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第2章
33 覆すように愛を乞う(2)
しおりを挟む「──い」
「え?」
びゅうっと風が通り過ぎてセルゲイの声が聞き取れなかった。
「貴女が私の妻としてそばにいてくれて幸福を感じることはあれど、不利益を被ることはありえない」
いったい何を言い出しているのだろうか。エヴェリと共にいて不幸になることはあれど、幸せになることなんてない。
動揺するエヴェリに、セルゲイは懐かしい発言を引っ張り出してきた。
「信じられないのも無理はない。婚姻の日、私は『君を愛することはないし、愛されるとは思わないでほしい』と言い捨てた」
よく覚えているし、今でも当然のことだと思っている。けれども何故かセルゲイは後悔しているようで少しうなだれ、目を伏せる。
「その後も貴女への態度は酷かった。過去に戻ってやり直したい」
「えっと、そんなに酷くなかったですよ?」
冷ややかではあったが、理解出来る冷たさであったし、ロゼリア達とは違い、決してエヴェリに手を出したり罵倒したりすることはなかった。あれで酷いのであれば、セルゲイの中の基準はとてつもなく厳しい。
「セルゲイさまはいつもお優しいです」
エヴェリが彼を褒めれば褒めるほど、セルゲイの顔は歪む。唇を震わせ、驚くべきことを告げた。
「ずっと後悔していた。どうしてあのような発言をしてしまったのかと。自分勝手ですまないが初日の発言を撤回させてほしい」
(え?)
それはどういう……と口を開くよりも先にセルゲイが動く。
「シェイラ」
セルゲイは跪き、エヴェリの左手を取る。そのまま新たに嵌った指輪に口付けながら切なげな瞳で見上げるのだ。
「貴女を愛している」
頭が真っ白になった。取られた左手はほのかな熱を灯らせ、瞬く間に全身に巡る。
夢であってほしい。現実で起こってはいけない。息が詰まり、きゅっと目を瞑りもう一度開く。
何も変わらない。代わりにセルゲイの瞳に宿る熱を見いだしてしまって、目を逸らせない。
「本当に、心の底から貴女が好きなんだ。君がそばにいない日々なんてもう想像できない」
セルゲイは立ち上がる。開いた窓の隙間から微かに聞こえてきていた演奏も、もはやエヴェリの耳には届かない。
ふわふわと地に足がついてない心地だ。人は全く想定していなかった出来事が起こると何も考えられなくなるらしい。彼の切実な訴えは衣擦れの音も許してくれないようだった。
「──私から離れようとしないでくれ。貴女の口から他の令嬢を迎え入れろなどと、聞きたくない。胸が張り裂けそうなほど苦しい」
セルゲイは苦悶の表情を見せる。
「政略結婚の義務ではない。愛しているからこそ、私の花嫁は後にも先にも貴女だけなんだ」
ゆっくりとエヴェリの止まっていた時が動き始める。
(わた……しを、好き? 誰が? セルゲイさまがっ!?)
噛み砕く前に口が動く。握られていた手を振りほどき、胸元に持っていく。
「う、受け取れませんっ」
出てきたのは拒絶の言葉だ。ずるずると下がり、セルゲイから距離をとって振りかぶる。
「わたくし、わたくしは、だって貴方に恨まれるべきで」
分からない。嫁いできた時、寄る辺ないエヴェリは見捨てられることと、身代わりが露見しないことが優先だった。その目的を達成するためには、円満な関係を構築するのは最善だ。罪悪感を抱いてでもすんなりと受け入れればいいのに。どうして自分は彼を拒絶するような発言をしているのだろうか。
こんなことしても誰も幸せにならない。理解していても止まらない。
「敵国の姫ですよ? わがままで、傲慢で、憎まれていて、無理やり嫁いできた押しかけの花嫁で────」
相応しくないと言いたいのに、口が止まる。
(でも、嬉しいと思ってしまったの!)
その感情が何なのか。認めたくないが、もうずっと前から知っていた。
(夕食も朝食も楽しみになって、彼が居ない昼食は寂しさを覚えるようになって。私にほほ笑みかけてくださる度、心の臓が温かくなって。指輪だって、セルゲイさまから頂けたのが泣きたくなるほど嬉しかった)
こんな感情を抱いてはいけない。気の所為にしなければならない。ずっと溢れそうになる度にぎゅっと押し込んで鍵をかけて封印を施していた。
自覚してしまうと形が作られてしまう。知らないふりをして、けれどもすくすくと成長していた芽は、意思に反してもう蕾をふくらませていた。
──あともう一歩、踏み出したら大輪の花を咲かせるほどに。
愛していると告げられて胸が高鳴ってしまった。それが答えだ。
(私は旦那さまをお慕いしている。この世界で唯一の大切なお方)
嬉しさと手放しに愛を受け入れることが出来ない悲しさとその他様々な感情が綯い交ぜになってぐちゃぐちゃだ。
(だからこそ、受け入れてはならない。私の存在は枷となるのですから)
「シェイラ?」
はっと顔を上げる。その拍子に涙が宙を飛ぶ。
全身を支配していた熱が静かに引いていく。何を勘違いしていたのか。
(そうです。今の私はシェイラなのです。セルゲイさまは本来の私を知らないから……)
セルゲイの「愛している」はエヴェリが扮している「シェイラ」に向けられた言葉だ。断じて自分に対してではない。
騙しているという事実が今までとは違う意味でエヴェリを縛る。
セルゲイは黙り込んで涙の跡が残るエヴェリの頬に指を添わせ、優しく拭う。
「シェイラ、すまない。泣かせたかった訳じゃないんだ」
ああ、違う。その名前は──
自覚したばかりの感情はエヴェリを強く揺さぶり、止まりかけていた涙が紫水の瞳から零れ落ちていく。
(私の好きとセルゲイさまの好きは交わらない)
シェイラとこれ以上呼ばれたくなくて。耳を塞ぎたくなった。
***
いつもお読み下さりありがとうございます。
これにて2章完結です。引き続き3章もお読みいただけると幸いです。
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