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「鼎がどんどん嘘つきになっていく……。昔はあんなに可愛らしかったというのに……」
「嘘つきとは失礼な。それっぽいことを言って納得させてあげたんです。それに、座敷牢に軟禁って名家あるあるでしょう」
「儂は鳴上の家しか知らんよ」
「僕も知りません」
夜更けすぎ、古い土蔵の分厚い扉と観音開きの小窓を閉めきり、持ちこんだ薄暗いランタンの灯りの下、鼎は軽口を叩きながら、ひとり砂だらけの床を掃き清めていた。とりあえず、作業をする辺りさえ綺麗になっていればそれでいい。集めた砂を壁際に寄せ、巨大なリュックサックから白紙の札の束と筆ペンを取り出した。その場にあぐらをかき、かけていたサングラスを首元に引っ掛けると、虚空に話しかける。
「過足様、原因はもう食べてくれました?」
「お前は毎回聞くな」
「あなたが僕に見せないようにしてるんじゃないですか。業務の引き継ぎみたいなものですから我慢してください」
「食ったよ。お前にも断末魔が聞こえたろう。……ああ不味かった」
土蔵の中を歩き回っているときに聞こえたあの低い女の声が、原因の霊の断末魔だったのだろう。吹き溜まっていた低級霊は自分たちが一晩ここにいるだけで散るはずだ。
ならよし、と鼎は満足げにつぶやくと、白紙の札を前に、今回はどのデザインにしようかと思いを巡らせた。もう霊障が起こることはないのだから、それっぽいものなら何でもいいのだが……。底光りする金色の瞳を細め、筆ペンの蓋を軽く噛みながら考えこむ鼎に不満げな声が言い募る。
「なあ、すごく不味かったんだが」
「今回もお疲れ様でしたね」
「だから美味いものを食わせろ。儂をねぎらえ。早くうちに帰ろう」
年甲斐もなく素直に駄々をこねるしゃがれ声に鼎は思わず苦笑した。
「だめです。こういうのはね、一瞬で破ァ! って除霊しても、報酬を出し渋りされちゃうんですよ。時間をかけて苦労した感じを見せないとね」
「苦労も何も、お前は唐揚げ定食食って風呂入ってここに戻ってきただけじゃないか」
「だから、感じ、でいいんですよ。僕は過足様と依頼人の仲介役みたいなものなんですから。あの依頼人は今頃、僕が頑張って除霊してくれてんだなーって、枕を高くして寝てますよ。実際もう霊障も起こらないからぐっすり眠れるはずです」
そう言ってちいさく笑いながら、慣れた手つきで札に筆ペンを滑らせ、それらしいデザインを書きこんでいく。きっと本職――そもそも本職とは何なのかすら鼎には分からない――が見れば、この札は映画の小道具程度にしか見えないだろう。だが、長いこと適当にやってきているが、礼を言われこそすれ文句を言われたことはないのだ。だからこれでいい。
「そうすれば、翌日はお互い気持ち良く報酬の受け渡しができるってもんです」
「しかしな」
もう一人の男の声はひどく不満そうだ。何やらぐずっているが、彼の不満点はただひとつ――さっさと我が家に帰って鼎と二人きりになりたいだけなのだ。鼎は苦笑し、筆を置くと、虚空に向かって腕を広げた。
「ほら、過足様」
「……」
「――ヨギ、おいでよ」
「……うむ」
鼎の甘い声に、すうと闇の中から現れたのは巨大な光る人型だった。大きな耳、尖った鼻、金色の瞳、縦長の瞳孔、紅の隈取り――鼎の髪と同じ真っ白な毛皮。地に爪先立つ足も、頑固そうに組まれた腕も、ゆったりと揺れる巨大な尾も同じく白い。狩衣様のゆったりとした白い衣をまとった狐に似た神獣――それが過足だ。
耳を揺らし、腕を組んだまましばらく鼎を見下ろしていたが、どこか複雑な顔つきで乱雑に座りこむと、ゆっくりと鼻先を近づけてきた。鼎はにこにこと笑いながら、首元の辺りの極上の毛皮を優しく撫でてやる。
「マッサージしてあげるから拗ねないで」
「うー……」
不満げに唸ってはいるが、ふかふかの尻尾が機嫌よく揺れている。過足は鼎の膝の上にあった札をはたき落とすと、代わりにどっかとその獣頭を沈めた。膝枕で機嫌が治るのなら安いものだ。首元、頬、額、耳と何度も撫で回す。毛皮を指で梳き、地肌をやわくこすり、伸びる皮膚を揉む。
