われたり、
祖父母が孫と遊んでいる様子を見かけたり、
学生時代の友人には一切連絡を取れなかったり、…
時々、どうしようもなく、寂しさが込み上げてくるときに、
彼の歌声を聴いていた。
彼が私を呼ぶ声や温もりや匂いや甘く触れられた感じは、
一生忘れないと思ったけれど、
過ぎていく時間に少しずつ遠ざけられて、
霞がかっていくのが怖かった。
悠馬は、私の前からいなくなった後、
大学にも来なくなって、
すっかり消息が分からなくなっていたけれど、
1年程前、街中でいきなり彼の声を聴いて
通りがかりの音楽ショップで
EXZというバンドのメンバーとして
デビューしていたことを知った。
EXZの楽曲をダウンロードするのは、私が自分に許した数少ない贅沢の一つだった。
彼の声を聴くと、強くなれる気がした。
多くを知ると、愚かな望みを抱いてしまうから、
EXZの情報は探さなかった。
時々彼の声を聴ければ、それで良かった。
確かにあの夜、彼がそこにいた証があって、
彼が忘れていった小指のリングがあって、
それで良かった。
それなのに、どうして。
『結婚したんだって』
どうして今更、ショックを受けるんだろう。
どうして…
ゆい。
ゆい。
例えば、あまりにも大切で。
誰にも見つからないように鍵をかけて、
引き出しの奥深くに閉じ込めて、
勿体なくて開けてみることさえはばかられるような、
…そんなものが、
ある日突然、無くなった、そんな喪失感。
だけど、本当は、もともとそこには、
何もなかったのかもしれない。
ただの幻想。
私だけがしまっておいたの。
私だけが…
やばい。
と思った時にはもう遅く、涙が床に落ちていた。
仕事中にこんなところで泣くわけにいかない。
誰か、戻ってくるかも。
患者さんが、用事があるかも。
コールが鳴るかも。
奥歯を強くかみしめて、ごみを片付けて清掃を終える。
もう少し。
もう少し。
用具を片付けて、備品を入れ替え、使用済みのものをまとめる。
午前中の清掃を終えて、職員控室に戻ると、西村さんが昼食をとっていた。
「すみません、ちょっと外出てきます」
返事も待たずに、病院裏の通用口から外に出て、とたんに我慢が決壊した。
気づいた人が驚いたように振り返っても、もう涙を止めることができない。
風が痛い。
のどが痛い。
胸が痛い…
私も、「好き」って言ってもらいたかったな。
そんなどうしようもないことが頭に浮かんだ。
嘘でもいいから。
一度だけでいいから。
誰もいない真冬の公園で、ベンチの脇にしゃがみ込んで泣いた。
どうしてもどうしても、涙を止められなかった。
私は馬鹿だ。
ちゃんと分かっていて、ちゃんと出来ると思っていたのに。
何があっても大丈夫だと思っていたのに。
今更、泣くなんておかしい。
神様が気まぐれでくれた奇跡だって、
わかっているのに、泣くなんておかしい。
おかしいおかしい。
それでもどうしても、涙が止まらなかった。
翔の成長が普通と違うと言われたり、
祖父母が孫と遊んでいる様子を見かけたり、
学生時代の友人には一切連絡を取れなかったり、…
時々、どうしようもなく、寂しさが込み上げてくるときに、
彼の歌声を聴いていた。
彼が私を呼ぶ声や温もりや匂いや甘く触れられた感じは、
一生忘れないと思ったけれど、
過ぎていく時間に少しずつ遠ざけられて、
霞がかっていくのが怖かった。
悠馬は、私の前からいなくなった後、
大学にも来なくなって、
すっかり消息が分からなくなっていたけれど、
1年程前、街中でいきなり彼の声を聴いて
通りがかりの音楽ショップで
EXZというバンドのメンバーとして
デビューしていたことを知った。
EXZの楽曲をダウンロードするのは、私が自分に許した数少ない贅沢の一つだった。
彼の声を聴くと、強くなれる気がした。
多くを知ると、愚かな望みを抱いてしまうから、
EXZの情報は探さなかった。
時々彼の声を聴ければ、それで良かった。
確かにあの夜、彼がそこにいた証があって、
彼が忘れていった小指のリングがあって、
それで良かった。
それなのに、どうして。
『結婚したんだって』
どうして今更、ショックを受けるんだろう。
どうして…
ゆい。
ゆい。
例えば、あまりにも大切で。
誰にも見つからないように鍵をかけて、
引き出しの奥深くに閉じ込めて、
勿体なくて開けてみることさえはばかられるような、
…そんなものが、
ある日突然、無くなった、そんな喪失感。
だけど、本当は、もともとそこには、
何もなかったのかもしれない。
ただの幻想。
私だけがしまっておいたの。
私だけが…
やばい。
と思った時にはもう遅く、涙が床に落ちていた。
仕事中にこんなところで泣くわけにいかない。
誰か、戻ってくるかも。
患者さんが、用事があるかも。
コールが鳴るかも。
奥歯を強くかみしめて、ごみを片付けて清掃を終える。
もう少し。
もう少し。
用具を片付けて、備品を入れ替え、使用済みのものをまとめる。
午前中の清掃を終えて、職員控室に戻ると、西村さんが昼食をとっていた。
「すみません、ちょっと外出てきます」
返事も待たずに、病院裏の通用口から外に出て、とたんに我慢が決壊した。
気づいた人が驚いたように振り返っても、もう涙を止めることができない。
風が痛い。
のどが痛い。
胸が痛い…
私も、「好き」って言ってもらいたかったな。
そんなどうしようもないことが頭に浮かんだ。
嘘でもいいから。
一度だけでいいから。
誰もいない真冬の公園で、ベンチの脇にしゃがみ込んで泣いた。
どうしてもどうしても、涙を止められなかった。
私は馬鹿だ。
ちゃんと分かっていて、ちゃんと出来ると思っていたのに。
何があっても大丈夫だと思っていたのに。
今更、泣くなんておかしい。
神様が気まぐれでくれた奇跡だって、
わかっているのに、泣くなんておかしい。
おかしいおかしい。
それでもどうしても、涙が止まらなかった。
0
お気に入りに追加
109
あなたにおすすめの小説
年下の彼氏には同い年の女性の方がお似合いなので、別れ話をしようと思います!
