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エピローグ
しおりを挟む明かりのついていない部屋に、二人佇んでいる。
「ああ、困ったねぇ」
そうほけほけとのたまう男の顔に、言葉通りの困惑は浮かんでいない。
むしろ、正面に佇む青年の方にこそ深く皺が刻まれ、苦悩が満ち満ちていた。
「どういうつもりです、篠原さん」
青年――神城高等学校モンスター留学生統括部部長、野村が問いかける。
視線の先には篠原と呼ばれた男、そして更にその後ろの窓が映す光景があった。
集まりすぎて黒く染まる何かの群れ。
煙のように蠢くそれらは、深夜という時間帯も相まって目立ちにくいものではあったが、人間でない二人に暗さは関係ない。
はっきり異常と分かる外の様子に、しかし男は動かない。
その異常を治めることこそ、留学生エージェントである男――篠原 誠司の仕事であるというのに。
男は視線で野村を促す。
まるで自分で答えを言ってみなさい、と見守る教師のように、その眼差しはどこまでも暖かい。
「日ノ本産モンスターと、魔女である鈴木 明亜。
火種が少なくとも二つはあったというのに、どうしてわざわざあなたのご子息を見張りにつけたんですか」
既に二度、留学生が実害を被っている。
見張りどころではなく、プロの護衛役を付けてもまかり通る事態であった。
しかし、責任者である篠原は見張りを、関係が深かったとはいえただの一般人であるみつるに頼んだのだ。
さらに言えば、魔女の留学生は、これが初めての事例ではない。
だからこそ野村は知っている。
魔女という種族の、見た目からは遠くかけ離れたヒトならざる心の在り方を。
どろりと渦巻く心情が漏れたように感じて、野村は傷を隠す首元を押さえた。
「ちょっと、自覚してほしくて」
窓から校舎の崩れる様を見ていた篠原が、微笑んで野村に返す。
片手で紐を操り、ブラインドを降ろすとかろうじて灯りになっていた月光さえ閉ざされて見えなくなる。
「我々エージェントの目的は、留学生モンスターを日ノ本で学ばせ、無事に祖国へ帰すこと。
それは彼らの安全を確保するためでなく、日ノ本の安全を守るためだ」
ぺこ、と軽く音を立ててブラインドの一部が曲がる。
隙間から漏れた光は、柔らかく笑んだ口元しか見せない。
「日ノ本産モンスターは最近元気がいいから、少しばかり注意しないとね。
川原くん、だったかな。
彼が色々喋ってくれると仕事がやりやすい」
最近長が代替わりしたという日ノ本産のモンスター、それらによる暴動と巻き起こされる事件。
エージェント達が忙しく走り回る原因の一端である。
その根元を抑えるために、手掛かりを知りうる河童を戦闘不能の状態にしたかったというのか。
「モンスター一体の鎮静に比べれば人払いや騒動の後始末なんて楽なもんだ」
「覚悟というのは。
あなたの息子である以上、モンスターとのトラブルは避けられないと?」
野村はこれでも自分は後輩想いであると自負している。
肉体的に腐ってはいるが、心まで腐敗はしないというのが彼の信条だ。
そんな彼が、道具のように扱われる後輩を思えば表情に苦みが走るのは仕方ない事と言えた。
しかし明らかに責められている眼差しを受け取っても、篠原は飄々とした声でああ、違う違うと手を振った。
「あの子は自分が苦労気質だっていまいち分かってないんだよな」
「といいますと?」
「面倒くさがりだしトラブルは避けたがるけど、心を開いた相手の頼み事は断れないんだよ。
よりによって、今回からその相手も頼み事もモンスター級ときた。