毛皮の表面はさらさらで、ある種の冷たさすら感じるが、指を差し入れてみれば中の和毛はどこまでもやわらかく、あたたかい。金色の瞳を線のように細め、安穏と毛皮マッサージを堪能している過足の顔を眺めながら、昔は気安く触るなと逃げられたものだが、と出会いを懐かしんで鼎は微笑んだ。
あれはもう何年前になるだろう。鼎の生まれはある村の何代も栄えた名家だった。当時、鳴上家の長子として生まれた者は戸籍に登録させず、ただ家の神を祀るために飼い殺すという習わしがあった。今現在どうなっているのか、鼎は知らない。もしかすると家自体がなくなっている可能性もある。何しろ、鳴上家に繁栄をもたらす神様である過足が、鼎ともに家を出て行ってしまったのだから。
鳴上家の長男として生まれた鼎は、この世に生を受けた瞬間から女児として教育された。鳴上家の長子は神の嫁として生きる習わしなのである。神に捧げる舞を、神に捧げる祝詞を、先代の神の嫁からひたすらに覚えさせられる、ただそれだけの日々。神の嫁ということで、それ以外は上げ膳据え膳の待遇ではあるが、長子が男の場合は、十の誕生日に神への初めての神楽舞を納めたのちに去勢されるという過酷な運命を背負わされる。幸いというべきか、鼎は十の奉納舞で大失敗し、去勢を免れることができたのだが。
鼎の十の誕生日であり、初の奉納舞の日――。この日のために長く伸ばした黒髪を結い、緋の袴に鈴を捧げ持つ鼎は、異様な雰囲気に飲みこまれていた。鼎が暮らす離れの中でも最も奥にある大広間。そこはこれまで足を踏み入れることを固く禁じられていた場所だ。閉ざされていた豪奢な襖は全て開け放たれ、その全貌が初めて鼎の前にあらわとなっていた。
それは異様な光景だった。畳敷きの大広間の半分を区切る巨大な格子柵。それは天井と床のあいだに隙間なくはめこまれ、彼岸と此岸を明確に区切っていた。その奥に見えるのは――祭壇だ。注連縄の下に大きな札の貼られた平べったい桐箱が中央に見える。あれが家の守り神、ヨギアシ様なのだろうか。鼎は緊張に唾を飲みこんだ。
一面の格子柵を前にちいさな身体が対峙する。大広間の中には、格子柵を挟んで守り神と神の嫁の二人のみとなる。鼎が鈴を振ると、それを合図に襖の外に並んだ楽師たちが一斉に笙や篳篥を吹き鳴らし始めた。強ばる身体に喝を入れる。これまでに練習してきたとおりにやればよい。それに、めったに会えない父や母も、鼎の初めての奉納舞を後ろで見守ってくれている。だから、大丈夫だ。
――ああ、またか。
その時、苛立ったしゃがれ声が鼎の頭の中に聞こえた。鳴り響く雅楽よりも明瞭な男の声。あまりの衝撃に取り落としかけた鈴を余計に鳴らしてしまった。大きな黒い瞳をきょときょとと動かして周囲を窺うが、広間内には当然ながら自分のみ。誰何したいが舞を止めるわけにはいかない。足を前へ運ぶ。次の動作は何だったか。
――何が儂への慰みだ。全く、うるさくてかなわん。
冷や汗がしたたり、顔に塗りたくられた白粉に一筋の跡をつけた。相当な怒りのこもった声が恐ろしくて足が震える。鼎は恐怖に目を閉じ、振り付けどおりひときわ大きく鈴を鳴らした。
――やかましい!!
「っ! ごめんなさいっ!」
突如頭の中で炸裂した男の怒号に、鼎は思わず鈴を放り出し、その場にしゃがみこんだ。こらえていた涙腺が一気に決壊し、涙が滂沱と溢れる。放たれた男の怒りがちいさな鼎にはただひたすら恐ろしく、全身がぶるぶると震えるのを止められない。後ろで鳴り響いていた音楽が尻すぼみに消えていくのを絶望の中で聞いた。誰もが呆然と静まり返るなか、頭の中の男の声だけが焦り気味に話しかけてきた。
――おい、お前はもしかして儂の声が聞こえるのか? 返事をしてくれ。
畳に突っ伏し、嗚咽を漏らしながら、うんうんと懸命に頷く。その時、後ろから激しい足音を立てて誰かが近づいてきた。
「鼎! お前は何ということを……!」
「ごめ、ごめんなさい父様! ごめんなさい!」
俯したままの鼎の襟元を引っ掴み、力任せに引き上げたのは、額に青筋を立て、鬼の形相で睨みつける実の父親だった。大きな掌が振り下され、乾いた打擲音が部屋中に響き渡る。頬を打たれた衝撃で髪飾りが落ち、結っていた黒髪が空に舞った。ちいさな身体が音を立てて床に倒れこむ。
――おい、よせ! 娘、無事か!?
