【完結】北新地物語─まるで異世界のような不夜街で彼女が死んだわけ─

大杉巨樹

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第1部 高級クラブのお仕事

初めての営業

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「誰やあ!今日の真鍮拭いたんはぁ!」


 階段から甲高い声が響いたのは後30分で営業が始まるという頃だった。

「はい、俺です」

 階段を降りて入ってきた桂木かつらぎ部長に涼平りょうへいが手を上げると、

「お前か。これ見てみぃ、これ」

 と言って少し黒ずんだワイシャツの袖口を見せた。

「ちゃんと丁寧に拭かんから汚れてもうたやないかい。お前大学も行っとってそんなこともできんのかい。この仕事なめとったらあかんどぉこらあ!」

 クロークの中には営業を待つウエイターたちがたむろっていたが、桂木はその前まで来て凄む。涼平はクロークの椅子後方の荷物置き場付近に立っていたが、桂木の荒い息に煽られたように上体を仰け反らせた。

「まあまあ、今日初めてなんですから、そんな姑みたいなこと言わんだって下さい」

 椅子に座っていた河村かわむら主任がそう助け船を出すと、

「河村あ、お前甘やかしとったらあかんでぇ」

 と河村にも凄み、桂木はだるそうにソファーの方へと向かった。ウエイターたちは顔を見合わせた後、朝倉あさくらがファッキューと中指をその後ろ姿に突き上げたのに笑った。その笑い声が聞こえたのか、桂木がクルッとこちらに向き、朝倉は慌てて手を引っ込めた。

「桂木さん、何か椎原しいはらくんにキツいねえ」
「え?あの人、いつもあんな感じやないの?」
「う~ん…あんな感じっちゃ感じなんやけど、ちょっといつもよりキツいような……」

 階段の手すりを拭き直そうと乾いた雑巾を持って出ると、それに付き合ってくれた朝倉とそんな会話を交わす。そうしていると、同伴でないホステスさんがちらほらと出勤してきた。ホステスの更衣室はビルの5階にあり、出勤したホステスはまずエレベーターで上がって身支度を整えてからホールに降りてくる。涼平が始めが肝心とばかりに元気よく挨拶すると、ホステスたちは一瞬驚いたように涼平の顔を見るが、挨拶を返すことなくそのまま気怠そうに階段を降りた。

(何やねん、無視かい。ていうか、萌未めぐみほどの美人はいないな)

 腹立たし紛れに涼平がそんなことを思っていると、やがて幹部も勢揃いし、後藤ごとう店長に呼ばれて残りの黒服に紹介してもらった。だが営業前の緩い雰囲気とは違い、8時を過ぎると店の中はピリピリとした空気に包まれて無駄口を叩く余裕はなく、幹部たちは、頑張ってや、くらいの簡単な挨拶だけを返す。あの桂木部長でさえニンジン頭にしっかりとポマードを付けてきっちりとした感じに仕上げ、顔に緊張の色を滲ませていた。



「いらっしゃいませぇ!」

 そしていよいよ一番客が入り、黒服たちは大きな声を響かせる。

 玄関担当の黒服に案内されて入ってきた客を後藤店長が引き継ぎ、荷物や上着を預かる。小寺こてら次長が決められた席まで案内し、女性を配置する役目の桂木部長が最初のホステスを席に着ける。その間、ウエイターはアイスペールを席に運び、最初に着いたホステスにおしぼりを渡す。いらっしゃいませとホステスが客におしぼりを渡し、ファーストドリンクを作る。当然、ここまでにボトルは出ていなければならない。同伴の場合は予め席が決まっているのですでにボトルはセットされているが、予約が無かろうとそのスピードは落としてはならない。それはまるでピットインしたレーシングカーが次にコースに出るまでの時間の短さを競う姿勢に似ていた。

「邪魔や!」

 そのスピードについていけずに所在なく立っていた涼平を桂木部長は容赦なく押し退ける。それは仕事に一生懸命、というよりは涼平に嫌がらせをしている、といった風だった。

 九時にはママたちを含めたほとんどのホステスたちが店に揃う。ドルチェのホステスたちは髪のセット、服装、メイク、どれを取っても派手な人が多く、接客の仕方も賑やかで、一度客として訪れたクラブ若名わかなの落ち着いた雰囲気とは全く違っていた。ホステスのルックスもタイプの違いこそあれ、正直美人だなと思える女性も何人もいた。同伴無しで気怠く出勤してきた女性たちとは違い、同伴のお客さんの横での笑顔は煌めいて見えた。

