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15 将軍閣下と職場見学
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ハルは戦に挑む心境で、左の手のひらに拳を叩き込んだ。
これはラークスパー公爵夫人として避けられない戦いなのだ。
昨夜、パーシヴァルが到底自分で買うとは思えない下世話な新聞を手にして帰ってから、真剣な顔でハルに問いかけてきた。
「毎晩寝室を供にするのはおかしいことなのか?」
「別におかしくありませんよ」
ただ、この見るからに頑強なパーシヴァルが言ったら、周りの人は毎晩やることやってると想像するんだろうな、とはハルは思った。
寝室が同じだけで普通に寝てるとか、思わないんだろうか。
身体に触れられることはあっても毎晩ではないし、まだ身体を繋げたこともないというのに。
「……私は伴侶に対してこんな酷いことをすると思われているのだろうか」
「パーシヴァル様を知っている人ならそんなこと思いませんよ。もしかして、職場で噂になってるんですか?」
ハルが問いかけるとパーシヴァルは少し不機嫌そうに呟いた。
「何となく、今日の会議の空気が微妙だった気がする。いつもなら私の言動のせいで静まりかえっているのだが、今日は何かこちらを見てこそこそ話していたように見えて。気のせいならいいのだが」
静まりかえってる会議というのもどうかと思うけれど、確かに陰口を言われていればパーシヴァルも嫌な気持ちになるだろう。
揃いも揃って下らない新聞を真に受けてるなんて、いい大人がすることじゃない。
ハルはそう思って、パーシヴァルに顔を向けた。
「仕事に支障が出るようなら問題です。明日、職場に伺ってもいいですか?」
「ハルが? 明日なら急ぎの仕事はないから構わないが……何をするのだ?」
「パーシヴァル様は普段通りでかまいません。下らない噂を全部吹き飛ばしますからね。これは僕の戦いですから」
ハルが力説すると、パーシヴァルが口元に手をやった。どうやら笑うのを堪えているように見えた。
「……ハルは本当に私に幸せをくれる」
そう言って腕の中に抱き込んでくれた。
「では、明日楽しみにしているよ」
そんないきさつで、ハルは今日ハリエットの姿でパーシヴァルの職場である軍の総司令部を訪れていた。髪はきっちり結って抑えた深い緑のドレス姿。お化粧も気合いを入れているが、派手にならないように仕上げた。「貞淑な妻」と思われるように。
「……何をするつもりなんですか?」
ついてきた護衛二人は興味津々だったが、ハルはにっこりと笑いかけた。
「新婚早々の妻が夫の職場の方にご挨拶に伺うのは普通でしょう?」
「それだけですか?」
「それだけ」
ハリエットの方を選んだのには理由がある。男性ばかりの職場なら、こちらのほうが印象が強く残る。それに、パーシヴァルの部下の中にはハルの作業着姿を見たことがある人がいるのだ。
案の定、見慣れぬ女性に周囲にいた男たちがちらちらと目線を送ってくる。
「ラークスパー公爵夫人ですね。お待ちしておりました。閣下の副官をさせていただいております、ジョセフ・パーキンソンと申します」
取り次ぎを頼むと現れたのはジョセフだった。それを聞いた周囲がざわついた。
「兄君のハロルド様とはお会いしたことがありますが、ハリエット様とは初めてですね」
どうやらジョセフはハルとハリエットが同一人物ということを知らされていないらしい。紳士的に一礼して先に立って歩き出した。
「あまり外にはお出ましではないとお聞きしましたが、何か理由があるのですか?」
「公爵夫人として学ぶ事が多いものですから。本当は夫の職場をもっと早く見せていただきたいと思っていました。とても楽しみにしていましたの」
声がまったく違っていたからだろう。背後にいた護衛が意外そうな顔を見せた。ハルは声色を変えるのが得意だった。ハリエットとして働く時は、普段より高めの声で話していた。
廊下を歩いていると、すれ違う者が全員ハルに興味を向けてくる。けれどジョセフが案内しているとなるとパーシヴァルの客人だと察することができる。