半狂乱になって叱責する父の大音声。事情の分からない楽師たちのざわめき。うわごとのように泣きながら謝り続ける自分の声。それらよりも、頭の中に響く心配そうな男のしゃがれ声が、鼎にはよりはっきりと聞こえていた。
「何てことだ……。全く、こんな大失態は前代未聞だぞ。どう対処すべきか、大婆様を交えて話し合わねば……」
――おい、娘。頼む、何とかしてこの檻の中に入ってこれないか。
過呼吸気味のまま、少し頭を上げて滲む格子柵の方を見た。檻の中。中にあるのは祭壇。やはりこの声の主は――ヨギアシ様なのだろうか。
「まったく、この出来損ないめ。我々は大婆様のところに行って指示を仰いでくるから、お前はここでおとなしく待っていろ。いいな」
こちらを見下ろす父の目は肉親とは思えぬほどに冷たく、鼎は思わず後じさり、格子柵にすがりついた。まるで無意識的に自分にとっての味方が誰なのか、分かっているかのように。
「おい、まさか逃げ出す気じゃあるまいな? ……それなら、中に入って過足様に誠心誠意、祝詞でも捧げておれ」
父は懐から鍵を取り出すと、子どもでも腰を屈めなければ入れないほどに小さな扉を開けた。その間、鼎の肩を抱いていた母は、父がこちらを振り向いた瞬間に目を伏せ、力一杯扉の方へと鼎の身体を押し出した。
「父様、母様……!」
「いいか、おとなしく待っておれよ。楽師らはここで待機だ。何があろうと大広間に足を踏み入れることは許さん」
檻の中に放りこまれ、身を起こした鼎の目の前で無情にも錠が下ろされた。雇われの楽師たちは手に手に楽器を持って左右に別れ、壁際に座って我関せずの顔でいる。
最後に父が隙間から一瞥を投げかけ――タンと鋭い音を立てて襖を閉じた。闇が目を焼き、何も見えなくなる。鼻の奥がツンと痛んだ。
「父様……、母様……」
――娘。おい、娘よ。大丈夫か。
これからの処遇も分からず、薄暗い部屋の中、座敷牢に閉じこめられて不安で仕方がない鼎にとって、唯一心配してくれる大人の声は――たとえそれが正体不明であっても――心強く思えた。袖で涙を拭い、ついでに鼻水も拭く。ちいさな声で返事をした。
「……はい」
――すまんが、儂にとってこれは千載一遇の機会なのだ。この箱の忌々しい封印を解いてほしい。そうすれば、お前のことも助けてやれる。
懇願され、鼎は何とか立ち上がった。箱とは、祭壇に祀られたあの箱のことだろう。闇に慣れてきた目で祭壇を見上げる。手を伸ばしてみるが、ちいさな鼎には届かない。
――祭壇を登ればいい。
「で、でも……」
――儂のための祭壇なんだろう? その儂がいいと言っているのだ。頼む。
「はい……」
焦りを含む男の声に急かされ、鼎は意を決して祭壇に足をかけた。敷かれた布の下、薄い板がぎしりと軋み、外に聞こえなかったかと肝を冷やす。
悪いことをしているという自覚があった。祭壇を足蹴にしているということだけではない。この箱の封印を解くことで、何か良くないことが起こってしまうのではないかと。けれど――。
大丈夫か、と心配し、頼む、と懇願する神様のことを、鼎は助けてあげたかった。年初に顔を合わせるだけの肉親よりも、顔も見たことのない親族よりも、作法を教えこむことに固執した先代の神の嫁よりも、このあたたかい神様のことを。
覗きこめるほどに箱に近づいた鼎は、貼られた札にそっと手を伸ばす。見れば見るほど古い箱だった。指先が触れた瞬間、まるで溶けるように札が風化して塵と化す。すると、ひとりでにするすると蓋が開き始め、鼎は驚愕で飛び出しそうな心臓を思わず両手で押さえた。
中には紫色の布に包まれた古い面が入っていた。白面に紅の隈取りをさした古い狐面。突然、その額に一筋のひびが入った。それはみるみるうちに上下に伸び、目を丸くする鼎の前で、真っ二つに弾け――。
「わ……!」
目の前が真っ白に塗り潰され、思わず目を押さえた。そのまま姿勢を崩し、小さな身体が祭壇から投げ出される。地面に叩きつけられる覚悟をしたその時、何かに抱き止められ、ふわりと身体が浮いた気がした。
「え……」
「ようやってくれた」
頭の中に聞こえたあのしゃがれ声。混乱する鼎の目の前にあったのは真っ二つに割れたはずの狐面――いや、狐面とそっくり同じ隈取りが施された白狐の顔だった。人間のように着物を着て、二本足で立ち、二本の腕で鼎を抱き上げていた。
「ヨギアシ……様?」
「然様。儂が過足だ」
小さな声で問うと、過足は目を細め、嬉しげに笑った。
