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第3章

37 愛に浸かる

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 愚かな真似なのは理解している。ここまで散々受け取ってはいけない、そんな資格はないのだからと否定し、告白も拒絶し、見て見ぬふりをしてきたのに、何故今更と。

(でも、たとえつかの間の平穏だとしても…………私だって差し伸べられた手を取りたいのです)

 これまでずっと我慢していたし、そもそも望んではいけなかった。ハーディングにいた頃から、降り注ぐ罵倒や暴力にひたすら耐えて、生きている意味なんて持てず、死ぬことは許されずに一日、一日をギリギリのところで生きていた。

 ヴォルガに来ても同じだと思った。むしろ、悪化するのだと。
 
 だが、実態は異なった。よそよそしくて、冷ややかな視線を送っていた屋敷の人々も、最近は優しい眼差しで嫌な顔ひとつせず、鈍臭いエヴェリのお世話をしてくれる。ヴォルガの貴族でも、アシュベリー侯爵夫妻のように偏見を持たず、エヴェリを歓迎してくれる人々もいる。
 それに、人の手は暴力を振るうものではなく、温かくて安心できるものなのだとセルゲイが教えてくれた。

 エヴェリは握ったセルゲイの手に頬を擦り寄せ、瞳を閉じる。

 言動と矛盾しているが、もちろん正体を知られたら……と考えると怖い。足も竦む。セルゲイが豹変したら心の傷となって一生忘れられなくなるだろう。

(それでも、一度くらいは心のままに動いても……許されますよね?)

 もし天罰が下るのなら、潔く全てを受け入れよう。どうせ、これまでもほとんど死んでいるような人生だったのだ。怯えて躊躇するより、良い結果になると信じて手を取ると決めたのなら、覚悟を決める。

(セルゲイさまのおかげで愛という感情を知ることができた。他の誰でもない、旦那さまだから)

 だから与えられるだけではなくて、今度はエヴェリが一歩足を踏み出す番だ。

 エヴェリこそ、ありったけの愛を捧げる。彼の思いに精一杯応える。何も持たない自分がセルゲイに与えられるのはこれだけだから。

 瞳を開いて震える唇で紡ぐ。真っ直ぐ、どうかこの想いが届きますようにとセルゲイを見据える。

「好きです。セルゲイさまのことを愛していま──」

 ふいに視界が揺らぐ。セルゲイの左手を握っていた右手が絡め取られて、後頭部に手を添えられる。視界に影が差したかと思いきや、次の瞬間には唇に柔らかなものが押し当てられた。

「んっ」

 長い間、口を塞がれていた気がした。ようやく解放されると荒い息が漏れ出た。

 何が起こったのか理解が追いつかない。晴れた視界に瞬くと、エヴェリを見下ろす黄金の瞳ははっきりとした熱を帯びていて、その唇には赤い紅が移っている。
 無意識だろう。エヴェリの左手はセルゲイのシャツを強く握っていた。

(あ、わたし……)

 唇に触れる。強く押し付けられた感触がまだ残っていた。
 段々と状況を理解し始めると、顔に全身の熱が集まってくる。熱に浮かされ、今度は別の意味で涙目になりながらセルゲイを見上げる。

「セルゲイ、さま……」

 セルゲイはエヴェリの後頭部から手を離してくしゃりと自身の髪を掻いた。彼もまた耳まで赤い。

「すまない。止められなかった。嫌だったか?」
「いやじゃ、ない、です。むしろ──」

 恥ずかしくて視線を逸らしながら言った。

「──嬉しいです」
「…………本当に貴女という人は」

 大きなため息を吐いてセルゲイはエヴェリを見つめる。

「私も貴女に話していないことが沢山ある。時が来たら全てを明かすが、それまでは伝えられない。内容も好ましくないかもしれない。貴女こそ、そんな隠し事がある私でもいいのか?」
「はい、かまいません」

 即答する。どのようなものであれ、お互い様かエヴェリの隠し事の方が大きいはずなので些事だ。
 なのに、大罪であるかのように深刻な表情をしている。

「私は貴女のことになると頭が働かなくなる。貴女の発言は全てそのまま受け取ってしまうが……」
「大丈夫です。信じられないようなら、何度でもお伝えしますよ」

 根気よく。必要とあれば喉が涸れるまで。

「舞踏会では拒絶してしまってごめんなさい。あの時よりもずっと前からセルゲイさまを愛しています」 

 すると彼の瞳から一雫、頬を伝い落ちていく。

「なぜ泣くのですか」
「貴女が私の妻として嫁いできてくれただけで夢のような出来事であるのに、このような幸福。明日が怖い」

 セルゲイはエヴェリを強く抱き締めた。

「応えてくれてありがとう。もう一度、口づけしても?」
「セルゲイさまの望むままに」

 微笑めば優しく、けれども全てを貪るように、今度は何度も唇を奪われたのだった。
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