レイン商会で働いていたハリエットが銀髪の持ち主だというのは知っている人が多い。
そこまで考えれば、ハルが何者なのか気づくはずだ。
事前の打ち合わせ通りなら、そろそろだ。そう思っていたら廊下の向こう側から早足で向かってくる長身が目に入った。
「パーシヴァル様。お言葉に甘えて伺いましたわ」
そう言って足早に駆け寄ると、パーシヴァルは腰に手を回して抱き寄せた。口元が自然に柔らかく笑みを浮かべる。
「今日のドレスもよく似合っている。森の妖精のように愛らしい。……案内は後でいいだろう。私の部屋で話そう」
そう言ってそのまま歩き出す。
背後では彼の部下たちが呆然としているのがわかった。
「閣下が笑っていた」
「女性を褒めていたぞ」
「夢を見ているのか? 誰かオレを殴ってくれ」
「あれが閣下の奥方様なのか……」
パーシヴァルが執務に使っている部屋は大きな机が正面にあり、そこには山のように書類が積み上がっていた。もう一つ壁際にあるのは副官の机だろうか。
その手前に来客用の椅子とテーブルが置かれている。
初めて見る彼の仕事場にハルはぐるりと室内を見回した。落ち着いた深い色調の調度と、飾りのない部屋。
扉を閉めるとパーシヴァルは大きく息を吐いた。
「……やれやれ、むさ苦しい場所ですまないな」
「大丈夫です」
見ると自分の背後にいた護衛二人はついてきていたが、副官の姿がない。
「ああ。奴ならさっき他の者に捕まっていた。今頃質問責めに遭っているだろう」
パーシヴァルはそう言うと机に戻る。山のような書類を一瞥するとハルに苦笑いを見せた。
「さっき届いた書類だが、各国来賓の警備に対する要望やら何やらで、各部署に振り分ける必要があってな。ただ、翻訳が出来る担当者がすぐには来られないらしい。だから急がなくていいんだ」
「つまり……要望の内容がわからないからお仕事が止まっているのですか?」
「その通り。そういえば、ハルはプロテア語はわかるのか?」
「プロテア以外もわかります。国外から商品の材料を買い入れることもありますから。ちゃんと相手の言葉がわからないとぼったくられるんですよ」
「ぼったくられる?」
パーシヴァルは自国語であっても知らない言葉だったらしい。
商売人はどこの国も強かだ。ものを知らない相手だとわかるとそこにつけ込まれる。だからハルは彼らがこそこそ話している言葉がわかるように勉強した。教えてくれたのは師匠だ。
「ああ、つまり欺されて高い値段を不当に要求されたりすることです。だからジャスと二人で外国語は猛特訓しました」
「そういうことか。道理で講師から外国語は教えなくても大丈夫だと言われるはずだ。それならこの書類を翻訳できるか? これはどこの部署でもお手上げだと言われたんだ」
パーシヴァルに渡されたのは釘を組み合わせたような独特の文字。
「……カトカ語ですね。これって師匠の字ですよ。わざわざ母国語で書くなんて。『警備担当お疲れ様。特に要望はないけれど、できれば我が国のパレードの順番はプロテアからは離してほしい。あの王配を見ると髪の毛が永遠に生えなくなる薬をぶっかけたくなるので』……と書いてあります」
ハルの師匠バーニーはどうやら本当にカトカ王国の使者として王都に来ているらしい。別にプロテアの王配の頭髪はどうなろうと気にならないが、問題を起こす気満々な師匠は来賓というより危険人物に該当しないだろうか。
「やっぱりか。近隣国の文字は見たことがあるが、これは流石にわからなかった」
パーシヴァルはハルが言った内容を書き添えて、担当部署名を書いた袋に入れた。
「パレードの順番に関する要望は、こちらのお手紙もですね」
ハルが書類の一番上にあったものを指さした。これは西方にあるウダン国の文字だ。
「……それは流石にマズいな。順番に関しては早めに担当に連絡する必要がある。どうしてどいつもこいつも母国語で書いてくるんだ……」
「差し支えなかったら翻訳しますよ。紙とペンをいただけますか?」
たしかに国の代表なら通訳くらい連れてきそうなものだ。わざわざ母国語で書いてくるのは嫌がらせとしか思えない。まあ、パーシヴァルは近隣国との戦争で負けたことがないらしいので、そのこともあるのかもしれない。
