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箱と触手

人物紹介

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男は走っていた。

長い手足を振り回し、だらしなく開いた口から懸命に空気を取り込みながら逃げていた。
硬質な床に裸の足裏が叩きつけられ、その度に腰にくくりつけた箱がガタガタと音を立てる。
鋲が錆び付き、端の朽ちた巨大な箱はまるで棺桶のようであった。

こめかみの辺りからにじみ出た汗は激しい運動のせいか、それとも男の内側から吹き出る感情によるものか。
終わりの見えぬ灰色の床にぴしゃりと水滴が落ちた。

やがて男の表情に光明が差した。
無機質なコンクリートで囲まれた閉塞的な通路の先に、人影が見えたのだ。
近づくにつれそれは自分よりふた回りも小さな少女であると分かったが、助けを求めることに躊躇はなかった。

「た、たすけて!」

逃走に疲れ果てた男はプライドも何もかもをかなぐり捨てて、魔族である自分などよりよほど弱そうな人間に向かって声を張り上げた。

機械の駆動により開放された扉をくぐり抜けたばかりの少女は眼を丸くしたが、取り乱すことなく平静を取り戻したようだった。
片手を持ち上げる。
少女はつるりとした革手袋の、その人差し指を男に向ける。

「ひょっとして追われているのは」

指先が男ではなく、その背後を指差していると察した時、男の顔に浮かんだのは絶望であった。

「貴方が背負っている彼女にですか」

ひゅ、と息が止まる。
眼を見開き、ガタガタと身体を震わせることしかできない男の頬に、貼り付くものがあった。
にちゃりと不快な音をたてて這い寄るそれは、おぞましい形状の触手だ。
壊れかけの人形のようなぎこちなさで、男は振りかえる。
息の吹きかかるような距離に、女がいた。
一瞬たりとも離すものかと、濡れ髪の間から瞬きをしない目がこちらを見ている。
べちゃりと粘つく液体が肩に触れた時、男は恐怖をようやく自覚した。

キャーーーーーー!!

絹を裂くような悲鳴が響き渡る中、言葉でとどめを刺した少女はうるさいな、と冷静に耳を塞いでいたのだった。





区画3-A、洞窟などの閉塞的なダンジョンを住み処とする魔族達が暮らす場所だ。
少しばかり余った革手袋の指先を調節しなおして、マッピーは眼前の光景をどうしたものかと見つめていた。

「うぐぉおおお、っお、めっぢゃこわかっだぁあ」

幅の広い布を巨躯に巻き付けた青年が号泣している。
肌の色は人間には有り得ない漆黒。
ぐにょり、時折彼の感情に合わせるように輪郭が霞むように歪んだ。
洞窟の暗がりに潜めば、身体の形を自在に形成できる彼を見つけるのは困難だろう。
種族はミミック。空箱に隠れ、宝箱と勘違いして近づく人間を襲う歴とした元敵対種族だ。

「いつ気づくかと思ってずぅっと引っ付いていたのだけれど、あなたってば指摘されるまで本当に振り返らないんだもの」

まぬけね、と泣く男に追い討ちをかける女は整った顔に手を寄せてほうと息をはいた。
フリルをふんだんにあしらったドレスに、大胆に開いた胸元から覗く豊満な二つの果実、上半身だけみれば魅力的な女性だ。
ただし、スカートの裾から生えるのは人間の足ではなく、粘液を纏わせながらうぞりうぞりと蠢く幾本もの触手だ。
光沢のある肉色がより一層気持ち悪さを引き立てている。
種族はテンタクル、同じく洞窟に潜んで人間を襲い、……少々公にできぬ方法で繁殖に利用する。
こちらも戦争が終結するまでは敵対種族であった。

「すいません、気づかず背中に恐怖対象乗せてるなんて怪談みたーい、と思ったらつい遊び心が」
「その遊び心に抉られた心もあるんでずよっ!!」

そして頭をかきながら遊び心などとほざくのが我らが主人公、マッピーだ。
ミミックの切実な叫びにそうは言っても、とまるで響かぬ顔で言葉を返す。

「どういう状況なのかまるで分からないんですが。
なにがあったんですか?」

必死で訴えていたミミックの涙目と、自立のできない脚であるがゆえに廊下にぺたりと座り込むテンタクルの流し目が、示しあわせたように交差する。

「ぼくがテンタクルの部屋にお邪魔してお話してたんだけど」
「話の途中で『日光浴してみたい』って勝手に部屋から出ようとしたから腹が立っておどろかせてやったのよ」
「部屋に上がり込むほど仲良しなんかい!」

互いを指差すタイミングも完璧である。
思わず業務用の敬語も外して叫んでしまった。
あのホラー映画の犠牲者のような必死の形相はなんだったというのか。
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