「ああ全く、ここに囚われて一体何年経ってしまったのだろうな。人間の強欲さにはほとほと困ったものだ」
鼎を地面に下ろしながら、過足は深く溜め息をついた。呆れたような顔で、神を失い、もはや無為と化した祭壇を見つめている。鼎は不安になって過足の袴を引っ張った。
「ん?」
「ヨギアシ様、もしかして、出て行ってしまうのですか……?」
「ああ。そのつもりだ」
それなら、鼎はどうすればいいのだろう。家の守り神を解き放ってしまった神の嫁に、今後果たして居場所があるのだろうか。風化した箱の封印。真っ二つに割れた面。崩れた祭壇。ごまかしも効くまい。心が凍るほどの父の冷たい眼差しを思い出し、じわりと恐怖で涙が浮かぶ。声を殺し、静かに泣く鼎を見下ろしていた過足は、その場にしゃがみこんだ。丸い頬にそって転がり落ちる涙を指先で拭い、赤く腫れた頬を軽く撫ぜる。
「娘、お前の名は?」
「……鼎」
「カナエ。お前の一族は憎くとも、カナエは儂の恩人だ。儂はお前を助けたい」
同じ目線で金色の瞳が鼎を真摯に見つめている。生まれて今まで、鼎はどこか現実味のない世界で生きてきた。目が届く範囲のごく狭い世界しか知らないが、何かがずれているという焦燥感が心の底でずっと燻っていた。自分は一体何者か。何のために生きているのか。他の人と何が同じで何が違うのか。ちいさな鼎には明確に言葉にはできなかったけれど、押しつけられた役割の合間に必死に息継ぎをしながら、見えない問いの解けない答えをずっと考えていた。
「お前――儂の眷属となるか?」
「ケンゾク……?」
「儂と共に行くのだ。この家を出て、儂の……そうだな、嫁になるか?」
お前は神の嫁になるのだよ。そう言われて、そうなるものだと思って、十年間ずっと生きてきた。どこかずれた世界の中、目の前に現れた神様の真っ白な姿だけが、鼎には本物だと思えた。だから手を伸ばす。鼎が流した涙のしみこんだ白い手を取り、必死に言い募る。
「鼎は、ヨギアシ様のお嫁になりたい……」
「――そうか。ならばもう、お前は儂のものだ」
優しい声だった。尖った鼻先が鼎の額についと触れた。その瞬間、身体の中を何かが駆け抜けていったような衝撃を感じ、小さな身体が揺れた。長い髪が肩に落ちる。黒かった髪は、一瞬で純白に変わり果てていた。過足の太い指が一房掬い取る。
「儂の神気を受け入れた証拠だ。お前はもう完全な人間ではなくなった。――後悔はしていないか?」
「えと……ヨギアシ様とおそろいで、うれしいです」
そう言って、鼎はうつむきはにかんだ。ちいさな嫁の健気な仕草に、過足は暗闇に底光りする金色の瞳を細め、片腕で軽々とその身体を抱き上げる。天井にぶつかるのではないかとおののき、鼎は思わずふかふかの首元にしがみついた。
「さて、もう行くが――。ふむ」
大きな耳をひくりと動かし、過足が格子柵の外へと目をやった。閉ざされた襖の外から何やら話し声が聞こえてくる。おそらく、両親が家族会議から戻ってきたのだろう。腕の中の鼎を見て、過足はにやりと笑った。野生味溢れる鋭い牙が、目の前の者は神様であり獣なのだと幼い鼎に知らしめる。
「変化したお前の姿を見せつけてやろう。それで儂の溜飲も少しは下がるというものだ」
意味を図りかねて鼎が小首を傾げたその時、勢いよく襖が開き、大人たちがどやどやと大広間に踏みこんできた。何やら言い募る楽師たちを、父が鬱陶しげに振り払っている。
「いや、ですから中から何か話し声が……」
「ふざけるな、そんなことがあるわけ――」
闇が払拭された牢の中へ目を向けた大人たちの驚愕の表情は、今でも忘れられない。神獣の姿を映しえない彼らの目には、過足の腕に抱かれ、髪が真っ白に褪せた鼎の姿はどう見えたのだろう。
神罰か、それとも祝福か。
「鼎――!」
叫ぶ父の声を最後に、あの家とは縁が切れた。
それから幾つもの大きな戦争を経て、幾つもの新しい年号に改元されるのを見た。その長い長い間、鼎と過足は常に共にいた。いるだけで家に繁栄をもたらす神獣が全力で鼎を守ってくれているのだから、何があろうと苦しいことなどひとつもなかった。
まだ小さなころは、人の善い老人夫婦の養い子になったこともあった。青年の姿になってからは、山で狩猟しながら暮らしたこともあった。過足に頼ればどうとでもなるが、完全な人間ではないが神でもない鼎は、今は市井に紛れて少しだけ人助けをしながら、生計を立てて二人で生きている。
「過足様」
我が物顔で膝枕を堪能する神様に囁きかける。大きな耳がひくりと動いた。