けど、ここ最近の戦争はほとんど向こうからの言いがかりだったはずだ。こちらから攻め入ったことはない。負け惜しみじゃないか。
「……いや、そこまではしなくていい」
「だって早く終わらせないと、今日はロビンとのお食事の日ですよ? 早く帰れないじゃないですか」
軍の機密書類だというのなら手出しするのは控えたけれど、各国からの要望書だということなら、極秘書類というほどではないはずだ。
ハルはパーシヴァルの机から書類をテーブルに移して、それから猛然と翻訳を始めた。護衛二人に、ストケシア語以外のものと分ける作業を手伝ってもらって、翻訳が終わったものはパーシヴァルが各部署へ指示を付け加えて片付けていく。
あっという間に書類の山が消え失せた。これにはパーシヴァルも驚いたようだった。
そこへ副官が戻ってきた。自分の机に座っているハルと、最後の書類を片付けて満足げにしている上官を見て、首を傾げた。
「奥方をご案内してるんじゃなかったんですか? って、あの面倒くさい書類、どうしたんですか?」
「全部終わった」
「嘘でしょう?」
ジョセフは書類を引っ張り出してから、翻訳がすべて終わっているのを見て顔を引き攣らせた。
「そういうわけだから、これから妻に職場を案内して、直帰でいいか?」
「……え?」
ジョセフは綺麗に片付いたパーシヴァルの机を見て唖然とする。
「えー……奥方様ともっとお話したかったのに。じゃあせめてサインいただけませんか。ハリエット様の歌のファンだったんです」
そう言って慌てて差し出してきたのが机の上にあった文書の裏だったので、ハルは困惑して、内心で突っ込んだ。
いやさすがにそれは使っちゃダメでしょう。極秘って書いてあったよそれ。
「……ごめんなさい。パーキンソン卿。またの機会がありましたら。今日はロビンが待っておりますの」
ハルは貴婦人然とした笑みを向けてから、差し出されたパーシヴァルの腕に手を添えた。
……そうか、レイン商会で時々客寄せに歌ってたけど、それを覚えてる人いたんだ。
そして、ジョセフの求めに応じなくて良かったと思ったのは、その後各部署に案内してもらうたびに同じようにサインを求めてくる者がいたからだ。
「……ハルがモテるのは複雑な気分だな」
パーシヴァルはそう言いながらもちゃんと説明はしてくれた。とにかく今回はひたすら愛想を振りまくことと、パーシヴァルとの関係が良好なものだと見せびらかすのが目的だ。
パーシヴァルは長く最前線にいて家督を継ぐために王都に戻ったのは五年前。だから王都にずっといた者は彼の人柄を知らなかったのだろう。
その辺りで誤解が生じたのかもしれない。自分から積極的に誤解を解こうとしなかったパーシヴァルと、あらぬ噂まであって近づきがたく思っていたから、ぎこちない関係だったのかも。
少しはわかってもらえるといいな、と思っていたところに、何やら大きな足音が聞こえてきた。大声でパーシヴァルがどこにいるのか訊ねながら近づいてくる。
「……やれやれ。あまり会わせたくなかった奴が来てしまったようだ」
パーシヴァルが眉を寄せる。
「どなたですか?」
「ディヴィッド・オグバーン。ミランダ侯爵の令息で近衛騎士団の団長だ。とてもうるさいから注意したほうがいい」
とてもうるさい? それに、ミランダ侯爵という名前に聞き覚えがある。
そう思っていたらドアを勢いよく開いて、恰幅のいい男が入ってきた。背丈はパーシヴァルに及ばないが、筋肉質で厚みがある。そして。
「おお。将軍閣下。こちらにいらっしゃったか」
耳がおかしくなるほどの大音量だった。確かにうるさい。近衛ということは王族の側で仕えているのでは……? 大丈夫なんだろうか。
そして、彼はパーシヴァルの隣にいたハルを見てさらに音量を上げてきた。
「閣下……その女性はどなたですか? なんというお美しい……」
「第二夫人のハリエットだ。正式なお披露目はまだだが、皆に挨拶がしたいというので案内していた」
それを聞いて彼はぽかんと口を開けて固まってしまった。ハルはドレスのスカートを摘まんで一礼した。
