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10.足りなかったもの
しおりを挟む「【Glace】はね、昔は骨董屋さんだったのよ」
クリスさんの旦那さん、つまり海涼さんのおじいさんが元々経営していた場所らしい。骨董品を収集し、それを売っていたのだそうだ。
そんなおじいさんがまだ二十代の頃、骨董品の買い付けのため一時的にフランスに渡航した。そこで出会ったのが、取引先のご令嬢だったクリスさん。おじいさんはクリスさんにひと目惚れし、猛アタックの末、骨董品と共にクリスさんを日本へ連れ帰ってそのまま結婚したのだという。
「……すごい話ですね」
それしか言葉が出てこない。思ったよりもぶっ飛んでいて、まるで物語の世界のようだった。
「ね。でも、本当に素敵なお話だわ」
にっこりと微笑んだ文子さんが話を続ける。
結婚後子宝に恵まれつつ二人は骨董屋を営み続けたそうだが、おじいさんが五十路手前で難病を患ってしまい、闘病生活を送っていたが治療の甲斐むなしく帰らぬ人となってしまった。
骨董屋は店主を失ったが、それを引き継いだのがクリスさんなのだそうだ。旦那さんと交際を始めた際に日本語を猛勉強していたクリスさんは、完璧に日本語をマスターしており、ひとりで十分経営していけるレベルだった。
そして、二代目店主となったクリスさんは骨董屋だった店を雑貨店としてリニューアルオープンさせ、その際に店名を【Glace】へと変えた。
これは、おじいさんの遺言だったのだという。もし、自分がいなくなった後も店を続けていくつもりなら好きに変えてしまっていいと。骨董品は売却して、リニューアルさせるための資金の足しにしてくれとクリスさんに伝えたそうだ。
おじいさんの遺言に従ったクリスさんは、やがて【Glace】を開店するまで至った。客層がガラリと変わり、骨董屋の時は商品が商品だからか年配客やコレクターが多かったが、雑貨店になってからは年齢層が一気に幅広くなり、特に女性客が圧倒的に増えたのだそうだ。
そうして【Glace】が開店して軌道に乗り始めた時に、文子さんはクリスさんと出会ったのだという。
「今だから言えるのだけど、最初は冷やかしのつもりだったのよ。近くにオシャレな雑貨屋さんができたって聞いてね」
そんな文子さんだったが、クリスさんの為人に魅かれて何度も足を運び、歳が近いこともあってか親睦を深めていった。文子さんだけでなく、クリスさんはこの辺りに住んでいた人たちから愛されていたという。
だからこそ、クリスさんが亡くなった時は親族だけでなく多くの人が大層悲しんだそうだ。
再度店主を失った【Glace】は引き取り手がおらず、長いこと閉じられたままだった。クリスさんの実子、つまり海涼さんの父親はいわゆるサラリーマンで長年勤めていたこともあり、地位もそれなりに高い位置にいた。雑貨店自体にもさほどの興味がなかったため、最初から継ぐ意志はなかったそうだ。
それでも、亡き父母が長年経営してきた店ということもあってすぐに手放すのは惜しいと思ったのか、海涼さんの父親は知り合いで誰か引き継いで経営してくれる人がいないかを探していたらしい。けれど、それから数年経過しても、ついぞ継いでくれる者は現れなかった。
そろそろ潮時か。こうなってはもう、土地ごと売却してしまうしかない。海涼さんの父親がそう考えた矢先に、名乗りを上げる者がいた。
「それが、海涼さん……」
「そう。大学を卒業したばかりの海涼ちゃんが、ここを引き取りたいと名乗り出てくれたのよ」
父親のほうも一度は娘にも声をかけたことがあるらしい。クリスさんに一番懐いていたのが海涼さんで、一番思い入れがあるだろうからと。しかし、その時は海涼さんは自分には無理だと一回断ったのだそう。