きっとモンスターがらみのトラブルはいっぱい起こるだろうけど、たぶん息子は巻き込まれるだろうな」
「・・・・・・ホームステイで心を開くように仕向けたのはあなたでしょうに」
これから苦労するよー、息子は。
そう楽し気に話す篠原の指が、くいくいとブライドをいじくる。
紐にじゃれつく様はまるで猫のようだが、野村はそれに対し反応をとることなく、メガネのブリッジを押し上げるにとどまった。
彼がそんな可愛らしい愛玩動物などではないと、魔女と同じくらい身に染みている。
「いやあ、はやく自覚してくれないかな!」
紐の先についた重りが勢いよく揺れて、上部のブラインドが僅かに開いてしまう。
月光に照らされたのは、茶色の毛に覆われた三角の耳だ。
「自分は『一匹狼』の息子なんだから、弱いわけないのにね」
鳥がさえずり、空気の澄み渡る清々しい朝である。
大変に気持ちのよい朝であるはずなのだが、ぼくと鉄也は目の下にくっきりと隈を作って呆然とソファにもたれかかっていた。
目を閉じるでもなく虚空を見つめる様は大層気色の悪いものだっただろう、通りすがりの職員がぎょっと肩を震わせていた。
ほんのり白いリノリウムの床に清掃の行き届いたここはエージェント本部だ。
学校から脱出してなんとか父と連絡を取ったぼくらは、怪我の手当てのためにあれよあれよと運ばれた。
なんで病院でなくここなのかと言えば、表向きは本部の方が近かったから。
本当のところは事情聴取のためだろうな、とぼくは睨んでいる。
手当てと同時に何があったかを聞かれ、学校の様子を見に偵察部隊が組まれた。
慌ただしく出ていく彼らを見送りながら滲みる消毒液に顔をしかめ、言葉をひねり出して説明を続けている内に、夜はすっかり明けてしまった。
いわゆる徹夜である。
太陽が黄色く見えるって本当だったんだな、と思いつつカーテンは閉めない。
その為だけに立ち上がるのすら億劫だ。
「・・・・・・鈴木 明亜はなんであんなところにいたんだろうな?」
ぽつり、危うく聞き逃しそうなほど小さな声で鉄也が呟いた。
その目にはありありと疲労が浮かんでいる。
が、失礼ながら背もたれへと完全に身を預けた光景はもはや狼というより家で脱力する飼い犬のようだった。
「・・・・・・わかんない」
そしてぼくも、野生を忘れた犬状態で返す。
お互いに視線を向けないものだから、ソファに並びあった二人がそれぞれ独り言を呟くという大変奇妙な構図ができあがる。
鈴木さんがあの玩具達を操っていたのは明白だ。
今でもあの大量の無機物たちが迫る様を思い出すとぞっとしない。
だけど、結局ぼくは追いかけられただけで直接危害を加えられた訳ではないのだ。
最終的にクッションになってくれたおかげでぼくたちは死なずに済んだ。
そう考えると助けてくれたともいえるのか。
「・・・・・・置いてったこと、怒ってたかな」
前の台詞よりも更に小さく聞こえたそれは本当にただ呟いただけのようだった。
しかしどんな意図であろうと、ぼくの耳に入ってしまったなら一緒だ。
唇を尖らせ、会話を繋げる。
「・・・・・・だったらぼくを助けに行かないで鈴木さんと一緒にいれば良かったじゃないか」
「そしたらおまえが死ぬだろ」
「そりゃそうだけど」
ぽつりぽつりと言葉が返ってきて、それを打ち返す。
特に頭を使ったわけでもない、脊髄反射のような台詞ばかりだ。
「おれが助けられたままなのはいやだ」
そこでぼくはむくりと起き上がって、初めて鉄也の顔を見た。
くっきりと隈を作って焦点の合っていない目はとても冗談を言えるようには見えない。
間違いなく、大真面目に、鉄也はぼくに助けられたと認識している。
助けられたとは、どこで?