けれど相手から返ってきたのは予想外の言葉だった。
「まさか、本当だったのですか。その娘は悪徳医師の子でしょう?」
これはラークスパー公爵夫人として避けられない戦いなのだ。
昨夜、パーシヴァルが到底自分で買うとは思えない下世話な新聞を手にして帰ってから、真剣な顔でハルに問いかけてきた。
「毎晩寝室を供にするのはおかしいことなのか?」
「別におかしくありませんよ」
ただ、この見るからに頑強なパーシヴァルが言ったら、周りの人は毎晩やることやってると想像するんだろうな、とはハルは思った。
寝室が同じだけで普通に寝てるとか、思わないんだろうか。
身体に触れられることはあっても毎晩ではないし、まだ身体を繋げたこともないというのに。
「……私は伴侶に対してこんな酷いことをすると思われているのだろうか」
「パーシヴァル様を知っている人ならそんなこと思いませんよ。もしかして、職場で噂になってるんですか?」
ハルが問いかけるとパーシヴァルは少し不機嫌そうに呟いた。
「何となく、今日の会議の空気が微妙だった気がする。いつもなら私の言動のせいで静まりかえっているのだが、今日は何かこちらを見てこそこそ話していたように見えて。気のせいならいいのだが」
静まりかえってる会議というのもどうかと思うけれど、確かに陰口を言われていればパーシヴァルも嫌な気持ちになるだろう。
揃いも揃って下らない新聞を真に受けてるなんて、いい大人がすることじゃない。
ハルはそう思って、パーシヴァルに顔を向けた。
「仕事に支障が出るようなら問題です。明日、職場に伺ってもいいですか?」
「ハルが? 明日なら急ぎの仕事はないから構わないが……何をするのだ?」
「パーシヴァル様は普段通りでかまいません。下らない噂を全部吹き飛ばしますからね。これは僕の戦いですから」
ハルが力説すると、パーシヴァルが口元に手をやった。どうやら笑うのを堪えているように見えた。
「……ハルは本当に私に幸せをくれる」
そう言って腕の中に抱き込んでくれた。
「では、明日楽しみにしているよ」
そんないきさつで、ハルは今日ハリエットの姿でパーシヴァルの職場である軍の総司令部を訪れていた。髪はきっちり結って抑えた深い緑のドレス姿。お化粧も気合いを入れているが、派手にならないように仕上げた。「貞淑な妻」と思われるように。
「……何をするつもりなんですか?」
ついてきた護衛二人は興味津々だったが、ハルはにっこりと笑いかけた。
「新婚早々の妻が夫の職場の方にご挨拶に伺うのは普通でしょう?」
「それだけですか?」
「それだけ」
ハリエットの方を選んだのには理由がある。男性ばかりの職場なら、こちらのほうが印象が強く残る。それに、パーシヴァルの部下の中にはハルの作業着姿を見たことがある人がいるのだ。
案の定、見慣れぬ女性に周囲にいた男たちがちらちらと目線を送ってくる。
「ラークスパー公爵夫人ですね。お待ちしておりました。閣下の副官をさせていただいております、ジョセフ・パーキンソンと申します」
取り次ぎを頼むと現れたのはジョセフだった。それを聞いた周囲がざわついた。
「兄君のハロルド様とはお会いしたことがありますが、ハリエット様とは初めてですね」
どうやらジョセフはハルとハリエットが同一人物ということを知らされていないらしい。紳士的に一礼して先に立って歩き出した。
「あまり外にはお出ましではないとお聞きしましたが、何か理由があるのですか?」
「公爵夫人として学ぶ事が多いものですから。本当は夫の職場をもっと早く見せていただきたいと思っていました。とても楽しみにしていましたの」
声がまったく違っていたからだろう。背後にいた護衛が意外そうな顔を見せた。ハルは声色を変えるのが得意だった。ハリエットとして働く時は、普段より高めの声で話していた。
廊下を歩いていると、すれ違う者が全員ハルに興味を向けてくる。けれどジョセフが案内しているとなるとパーシヴァルの客人だと察することができる。
レイン商会で働いていたハリエットが銀髪の持ち主だというのは知っている人が多い。
そこまで考えれば、ハルが何者なのか気づくはずだ。
