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サシャ・ラルカンジュは六歳より前の幼い頃の記憶がない。
気がついたらスーリという宿場街の近くにある村で母と暮らしていた。
サシャは自分が幼い頃から人と違うことを自覚していた。誰にも習わなくても文字が読み書きできたし、世の理を理解できた。そして自分が強い魔力を持っていることも。
けれどそれを知られてはいけないと本能的に察していて、口数の少ない子供だった。
歳格好の近い子供たちは幼く粗暴で、異国の風貌をした訳ありっぽいサシャのことを苛めてもいい存在だと思ったらしい。毎日泥や汚水をかけられて汚れた服を母が帰るまでに洗って乾かすのが日課だった。
母は逞しい女性で、スーリの酒場で厨房を任されて毎日遅くまで忙しく働いていた。帰ってくるのは明け方だ。それでもサシャのことをよく見ていて、苛められていることも知っていた。
「サシャはきっとすごい人になれるよ。いつか大人になったら苛めた奴らが後悔するような立派な人になるよ。だから一時の怒りに我を忘れてはだめよ」
サシャは仕返ししようなんて考えたことはなかった。だってあいつらは自分より弱いし愚かだから。本気でやったら壊してしまうから。
「母さんは僕に『すごい人』になってほしいんだね」
そう問いかけると、母は何か胸を突かれたような表情になって、それからサシャを抱きしめた。
「……そうね。その通りよ。誰かと恋をしたり、お友達を作ったりして、幸せになって欲しいの」
その母が亡くなったのは十歳になる直前のことだった。
「お前、サシャじゃねえか。その額の傷は間違いねえ。いつの間に逃げ帰ってきたんだよ」
スーリの街を歩いていると大柄な男に声をかけられた。着ている服は辺境警備軍のものだった。見覚えはある。サシャを何かと小馬鹿にしていた村の顔役の息子だ。
周りに同じ制服の男たちがいるところを見ると、ここで仕事中なのか。
「ああ、確か、子供を川に突き落として殺そうとした非道な男ですね。その節はお世話になりました」
サシャが穏やかに答えると、他の男たちがぎょっとしたようにその男を見る。
「違う。あれは……」
「やられた本人が言っているんですから間違いないでしょう?」
「てめえ……」
男はサシャの挑発に簡単に乗ってきた。周りが止めるのも聞かず、剣を抜いて斬りかかってきた。
母を葬ってから家に帰ると、家の中のものを勝手に近隣の人たちが持ち出していた。
「何をしているの」
毎月の家賃はすでに払ってあるし、家の中のものを持ち出される言われはない。
「もうお前さんには要らないだろう? どうせ孤児院にでも行くんだろうし。だったら我々が引き取ってやろうと思ってね」
「どうせ金目のものはなかったからねえ」
「勝手なことをしないで」
そう言ったら殴られた。近くの壁に身体をしたたか打ち付けて、額から血が流れてきた。ふらついているところを近所の悪ガキどもに捕まって、川に投げ落とされた。大人たちはサシャの家を物色するのに忙しくて気にしていない。
川は流れは緩いが深くて、サシャは何とかしようと懸命に水をかいた。そこへ子供たちは石を投げてくる。
どうしてこんな目に遭わなきゃいけない。誰にも迷惑をかけていないのに。
母が苦労して買いそろえた家財まで勝手に奪われなきゃいけない。
人間どもはどうしてここまで浅ましく愚かなのか。
『一時の怒りに我を忘れてはダメよ』
母はそう言った。けれど、これは一時の怒りではない。今まで積み重なってきた理不尽への怒りだ。怒りを抱いてはいけないのか。
一人の人間であることまで否定されても、耐えなければならないのか。
身体の奥から強い力が湧き上がって膨れ上がる。サシャは知っていた。この力を振りかざせば、周りのものを何もかも壊してしまうかもしれないと。
それでもいい。もう人間なんてどうなったっていい。母もいない場所などどうなっても構わない。
その時だった。
自分の身体が誰かに抱えられて、持ち上げられた。
喉に一気に空気が入り込んで来て、むせ込んだ。そうしたら背中を撫でてくれる人がいた。
目を開けるとそこにはまばゆい光があった。
「……おお、目が覚めたな」
蜂蜜色の髪と琥珀のような瞳。体つきは明らかに男性なのだけれど、細身で性別を感じさせない完成した美貌の持ち主。その人は全身ずぶぬれでサシャを見つめていた。
周りを見ると立派な身なりをした大勢の見知らぬ大人たちに取り囲まれていた。
「あなたは……誰ですか」
「僕は通りすがりの国王だ。気にすることはない」
「国王……?」
国王ってこの国で一番偉い人? 確か最近国王陛下が亡くなって新しい国王になったとは聞いている……でも。
サシャは一瞬冗談かと思ったけれど、少し離れたところに立派な馬車が停まっているのを見て、さあっと血の気が引いた。
この人がずぶ濡れなのは、川に飛び込んで助けてくれたから? 国王なのに?