【Glace】の引き取り手の話の中に海涼さんが出てこなかったことがずっと気になっていたが、まさか一度断っていたとは。なんだか信じられない。
「海涼ちゃんが心変わりした理由はわからないわ。でも、こうしてお店を引き継いでくれたのだから、もうそれでいいの」
お店を引き継いだ海涼さんは、クリスさんの遺産を使ってお店を少しばかり改装し、商品となる雑貨を仕入れ直し、再オープンした。
そうして、今に至っている。
「お待たせしました」
その時、海涼さんが戻ってきた。手にはオルゴールが入っていると思しき紙袋がある。
「ごめんなさい、ちょうどいい紙袋が切れていて時間がかかってしまいました」
「いいのよ、栄路さんがお話を聞いてくれたおかげで全然退屈しなかったもの」
ね、とウインクをされ、一瞬たじろいだ俺だったがはいと頷いておく。すると、海涼さんがあっと声を上げた。
「今のおばあちゃんにそっくり」
「ふふ、クリスさんの受け売りよ」
二人でひとしきり笑い合ったあと、文子さんがおもむろに椅子から立ち上がった。
「そろそろお暇するわ。二人とも、年寄りの長話に付き合ってくれてありがとうね」
「いいえ。結局、文子さんのお悩みを解決することはできませんでしたから」
「そんなことないわ。お話を聞いてくれただけでも、いくらかスッキリしたもの」
からりと笑った文子さんが踵を返す。
「それじゃあまたね」
「はい、帰り道お気をつけて」
海涼さんが店の扉を開け、文子さんは【Glace】を出て行った。同時に、精霊たちの動きも通常運転に戻る。
それにしても、まさか文子さんたち夫婦の間でまさか精霊が反応するほどのものがあろうとは。そんな迷いはなさそうだと思っていただけに、正直驚きだった。
精霊はオルゴールに宿ったが、オルゴールでどうやってこの問題を解決するつもりなんだろうか?
「文子さんと何の話をしていたの?」
首を捻っていた俺だったが、扉を閉めて戻ってきた海涼さんがそう聞いてきたので思考は打ち切られた。
「あ、【Glace】が元々骨董屋だったって話とか」
「おばあちゃんは小物のほうが好きだったから、雑貨店にしたみたい」
「海涼さん、最初は継ぐ気がなかったってことも聞きました。俺、驚きましたよ」
特に深い意味はなく何気なしに言ったつもりだったが、海涼さんが表情に陰を落とした。
「……自信がなかったの。私には、おばあちゃんみたいに【Glace】の経営なんてできないって」
いつになく弱気な発言をした海涼さんに、俺は一瞬迷ったが思い切って踏み込んでみる。
「何か、心変わりしたきっかけとかあったんですか?」
「ええ。二年前、おばあちゃんのお墓参りに行った時にね」
答えてもらえないかと思いつつダメ元で訊いてみたが、海涼さんは懐かしむように目を細めて、当時のことを語ってくれた。
クリスさんが亡くなってから、海涼さんは毎年きちんとお墓参りに行っていた。二年前の墓参りの時は、ちょうど【Glace】の売却が決まるかもしれないという瀬戸際で、海涼さんは気が沈んでいたという。その報告をしなければいけない――自分が【Glace】を守れないことを祖母に謝ろうと考えていたらしい。
そこまで語った海涼さんは、ふっと視線を丸テーブル上に移した。そこには、いつの間にかメルが腰を落としていた。フニャッと鳴くメルに、海涼さんは慈愛の笑みを浮かべた。
「そこで、この子に――メルに出会ったの」
クリスさんのお墓の目の前に、子猫が丸まっていた。その子猫は、海涼さんが近寄っても警戒することなく、それどころか足元に擦り寄って来たらしい。
お墓参りを終えて帰ろうとした海涼さんだったが、子猫はあとをついてきた。海涼さんがやんわりとダメよと言っても、構わずついてそばを離れなかったようだ。困り果てた海涼さんだったが、辺りに親や兄弟の姿が見えなかったため、子猫にこう聞いた。
──一緒に来る?