視線があちこちさ迷おうとして、結局疲れて斜め上の壁に向く。
数十秒記憶を掘り返してもなんのことだか分からず、そうこうしている間に鉄也の方が再び口を開いた。
「おまえはよわい。
日ノ本の妖怪にすぐさらわれるし、戦うこともできない」
「うん」
「おまえのことは命を預けられる仲間だとは思っていないが」
「はあ」
はくりと大きな口が開き、また閉じる。
不自然な空白は、鉄也自身が言葉を探しているようだった。
やがて見つけたらしいその言葉を、ゆっくりと言い聞かせるように告げる。
「おまえが死ぬのは、俺はいやだ」
最後の言葉だけ、わざわざ起き上がってぼくと視線を合わせてくるのはずるい。
アイスブルーの瞳はにこりともせず、鉄也が慣れないジョークを覚えたという可能性は全くなかった。
特に反応を返すこともせず、ぼくは起こしていた頭を再びソファの背もたれに戻した。
だって驚きすぎて言葉が浮かばなかったのだ。
出会った頃になんと言われたっけ?
もう詳しく覚えていないけれど、『こいつとは仲良くなれそうもない』と思ったことだけは覚えている。
それから鈴木さんをきっかけに振り回されるようになって、二人で出かけて、ぼくなんて鈴木さんがらみでなければ鉄也にとっては気にもとめないような存在だと思っていたのに。
窓の外から見える天気が快晴だったらいい天気だと言いたくなるように、なにか返してやらねばいけないという気持ちになったので、ぼくは大分遅れてありがとうと呟いた。
鉄也はそれに対してそうかと返した。
まるで会話が成り立っていないみたいで、ぼくはなんだか可笑しくなった。
「鈴木さんに申し訳ないと思ってるなら、お詫びの品でも送ればいいよ」
「む」
「植物の種とかどうかな。珍しいやつならきっと喜んでくれるよ」
起き上がった鉄也は興味を惹かれたようにまじまじとぼくを見つめている。
こういうところは本当にぶれない。
「そして『素敵! これはどこで手に入れたの?』と聞かれたら『教えて上げるから今度一緒に行こう』と言えば・・・・・・後は分かるな?」
「てんさいかおまえ」
はわわ・・・・・・とぼくの策略に戦慄する鉄也に唇の端を上げてニヒルに返してやる。
まあ聞かれなければそこでおしまいなんだけど。
ソファの背もたれにもたれなおして、ぼくの視線は廊下の窓へと戻る。
空は予想とは大分違って、雲の方が空の青よりも多い。
曇りというやつだ。
雷が降るわけでも台風が来るわけでもなく、普通の日常というやつはぼくらの心情など考慮もせずにやってくる。
雲は少しずつ流れていき、されど快晴とは行かず。
教室の机から横目に眺める空は普通の天気だ。
あれから、調査に向かっていたエージェントがもたらした報告は驚くべきものだった。
あれだけ破壊された学校は、その痕跡を残すこともなく戦いなどなかったような状態だという。
そんなわけない、モンスターと妖怪の戦いは確かにあったのだと焦って言い募るぼくに、父さんがぽんと肩を叩いた。
それはお前たちの怪我の具合で分かっているから落ち着きなさいと。
あっはい。
嘘だと思われてなくてよかった。
何者かが修復したのだろう、というのがエージェント達の見解だった。
そしてそこまで強大なことができる者にも検討がついていると。
脳裏にちらりと、校舎を埋め尽くすほどの玩具を操っていた女の子の姿が浮かぶ。
難しい顔で留学者名簿をめくる大人たちを前に事の経緯を全て説明したぼくらができることもなく。
怪我の治療を簡単に施されて、家に帰されたのだった。
鉄也は鈴木さんを食べたいと言った。
たぶんそれは恋で、人間とモンスターの恋は御法度だ。
でも鈴木さんが魔女だと判明して解決して、日ノ本の妖怪からはよく分からないちょっかいを掛けられて今に至るわけだ。
・・・・・・いや、よく分からないって言ったらすごく失礼なんだけど。
