メイコとアンコ

笹木柑那

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第三章 周りを見れば

1.ヒビ

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 久しぶりにお酒を飲んだ。
 久しぶりに平太の腕の中で寝た。
 平太は腕枕を嫌がる。それなのに昨日は自ら私を懐に招き入れてくれた。
 おかげで今朝は腕をだるそうにだらりと垂らしている。

「ごめんね。重かったよね」

「いや。硬かった」

 頭だからね。

「お詫びにおいしい朝ごはん作るよ。平太、用事って何時までに家を出ればいいの?」

「あー……。芽衣子が仕事で出るときに一緒に出るよ」

 たぶん、私のために仕事を休んでくれたんだろう。

「ありがと」

 平太がくしゃくしゃと私の頭を撫でる。

「いっで……!」

 腕のことは忘れていたらしい。
 私は笑って、台所へ向かった。

 いつもおかゆを炊いている土鍋をよけて、フライパンをコンロに乗せる。

「今日は目玉焼き、どうする?」

「半熟で」

 平太はその日の気分で焼き加減を決める。
 私は今日はしっかり火を通して、割った黄身に醤油を垂らして食べようかな。

 平和な朝。
 久しぶりにすっきりとした朝。
 穏やかな、朝。

 こういう日があるから、人はやっていけるのだろう。
 平太が言った通り、昨夜は思い切り吐き出して、物理的にも吐き出して、身も心も軽くなった私は今日も頑張ろうと思えた。

「ついでにお弁当も作るけど、いる?」

「いる」

 にかっと子供みたいに平太が笑って、私もつられて笑った。

     ◇

 仕事に一区切りがつき、トイレに行くと内田さんに会った。
 お疲れ様です、と挨拶して個室に入ろうとすると「塩原さん」と引き留められた。
 今まさに用を足しに向かう人を止めるか、と思ったが、それほどひっ迫した状況でもないので応じた。

「すみません。こんなところでする話でもないんですが、塩原さんいつも忙しそうにしてるから、なかなか声かけられなくて。少しいいですか?」

 絶対これは「少し」では済まない話だ。
 そう気づいたけれど、了承した。

「ありがとうございます。実は私、妊娠しまして」

「……ほう」

 どこかの部長みたいな相槌が出た。
 人は驚くと思ってもみない反応をするらしい。

 内田さんは確か一つ下の二十五歳で、結婚はしていなかったはず。

「いわゆるできちゃった系です。まだ結婚もどうするか話し合い中で、まだまだ妊娠三か月なんですけど、ちょっと悩んでて」

「そんな大事な悩み事に私が答えられるかはわからないけど」

「塩原さんにしか聞けないことなんです。ズバリ時短勤務って、どうですか? お給料とか、がっつり減っちゃうんですか?」

 まず結婚とか妊娠継続するのかとか、出産とか、産休、育休ではないのか。
 そう思ったけれど、そんなのは他の人に聞くのだろう。
 確かに産むかどうか、結婚するかどうかを考えるときに、この会社で働いていけるのかどうかは気になることだろう。

「そうね。給料とか休暇の申請とかは社規に書いてあるから確認してみるといいよ。時短勤務の場合の計算式も書いてあるから。私の場合を話すと、まあ母と二人やっていけないことはない、くらいの金額はもらえてるかな」

「うーん。やっぱりそんな感じなんですね。それだと先々を考えればやっぱりシングルは難しいか……」

 おお。それも視野に入れているのか。
 本当に想定外の出来事だったようだ。

「うちの会社、制度だけは整ってるから。有給使い切っても育児・介護者には看護対象一人につき年数日の看護休暇もとれるし。それも給料の六割くらいは出る。有給使い切ると欠勤になっちゃうから、そういう制度があるのは本当に助かると思うよ」

「そうなんだ……。私、今まで自分には関係ないことだと思ってそういうの全然確認してなくて」

 看護休暇ができたのは去年で、会社でその掲示を見たとき、天の助けを得たように舞い上がった。
 欠勤と、名前のついている休暇では心象がえらく違う。あの部長にとっては厄介でしかないだろうが、会社が認めてくれていると思えるだけで、心を強く持てる。
 しかも欠勤だと給料は出ないのだから、そこもかなり大きい。
 そんなことも今現在関係ない人は興味を持たないし、掲示を見もしない。内田さんのように。

「在宅勤務も検討中だって。だからかなり働きやすい方ではあると思うよ。制度上はね。利用するにはいろいろあるけど」

「それって、あの部長にいろいろ言われるとかですか?」

 こっくりと頷けば、内田さんはけろりと返した。

「私、そういうのは気にしないんで。使えるものは使う。部長が何言おうが関係ありませんよ」

 私は驚いて目を瞠った。
 内田さんがそういうタイプとは知らなかった。
 これまで私が時短勤務なのを迷惑そうにしていたのを思い出すと複雑な気持ちにはなったが、会社に仲間が増えると思えば心強い。味方であるかどうかは別として。