すると、子猫はまるで返事するかのようにフニャッと変わった鳴き声を上げ、海涼さんに飛びついたという。そして、最終的に連れ帰って家族として迎え入れることを決めたらしい。
海涼さんはその子猫を〝メル〟と名付けた。メルはフランス語で海を意味する。自分の名前にも入っている字だし、祖母の名づけをリスペクトした結果だそうだ。
墓参りのあと、海涼さんはメルを連れて閉店した【Glace】に行った。店がなくなってしまう前に見納めのつもりで、父親に無理を言って借りた鍵で店内にまで入った。
埃被った薄暗い店内を見た時、海涼さんは涙があふれて止まらなかったそうだ。大好きだった祖母との思い出が詰まった大切な場所がなくなってしまう。でも、自分に引き継げるとも思えずどうすることもできない。泣き崩れる海涼さんの額に、ふいに柔らかい何かが触れた。
腕の中にいたメルが、前足の平を当てたのだ。拾った子猫が慰めてくれているのか。大丈夫よ、と言おうと顔を上げた瞬間――奇跡が起こった。
「精霊がね、いたの」
精霊は、自分が小さい頃から見えていた慣れ親しんだ存在。そして、精霊の祝福が【Glace】に訪れた客人の曇った表情を晴れさせるのを、間近でずっと見てきたのだ。
祖母が亡くなったあと、いつに間にかいなくなっていたそれらが、再び自分の目の前に現れた。さっきまでいなかったのにどうして突然……とわけがわからなかった海涼さんは、メルに視線を落とした。
――メル、まさか、あなたが?
訊いても、メルはフニャッとひと声鳴くだけで、当然真相はわからなかった。でもこれはきっと、亡き祖母が残した祝福だ。もしここで自分が何もせずに立ち去れば、精霊とは二度と会えない。そんな確信にも似た予感がしたという。
この精霊たちだけが、祖母との思い出を繋いでくれる唯一のもの。もう失いたくない――そんな強い思いが海涼さんの背中を押した。
「それで、【Glace】を継ごうって決心がついたんだ。私も、おばあちゃんのように誰かに寄り添えるようになりたいって。──メルのおかげで、そう思えるようになったの」
海涼さんは愛おしそうにメルの頭を撫でた。メルは気持ちよさそうに目を細め、ぐるぐると喉を鳴らしている。
海涼さんはメルをちょっと不思議な猫などと言っていたが、今の話を聞くに、本当に海涼さんにもメルのことはほとんどわからないのだろう。
出自不明で得体の知れない猫だが、少なくともメルはこの店になくてはならない存在であることは間違いない。海涼さんを救い、俺をもここへ導いてくれた。おそらく、ここに来る客もこの猫に助けられていることだろう。
なら、それでいいんじゃないか。海涼さんと精霊とメルの存在で【Glace】は成り立ち、ここに来る迷える人々を救っているのだから。
とても優しい顔をしていた海涼さんだったが、ふとそれを苦笑へと変えた。
「結局、私は何もできていないんだけどね。お客さんの気持ちに変化を与えているのは、精霊たちの力だもの」
「──そんなことないです」
「え?」
驚く海涼さんを、俺は真っ直ぐに見つめて言う。
「俺は精霊の祝福なんて受けてませんけど、海涼さんの言葉に救われました。そのおかげで、俺は大切なものが取り戻せたんです」
慰めでもなんでもない。まごうことなき本心を真剣に伝える。
「海涼さんは、ちゃんと誰かの力になれてますよ」
どの立場から言ってるんだと思われそうだが、他にいい言葉が見つからず、とにかく伝えなきゃという気持ちが逸ってしまった。
目を見開いていた海涼さんは、やがて表情を和らげた。
「……ありがとう、栄路くん。そう言ってもらえて、私のほうこそ救われた気分になるわ」
私のやっていたことは、無駄じゃなかったって思えるから。
海涼さんの表情が綻ぶ。どこか照れたようではあったが、それでもとても嬉しそうに。
「文子さんたちも、上手くいってくれるといいんだけど」
「ずいぶん気にかけてるんですね」
「おじいちゃんは私が生まれる前に亡くなっちゃったからわからないんだけど、文子さんたちを見ていると、おばあちゃんたちもそうだったのかなって」
そう、というのは仲の良さを示しているのだろう。クリスさんはフランスからはるばる日本へ来て、旦那の遺言に従って【Glace】を経営し続けて一生を終えたのだから、きっと仲睦まじかったに違いない。
「だから、あの二人には双方にとっていい結果になってほしいなって、そう思うの」
海涼さんは伊東夫妻を自分の祖父母と重ねているのだろう。だから、より親身になって案じているのかもしれない。