そして、男はサシャの顔を覗き込んできて、満足げな笑みを浮かべて立ちあがる。
見れば今までサシャの家を荒らしていた者たちや、サシャを川に落とした子供たちが兵士に囲まれて一箇所に集められている。
「……そこの者たちは、どうやら泥棒のようだ。そしてその子供たちは、僕の民を損なおうとした罪は許しがたい。今すぐ憲兵に引き渡し相応の罰を与える」
大人たちが顔色を変えた。
「そんなよそ者の子供のことで……」
「よそ者であれ、この国で懸命に暮らす民は全て僕の民だ。勘違いをするな、ここにいる者全員も等しく僕の民の一人だ。それを勝手に傷つけたり殺そうとするならば、王のものを奪おうとするに等しい大罪である」
サシャは驚いた。今まで明らかに異邦の血が色濃く出た外見のサシャをこの国の民だと断言してもらえたことはなかった。
「……そして罪を犯しても反省できるのならばやり直しの機会はある。すぐに盗ったものをこの子に返し、壊したものがあるなら賠償を。子供らは罪には問わぬが全員の名前を記録したうえで、今後の処遇を決める。憲兵にはそう伝えておく。……二度目があると思うな」
そう言い放つ姿は神々しく美しかった。これほどに光を放つ美しい魂の持ち主をサシャは知らない。何という存在だろう。
別れ際にその人はサシャの髪を撫でてから、自分の指にあった翡翠の指輪を渡してきた。
「……施しではないぞ。君の瞳と同じ色だから君が持つにふさわしい」
この人がこの国の国王……。
サシャは胸の奥が熱くなった。涙がこみ上げそうだったけれど、そんなことをしたらこの人の顔がぼやけて見られなくなってしまう。だから我慢した。
その人は最後までサシャを軽んじたり馬鹿にしたりしなかった。
……ああ、この人の側に行きたい。そのためには母が言っていたように「すごい人」にならなくては。
後で知ったが、この時フェルナン王は精力的に地方の視察を行っていて、通りがかった村で騒ぎを聞きつけ、自ら馬車を降りてサシャを助けてくれたらしい。
そして、事後処理のために兵士と文官を一人ずつ残してくれた。サシャは返還された家財をすべて売却し、国外に出ることを決意した。
南方にあるアラム帝国。自分の魔法の才能を生かせるのはあの国だと、サシャは考えた。
それを話すと王が残した文官がアラムに向かう隊商に口を利いてくれて、下働きをしながら連れて行ってもらえることになったので、サシャはすぐに旅支度を調えて村を飛び出した。
斬りかかった剣はサシャの顔の手前でピクリとも動かなくなった。
「……え?」
「喧嘩を売るなら相手の力量を知ってからになさったほうがいい」
サシャが空中で止まったその剣に指を触れると、それは男の方に跳ね返った。
無様にひっくり返った男がもう一度剣を振りかざしたところへ、鋭い声がかかった。
「何をしている。街のもんに迷惑かけるなと言っただろうが」
逞しい赤毛の大男がこちらに向かって大股で歩いてくる。サシャに斬りかかってきた男と似た制服だが、遙かに装飾が多いのを見て、どうやら上司らしいと察する。
「司令官殿」
男たちが慌てて敬礼する。
赤毛の男は四十代くらいの歳格好で、鍛え上げた体躯と鋭い褐色の瞳が印象的だ。司令官ということは国境警備軍の一番上か。サシャは眉を寄せた。
彼らが何か説明しようとするのを、赤毛の男は手で遮った。
「遠目で見てたんだよ。大体、お前が先に喧嘩売ったんだろう? 良かったな尻餅程度で済んで。こいつなら指一本でお前を粉々にできるぞ」
ニヤリと笑って部下にとんでもない事を言う。サシャに喧嘩を売ってきた男はぎょっとして青ざめた顔になる。
流石に粉々は言い過ぎではないだろうか。バラバラくらいならできそうだけれど、粉々は手間がかかるから面倒くさい。
サシャがあらぬ方向に考えを向けていたが、ふと男の顔に見覚えがあることに気づいた。
会うのは十数年ぶりだが間違いないだろう。