「ん?」
「ありがとう。だいすき」
「どうした急に」
「僕を攫ってくれてありがとう」
娶ってくれてありがとう。身をかがめ、獣頭を抱きこむと、尖った鼻先に小さく口づける。
「……明日は朝イチで帰りましょうね」
耳元で甘く囁くと、過足が小さく舌打ちし、ごろりと寝返りを打った。
「……今からその気になってしまうだろうが」
少しむくれたようなしゃがれ声に、鼎は金色の瞳を細め、にんまりと微笑んだ。
翌朝、ずいぶんと顔色の良くなった老主人に神棚に供えるための手書きのお札を渡し、互いに気持ちよく報酬を授受して、二人は愛しの我が家へと帰って行ったのだった。
「嘘つきとは失礼な。それっぽいことを言って納得させてあげたんです。それに、座敷牢に軟禁って名家あるあるでしょう」
「儂は鳴上の家しか知らんよ」
「僕も知りません」
夜更けすぎ、古い土蔵の分厚い扉と観音開きの小窓を閉めきり、持ちこんだ薄暗いランタンの灯りの下、鼎は軽口を叩きながら、ひとり砂だらけの床を掃き清めていた。とりあえず、作業をする辺りさえ綺麗になっていればそれでいい。集めた砂を壁際に寄せ、巨大なリュックサックから白紙の札の束と筆ペンを取り出した。その場にあぐらをかき、かけていたサングラスを首元に引っ掛けると、虚空に話しかける。
「過足様、原因はもう食べてくれました?」
「お前は毎回聞くな」
「あなたが僕に見せないようにしてるんじゃないですか。業務の引き継ぎみたいなものですから我慢してください」
「食ったよ。お前にも断末魔が聞こえたろう。……ああ不味かった」
土蔵の中を歩き回っているときに聞こえたあの低い女の声が、原因の霊の断末魔だったのだろう。吹き溜まっていた低級霊は自分たちが一晩ここにいるだけで散るはずだ。
ならよし、と鼎は満足げにつぶやくと、白紙の札を前に、今回はどのデザインにしようかと思いを巡らせた。もう霊障が起こることはないのだから、それっぽいものなら何でもいいのだが……。底光りする金色の瞳を細め、筆ペンの蓋を軽く噛みながら考えこむ鼎に不満げな声が言い募る。
「なあ、すごく不味かったんだが」
「今回もお疲れ様でしたね」
「だから美味いものを食わせろ。儂をねぎらえ。早くうちに帰ろう」
年甲斐もなく素直に駄々をこねるしゃがれ声に鼎は思わず苦笑した。
「だめです。こういうのはね、一瞬で破ァ! って除霊しても、報酬を出し渋りされちゃうんですよ。時間をかけて苦労した感じを見せないとね」
「苦労も何も、お前は唐揚げ定食食って風呂入ってここに戻ってきただけじゃないか」
「だから、感じ、でいいんですよ。僕は過足様と依頼人の仲介役みたいなものなんですから。あの依頼人は今頃、僕が頑張って除霊してくれてんだなーって、枕を高くして寝てますよ。実際もう霊障も起こらないからぐっすり眠れるはずです」
そう言ってちいさく笑いながら、慣れた手つきで札に筆ペンを滑らせ、それらしいデザインを書きこんでいく。きっと本職――そもそも本職とは何なのかすら鼎には分からない――が見れば、この札は映画の小道具程度にしか見えないだろう。だが、長いこと適当にやってきているが、礼を言われこそすれ文句を言われたことはないのだ。だからこれでいい。
「そうすれば、翌日はお互い気持ち良く報酬の受け渡しができるってもんです」
「しかしな」
もう一人の男の声はひどく不満そうだ。何やらぐずっているが、彼の不満点はただひとつ――さっさと我が家に帰って鼎と二人きりになりたいだけなのだ。鼎は苦笑し、筆を置くと、虚空に向かって腕を広げた。
「ほら、過足様」
「……」
「――ヨギ、おいでよ」
「……うむ」
鼎の甘い声に、すうと闇の中から現れたのは巨大な光る人型だった。大きな耳、尖った鼻、金色の瞳、縦長の瞳孔、紅の隈取り――鼎の髪と同じ真っ白な毛皮。地に爪先立つ足も、頑固そうに組まれた腕も、ゆったりと揺れる巨大な尾も同じく白い。狩衣様のゆったりとした白い衣をまとった狐に似た神獣――それが過足だ。
耳を揺らし、腕を組んだまましばらく鼎を見下ろしていたが、どこか複雑な顔つきで乱雑に座りこむと、ゆっくりと鼻先を近づけてきた。鼎はにこにこと笑いながら、首元の辺りの極上の毛皮を優しく撫でてやる。
「マッサージしてあげるから拗ねないで」
「うー……」