事前の打ち合わせ通りなら、そろそろだ。そう思っていたら廊下の向こう側から早足で向かってくる長身が目に入った。
「パーシヴァル様。お言葉に甘えて伺いましたわ」
そう言って足早に駆け寄ると、パーシヴァルは腰に手を回して抱き寄せた。口元が自然に柔らかく笑みを浮かべる。
「今日のドレスもよく似合っている。森の妖精のように愛らしい。……案内は後でいいだろう。私の部屋で話そう」
そう言ってそのまま歩き出す。
背後では彼の部下たちが呆然としているのがわかった。
「閣下が笑っていた」
「女性を褒めていたぞ」
「夢を見ているのか? 誰かオレを殴ってくれ」
「あれが閣下の奥方様なのか……」
パーシヴァルが執務に使っている部屋は大きな机が正面にあり、そこには山のように書類が積み上がっていた。もう一つ壁際にあるのは副官の机だろうか。
その手前に来客用の椅子とテーブルが置かれている。
初めて見る彼の仕事場にハルはぐるりと室内を見回した。落ち着いた深い色調の調度と、飾りのない部屋。
扉を閉めるとパーシヴァルは大きく息を吐いた。
「……やれやれ、むさ苦しい場所ですまないな」
「大丈夫です」
見ると自分の背後にいた護衛二人はついてきていたが、副官の姿がない。
「ああ。奴ならさっき他の者に捕まっていた。今頃質問責めに遭っているだろう」
パーシヴァルはそう言うと机に戻る。山のような書類を一瞥するとハルに苦笑いを見せた。
「さっき届いた書類だが、各国来賓の警備に対する要望やら何やらで、各部署に振り分ける必要があってな。ただ、翻訳が出来る担当者がすぐには来られないらしい。だから急がなくていいんだ」
「つまり……要望の内容がわからないからお仕事が止まっているのですか?」
「その通り。そういえば、ハルはプロテア語はわかるのか?」
「プロテア以外もわかります。国外から商品の材料を買い入れることもありますから。ちゃんと相手の言葉がわからないとぼったくられるんですよ」
「ぼったくられる?」
パーシヴァルは自国語であっても知らない言葉だったらしい。
商売人はどこの国も強かだ。ものを知らない相手だとわかるとそこにつけ込まれる。だからハルは彼らがこそこそ話している言葉がわかるように勉強した。教えてくれたのは師匠だ。
「ああ、つまり欺されて高い値段を不当に要求されたりすることです。だからジャスと二人で外国語は猛特訓しました」
「そういうことか。道理で講師から外国語は教えなくても大丈夫だと言われるはずだ。それならこの書類を翻訳できるか? これはどこの部署でもお手上げだと言われたんだ」
パーシヴァルに渡されたのは釘を組み合わせたような独特の文字。
「……カトカ語ですね。これって師匠の字ですよ。わざわざ母国語で書くなんて。『警備担当お疲れ様。特に要望はないけれど、できれば我が国のパレードの順番はプロテアからは離してほしい。あの王配を見ると髪の毛が永遠に生えなくなる薬をぶっかけたくなるので』……と書いてあります」
ハルの師匠バーニーはどうやら本当にカトカ王国の使者として王都に来ているらしい。別にプロテアの王配の頭髪はどうなろうと気にならないが、問題を起こす気満々な師匠は来賓というより危険人物に該当しないだろうか。
「やっぱりか。近隣国の文字は見たことがあるが、これは流石にわからなかった」
パーシヴァルはハルが言った内容を書き添えて、担当部署名を書いた袋に入れた。
「パレードの順番に関する要望は、こちらのお手紙もですね」
ハルが書類の一番上にあったものを指さした。これは西方にあるウダン国の文字だ。
「……それは流石にマズいな。順番に関しては早めに担当に連絡する必要がある。どうしてどいつもこいつも母国語で書いてくるんだ……」
「差し支えなかったら翻訳しますよ。紙とペンをいただけますか?」
たしかに国の代表なら通訳くらい連れてきそうなものだ。わざわざ母国語で書いてくるのは嫌がらせとしか思えない。まあ、パーシヴァルは近隣国との戦争で負けたことがないらしいので、そのこともあるのかもしれない。
けど、ここ最近の戦争はほとんど向こうからの言いがかりだったはずだ。こちらから攻め入ったことはない。負け惜しみじゃないか。
