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4 聖人候補の領地経営

797 慈善家か商人か

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797

「お疲れの所、夜分にお呼び立ていたしまして大変申し訳ございません、ラーゼン男爵令嬢」

ホテル一階にあるサンルーム風に仕立てられた豪華なティーサロンで、令嬢を迎えて立ち上がったサガン・サイデムは優雅に会釈をする。その様子はついこの間まで平民であったことが信じ難いほど堂々としたもので、カラリナは彼にさらに好感を持った。

(本当に素晴らしい方。この方ならばきっと貴族社会の中央まで辿り着くに違いありませんわ)

「どうぞカラリナとお呼びくださいませ、サイデム様」

カラリナの声は落ち着いていてこの上なく優しく、表情にも声音にもサイデムに対する強い想いが滲み出ていた。

「恐れ入ります……ではカラリナ様。時間もあまりござませんので単刀直入に申し上げますが、実は、貴方様にお伝えしておきたいことがございます。

それは、あの場では申し上げられなかった葡萄酒製造に関する事柄なのです。これからお話しすることは、外部には言わずにおくことになっておりますので、あの場では申し上げられませんでした。ですがこの状況で何も話さずにおくことは、あまりに不誠実であろうと考え、カラリナ様だけには真実をお話ししておくべきだと考えたのでございます」

「真実……で、ございますか?」

「はい」

カラリナは新しい葡萄酒製造法の普及に関しサイデム商会がとった一連の行動をいたく尊敬していた。それほどに葡萄酒事業の成功により素晴らしい特産品と貴族としての誇りとなる事業を得られたことは、領地にとってもラーゼン男爵家にとってもこの上ない喜びだったのだ。

大貴族からではなく、ラーゼン男爵家のような下位貴族から葡萄酒製造を広めてくれたサガン・サイデムの慈悲深い心に、カラリナは心酔しきっていた。

だが、その敬愛するサイデムがあの場で語れなかったことがあるという。

(いったいなんなのかしら……)

少し不安な気持ちで、それでも努めて平静を装い話を聞くカラリナに、サイデムは極めて丁寧な口調で話し始めた。

「まず第一にあの葡萄栽培法と製造技術は、私が開発したものではなく、開発の指示すら私はしておりません。いまでは有名になったあの〝ラボ〟を作り出した〝イス研究所〟の研究員たちが確立した方法なのです。もちろん、研究所へは出資をしておりますし、資金援助といった支援も行っておりますが、その研究所の設立を発案したのも私ではなく、いままでも今回も私はその成果を買い取ったに過ぎません」

「それは……その研究所の方々は、サイデム様のために研究をされているのですから、その成果をサイデム様がお使いになるのは当然ではございませんの?」

カラリナは首を傾げる。

「確かにそうかもしれませんが、いや……私のために研究しているとも実は言えないのですよ。あの研究所には私以上に出資している人物がおりますからね。ともかく、この栽培に適した強い苗を誕生させるための労力と製造技術の改良は私の手柄ではないことを、まずはわかっていただきたい」

「はぁ……」

真剣な表情のサイデムが何を言わんとしているのか、いまひとつわからないカラリナは、とりあえず相槌を打ちながらも困惑していた。

「そして貴女が私のことを高く評価してくださった要因であるこの葡萄栽培に関する一連の技術の普及方法ですが、それを考えたのも私ではありません。私にと進言したのは、この葡萄栽培研究をしていた研究員なのです」

「えっ?」

カラリナは思わず声を出した。

「貴女は私のことを慈悲深いとおっしゃいましたが、それは違う。短期的に考えるならば、サイデム商会としては、すでに良い関係を築いている高位の貴族の方々にお話を持っていく方がずっと簡単で利益も大きく見込めるのです。その研究員から小さな領地の貴族たちへとまずはこの栽培方法を普及させていくべきだと言われていなければ、貴女の大事なラーゼン男爵家にこの事業へのお誘いが行くことは絶対になかったのです」

サイデムは冷徹な商人の目で、カラリナを見据えた。

実際、メイロードの出したこの条件について、サイデム商会内では当初は反対意見もあった。目先の利益を優先するならば、コンサルタント料も大して払えないような小さな領地での葡萄酒作りに対し時間をかけ、しかも優先して大きな支援することは、とても効率が良いとはいえない。

だが、メイロードの考えは違った。ワインビジネスは長く続いていく産業であり、その価値を高めるには品物の多様性が必須だとサイデムに訴えた。

「葡萄酒は微妙な条件の違いで味が変化します。十の土地からは十の味、百の土地からは百の味。増えれば増えるほど名酒が生まれる可能性も高まりますし、味に幅が生まれます。それに栽培地が分散していれば仮に農業被害が出た場合も、全滅の危険を回避しやすいのです。それでこそ安定供給ができるというものですよ」

そしてもうひとつ、サイデムがメイロードの案を採用し、下位貴族たちからこのビジネスを始めた大きな理由があった。そうしなければ小さなワイナリーが参入する機会が著しく減ってしまい、参入は望めなくなるだろうというという予測を聞き、それは商売上よろしくないと考えたからだ。
もちろん財政的に余裕があまりない下位貴族たちの収入強化になればというメイロードの思いはあったが、サイデムは小貴族の方が商売相手として御しやすいと考えていた。

先に大貴族に話を持ち込んだ場合、資金的に圧倒的に不利な小貴族に参入の機会はまずない。しかも、大貴族たちは一筋縄ではいかない地位や権力を持っているため、サイデムの望むようにはなかなか動いてはくれない。それに比べて、小貴族たちに恩を売りながら、関係を築き上げつつ指導してビジネスが成功すれば、できたワインの引き取りも容易で、むしろ感謝されながら、多くの種類の良質な葡萄酒をサイデム商会が一気に手にすることになる。

サイデムがメイロードの案に乗ったのは、そうした実利的なメリットがあったからだ。

「私は商人です。慈悲の心だけでは決して動きません」

先ほど見た、あの人懐っこい感じを残した素敵な笑顔でそういうサイデムに、カラリナは呆然としていた。

「お時間を取らせてしまいましたね」

サイデムは相変わらず紳士的だったが、カラリナには彼がまったく別の人物のように見えていた。立ち上がるサイデムに、カラリナは声をかけることさえできず、会釈をして見送ることしかできなかった。

「ラーゼン男爵家の皆様とは、これからも末長くお付き合いをさせていただきたいと考えております。今回のお話とは関係なく。来年も良いワインができることを期待しております」

婚約者候補の幻想を粉々に打ち砕き、悠々と立ち去る世界一の商人の姿を見つめたまま、カラリナの口元には乾いた笑いが、そしてその目からは一筋の涙がこぼれ落ちていた。
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