不満げに唸ってはいるが、ふかふかの尻尾が機嫌よく揺れている。過足は鼎の膝の上にあった札をはたき落とすと、代わりにどっかとその獣頭を沈めた。膝枕で機嫌が治るのなら安いものだ。首元、頬、額、耳と何度も撫で回す。毛皮を指で梳き、地肌をやわくこすり、伸びる皮膚を揉む。
毛皮の表面はさらさらで、ある種の冷たさすら感じるが、指を差し入れてみれば中の和毛はどこまでもやわらかく、あたたかい。金色の瞳を線のように細め、安穏と毛皮マッサージを堪能している過足の顔を眺めながら、昔は気安く触るなと逃げられたものだが、と出会いを懐かしんで鼎は微笑んだ。
あれはもう何年前になるだろう。鼎の生まれはある村の何代も栄えた名家だった。当時、鳴上家の長子として生まれた者は戸籍に登録させず、ただ家の神を祀るために飼い殺すという習わしがあった。今現在どうなっているのか、鼎は知らない。もしかすると家自体がなくなっている可能性もある。何しろ、鳴上家に繁栄をもたらす神様である過足が、鼎ともに家を出て行ってしまったのだから。
鳴上家の長男として生まれた鼎は、この世に生を受けた瞬間から女児として教育された。鳴上家の長子は神の嫁として生きる習わしなのである。神に捧げる舞を、神に捧げる祝詞を、先代の神の嫁からひたすらに覚えさせられる、ただそれだけの日々。神の嫁ということで、それ以外は上げ膳据え膳の待遇ではあるが、長子が男の場合は、十の誕生日に神への初めての神楽舞を納めたのちに去勢されるという過酷な運命を背負わされる。幸いというべきか、鼎は十の奉納舞で大失敗し、去勢を免れることができたのだが。
鼎の十の誕生日であり、初の奉納舞の日――。この日のために長く伸ばした黒髪を結い、緋の袴に鈴を捧げ持つ鼎は、異様な雰囲気に飲みこまれていた。鼎が暮らす離れの中でも最も奥にある大広間。そこはこれまで足を踏み入れることを固く禁じられていた場所だ。閉ざされていた豪奢な襖は全て開け放たれ、その全貌が初めて鼎の前にあらわとなっていた。
それは異様な光景だった。畳敷きの大広間の半分を区切る巨大な格子柵。それは天井と床のあいだに隙間なくはめこまれ、彼岸と此岸を明確に区切っていた。その奥に見えるのは――祭壇だ。注連縄の下に大きな札の貼られた平べったい桐箱が中央に見える。あれが家の守り神、ヨギアシ様なのだろうか。鼎は緊張に唾を飲みこんだ。
一面の格子柵を前にちいさな身体が対峙する。大広間の中には、格子柵を挟んで守り神と神の嫁の二人のみとなる。鼎が鈴を振ると、それを合図に襖の外に並んだ楽師たちが一斉に笙や篳篥を吹き鳴らし始めた。強ばる身体に喝を入れる。これまでに練習してきたとおりにやればよい。それに、めったに会えない父や母も、鼎の初めての奉納舞を後ろで見守ってくれている。だから、大丈夫だ。
――ああ、またか。
その時、苛立ったしゃがれ声が鼎の頭の中に聞こえた。鳴り響く雅楽よりも明瞭な男の声。あまりの衝撃に取り落としかけた鈴を余計に鳴らしてしまった。大きな黒い瞳をきょときょとと動かして周囲を窺うが、広間内には当然ながら自分のみ。誰何したいが舞を止めるわけにはいかない。足を前へ運ぶ。次の動作は何だったか。
――何が儂への慰みだ。全く、うるさくてかなわん。
冷や汗がしたたり、顔に塗りたくられた白粉に一筋の跡をつけた。相当な怒りのこもった声が恐ろしくて足が震える。鼎は恐怖に目を閉じ、振り付けどおりひときわ大きく鈴を鳴らした。
――やかましい!!
「っ! ごめんなさいっ!」
突如頭の中で炸裂した男の怒号に、鼎は思わず鈴を放り出し、その場にしゃがみこんだ。こらえていた涙腺が一気に決壊し、涙が滂沱と溢れる。放たれた男の怒りがちいさな鼎にはただひたすら恐ろしく、全身がぶるぶると震えるのを止められない。後ろで鳴り響いていた音楽が尻すぼみに消えていくのを絶望の中で聞いた。誰もが呆然と静まり返るなか、頭の中の男の声だけが焦り気味に話しかけてきた。
――おい、お前はもしかして儂の声が聞こえるのか? 返事をしてくれ。
畳に突っ伏し、嗚咽を漏らしながら、うんうんと懸命に頷く。その時、後ろから激しい足音を立てて誰かが近づいてきた。
「鼎! お前は何ということを……!」
「ごめ、ごめんなさい父様! ごめんなさい!」
俯したままの鼎の襟元を引っ掴み、力任せに引き上げたのは、額に青筋を立て、鬼の形相で睨みつける実の父親だった。大きな掌が振り下され、乾いた打擲音が部屋中に響き渡る。頬を打たれた衝撃で髪飾りが落ち、結っていた黒髪が空に舞った。ちいさな身体が音を立てて床に倒れこむ。
――おい、よせ! 娘、無事か!?
