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最終章 決戦

4 三国明彦の悔恨

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 平成13年6月8日

 その日、明彦あきひこは焦っていた。T都で開かれる次世代の教育を考えるシンポジウムに出席することになっていたのだが、そこで発表する論文の作成に追われていたのだ。そのシンポジウムで発表される内容は中央教育審議会でも取り上げられ、将来的には学習指導要領の改訂に盛り込まれる。学習指導要領には法的拘束力があり、公立の小・中学校の教師はそれに沿って授業を進めなければ服務規程違反となってしまうという代物だ。

 明彦は常々、詰め込み型教育の限界を訴えてきた。これからの世の中はインターネット社会になっていく。インターネットでは検索エンジンが充実し、必要な知識はすぐに手に入る時代が来るのだ。そんな時代に備えて限られた義務教育期間の中で子どもたちの何を育んでいくことが有効か。学習指導要領に問題解決学習という言葉が取り入れられて半世紀以上経つが、どんな教育が子どもたちが大人になった時に問題解決に役立つかということを考えることは、国立の教師として大切な責務であると考えていた。

 明彦は大学卒業後、公立の小学校教員となった。少子化が進み、学校も縮小を余儀なくさせられる中で、1クラス1担任制の限界を感じていた明彦はティームティーチングの充実を訴える論文を発表した。ティームティーチングとは一つの授業に複数の教師が入って授業を行うことだ。その論文はそれなりに評価され、明彦は国立の教員養成系大学の付属小学校の教師に抜擢された。国立の小・中学校はある意味、学習指導要領を劣化させない教育理論を構築するための実験場だ。当然明彦にも大学の教員よろしく実践的な教育の研究課題が課されることになる。明彦は常々感じていた、知識偏重教育への疑問を研究の中心に据えることにした。

 とはいえ、ただ量的なことを減らせばいいというわけではないと思っていた。学習指導要領の改訂では十年ごとに詰め込み教育とゆとり教育を行き来し、昨今はゆとり教育の結果起きた学力低下が問題視されている。次の改訂ではきっと詰め込みの側に揺り戻されるだろう。そこに明彦は切り込んでいきたい。量じゃない、質なのだ。例えば低学年からの数学的な思考訓練には多くの時間を割くべきだと考える。脳の成長過程の中で、その時期でしか形成されない思考回路があるのだ。テストの点数の高低じゃない。重要なのは、その子に取って将来役に立つであろう思考回路の礎を作っておくことだ。だが学習指導要領の改訂を考えるとき、いつも決まって大学権威主義の壁が立ちはだかる。大学の研究室というのはその扱う分野ごとに細分化されていて、どうも教授たちの頭には自分の専門とする分野が教科書に盛り込まれているかどうかということを必要以上に重要視する傾向にある。明彦は改訂が行われるごとに生き残る、覚えるだけでいい知識の量の多さにうんざりしていた。各分野が主張し合うのではなく、もっと教科の壁を超えて体系的に何が必要で何が必要でないかを選りすぐらなくてはならない、そのことを明彦はシンポジウムでも訴えるつもりだ。そしてそれをいかに有効的に論文に盛り込んでいくか、その選別の詳細にはいささか戸惑っていた。

「せんせー!まーたお勉強?せんせいはもっとあたしたちと一緒にいないとダメでしょ?ねーあーそーぼうよー!」

 今日も来たなと思った。今年、明彦は二年生の担任を受け持っていたが、今度のクラスには休み時間になると決まってまとわりついてくる生徒がいる。マリカだ。マリカは明彦の研究室の場所を知っていて、授業に顔を出さないと必ず次の休み時間に部屋の開き戸を開き、背中越しに苦情を言ってくる。

「ごめんなマリカ、先生さあ、ちょっと今宿題で大変なんだ。今日は岡町おかまち先生に遊んでもらってくれるか?」

 デスクから離れ、マリカの目線になって詫びを入れると、マリカはリンゴのような赤いほっぺをプクッと膨らませる。

「え~マリカ、三国みくにせんせがいい!せんせいのくせに宿題やってるなんてへーんなの!」

 岡町先生は今月三国学級に配属された教育実習生だ。彼女はほんわかした保母さんのような学生で、クラスの子たちも懐いていた。教員養成系大学付属の小・中学校では毎月大学で割り振られた実習生が年度を埋め尽くすようにやって来る。主専攻の場合は一ヶ月、副専攻なら二週間、教員免許を取るために必須なのだ。普通の公立学校では教育実習生というのは珍しい存在で、生徒たちに揉みくちゃにされがちだが、国立の学校では生徒たちは実習慣れしていて彼らの存在に冷めている。だが自分のような中年の教師よりは二十歳そこそこのピチピチの学生の方が嬉しいだろうと、明彦も国立の教師になって年数が経つごとに彼らに完全に任せ切りにする授業も増えていた。

 マリカは母子家庭だった。国立の小・中学校の生徒になるにはまず簡単な筆記試験と面接があり、合格者の多いときは抽選になる。父兄たちはまるで国立に子どもを通わせることがステイタスを上げることのように捉えているが、研究する側からすればデータに偏りが無い方がいいわけで、明彦はそういった父兄の意識にもうんざりしていた。だが毎年それなりの経済水準にある家庭が選ばれるのは、なにがしかの忖度が働いているのだろう。今年は明彦も選考委員に加わったのだが、そういった風潮に一石投じるべく、自分は出来るだけ低所得者層の家庭を選んだ。マリカの家はそのうちの一つだった。マリカが自分を慕うのはきっと、自分に父性を求めているのだろう。普段なら少しは相手をしてやるが、この日はマリカを扉前で帰した。これが、大きな間違いだった。