ほったげな
恋愛
私には年下の彼氏がいる。その彼氏が同い年くらいの女性と街を歩いていた。同じくらいの年の女性の方が彼には似合う。だから、私は彼に別れ話をしようと思う。
隠れオタクの女子社員は若社長に溺愛される
永久保セツナ
恋愛
【最終話まで毎日20時更新】
「少女趣味」ならぬ「少年趣味」(プラモデルやカードゲームなど男性的な趣味)を隠して暮らしていた女子社員・能登原こずえは、ある日勤めている会社のイケメン若社長・藤井スバルに趣味がバレてしまう。
しかしそこから二人は意気投合し、やがて恋愛関係に発展する――?
肝心のターゲット層である女性に理解できるか分からない異色の女性向け恋愛小説!
ヤリたい男ヤラない女〜デキちゃった編
タニマリ
恋愛
野獣のような男と付き合い始めてから早5年。そんな彼からプロポーズをされ同棲生活を始めた。
私の仕事が忙しくて結婚式と入籍は保留になっていたのだが……
予定にはなかった大問題が起こってしまった。
本作品はシリーズの第二弾の作品ですが、この作品だけでもお読み頂けます。
15分あれば読めると思います。
この作品の続編あります♪
『ヤリたい男ヤラない女〜デキちゃった編』
俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜
ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。
そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、
理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。
しかも理樹には婚約者がいたのである。
全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。
二人は結婚出来るのであろうか。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
鬼上司は間抜けな私がお好きです
碧井夢夏
恋愛
れいわ紡績に就職した新入社員、花森沙穂(はなもりさほ)は社内でも評判の鬼上司、東御八雲(とうみやくも)のサポートに配属させられる。
ドジな花森は何度も東御の前で失敗ばかり。ところが、人造人間と噂されていた東御が初めて楽しそうにしたのは花森がやらかした時で・・。
孤高の人、東御八雲はなんと間抜けフェチだった?!
その上、育ちが特殊らしい雰囲気で・・。
ハイスペック超人と口だけの間抜け女子による上司と部下のラブコメ。
久しぶりにコメディ×溺愛を書きたくなりましたので、ゆるーく連載します。
会話劇ベースに、コミカル、ときどき、たっぷりと甘く深い愛のお話。
「めちゃコミック恋愛漫画原作賞」優秀作品に選んでいただきました。
※大人ラブです。R15相当。
表紙画像はMidjourneyで生成しました。
好きな男子と付き合えるなら罰ゲームの嘘告白だって嬉しいです。なのにネタばらしどころか、遠恋なんて嫌だ、結婚してくれと泣かれて困惑しています。
石河 翠
恋愛
ずっと好きだったクラスメイトに告白された、高校2年生の山本めぐみ。罰ゲームによる嘘告白だったが、それを承知の上で、彼女は告白にOKを出した。好きなひとと付き合えるなら、嘘告白でも幸せだと考えたからだ。
すぐにフラれて笑いものにされると思っていたが、失恋するどころか大切にされる毎日。ところがある日、めぐみが海外に引っ越すと勘違いした相手が、別れたくない、どうか結婚してくれと突然泣きついてきて……。
なんだかんだ今の関係を最大限楽しんでいる、意外と図太いヒロインと、くそ真面目なせいで盛大に空振りしてしまっている残念イケメンなヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。
この作品は、他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりhimawariinさまの作品をお借りしております。
ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~
菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。
だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。
車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。
あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる