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彼女の今世
episode62
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(ど、どうしてこうなったの……?)
たらたらと汗が背中をつたい落ちていく。私は膝に置いた手に視線を固定していた。
からりと晴れた冬の一日。室内は魔法石による温度調整が効いていてそれほど寒くないのに、手先は冷えきっていた。
「ジョシュア、他の令嬢は?」
重い沈黙を破ったのは正面の椅子に腰掛けていたアルバート殿下だ。
「それがですね、道が混んでいるようでご到着が遅れているようです」
「……そうか。時間通りに来たのは公爵令嬢のみか」
こんな奇跡みたいなこと起こるのだろうか。絶対に仕組まれてるとしか思えない。というか、そう思ってないとやりきれない。
(よりによって……なんで……)
いつもより着飾った姿の日に、短時間だとしても二人っきりにならないといけないのだろうか。
ああ嫌だ。早く誰か来て欲しい。ぎゅっと目を瞑り、深呼吸する。
このまま時間が過ぎ去ってくれないものかと願うが、それは呆気なく散ることとなる。
注がれた紅茶が冷め始め、湯気がのぼらなくなった頃。アルバート殿下が口を開いたのだ。
「──珍しいな。君がそのような色合いのドレスで来るなんて」
心臓が止まりそうになる。
「っ! あの、あまり意味は無いんです」
目を合わせられず、逸らしながら答える。声が軽く裏返ってしまい、スカートの裾を強く握ってしまう。
「それでも、似合っているよ」
「?」
言われた言葉が認識できず、顔を上げ、首を傾げてしまう。するとアルバート殿下と目が合う。彼のまなざしはとても優しいものだった。
彼は紅茶を飲みながら再度言う。
「そのドレスが似合ってると言った」
「あり、がとう……ございます?」
礼を言った筈なのに、アルバート殿下の眉間にシワが寄る。
「なぜ疑問形になる」
「それは……」
「貴方が私を褒めるのは空から槍が降りそうなくらいありえない」と思ってしまうからとは言えまい。
「殿下に褒められたのは初めてでしたので」
「初めてだったか?」
「はい」
記憶が確かであれば。
そもそも私がアルバート殿下を避けているから、接触する機会が少ない。必然的に会話も減る。
「もっと褒めていると思っていた。すまない」
「いえ、お気になさらず」
どうせお世辞だろうし、殿下からの賛辞なんて必要ない。むしろ要らない。もらったところで嬉しくないから。
(あっそういえば)
「殿下、これを」
包装された紅茶缶をバスケットから取り出した。
「先日、頂いた贈り物のお礼です」
アルバート殿下は婚約者候補全員にブレスレットの贈り物を送ったようで、私の元にも届いたのだ。
さすがにリボンの時とは違って、一度は身につけたところを見せなければと思い、どこかしらのタイミングでブレスレットは付ける予定だ。
「粗末なものですが……」
お返しにと選んだ茶葉は、唯一私が知っている彼好みのものだった。前世ではよく飲んでいたローズヒップティー。味覚が変化していないならば、喜んでいただける品物だろう。
「律儀だな」
直接手渡しするとふっと微かにアルバート殿下は笑う。
「これは当たり前のことで……律儀でも何でもありません」
例え苦手だとしても。それとこれとは別だ。礼儀を欠く理由にはならない。
彼との会話は慣れなくてそこで途切れる。
そうしてまた沈黙が訪れると思いきや、アルバート殿下が動いた。
「……ひとつ、頼んでもいいか?」
「……ものによります」
彼の頼み事はちっとも見当がつかなくて、私は身を強ばらせる。
「君は茶を淹れるのが上手いと聞いた。一杯淹れてくれないか」
飲み干し、空になったカップを指す。
「私がですか?」
「そうだ」
目をぱちくりさせる。
「私が淹れるより皇宮の侍女の方が上手いと思われます」
至極当然な事だ。本業の者と花嫁修業で覚えた程度の小娘では前者に軍配が上がる。
「君が持ってきたのだから一番最初に淹れるのは君だろう」
どんな理論だそれは。聞いたことがない。滅茶苦茶だ。彼も自分で言ったことなのに、違和を覚えたのか微妙な表情を浮かべた。
(仕方がない)
「……文句は受け付けませんからね」
先に釘を刺し、立ち上がる。断る理由もない。淹れさえすれば終わりなのだ。
私は部屋の隅に置かれた湯の入ったポットと先ほどアルバート殿下に渡した茶葉で茶の準備をする。
ちらりと殿下を見遣ると手持ち無沙汰のようで、紅茶缶に付属していたリーフレットを静かに読み込んでいた。
こんな穏やかな時間が前世にあったならば。私は救われただろう。レリーナが皇后になり、私が皇妃であったとしても。泣いたり絶望したりすることは無かったはず。
心に巣食う黒い感情は消えないだろうし、これからもふとした瞬間に私を囚え、拒絶してしまうことはあるだろう。
そのいい例として、殿下の手を叩き落としたことが挙げられる。
それでも私には今、目の前にいる殿下と前世の陛下を同一人物として毛嫌うことは出来なかった。
──たった一度でも同じことを私にしてくれれば。手放しに嫌悪するのに。
(変な人)
前世の彼ならこんなことを頼んでこない。比較的優しかった期間でさえ、義務的に婚約者という役をこなしていたに過ぎないから。
以前も思ったが、やはり私が変わったように彼も変化しているのだろう。
同じ人には思えなくて、今世のアルバート殿下に抱く感情は確実に変化している。良い事なのか悪いことなのかまだ判断がつかないが、前者であればそれに越したことはない。
最後の一滴を注ぎ、私はポットをテーブルに置いた。最後に角砂糖を三個入れ、溶かすためにゆっくりかき混ぜる。
「どうぞ」
一瞬手が触れる。私は引っかかりを覚えた。やけに手先が熱いように感じたのだ。
そこで彼の顔を凝視する。
「いきなりどうした?」
「もしかしてアルバート殿下、熱がおありですか?」
「えっ」
ジョシュア様が変な声を出す。
失礼しますと断りを入れてから、私にしては珍しく了承も得ずにそっと手を殿下の額に持っていく。
しかし、ほんの少し前まで熱いポットを扱っていたせいで私の手は温まってしまっていて。ぬるくなった手では判断が難しく、額に触れても熱があるのか測れない。
(こうなったら)
「すみません。後で苦情やお叱りは受け付けますので」
「……何を」
アルバート殿下が至近距離で目を見張る。普段なら絶対にしない行動だったが、その時は熱があるのかないのかが頭を占めていた。
髪が混じり合い、こつんと額と額を合わせた。
ほんのちょっとの間だけなのに、直に伝わってくる体温は紅茶の温度より高い。
(……熱いわね)
熱の高さ以外にも、引っかかる。この時期は……何かあったはずなのだ。
何か言いたげなアルバート殿下を無視し、離れた私は記憶を手繰り寄せる。
(あっ! ま、まずいかも……)
思い出した。確か殿下が風邪を拗らせ、あろうことか肺がやられて重症化してしまったのだ。何日も高熱に魘されたようで、私もお見舞いに行ったから覚えている。
あの時の年齢と季節もピッタリ重なる。このまま放置していたら大変なことになるのは明白だった。
(すぐに皇宮医を呼ばなければ)
「ジョシュア様、殿下の侍医を至急呼んでください。熱があります」
「このくらい平気だ。よくあるこ……」
「だめですっ! 寝てください」
殿下の言葉を遮って私は声を上げる。
「もし、よくある事だとしても軽視してはいけません。殿下のお身体は貴方だけの物ではないのです」
妹姫のヴィネット様が居らっしゃるが、皇位継承権保持者の皇子はアルバート殿下ただ一人。私には冷たくて最低な人だったけれど、皇帝になった彼は良き統治者だった。
前世では回復したが、今世でも回復するという確証はどこにもない。このことを言うと重症化しない可能性もあるのだが、それは一旦放置する。
仮にここで彼を失ってしまったら、未来のルーキアには大損害なのである。
「茶会を中止にしてお休み下さい」
真剣な顔でそう言うと、殿下は釣られてこくこく頷く。
「……風邪であった場合、移してしまう可能性もあるからな」
「そうです。早くお部屋にお戻りくださいませ」
