利己的な聖人候補~とりあえず異世界でワガママさせてもらいます

やまなぎ

文字の大きさ
上 下
84 / 840
2 海の国の聖人候補

273 幻想への旅路

しおりを挟む
273

「このグラスも宿の備品でしょう?粗末にするのは感心しませんね」

美しい少女の声でいきなり説教をされ、何事かとうつむいていた顔を上げると、

男の前には、二人の少年を従えた小さな少女が立っていた。

酒漬けでうまく頭も働かない男の前に突然現れたその少女は、そばにいた少年に素早くグラスの残骸を片付けさせた後、ゆっくり男のいる机の方へ近づいた。

男は、鈍く痛む頭を抱えながら、ぼんやりとこう思った。

(3人ともなかなかの美形だ。

特に少女の美しい瞳と艶のある唇、そして見たことのない妖しい翠の長い髪は噂に聞く〝魔術宿る〟ものだからなのか、とにかくこの小さな娘は、なんだか普通じゃない気がする……)

この貧乏宿には全くふさわしくない高貴な〝何か〟が、男の気持ちをざわつかせた。

「だ、誰だ。どこから入ってきた?俺にはもう何もないぞ」

何もかも失うべくして失ったこの男にやってきた、これは一体なんなのだろう。混乱して躰を震わせるこの弱い男に、少女は年に似つかわしくない非常に落ち着いた美しい声でこう言った。

「ルーイン・ガウラム。
あなたの見捨てたあの領地は〝休眠地〟となり、治める人もなく、領民と共に死に絶えようとしています。

ですが、それを立て直したいと願う領民たちは、それにアラガい立ち上がろうとしています。

今、あの土地の再生のために、新しい領主を立てる事が必要です。

あの領地を私に売って頂けませんか?」

「はぁ?」

ルーイン・ガウラムは、心底あきれ返ったと言う声を出した。

「売れるならとっくに売ってるよ。あそこが〝休眠地〟になっているってことは、あそこに価値がなくお荷物でしかないってことなんだよ。その土地に値段をつけるって言うのか、あんた!」

「ええ、あなたが逃げている借金から解放して差し上げてもいいですよ」

少女の言葉にルーインの目に光が戻った。

「本当か?この宿の金も大分溜めてるが、それもか?!」

「よろしいですが、もうひとつ売って頂きたいものがございます」

「まさか、これじゃないよな」

ルーインが隠したのはひとつの指輪、サビーナのための婚約指輪だった。

この期に及んでも、彼はサビーナとの幻想の恋の中にいるのだ。

少女は哀れみの表情を一瞬見せた後、真剣な表情に戻り交渉を続けた。

「いいえ、私が欲しいのはあなたの名、ガウラムの家名です」

「は!こんな没落した名がなぜ欲しい」

「長くあの地を治めてこられたガウラムの一族には信用がございます。
領地立て直しのためにも、ガウラムの名を継ぐものに、治めさせた方が〝休眠地〟解除も早いでしょう。
町の者たちも、前のご領主様をそれは尊敬されていますし……」

「で、私はボロクソに言われているわけだ!いいですとも、こんな名前に未練はありません。元々勘当されていたんだ!
貧乏のどん底のあの街で責められ続ける領主になんて、なんの未練もない!

誰でも、やりたい奴がやればいい!!」

そこで、思いついたようにルーインは付け加えた。

「借金の精算以外に、す、少しだけでいい。金をくれないか?
少しの間、旅ができればいい……頼む」

表情を顔に出さないようにした少女は、頷いた。

「判りました。あなたが前を向くために必要なお金のようですから、ご用立て致しましょう。ただし、契約は、厳しいものになりますよ」

そう言うと、少女は一枚の契約書を取り出した。

「魔法契約か……分かった」

違えれば強烈な罰、時に死を伴う契約にルーインは意外なほどあっさりと血判を押した。

「これでサビーナに会いに行ける……」

呻くように繰り返し呟く彼を見て、少女は

(恋って怖い)

そう思わずにはいられなかった。

そして、名もない貴族ですらないルーインとなった青年に訪れるだろう絶望を思い、彼にとっての最初の、そして最も重い罰にため息をついた。

彼が心弱く育った原因は、様々なボタンのかけ違いだ。

息子を失いたくない母、妻を傷つけたくない夫、その結果領主として何も見ず聞かず教わらずに育った気持ちも躰も弱い若様。そして、志半ば、息子に何ひとつ継承できず失意の中で亡くなったご領主様……