「上手くいきますよ、きっと。だって、精霊がついてるんですから」
「ふふ、まさか栄路くんにそんなことを言われるなんて思わなかった」
俺はなんだか恥ずかしくなって後頭部を掻いた。すると、海涼さんは再びふふっと笑った。
「ごめんね、もうすっかりここに馴染んだんだなって、嬉しくなっちゃっただけなの。……けど、それももうすぐ終わっちゃうのよね」
「……はい」
急に寂しさが込み上げてきた。俺のアルバイト期間はこの夏休みの間だけ。だから、出勤も残すところ二週間を切っている。
そうか、もうそんなに経っているんだな、と改めて思う。今日までで約一ヶ月【Glace】で働いていることになる。なんだか、ここまであっという間だったな。
やや感傷に浸っていた時、フニャッとメルの鳴き声が聞こえてきた。そちらに目をやると、テーブル下にメルの姿が見える。そんなところに潜り込んでどうしたんだと思ったが、よく見るとメルのそばに何かが落ちていた。
「あれ? これって――」
海涼さんが拾い上げたのはタオルだった。花がワンポイントとしてあしらわれている。よくよく見ると、ところどころほつれており、だいぶ年季が入っているようだった。海涼さんが目を丸くする。
「文子さんのだわ」
「え、わかるんですか?」
「ええ、間違いないわ」
海涼さんがやけにきっぱりと言い切る。ふむ、思い返せば今日この席に座ったのは文子さんだけだったな。
「落としたことに気づかなかったっぽいですね」
「ええ……うーん、どうしよう」
海涼さんが困った表情で考えている。どうやら、あのタオルは文子さんにとってとても大事な物のようだ。
文子さんが出て行ってから五分も経っていないし、こう言うと失礼だがお年寄りだしきっと足もそこまで早くはないだろう。今から行けば間に合うかもしれない。
「文子さんの家、そんな離れてないんですよね? だったら俺、届けてきますよ」
「え? でも……」
俺の提案に海涼さんはしばし難しい表情で思い悩んでいる様子だったが、やがて何かを振り払うように首を振って俺を見た。
「……そうね。まだ暑いし、万一のこともあるから、悪いけどお願いしてもいいかしら」
「はい、任せてください」
俺が頷くと、海涼さんはスマホの地図アプリを開いて文子さんの家の場所を教えてくれた。意外と距離はあったが、まぁなんとかなるだろう。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
「うん、お願いね」
俺はエプロンを脱いで店の外に出た。まだ昼下がりということもあり、日差しがキツく思わず目をすがめた。それに、冷房の効いた室内にいたものだから、むわっとした熱気が襲いかかってきて息苦しささえ感じる。地面がアスファルトなのがこの暑さに拍車をかけているとも言えよう。
早いとこ済ませて【Glace】に戻ろう。このままじゃ蒸し焼きになっちまう。俺は意を決して地を蹴った。
走る視界の端で景色が流れていく。そういえば、帰省した時地元ではそこらじゅうでアキアカネが飛んでいた。八月にはもう飛んでいるが、トンボを見ると自然と秋を感じてしまうのはもはや日本人の性だろう。
さすがに都会の街中とあってトンボの姿は見えないが、思えばこの景色も随分と見慣れたな。メルに導かれて最初にこの場所に来たときは、まるで異世界にでも迷い込んだかのような感覚に陥ったものだ。実際は、なんの変哲もないありふれた街並みなのに。
あの日、あの乗り換えルートを選んで正解だったと思う。早さと楽さを優先していたら、俺は木から降りられなくなった猫を助けることも、助けた猫に連れられて精霊のいる奇妙な雑貨店に辿り着くことも、その雑貨店の店主に巡り合うことも、何ひとつなかっただろう。
自分の好きだったものを否定し続け、疎遠になった地元の友人たちに事情を打ち明けることもできなかったかもしれない。俺は今も鬱々とした気分から抜け出せず、何の生産性もない夏休みを送っていたことだろう。
【Glace】のおかげで得られたものがたくさんある。海涼さんが守った【Glace】があったからこそ、今の俺があるのだ。
そうして時々立ち止まって地図を確認しながらしばらく走っていると、視界の先に目的の背中を捉えた。
「いた……! 文子さん!」
俺が走りながら声を上げると、ゆっくり歩を進めていた老婦人が振り向く。
「あら、栄路さん?」
驚いた表情で歩みを止めてくれた文子さんの元に辿り着き、俺は膝に手を当てて荒い呼吸を繰り返す。
「どうしたの? そんなに息を切らして……」
「あ、あの、これ」