半狂乱になって叱責する父の大音声。事情の分からない楽師たちのざわめき。うわごとのように泣きながら謝り続ける自分の声。それらよりも、頭の中に響く心配そうな男のしゃがれ声が、鼎にはよりはっきりと聞こえていた。
「何てことだ……。全く、こんな大失態は前代未聞だぞ。どう対処すべきか、大婆様を交えて話し合わねば……」
――おい、娘。頼む、何とかしてこの檻の中に入ってこれないか。
過呼吸気味のまま、少し頭を上げて滲む格子柵の方を見た。檻の中。中にあるのは祭壇。やはりこの声の主は――ヨギアシ様なのだろうか。
「まったく、この出来損ないめ。我々は大婆様のところに行って指示を仰いでくるから、お前はここでおとなしく待っていろ。いいな」
こちらを見下ろす父の目は肉親とは思えぬほどに冷たく、鼎は思わず後じさり、格子柵にすがりついた。まるで無意識的に自分にとっての味方が誰なのか、分かっているかのように。
「おい、まさか逃げ出す気じゃあるまいな? ……それなら、中に入って過足様に誠心誠意、祝詞でも捧げておれ」
父は懐から鍵を取り出すと、子どもでも腰を屈めなければ入れないほどに小さな扉を開けた。その間、鼎の肩を抱いていた母は、父がこちらを振り向いた瞬間に目を伏せ、力一杯扉の方へと鼎の身体を押し出した。
「父様、母様……!」
「いいか、おとなしく待っておれよ。楽師らはここで待機だ。何があろうと大広間に足を踏み入れることは許さん」
檻の中に放りこまれ、身を起こした鼎の目の前で無情にも錠が下ろされた。雇われの楽師たちは手に手に楽器を持って左右に別れ、壁際に座って我関せずの顔でいる。
最後に父が隙間から一瞥を投げかけ――タンと鋭い音を立てて襖を閉じた。闇が目を焼き、何も見えなくなる。鼻の奥がツンと痛んだ。
「父様……、母様……」
――娘。おい、娘よ。大丈夫か。
これからの処遇も分からず、薄暗い部屋の中、座敷牢に閉じこめられて不安で仕方がない鼎にとって、唯一心配してくれる大人の声は――たとえそれが正体不明であっても――心強く思えた。袖で涙を拭い、ついでに鼻水も拭く。ちいさな声で返事をした。
「……はい」
――すまんが、儂にとってこれは千載一遇の機会なのだ。この箱の忌々しい封印を解いてほしい。そうすれば、お前のことも助けてやれる。
懇願され、鼎は何とか立ち上がった。箱とは、祭壇に祀られたあの箱のことだろう。闇に慣れてきた目で祭壇を見上げる。手を伸ばしてみるが、ちいさな鼎には届かない。
――祭壇を登ればいい。
「で、でも……」
――儂のための祭壇なんだろう? その儂がいいと言っているのだ。頼む。
「はい……」
焦りを含む男の声に急かされ、鼎は意を決して祭壇に足をかけた。敷かれた布の下、薄い板がぎしりと軋み、外に聞こえなかったかと肝を冷やす。
悪いことをしているという自覚があった。祭壇を足蹴にしているということだけではない。この箱の封印を解くことで、何か良くないことが起こってしまうのではないかと。けれど――。
大丈夫か、と心配し、頼む、と懇願する神様のことを、鼎は助けてあげたかった。年初に顔を合わせるだけの肉親よりも、顔も見たことのない親族よりも、作法を教えこむことに固執した先代の神の嫁よりも、このあたたかい神様のことを。
覗きこめるほどに箱に近づいた鼎は、貼られた札にそっと手を伸ばす。見れば見るほど古い箱だった。指先が触れた瞬間、まるで溶けるように札が風化して塵と化す。すると、ひとりでにするすると蓋が開き始め、鼎は驚愕で飛び出しそうな心臓を思わず両手で押さえた。
中には紫色の布に包まれた古い面が入っていた。白面に紅の隈取りをさした古い狐面。突然、その額に一筋のひびが入った。それはみるみるうちに上下に伸び、目を丸くする鼎の前で、真っ二つに弾け――。
「わ……!」
目の前が真っ白に塗り潰され、思わず目を押さえた。そのまま姿勢を崩し、小さな身体が祭壇から投げ出される。地面に叩きつけられる覚悟をしたその時、何かに抱き止められ、ふわりと身体が浮いた気がした。
「え……」
「ようやってくれた」
頭の中に聞こえたあのしゃがれ声。混乱する鼎の目の前にあったのは真っ二つに割れたはずの狐面――いや、狐面とそっくり同じ隈取りが施された白狐の顔だった。人間のように着物を着て、二本足で立ち、二本の腕で鼎を抱き上げていた。
「ヨギアシ……様?」
「然様。儂が過足だ」
小さな声で問うと、過足は目を細め、嬉しげに笑った。
「ああ全く、ここに囚われて一体何年経ってしまったのだろうな。人間の強欲さにはほとほと困ったものだ」
鼎を地面に下ろしながら、過足は深く溜め息をついた。呆れたような顔で、神を失い、もはや無為と化した祭壇を見つめている。鼎は不安になって過足の袴を引っ張った。
「ん?」
「ヨギアシ様、もしかして、出て行ってしまうのですか……?」
「ああ。そのつもりだ」