「ラザール様ですか」
「おう。久しぶりだな、ちびすけ。すまねえな、血の気が多い部下で」
ラザール・ブルレック。サシャが川で溺れたとき、王に付き従っていた兵の一人だ。様子を見ている間にサシャに気づいたのだろう。
この人はサシャがアラムに留学すると聞いて推薦状を書いてくれた。従兄がアラムにいるから、と。その従兄がアラムの帝王に仕える「赤玉の賢者」の娘婿だとは思いもしなかったが。
この人もフェルナン王に取り立てられ、一時は国軍の将軍まで出世したはずだ。
……フェルナン王を失って、国軍には残らなかったのか。残れなかったのか。
「この街にしばらくいるのか?」
「そのつもりです」
『お前のことは従兄から聞いてる。悪いことは言わんから、早く出た方が良いぞ。面倒に巻き込まれる。何かあったらオレに言え』
サシャの肩に手を置くと世間話をしながら頭の中に直接話しかけて来た。これは魔力のある者なら使える術だ。接触していない者には聞こえない。
更に彼はサシャの知りたかった情報を手短に教えてくれた。サシャが頷くと、
「まあ、部下が迷惑かけて悪かったな。オレの顔に免じて許してくれ。こんどゆっくり呑もうぜ」
そう言って馴れ馴れしく背中を叩く。
それがまったく不快に感じられないのはラザールにはまったくサシャに対して悪意がないからだろう。
「ありがとうございます。後はラザール様にお任せしますので」
そう言うとサシャは路地裏に入り込んで、家の門に瞬間移動した。
気がついたらスーリという宿場街の近くにある村で母と暮らしていた。
サシャは自分が幼い頃から人と違うことを自覚していた。誰にも習わなくても文字が読み書きできたし、世の理を理解できた。そして自分が強い魔力を持っていることも。
けれどそれを知られてはいけないと本能的に察していて、口数の少ない子供だった。
歳格好の近い子供たちは幼く粗暴で、異国の風貌をした訳ありっぽいサシャのことを苛めてもいい存在だと思ったらしい。毎日泥や汚水をかけられて汚れた服を母が帰るまでに洗って乾かすのが日課だった。
母は逞しい女性で、スーリの酒場で厨房を任されて毎日遅くまで忙しく働いていた。帰ってくるのは明け方だ。それでもサシャのことをよく見ていて、苛められていることも知っていた。
「サシャはきっとすごい人になれるよ。いつか大人になったら苛めた奴らが後悔するような立派な人になるよ。だから一時の怒りに我を忘れてはだめよ」
サシャは仕返ししようなんて考えたことはなかった。だってあいつらは自分より弱いし愚かだから。本気でやったら壊してしまうから。
「母さんは僕に『すごい人』になってほしいんだね」
そう問いかけると、母は何か胸を突かれたような表情になって、それからサシャを抱きしめた。
「……そうね。その通りよ。誰かと恋をしたり、お友達を作ったりして、幸せになって欲しいの」
その母が亡くなったのは十歳になる直前のことだった。
「お前、サシャじゃねえか。その額の傷は間違いねえ。いつの間に逃げ帰ってきたんだよ」
スーリの街を歩いていると大柄な男に声をかけられた。着ている服は辺境警備軍のものだった。見覚えはある。サシャを何かと小馬鹿にしていた村の顔役の息子だ。
周りに同じ制服の男たちがいるところを見ると、ここで仕事中なのか。
「ああ、確か、子供を川に突き落として殺そうとした非道な男ですね。その節はお世話になりました」
サシャが穏やかに答えると、他の男たちがぎょっとしたようにその男を見る。
「違う。あれは……」
「やられた本人が言っているんですから間違いないでしょう?」
「てめえ……」
男はサシャの挑発に簡単に乗ってきた。周りが止めるのも聞かず、剣を抜いて斬りかかってきた。
母を葬ってから家に帰ると、家の中のものを勝手に近隣の人たちが持ち出していた。
「何をしているの」
毎月の家賃はすでに払ってあるし、家の中のものを持ち出される言われはない。