ぜぇぜぇと呼吸を荒げながらも、手に持っていたものを文子さんに差し出す。
「……私のタオル?」
タオルを受け取った文子さんは、いつの間に落としてしまったのかしら、と目を丸くしている。
「やだ、わざわざこれを届けに? お店で預かっててくれてもよかったのに」
「外、こんなに暑いんで、ないと困るかなって……。海涼さんもそう言ってました」
「そう……、ありがとうね」
文子さんは微笑んでタオルに視線を落とした。
「大事なもの、なんですよね」
「え?」
「だって、けっこう使い込まれてるみたいだったんで」
すると、文子さんは目元を和ませた。
「これは、【Glace】で買ったものなの。クリスさんがまだご存命だった頃にね」
「え、【Glace】で?」
そうだったのか。だから、海涼さんもすぐにわかったんだな。
「なんだったかは忘れてしまったけれど、これを買った時、私は何かに迷っていた気がするの。たぶん、クリスさんにそのお話をしたんだわ。そうしたら、これを身につけておくのはどうかって」
きっとラッキーアイテムになるわよ、ってウィンクしながら言ってくれたの、と文子さんは言った。
「それで、買うことにしたんですか?」
「ええ。クリスさんが言うなら、そうなのかもしれないって自然とそう思っちゃったのよ。値段は全然高くはないし、可愛らしいワンポイントがあったから」
そうしたらね、と文子さんは続けた。
「しばらくしたら私の迷い事はきれいさっぱりなくなったのよ。クリスさんの言った通りだわ、って驚いたのが今でも思い出せるもの」
言って、文子さんはオルゴールの入った紙袋に視線を落とした。
「だから、今回もなんとか解決してくれたらいいのだけど……なんてね」
そんなにうまいことはいかないでしょうけど、と言って老婦人は苦笑した。
いや、そんなことはない。きっと彼女の迷いは解決されるはずだ。だって、文子さんがさっき買ったオルゴールには精霊が宿っている。どんなかたちかはわからないが、精霊の祝福が彼女を助けてくれるはずなのだ。
これが、本人に伝えられないのがもどかしい。海涼さんから、精霊に関することは口外しないよう言われているわけではない。けれど、これについて言いふらすようなことを俺はしたくなかった。言ったところで信じてもらえないだろうというのもあるが、何よりそれでは意味がないと思ったからだ。
「――あ」
ふと俺が顔を上げると、視線の先にこちらに向けて歩いてくる姿が見えた。
「どうしたの?」
「あ、いや、あっちに浩さんがいて」
俺が指さした先を見て文子さんが目を丸くした。
「あら、本当ね。なんでいるのかしら」
あの人暑いの苦手なのに。そう言って、文子さんが一歩踏み出した時。突如、華奢な身体がバランスを崩した。
「……っ!」
俺は咄嗟に腕を伸ばし、あわやのところで抱き留める。――その直後に、ガシャンという音が聞こえた気がした。
「……っぶねー」
あまりのことに心臓が早鐘を打っている。我ながらよく動けたものだと思う。あと一歩遅ければ、文子さんは地面に打ち付けられていたかもしれない。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……え、ええ、大丈夫よ。ありがとうね」
文子さんは驚いたようだったが、見る限りどこも怪我していないようだった。俺はほっと息を吐く。
「立てますか?」
「ええ」
文子さんを支えて立ち上がりながら足元を見れば、歩道に敷き詰められたブロックがひとつ浮き上がっていた。おそらく、それに躓いてしまったのだろう。
「文子!」
浩さんが急いで俺たちの元にやって来た。よく見ると、顔色が若干悪い。文子さんが転倒しかけたことに肝を冷やしたのだろう。
「あなた――」
言いかけた文子さんがふいに小さく悲鳴を上げた。
「オルゴールが……!」
文子さんがしゃがみこみ、何かを拾った。そういえば、先ほどガシャンという音が聞こえたような。あれは、オルゴールが落下した音だったのか。落下の衝撃で箱から飛び出て地面に転がっていたようだった。
「まさか、壊れてないでしょうね……」
そう言って、文子さんが底についていたゼンマイを回した。しかし、音は鳴らない。
「……そんな」
言葉を失っている文子さんの横で、俺もまた呆然とした。
うそだろ、マジで壊れちまったのか? この場合どうなるんだ? オルゴールには精霊が宿っているはずだ。しかし、その物が壊れてしまったとしたら、精霊もただでは済まない? となると、祝福を授けることができなくなっちまうってことか?