ルーインは圧倒的に領主としての資質に欠けていたし、本人も周囲もそれを知っていたが、全てが彼を甘やかしたまま、悪戯に時だけが過ぎてしまった。
彼自身もまた、自分の立場や責任の持つ厳しさから逃げ、向き合う努力もせず、やがて現実から逃げるように自らの恋の中に溺れ、その成就を信じて、全てを崩壊に導いた。

領の豊かさが彼の弱さを補ってくれるはずだと父や領民の努力に甘え、その富の価値も源泉も知らぬまま、何もせず、ただ何かのせいにして、自分に向けられる非難と責任から逃げた。

そして、彼に残ったのは儚い恋の幻想だけだ。

だが、全てを失い、わずかな路銀と共にその旅路へ向かう彼のカンバセは、先ほどまでの陰鬱な表情が嘘のように明るく希望に満ち、愛する人に再び会える喜びに、無邪気に輝いていた。
しおりを挟む
感想 3,002

あなたにおすすめの小説

伯爵令嬢の秘密の知識

シマセイ
ファンタジー
16歳の女子高生 佐藤美咲は、神のミスで交通事故に巻き込まれて死んでしまう。異世界のグランディア王国ルナリス伯爵家のミアとして転生し、前世の記憶と知識チートを授かる。魔法と魔道具を秘密裏に研究しつつ、科学と魔法を融合させた夢を追い、小さな一歩を踏み出す。

【一話完結】断罪が予定されている卒業パーティーに欠席したら、みんな死んでしまいました

ツカノ
ファンタジー
とある国の王太子が、卒業パーティーの日に最愛のスワロー・アーチェリー男爵令嬢を虐げた婚約者のロビン・クック公爵令嬢を断罪し婚約破棄をしようとしたが、何故か公爵令嬢は現れない。これでは断罪どころか婚約破棄ができないと王太子が焦り始めた時、招かれざる客が現れる。そして、招かれざる客の登場により、彼らの運命は転がる石のように急転直下し、恐怖が始まったのだった。さて彼らの運命は、如何。

国外追放だ!と言われたので従ってみた

れぷ
ファンタジー
 良いの?君達死ぬよ?

魔力∞を魔力0と勘違いされて追放されました

紗南
ファンタジー
異世界に神の加護をもらって転生した。5歳で前世の記憶を取り戻して洗礼をしたら魔力が∞と記載されてた。異世界にはない記号のためか魔力0と判断され公爵家を追放される。 国2つ跨いだところで冒険者登録して成り上がっていくお話です 更新は1週間に1度くらいのペースになります。 何度か確認はしてますが誤字脱字があるかと思います。 自己満足作品ですので技量は全くありません。その辺り覚悟してお読みくださいm(*_ _)m

【完結】ポーションが不味すぎるので、美味しいポーションを作ったら

七鳳
ファンタジー
※毎日8時と18時に更新中! ※いいねやお気に入り登録して頂けると励みになります! 気付いたら異世界に転生していた主人公。 赤ん坊から15歳まで成長する中で、異世界の常識を学んでいくが、その中で気付いたことがひとつ。 「ポーションが不味すぎる」 必需品だが、みんなが嫌な顔をして買っていく姿を見て、「美味しいポーションを作ったらバカ売れするのでは?」 と考え、試行錯誤をしていく…

【完結】精霊に選ばれなかった私は…

まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。 しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。 選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。 選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。 貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…? ☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。

あなた方はよく「平民のくせに」とおっしゃいますが…誰がいつ平民だと言ったのですか?

水姫
ファンタジー
頭の足りない王子とその婚約者はよく「これだから平民は…」「平民のくせに…」とおっしゃられるのですが… 私が平民だとどこで知ったのですか?

実は家事万能な伯爵令嬢、婚約破棄されても全く問題ありません ~追放された先で洗濯した男は、伝説の天使様でした~

空色蜻蛉
恋愛
「令嬢であるお前は、身の周りのことは従者なしに何もできまい」 氷薔薇姫の異名で知られるネーヴェは、王子に婚約破棄され、辺境の地モンタルチーノに追放された。 「私が何も出来ない箱入り娘だと、勘違いしているのね。私から見れば、聖女様の方がよっぽど箱入りだけど」 ネーヴェは自分で屋敷を掃除したり美味しい料理を作ったり、自由な生活を満喫する。 成り行きで、葡萄畑作りで泥だらけになっている男と仲良くなるが、実は彼の正体は伝説の・・であった。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。