そうして皇宮医を連れてきたジョシュア様にアルバート殿下を託した後、私は後先考えずにしてしまった殿下への失態に頭を抱えてしまうのだった。
たらたらと汗が背中をつたい落ちていく。私は膝に置いた手に視線を固定していた。
からりと晴れた冬の一日。室内は魔法石による温度調整が効いていてそれほど寒くないのに、手先は冷えきっていた。
「ジョシュア、他の令嬢は?」
重い沈黙を破ったのは正面の椅子に腰掛けていたアルバート殿下だ。
「それがですね、道が混んでいるようでご到着が遅れているようです」
「……そうか。時間通りに来たのは公爵令嬢のみか」
こんな奇跡みたいなこと起こるのだろうか。絶対に仕組まれてるとしか思えない。というか、そう思ってないとやりきれない。
(よりによって……なんで……)
いつもより着飾った姿の日に、短時間だとしても二人っきりにならないといけないのだろうか。
ああ嫌だ。早く誰か来て欲しい。ぎゅっと目を瞑り、深呼吸する。
このまま時間が過ぎ去ってくれないものかと願うが、それは呆気なく散ることとなる。
注がれた紅茶が冷め始め、湯気がのぼらなくなった頃。アルバート殿下が口を開いたのだ。
「──珍しいな。君がそのような色合いのドレスで来るなんて」
心臓が止まりそうになる。
「っ! あの、あまり意味は無いんです」
目を合わせられず、逸らしながら答える。声が軽く裏返ってしまい、スカートの裾を強く握ってしまう。
「それでも、似合っているよ」
「?」
言われた言葉が認識できず、顔を上げ、首を傾げてしまう。するとアルバート殿下と目が合う。彼のまなざしはとても優しいものだった。
彼は紅茶を飲みながら再度言う。
「そのドレスが似合ってると言った」
「あり、がとう……ございます?」
礼を言った筈なのに、アルバート殿下の眉間にシワが寄る。
「なぜ疑問形になる」
「それは……」
「貴方が私を褒めるのは空から槍が降りそうなくらいありえない」と思ってしまうからとは言えまい。
「殿下に褒められたのは初めてでしたので」
「初めてだったか?」
「はい」
記憶が確かであれば。
そもそも私がアルバート殿下を避けているから、接触する機会が少ない。必然的に会話も減る。
「もっと褒めていると思っていた。すまない」
「いえ、お気になさらず」
どうせお世辞だろうし、殿下からの賛辞なんて必要ない。むしろ要らない。もらったところで嬉しくないから。
(あっそういえば)
「殿下、これを」
包装された紅茶缶をバスケットから取り出した。
「先日、頂いた贈り物のお礼です」
アルバート殿下は婚約者候補全員にブレスレットの贈り物を送ったようで、私の元にも届いたのだ。
さすがにリボンの時とは違って、一度は身につけたところを見せなければと思い、どこかしらのタイミングでブレスレットは付ける予定だ。
「粗末なものですが……」
お返しにと選んだ茶葉は、唯一私が知っている彼好みのものだった。前世ではよく飲んでいたローズヒップティー。味覚が変化していないならば、喜んでいただける品物だろう。
「律儀だな」
直接手渡しするとふっと微かにアルバート殿下は笑う。
「これは当たり前のことで……律儀でも何でもありません」
例え苦手だとしても。それとこれとは別だ。礼儀を欠く理由にはならない。
彼との会話は慣れなくてそこで途切れる。
そうしてまた沈黙が訪れると思いきや、アルバート殿下が動いた。
「……ひとつ、頼んでもいいか?」
「……ものによります」
彼の頼み事はちっとも見当がつかなくて、私は身を強ばらせる。
「君は茶を淹れるのが上手いと聞いた。一杯淹れてくれないか」
飲み干し、空になったカップを指す。
「私がですか?」
「そうだ」
目をぱちくりさせる。
「私が淹れるより皇宮の侍女の方が上手いと思われます」
至極当然な事だ。本業の者と花嫁修業で覚えた程度の小娘では前者に軍配が上がる。
「君が持ってきたのだから一番最初に淹れるのは君だろう」
どんな理論だそれは。聞いたことがない。滅茶苦茶だ。彼も自分で言ったことなのに、違和を覚えたのか微妙な表情を浮かべた。
(仕方がない)
「……文句は受け付けませんからね」
先に釘を刺し、立ち上がる。断る理由もない。淹れさえすれば終わりなのだ。