まずったな。そんな話は海涼さんから聞いてないからわからない。文子さんは精霊の祝福が受けられず、迷いが解決しないままになってしまうのか……?
「何をやってるんだ、注意して歩け! ババアなんだから怪我もすぐに治らないんだぞ!」
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「はぁ、それにしても、このオルゴールどうしましょ……」
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俺がハラハラとそのやり取りを見ていた時、文子さんの手にあるオルゴールがぼんやりと光り出した。次の瞬間、メロディが流れ出す。これは、【Glace】で聴いたのと同じ、あのオルゴールの音色だった。
「これは……」
時間差で鳴ったわけではあるまい。となれば、理由はひとつ。精霊の仕業に他ならない。よかった、精霊はまだ機能するようだ。
「――いい音だな」
唐突に鳴った音色に驚いた浩さんだったが、やがて目を閉じて聞き入り始める。先ほどまで眉間に寄っていた皺がなくなり、とても穏やかな表情をしている。
「――思い出したわ」
そう言った文子さんは、浩さんに向き直った。
「こんな感じのメロディ、元々あなたが好きでしたね。それで、いつの間にか私も好きになっていた」
ねぇ、浩さん、と文子さんは優しい口調で自分の夫へ語りかける。
「私もね、一緒なんですよ」
「……何がだ」
「あなたの〝嬉しい〟や〝楽しい〟は、私の〝嬉しい〟や〝楽しい〟になるんですよ」
浩さんが目を見開く。そんな浩さんに文子さんは微笑みかける。
「私だけがいい思いしても、あなたが我慢していてはその楽しさも半減してしまうの」
「…………」
「だからね、旅行は川下りのほうにしましょう」
「……お前は、船になんぞ興味ないだろう」
「それを言ったら、あなたこそハイキングになんて興味ないじゃありませんか」
浩さんが黙る。どうやら図星のようだ。興味がないのに、文子さんのためにハイキングを選ぼうとしているのか。
「それに、あなたを通して好きになったものもあるんですよ。このオルゴールの音色のようにね」
一瞬オルゴールに視線を落とした文子さんは、浩さんを真っ直ぐに見据えた。
「私は、あなたと楽しい気持ちを共有したいんです。私ひとりだけが楽しんでいたら意味がない。たとえ、つらいことだったとしても、それも含めてすべてを分かち合いたいんですよ」
それが、夫婦というものでしょう? と文子さんが言うと、浩さんがはっとしたような顔をした。
「たとえ私が興味なくても、楽しんでいるあなたを見られたら、私もいい気分になりますし。あなたもそう思ってくれているんでしょうけど、あなただけじゃないんですよ? 自覚してください」
あんぐりと口を開いていた浩さんだったが、やがて諦めたように息を吐き出した。
「はい、じゃあ川下りで決まりですね」
「……まだ俺は納得してないぞ」
「今回は私のわがままを聞いていただきますからね。いつもあなたのわがままに振り回されているんですから」
お互いに憎まれ口を叩いているが、二人とも声色も表情も優しかった。
そんな目の前の光景がどこか遠くに感じる。俺の中で浮遊していた泡が弾けるような感覚に陥っていた。
──そうか。そうだったんだ。
やっと、やっとわかった。
俺が彼女にフラれた理由。
俺に足りなかったもの。
そして、俺のなすべきことが。
「ごめんなさいね、栄路さん。ほったらかしにして、みっともないところを見せてしまったわね」
「…………」
「栄路さん?」
「え? あ、いえ、俺のことはお構いなく」
ぱたぱたと手を振った俺を不思議そうに見ていた文子さんは、ちょっと待っててねと言って少し離れたところにあったベンチまで行った。盗み見るに、どうやらオルゴールを箱に詰め直しているらしい。
その時、文子さんの手元が光り、光の玉が宙に浮いたのが見えた。精霊だ。精霊はそのままパチッと弾けるようにして消える。お疲れさま、と声には出さず口中で呟いた時、ふいに浩さんが俺に近寄ってきた。