 教室側の一階から阿鼻叫喚の悲鳴が聞こえたのは、それから数分後のことだった。不審な男が校内に侵入し、あろうことか、その男は無差別な殺戮を行った。何人もの児童が、その男の前に命を散らせた。明彦が駆けつけた時には廊下が血の海で、男はすでに教師により取り押さえられていた。だが、廊下には無惨に転がる生徒の姿があった。そのうちの一人は、マリカだった。明彦はマリカの前で跪き、泣いた。マリカの赤いほっぺはその色を失い、そのつぶらな瞳は二度と開くことがなかった。

 


 犯人には学歴コンプレックスがあり、行き詰まった生活に終止符を打つためにインテリの子をたくさん殺そうと思ったと後に供述したという。それを聞き、明彦はバカなと叫んだ。亡くなった子たちは研究のために集められた、ある意味同情すべき子どもたちなのだ。犯人の精神疾患が審議され、責任能力はあったと判定され、死刑が確定した。そして三年後、死刑は執行された。だがそんな犯人への思いとは別に、明彦は自分自身が許せなかった。実習生の岡町はその日のことがトラウマになり、教師の道を断念した。もしあの時、自分がマリカと一緒に教室に向かっていれば…いや、それ以前に自分が実習生に任せ切りにしなければ…自分は研究者の前に教師なのだ。例え研究に時間を取られたとしても、教師としての時間とはしっかりセパレートすべきだった。

 明彦が公立の小学校教師になった初年度、明彦のクラスには血友病の生徒が在籍していた。その生徒は二年生までの二年間をほぼ病院で暮らし、明彦が担任になった三・四年生ではまるで病気が嘘のようにほぼ皆勤してきた。教師になったばかりの明彦が頼りなく、よく失敗してクラスの子どもたちに詰られる姿に喜んでいた。その生徒は五年生でベテラン教師のクラスになり、その年の秋に白血病を発症して亡くなった。つまり、その生徒に取っての学校生活、引いては人生の思い出は、明彦のクラスでの時間がかなりのウエイトを占めることとなった。その子は生まれつき血小板が少なく、怪我をすれば血が止まらなくなった。なのでその子が登校する時は付きっきりで寄り添ってやる必要があった。なのに教室に成り立ての自分は、子どもと遊ぶのが楽しく、休み時間などは運動場に出てよくその子の視界から外れていた。教師としてもっと寄り添ってやらなければいけなかったのではないか…それが明彦がティームティーチングについて研究するきっかけだった。 

 なのに!

 結局自分はまた、自分の都合で教師の責務を蔑ろにした。どうしてもそのことが許せなかった。明彦は教師の職を辞し、その後は特に当てもなく、自堕落な日々を送った。

 そんな折、明彦の大学の同期の友人と飲む機会があった。その友人の名は弾正だんじょうと言い、大学の軽音サークルで一緒だった男だ。小学校の教員になることを決めていた明彦はピアノの腕も少しは上げたくて、軽い気持ちで入ったサークルだった。明彦はキーボードを担当し、弾正はギターを担当していた。目つきの鋭い男で、出合った当初は取っ付きにくい印象を持っていた。だが飲み会で喋ってみると妙に気が合った。そのサークルは演奏よりもほぼ飲み会がメインで、明彦と弾正は次第に仲を深めていった。

 教師を止めしばらくしたある日、弾正から飲みの誘いがあった。学生以来だった。明彦は気晴らしになると思っていそいそと出掛け、弾正との旧交を温めた。弾正の見た目は昔とほとんど変わらずびっくりした。

「アキさんに折り入って頼みがある」

 弾正はなぜか自分のことをさん付けにする。お互いの近況を話し、酒も深まった頃だった。弾正は探偵業をしていると言っていた。

「ん?何かな?僕は今、完全にフリーだからね、僕に出来ることならやらせてもらうけど」
「実は、俺が住んでるアパートにちょっと訳アリの子どもがいるんだ。アキさんに、そいつの家庭教師をお願いできないかと思って。報酬はたくさんは出せないが、食うに困らないくらいは出すよ」

 教育には二度と携わらない気でいたが、家庭教師くらいならと了承した。そのアパートというのは禍津町まがつちょうというH県の辺鄙な田舎にあり、必然的に自分もそこに引っ越すことになった。少し病み気味だった明彦には、自然の中でリフレッシュできるのはありがたかった。

「そちがわちの新たな兄弟か?よちなに」

 赴いた先の黒鐘荘くろがねそうというアパートの玄関先で、ちょっと時代錯誤したような言葉を喋る男の子が手を差し出してきた。

「兄弟…って?」
「ああ、まあ、ちょっと変わった子なんだよ。でも気のいいやつだから」

 困って弾正に向くと、弾正も曖昧な笑みを返す。男の子はプクッと頬を膨らませ、

「変わった子とは何じゃ!わちは普通のわらしなのじゃ!」

 と怒る。その顔が、どこかマリカの怒る姿に似ていた。明彦は優しい顔を浮かべ、男の子の手を握る。

「よろしくね、これから、仲良くしよう」




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