「じゃあどちらにしろ退職はしないで、産休と育休を取るのがよさそうかな。その間に考えが変わればまたその時だし。ありがとうございます、後は自分でも調べてみます」

 これで話は終わったな、と足を動かしかけたところ、内田さんが「でも――」と言葉を継いだ。
 
「これから育児が始まるってだけでもこんなに不安なのに、塩原さんは介護ですもんね。もっと大変ですよね」

 まさか、風邪を引いた母の看病で休んだ私をズル休みと断じた内田さんにそんなことを言われるとは思わなかった。こちらも何か身近に変化でもあったのだろうか。
 その疑問がわかったのだろう。内田さんは「母が祖母の介護をすることになったんです」と続けた。

「母の実母なんですけど。突然ボケが始まっちゃって、それなのに体は元気だから、もう本当体力が追いつかないみたいで。母も、心身ともにギリギリという感じです」

 それは本当に大変だと思う。
 突然ロックな足音と手拍子で裏拍を取ってくる歩けぬボケ老人だって十分に大変なのに。
 動けるとなると脱走対策も大変だし、迷子になるともっと大変だ。
 拳が飛んでくる場合だってある。

「まだ若いのに一人でお母さんをみてる塩原さんはすごいと思います。私の母は、父も退職させて二人でみてるので」

 やはり引っ越しもしたんだそうだ。
 その苦労を思うと、とても他人ごとではない。

「でもお父さんも大変ね。実の親でもないのに見ないといけなくて」

 そう言うと、内田さんは、うーん、と首を傾げた。

「自分の親の方が大変じゃないですか? だって、いろいろと複雑ですよね。自分がしてもらってきたことを、今度はやってあげなきゃいけないわけで。赤ちゃんのようにそこにかわいさもないし、メリットがないじゃないですか」

 その通りのことは私も思ってはいるが、多くの人は口には出さない。
 ここまで切り込んでくるのをみると、かなり身につまされているのだろう。

「確かに、お金をもらって他人の面倒を見る方がマシだと思うことはあるわ」

 そんなことは言ってはいけないと思ってきた。
 ネット社会の今、そんなことを言ったら炎上するのは間違いない。
 けれど内田さんにつられて思わず口にしていた。

「私も嫌ですね。親の面倒見るなんて」

 あまりにもケロリと内田さんは言って。
 言葉を止めた私に、内田さんは続けた。

「だって、私親の事嫌いですもん。大っ嫌い。子供のことも抱っこさせてやるかと思ってますよ」

 時が止まった気がした。
 ずっと胸の中でわだかまっていた言葉。
 言いたくて、でも言ってはいけないと抑え込んでいた言葉。
 それをこんなにも簡単に口にする内田さんに、驚いて私は言葉が継げなくなった。

「あ、塩原さんも『親のこと悪く言うなんて』とか非難するタイプですか? 介護で迷惑かけられてる塩原さんなら同意してくれるかと思って言っちゃいましたけど」

 私は慌てて首を振った。
 私もこれまで、親の愚痴を言うと、途端に引いて行く人たちを何度か見てきた。だから言えなかったのだ。悪いことだと思ってきたのだ。
 開いた口は何故か微かに震えていた。

「私も母の事は苦手、というか、腹立たしい、というか。好きでは、ない」

 育ててもらったのにそんなこと言うのおかしいよ。
 親が聞いたら悲しむよ。
 反抗期じゃないんだから。

 いろいろ言われた。
 たとえどんな親でも、親の事を悪く言ってはいけない。
 経験からそう学び、口を閉ざしてきた。
 親を大切に思える幸せな環境で生きてきたその人を羨ましく思いながら。

 そのせいなのか、どうしても「嫌い」という言葉だけは口にできない。
 絶対に口にしてはいけない単語、という気がして。

「あ、いい子ぶってますね。親を嫌いとか言うと非難されるからですか? 親を嫌って何が悪いんです? 親なのに子供に嫌われるほどのことをしてきた親が悪いんですよ。私達子供は親を選べないんですから、悪くありません。私達に親をどうにかしなきゃいけない責任なんて、ないんですよ」

 そう言われれば、何かがパキリと音を立てて壊れた気がした。

「塩原さん、いかにも優等生の模範解答を繰り返す、いい子の仮面被ってる感じですもんね。だけど親だって人間ですよ。私だって人間です。そこに単純に好きと嫌いがあったっておかしくない。いい親ばっかりじゃない。どうにもできない親子関係だってある。それなのに、親なんだから、子供なんだから、って。外野がうるさいってんですよ。親の悪口を言わずに済む自分の幸せを他人に押し付けるな、人の気持ちくらい自由にさせろってんですよ」

 これまで、そんな風に言ってくれた人はいなかった。
 メイコはこれまで「しょうがない」と私を慰め続けてきた。
 ずっとメイコとしかまともに喋ってこなかったから。
 誰かと深い話をすることがなかったから。

 私の中で私を抑え付けていたものが壊れた。
 その時初めて見えたものがあった。
 それは自分でも思ってもみない感情だった。
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