「……いや、そこまではしなくていい」
「だって早く終わらせないと、今日はロビンとのお食事の日ですよ? 早く帰れないじゃないですか」
軍の機密書類だというのなら手出しするのは控えたけれど、各国からの要望書だということなら、極秘書類というほどではないはずだ。
ハルはパーシヴァルの机から書類をテーブルに移して、それから猛然と翻訳を始めた。護衛二人に、ストケシア語以外のものと分ける作業を手伝ってもらって、翻訳が終わったものはパーシヴァルが各部署へ指示を付け加えて片付けていく。
あっという間に書類の山が消え失せた。これにはパーシヴァルも驚いたようだった。
そこへ副官が戻ってきた。自分の机に座っているハルと、最後の書類を片付けて満足げにしている上官を見て、首を傾げた。
「奥方をご案内してるんじゃなかったんですか? って、あの面倒くさい書類、どうしたんですか?」
「全部終わった」
「嘘でしょう?」
ジョセフは書類を引っ張り出してから、翻訳がすべて終わっているのを見て顔を引き攣らせた。
「そういうわけだから、これから妻に職場を案内して、直帰でいいか?」
「……え?」
ジョセフは綺麗に片付いたパーシヴァルの机を見て唖然とする。
「えー……奥方様ともっとお話したかったのに。じゃあせめてサインいただけませんか。ハリエット様の歌のファンだったんです」
そう言って慌てて差し出してきたのが机の上にあった文書の裏だったので、ハルは困惑して、内心で突っ込んだ。
いやさすがにそれは使っちゃダメでしょう。極秘って書いてあったよそれ。
「……ごめんなさい。パーキンソン卿。またの機会がありましたら。今日はロビンが待っておりますの」
ハルは貴婦人然とした笑みを向けてから、差し出されたパーシヴァルの腕に手を添えた。
……そうか、レイン商会で時々客寄せに歌ってたけど、それを覚えてる人いたんだ。
そして、ジョセフの求めに応じなくて良かったと思ったのは、その後各部署に案内してもらうたびに同じようにサインを求めてくる者がいたからだ。
「……ハルがモテるのは複雑な気分だな」
パーシヴァルはそう言いながらもちゃんと説明はしてくれた。とにかく今回はひたすら愛想を振りまくことと、パーシヴァルとの関係が良好なものだと見せびらかすのが目的だ。
パーシヴァルは長く最前線にいて家督を継ぐために王都に戻ったのは五年前。だから王都にずっといた者は彼の人柄を知らなかったのだろう。
その辺りで誤解が生じたのかもしれない。自分から積極的に誤解を解こうとしなかったパーシヴァルと、あらぬ噂まであって近づきがたく思っていたから、ぎこちない関係だったのかも。
少しはわかってもらえるといいな、と思っていたところに、何やら大きな足音が聞こえてきた。大声でパーシヴァルがどこにいるのか訊ねながら近づいてくる。
「……やれやれ。あまり会わせたくなかった奴が来てしまったようだ」
パーシヴァルが眉を寄せる。
「どなたですか?」
「ディヴィッド・オグバーン。ミランダ侯爵の令息で近衛騎士団の団長だ。とてもうるさいから注意したほうがいい」
とてもうるさい? それに、ミランダ侯爵という名前に聞き覚えがある。
そう思っていたらドアを勢いよく開いて、恰幅のいい男が入ってきた。背丈はパーシヴァルに及ばないが、筋肉質で厚みがある。そして。
「おお。将軍閣下。こちらにいらっしゃったか」
耳がおかしくなるほどの大音量だった。確かにうるさい。近衛ということは王族の側で仕えているのでは……? 大丈夫なんだろうか。
そして、彼はパーシヴァルの隣にいたハルを見てさらに音量を上げてきた。
「閣下……その女性はどなたですか? なんというお美しい……」
「第二夫人のハリエットだ。正式なお披露目はまだだが、皆に挨拶がしたいというので案内していた」
それを聞いて彼はぽかんと口を開けて固まってしまった。ハルはドレスのスカートを摘まんで一礼した。
けれど相手から返ってきたのは予想外の言葉だった。
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