「もうお前さんには要らないだろう? どうせ孤児院にでも行くんだろうし。だったら我々が引き取ってやろうと思ってね」
「どうせ金目のものはなかったからねえ」
「勝手なことをしないで」
そう言ったら殴られた。近くの壁に身体をしたたか打ち付けて、額から血が流れてきた。ふらついているところを近所の悪ガキどもに捕まって、川に投げ落とされた。大人たちはサシャの家を物色するのに忙しくて気にしていない。
川は流れは緩いが深くて、サシャは何とかしようと懸命に水をかいた。そこへ子供たちは石を投げてくる。
どうしてこんな目に遭わなきゃいけない。誰にも迷惑をかけていないのに。
母が苦労して買いそろえた家財まで勝手に奪われなきゃいけない。
人間どもはどうしてここまで浅ましく愚かなのか。
『一時の怒りに我を忘れてはダメよ』
母はそう言った。けれど、これは一時の怒りではない。今まで積み重なってきた理不尽への怒りだ。怒りを抱いてはいけないのか。
一人の人間であることまで否定されても、耐えなければならないのか。
身体の奥から強い力が湧き上がって膨れ上がる。サシャは知っていた。この力を振りかざせば、周りのものを何もかも壊してしまうかもしれないと。
それでもいい。もう人間なんてどうなったっていい。母もいない場所などどうなっても構わない。
その時だった。
自分の身体が誰かに抱えられて、持ち上げられた。
喉に一気に空気が入り込んで来て、むせ込んだ。そうしたら背中を撫でてくれる人がいた。
目を開けるとそこにはまばゆい光があった。
「……おお、目が覚めたな」
蜂蜜色の髪と琥珀のような瞳。体つきは明らかに男性なのだけれど、細身で性別を感じさせない完成した美貌の持ち主。その人は全身ずぶぬれでサシャを見つめていた。
周りを見ると立派な身なりをした大勢の見知らぬ大人たちに取り囲まれていた。
「あなたは……誰ですか」
「僕は通りすがりの国王だ。気にすることはない」
「国王……?」
国王ってこの国で一番偉い人? 確か最近国王陛下が亡くなって新しい国王になったとは聞いている……でも。
サシャは一瞬冗談かと思ったけれど、少し離れたところに立派な馬車が停まっているのを見て、さあっと血の気が引いた。
この人がずぶ濡れなのは、川に飛び込んで助けてくれたから? 国王なのに?
そして、男はサシャの顔を覗き込んできて、満足げな笑みを浮かべて立ちあがる。
見れば今までサシャの家を荒らしていた者たちや、サシャを川に落とした子供たちが兵士に囲まれて一箇所に集められている。
「……そこの者たちは、どうやら泥棒のようだ。そしてその子供たちは、僕の民を損なおうとした罪は許しがたい。今すぐ憲兵に引き渡し相応の罰を与える」
大人たちが顔色を変えた。
「そんなよそ者の子供のことで……」
「よそ者であれ、この国で懸命に暮らす民は全て僕の民だ。勘違いをするな、ここにいる者全員も等しく僕の民の一人だ。それを勝手に傷つけたり殺そうとするならば、王のものを奪おうとするに等しい大罪である」
サシャは驚いた。今まで明らかに異邦の血が色濃く出た外見のサシャをこの国の民だと断言してもらえたことはなかった。
「……そして罪を犯しても反省できるのならばやり直しの機会はある。すぐに盗ったものをこの子に返し、壊したものがあるなら賠償を。子供らは罪には問わぬが全員の名前を記録したうえで、今後の処遇を決める。憲兵にはそう伝えておく。……二度目があると思うな」
そう言い放つ姿は神々しく美しかった。これほどに光を放つ美しい魂の持ち主をサシャは知らない。何という存在だろう。
別れ際にその人はサシャの髪を撫でてから、自分の指にあった翡翠の指輪を渡してきた。
「……施しではないぞ。君の瞳と同じ色だから君が持つにふさわしい」
この人がこの国の国王……。