私は部屋の隅に置かれた湯の入ったポットと先ほどアルバート殿下に渡した茶葉で茶の準備をする。
ちらりと殿下を見遣ると手持ち無沙汰のようで、紅茶缶に付属していたリーフレットを静かに読み込んでいた。
こんな穏やかな時間が前世にあったならば。私は救われただろう。レリーナが皇后になり、私が皇妃であったとしても。泣いたり絶望したりすることは無かったはず。
心に巣食う黒い感情は消えないだろうし、これからもふとした瞬間に私を囚え、拒絶してしまうことはあるだろう。
そのいい例として、殿下の手を叩き落としたことが挙げられる。
それでも私には今、目の前にいる殿下と前世の陛下を同一人物として毛嫌うことは出来なかった。
──たった一度でも同じことを私にしてくれれば。手放しに嫌悪するのに。
(変な人)
前世の彼ならこんなことを頼んでこない。比較的優しかった期間でさえ、義務的に婚約者という役をこなしていたに過ぎないから。
以前も思ったが、やはり私が変わったように彼も変化しているのだろう。
同じ人には思えなくて、今世のアルバート殿下に抱く感情は確実に変化している。良い事なのか悪いことなのかまだ判断がつかないが、前者であればそれに越したことはない。
最後の一滴を注ぎ、私はポットをテーブルに置いた。最後に角砂糖を三個入れ、溶かすためにゆっくりかき混ぜる。
「どうぞ」
一瞬手が触れる。私は引っかかりを覚えた。やけに手先が熱いように感じたのだ。
そこで彼の顔を凝視する。
「いきなりどうした?」
「もしかしてアルバート殿下、熱がおありですか?」
「えっ」
ジョシュア様が変な声を出す。
失礼しますと断りを入れてから、私にしては珍しく了承も得ずにそっと手を殿下の額に持っていく。
しかし、ほんの少し前まで熱いポットを扱っていたせいで私の手は温まってしまっていて。ぬるくなった手では判断が難しく、額に触れても熱があるのか測れない。
(こうなったら)
「すみません。後で苦情やお叱りは受け付けますので」
「……何を」
アルバート殿下が至近距離で目を見張る。普段なら絶対にしない行動だったが、その時は熱があるのかないのかが頭を占めていた。
髪が混じり合い、こつんと額と額を合わせた。
ほんのちょっとの間だけなのに、直に伝わってくる体温は紅茶の温度より高い。
(……熱いわね)
熱の高さ以外にも、引っかかる。この時期は……何かあったはずなのだ。
何か言いたげなアルバート殿下を無視し、離れた私は記憶を手繰り寄せる。
(あっ! ま、まずいかも……)
思い出した。確か殿下が風邪を拗らせ、あろうことか肺がやられて重症化してしまったのだ。何日も高熱に魘されたようで、私もお見舞いに行ったから覚えている。
あの時の年齢と季節もピッタリ重なる。このまま放置していたら大変なことになるのは明白だった。
(すぐに皇宮医を呼ばなければ)
「ジョシュア様、殿下の侍医を至急呼んでください。熱があります」
「このくらい平気だ。よくあるこ……」
「だめですっ! 寝てください」
殿下の言葉を遮って私は声を上げる。
「もし、よくある事だとしても軽視してはいけません。殿下のお身体は貴方だけの物ではないのです」
妹姫のヴィネット様が居らっしゃるが、皇位継承権保持者の皇子はアルバート殿下ただ一人。私には冷たくて最低な人だったけれど、皇帝になった彼は良き統治者だった。
前世では回復したが、今世でも回復するという確証はどこにもない。このことを言うと重症化しない可能性もあるのだが、それは一旦放置する。
仮にここで彼を失ってしまったら、未来のルーキアには大損害なのである。
「茶会を中止にしてお休み下さい」
真剣な顔でそう言うと、殿下は釣られてこくこく頷く。
「……風邪であった場合、移してしまう可能性もあるからな」
「そうです。早くお部屋にお戻りくださいませ」
そうして皇宮医を連れてきたジョシュア様にアルバート殿下を託した後、私は後先考えずにしてしまった殿下への失態に頭を抱えてしまうのだった。
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