「ボウズ、家内が世話になった。礼を言う」
「あ、いえ、文子さんが無事で何よりです」
まさかお礼を言われるとは思わず少し動揺しながら言うと、浩さんは俺をまじまじと見つめた。
「最初はチャラチャラした男だと思ったが、そうでもないようだな」
「う……」
まぁ、こんな見た目だとそう思うのも無理はない。それでも、浩さんは考えを改め、文子のことでわざわざお礼を言いに来てくれた。浩さんは思ったほど頑固ジジイではないのかもしれない。
「浩さんは、文子さんが本当に大事なんですね」
「長年連れ添ってきたからな。まぁ、あいつの気持ちをわかってやれてなかったみたいだが」
俺もまだまだだ、と浩さんは続けた。照れるのかと思いきや、浩さんは以外にも臆さずそう言ってのけた。なんだか、すごくカッコいい。最初は怖くて頑固そうな感じの爺さんだと思っていたが、れっきとした〝大人の男〟だった。
長年連れ添ってきたおしどり夫婦でも、相手の気持ちが汲み取れないこともあるのだ。ああ、なら、俺なんて全然じゃないか。
まざまざと突きつけられたが、不思議と気分は悪くなかった。以前――【Glace】で働く前の俺だったら、沈み込んで鬱々とした気分にどっぷり浸かっていたかもしれない。
でも、俺は自分の過ちに気づいた。落ち込んでいる場合ではない。
「いつまでも、仲の良い夫婦でいてください」
俺が言うと、浩さんは驚いた顔をしたが、こくりと頷いた。
「よくわからんが、お前さん――栄路くんと言ったか。若者にはまだまだ時間があるんだ。あんまり焦るとろくなことにならんぞ」
「……はい!」
ややぶっきらぼうではあるものの、人生の先輩からのありがたいアドバイスを受け、礼を言った俺に頷き、浩さんは文子さんに声をかけた。
「そろそろ帰るぞ」
「それはこちらのセリフですよ。コソコソ話は終わったんですか?」
「男と男の真剣な話をコソコソ話とは何事だ」
「はいはい」
浩さんがふんと鼻を鳴らして歩き始める。文子さんはふとこちらを見やった。
「栄路さん、タオルを届けてくれたこと、危ないところを助けていただいたこと、本当にありがとうね」
改めて面と向かって礼を言われるとなんだか照れるな。俺はいえと首を振ると、文子さんは笑みを浮かべた。
「私、思い出したの。旦那と大喧嘩した時に、クリスさんがすすめてくれたあのタオルのおかげで仲直りできたんだったわ」
懐かしむように一瞬遠くを見た文子さんだったが、ふっとオルゴールが入った紙袋に視線を落とした。
「今回もそう。また【Glace】で買ったものに救われちゃったわね」
【Glace】は、昔から何ひとつ変わってないわ。
そう言って、文子さんはウィンクをし、こちらを見て待っている浩さんの元へと歩いて行った。
視線の先で二人が並んだ。歩幅を揃えて、帰るべき場所へと進んで行く。
その背を見送り、俺は拳をぐっと握った。さて、俺も戻ろう、【Glace】へ。一連のことを海涼さんに報告しないと。
踵を返した俺の足取りも軽かった。文子さんたちのことが解決したのもあるが、何よりもやっと答えを見つけられた。ずっと胸の奥につかえていたものが取れて、幾分スッキリしている。
でも、スッキリしただけじゃダメだ。まだ何もかも解決したわけじゃない。肝心なのはここからだ。
俺はもう、間違えたくないから。
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ライト文芸
地元の夏祭りを訪れていた少年・狭野笙悟(さのしょうご)は、そこで見かけた幽霊の少女に一目惚れしてしまう。彼女が現れるのは年に一度、祭りの夜だけであり、その姿を見ることができるのは狭野ただ一人だけだった。年を重ねるごとに想いを募らせていく狭野は、やがて彼女に秘められた意外な真実にたどり着く……。四人の男女の半生を描く、時を越えた現代ファンタジー。
※第6回ライト文芸大賞奨励賞受賞作です。
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