サシャは胸の奥が熱くなった。涙がこみ上げそうだったけれど、そんなことをしたらこの人の顔がぼやけて見られなくなってしまう。だから我慢した。
その人は最後までサシャを軽んじたり馬鹿にしたりしなかった。
……ああ、この人の側に行きたい。そのためには母が言っていたように「すごい人」にならなくては。
後で知ったが、この時フェルナン王は精力的に地方の視察を行っていて、通りがかった村で騒ぎを聞きつけ、自ら馬車を降りてサシャを助けてくれたらしい。
そして、事後処理のために兵士と文官を一人ずつ残してくれた。サシャは返還された家財をすべて売却し、国外に出ることを決意した。
南方にあるアラム帝国。自分の魔法の才能を生かせるのはあの国だと、サシャは考えた。
それを話すと王が残した文官がアラムに向かう隊商に口を利いてくれて、下働きをしながら連れて行ってもらえることになったので、サシャはすぐに旅支度を調えて村を飛び出した。
斬りかかった剣はサシャの顔の手前でピクリとも動かなくなった。
「……え?」
「喧嘩を売るなら相手の力量を知ってからになさったほうがいい」
サシャが空中で止まったその剣に指を触れると、それは男の方に跳ね返った。
無様にひっくり返った男がもう一度剣を振りかざしたところへ、鋭い声がかかった。
「何をしている。街のもんに迷惑かけるなと言っただろうが」
逞しい赤毛の大男がこちらに向かって大股で歩いてくる。サシャに斬りかかってきた男と似た制服だが、遙かに装飾が多いのを見て、どうやら上司らしいと察する。
「司令官殿」
男たちが慌てて敬礼する。
赤毛の男は四十代くらいの歳格好で、鍛え上げた体躯と鋭い褐色の瞳が印象的だ。司令官ということは国境警備軍の一番上か。サシャは眉を寄せた。
彼らが何か説明しようとするのを、赤毛の男は手で遮った。
「遠目で見てたんだよ。大体、お前が先に喧嘩売ったんだろう? 良かったな尻餅程度で済んで。こいつなら指一本でお前を粉々にできるぞ」
ニヤリと笑って部下にとんでもない事を言う。サシャに喧嘩を売ってきた男はぎょっとして青ざめた顔になる。
流石に粉々は言い過ぎではないだろうか。バラバラくらいならできそうだけれど、粉々は手間がかかるから面倒くさい。
サシャがあらぬ方向に考えを向けていたが、ふと男の顔に見覚えがあることに気づいた。
会うのは十数年ぶりだが間違いないだろう。
「ラザール様ですか」
「おう。久しぶりだな、ちびすけ。すまねえな、血の気が多い部下で」
ラザール・ブルレック。サシャが川で溺れたとき、王に付き従っていた兵の一人だ。様子を見ている間にサシャに気づいたのだろう。
この人はサシャがアラムに留学すると聞いて推薦状を書いてくれた。従兄がアラムにいるから、と。その従兄がアラムの帝王に仕える「赤玉の賢者」の娘婿だとは思いもしなかったが。
この人もフェルナン王に取り立てられ、一時は国軍の将軍まで出世したはずだ。
……フェルナン王を失って、国軍には残らなかったのか。残れなかったのか。
「この街にしばらくいるのか?」
「そのつもりです」
『お前のことは従兄から聞いてる。悪いことは言わんから、早く出た方が良いぞ。面倒に巻き込まれる。何かあったらオレに言え』
サシャの肩に手を置くと世間話をしながら頭の中に直接話しかけて来た。これは魔力のある者なら使える術だ。接触していない者には聞こえない。
更に彼はサシャの知りたかった情報を手短に教えてくれた。サシャが頷くと、
「まあ、部下が迷惑かけて悪かったな。オレの顔に免じて許してくれ。こんどゆっくり呑もうぜ」
そう言って馴れ馴れしく背中を叩く。
それがまったく不快に感じられないのはラザールにはまったくサシャに対して悪意がないからだろう。
「ありがとうございます。後はラザール様にお任せしますので」
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