それなら、鼎はどうすればいいのだろう。家の守り神を解き放ってしまった神の嫁に、今後果たして居場所があるのだろうか。風化した箱の封印。真っ二つに割れた面。崩れた祭壇。ごまかしも効くまい。心が凍るほどの父の冷たい眼差しを思い出し、じわりと恐怖で涙が浮かぶ。声を殺し、静かに泣く鼎を見下ろしていた過足は、その場にしゃがみこんだ。丸い頬にそって転がり落ちる涙を指先で拭い、赤く腫れた頬を軽く撫ぜる。
「娘、お前の名は?」
「……鼎」
「カナエ。お前の一族は憎くとも、カナエは儂の恩人だ。儂はお前を助けたい」
同じ目線で金色の瞳が鼎を真摯に見つめている。生まれて今まで、鼎はどこか現実味のない世界で生きてきた。目が届く範囲のごく狭い世界しか知らないが、何かがずれているという焦燥感が心の底でずっと燻っていた。自分は一体何者か。何のために生きているのか。他の人と何が同じで何が違うのか。ちいさな鼎には明確に言葉にはできなかったけれど、押しつけられた役割の合間に必死に息継ぎをしながら、見えない問いの解けない答えをずっと考えていた。
「お前――儂の眷属となるか?」
「ケンゾク……?」
「儂と共に行くのだ。この家を出て、儂の……そうだな、嫁になるか?」
お前は神の嫁になるのだよ。そう言われて、そうなるものだと思って、十年間ずっと生きてきた。どこかずれた世界の中、目の前に現れた神様の真っ白な姿だけが、鼎には本物だと思えた。だから手を伸ばす。鼎が流した涙のしみこんだ白い手を取り、必死に言い募る。
「鼎は、ヨギアシ様のお嫁になりたい……」
「――そうか。ならばもう、お前は儂のものだ」
優しい声だった。尖った鼻先が鼎の額についと触れた。その瞬間、身体の中を何かが駆け抜けていったような衝撃を感じ、小さな身体が揺れた。長い髪が肩に落ちる。黒かった髪は、一瞬で純白に変わり果てていた。過足の太い指が一房掬い取る。
「儂の神気を受け入れた証拠だ。お前はもう完全な人間ではなくなった。――後悔はしていないか?」
「えと……ヨギアシ様とおそろいで、うれしいです」
そう言って、鼎はうつむきはにかんだ。ちいさな嫁の健気な仕草に、過足は暗闇に底光りする金色の瞳を細め、片腕で軽々とその身体を抱き上げる。天井にぶつかるのではないかとおののき、鼎は思わずふかふかの首元にしがみついた。
「さて、もう行くが――。ふむ」
大きな耳をひくりと動かし、過足が格子柵の外へと目をやった。閉ざされた襖の外から何やら話し声が聞こえてくる。おそらく、両親が家族会議から戻ってきたのだろう。腕の中の鼎を見て、過足はにやりと笑った。野生味溢れる鋭い牙が、目の前の者は神様であり獣なのだと幼い鼎に知らしめる。
「変化したお前の姿を見せつけてやろう。それで儂の溜飲も少しは下がるというものだ」
意味を図りかねて鼎が小首を傾げたその時、勢いよく襖が開き、大人たちがどやどやと大広間に踏みこんできた。何やら言い募る楽師たちを、父が鬱陶しげに振り払っている。
「いや、ですから中から何か話し声が……」
「ふざけるな、そんなことがあるわけ――」
闇が払拭された牢の中へ目を向けた大人たちの驚愕の表情は、今でも忘れられない。神獣の姿を映しえない彼らの目には、過足の腕に抱かれ、髪が真っ白に褪せた鼎の姿はどう見えたのだろう。
神罰か、それとも祝福か。
「鼎――!」
叫ぶ父の声を最後に、あの家とは縁が切れた。
それから幾つもの大きな戦争を経て、幾つもの新しい年号に改元されるのを見た。その長い長い間、鼎と過足は常に共にいた。いるだけで家に繁栄をもたらす神獣が全力で鼎を守ってくれているのだから、何があろうと苦しいことなどひとつもなかった。
まだ小さなころは、人の善い老人夫婦の養い子になったこともあった。青年の姿になってからは、山で狩猟しながら暮らしたこともあった。過足に頼ればどうとでもなるが、完全な人間ではないが神でもない鼎は、今は市井に紛れて少しだけ人助けをしながら、生計を立てて二人で生きている。
「過足様」
我が物顔で膝枕を堪能する神様に囁きかける。大きな耳がひくりと動いた。
「ん?」
「ありがとう。だいすき」
「どうした急に」
「僕を攫ってくれてありがとう」
娶ってくれてありがとう。身をかがめ、獣頭を抱きこむと、尖った鼻先に小さく口づける。
「……明日は朝イチで帰りましょうね」
耳元で甘く囁くと、過足が小さく舌打ちし、ごろりと寝返りを打った。
「……今からその気になってしまうだろうが」
少しむくれたようなしゃがれ声に、鼎は金色の瞳を細め、にんまりと微笑んだ。
翌朝、ずいぶんと顔色の良くなった老主人に神棚に供えるための手書きのお札を渡し、互いに気持ちよく報酬を授受して、二人は愛しの我が家へと帰って行ったのだった。
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