増えていく人間に抗うために、人間が押し付けた普通とは違う自分達を日ノ本に馴染ませるために。
きっと彼らは生き残るために必死なんだ。
国際問題、というやつなんだろうか。
異なる人種が価値観の相違で争いを巻き起こすように。
ニュースで眺めるそれを、深刻だと分かっていながら特に動き出さないぼくらのように。
ぺたぺたと、上履きが床を叩く。
ぼくの視野はひどく狭くて、問題があったとしても自分の身近に迫らなければ自覚さえできない。
「小林くん、篠原くん、おはよう」
窓越しの空を眺めていたら、後頭部に声がかかる。
それはかわいらしいという意味でも、休み時間で騒ぐ教室内では控えめすぎる音量という意味でも、鈴のような声色だった。
「おはよう、すずきさ」
「おはようっ」
ぼくの返事を半分以上遮る勢いで鉄也が身をのりだす。
挨拶くらいさせろと口許がぴきりとひきつったが、見れば先日立てた作戦を実行すべくがっちがちに緊張していたので今回は見逃すことにする。
つ、と視線をずらせば瀬野さんと目が合う。
突然のことに驚いたのか、わずかに目を見開くと瀬野さんはすいっと顔をそむけた。
伏せられた瞼の下は、無関心を固めたような黒目が覗く。
そこまで露骨に無視されると大変傷つく。
口許のひきつりはさらに二割増しだ。
しかしそれよりも厄介なのは、ぼくは瀬野さんをどういう立ち位置で扱えばいいのか分からないという点だ。
学校に誘拐される直前に聞いたぼくがエージェントの身内だからという台詞、学校で箒を使って飛んでいた魔女が瀬野さんなのは覚えているから、彼女は河童たちと同じ側の妖怪だったのだろうか。
しかしそれにしては玩具たちに襲われた様子もなかったし、エージェント達に追求されているなら普通に登校してきているのも不自然だ。
父さんに聞いてみるか、直接尋ねるべきか。
こういうのは聞いてもいいことなんだろうか、クラスメイトと敵対関係になったことがないからわからんぞ。
「あのね、二人とも、ちょっといいかな?」
と、どう切り出そうか考えあぐねていた鉄也よりも先に鈴木さんが話を始めてしまった。
先手を取られてしまった鉄也はもにょもにょと残念そうに口ごもるが、これはタイミングを逃したお前が悪い。
「あのね、・・・・・・二人の話、エージェントさんから聞いちゃったの」
勝手にごめんね、と両手を合わせる鈴木さんの声は更にひそめられ、どうやら内緒話をするようだった。
話、というのはぼくと鉄也が狼男だということだろうか。
満月の夜に思いっきり変身していたのでバレるのも時間の問題とは思っていたけれど。
「それでね、私、似たような子がこんなに近くにいたんだなぁって嬉しくなっちゃって・・・・・・」
つばさちゃんがいてくれたから寂しくはなかったけど、と視線をちらりと向けたが、鈴木さんと瀬野さんが目を合わせることはなかった。
照れているのだろうか。
合わなかった視線に少ししょんぼりしつつも、だからね、えっと、と言葉を続ける。
緊張で頬を紅潮させ、両の手できゅっと握りこぶしを作って、鈴木さんは普段よりも頑張ったらしき大きな声で言った。
「今度、私の家に来ませんかっ?」
言葉は教室の喧騒に掻き消されそうな程度の音量だったが、それは爆弾のごとき威力をもってぼくらを襲う。
そういえば前の昼御飯やデートの時も彼女からだったな。
案外鈴木さんは積極的なタイプだった。
大丈夫か鉄也、心臓が今にも止まりそうな形相だぞ。
教室はいつもと変わらず騒がしい。
昨日見たドラマの話、噂の先輩の話、何気ない会話が飛び交わされる。
そこへ投じられるのは、普通のふりをした、魔女の誘いだ。
人間のふりをしたぼくらのように、異物は紛れて、日常を侵食していく。
それを『恋』と呼ぶには、あまりに歪だ。
《おわり》
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