 営業前にまず5人のママの顔と名前を覚えること、と主任に言われていたが、同伴で埋まった店内は一気に賑やかになり、涼平には誰が誰やらさっぱり分からなかった。ホステスたちはウェイターに持ってきて欲しいものを頼むとき、よく頼む物なら手振りだけで表したり小声で早口で言うのだが、初めての涼平には全く何を指しているのか分からないままに聞き返すと、あり得ないくらいの冷たい視線が返ってきた。中にはあからさまに苛立って怒ってくるホステスもいる。初見でちょっと鈍臭そうに見えていた朝倉にさえ、涼平は何度もフォローしてもらっていた。極上の笑顔を客に見せているのに比べ、同じ男なのにあからさまに蔑んだようなホステスたちの対応に、涼平は次第に自分が情けなくなってきていた。


 そしてそれはそんな時に起こった。


 まごついている涼平を見て、一人のホステスがにこやかに手招きしてくる。その笑顔に吸い込まれるように近づくと、耳を近づけろ、という感じで口に手を当てている。涼平が耳を近づけると、そのホステスは、

「死ね」

 と言った。涼平はびっくりして後退った。その先にはシャンパンを入れたシャンパンクーラーが細長いクーラースタンドに立て掛けてあり、まだ抜き立てのシャンパンと一緒に倒してしまった。


 ガシャーン!!


 大きな音がホールに響き渡り、事態に気付いた回りの黒服たちは、

「失礼しました!」

 と周囲の客たちに謝っていたが、涼平は咄嗟の事態にどうしていいか分からずに固まってしまった。

「ちょっと!何してんのよ!!」

 そのシャンパンを倒した席から一際迫力のあるホステスが立ち上がる。そのホステスこそこの店での売上1、2位を争っている貴代たかよママだった。

 貴代ママは密着度の高い紫のドレスにくっきりと出た三段腹を震わせながら近づいてくると、涼平の背中をパシッと叩き、

「ぼうっとしてないでお客様に謝んなさい!」

 と顔の大きさに負けない大きな声で言った。それを見ていち早く駆けつけてきたのは桂木部長だった。

「お前最悪やのお」

 桂木部長は涼平の耳元で一言そう言うと、

「すんませーん!店から弁償させもらいますんで」

 と、その貴代ママの席の横で片膝をついて大げさに声を張り上げ、佐々木ささきマネージャーに同じシャンパンを開けさせた。そして他のウェイターたちが溢したシャンパンの処理をしてくれているのを見て、漸く涼平は膝をついて客席に謝った。

「ぼくちゃん、しっかりしいや!」

 新しいシャンパンが運ばれ、貴代ママは客が怒っていないのを確認すると、そう言って何事も無かったように客席での話に戻った。

(ぼくちゃん…)

 涼平は野良猫でも見るような貴代ママの視線に情けなくて泣きそうになりながら、機敏に事後処理に動いてくれた他のスタッフたちに頭を下げた。ドンマイ、ウェイターたちがエラーした野手を気遣うように肩を叩いてくれる中、桂木部長は、

「あかん、お前向いてへんわ。学生の延長でやってもらったら困るんや。もうええ、帰れ」

 と冷たく言い放つ。倒したシャンパンがいくらのものだったのか涼平には分からないが、桂木の機転で失態が大事にならなくて済んだのは確かだった。だけど、それはクビになるくらいの出来事だったのだろうか……言い返すことも出来ずに悔しさに拳を震わせていると、ちょうど挨拶回りをしていたオーナーママが騒動を聞きつけてやって来た。

「どうも申し訳ありません。何分今日から入ったばっかりの若い子の不注意ですので、今日のところは許してやって下さい」

 オーナーママも客席に頭を下げてくれ、客が逆に恐縮したように手を振るのを見届けると、後藤店長を呼び何やら耳打ちした。すると店長はこちらに来て、

「椎原、ちょっと休憩してから次はあっち側のホールにつけ。シャンパン代は今日はお店が持ってくれるってママが言ってくれてはるから、次から気をつけるんやで。ほんまはこういう場合、黒服の弁償になるからな」

 と噛んで含むように言った。涼平はそのママの配慮に感謝した。

「いや、甘すぎませんか?こいつは俺が紹介されて入ったんですけど、こいつの失敗は俺の失敗です。入れたことは無かったことにして下さい」

 それを聞いた桂木部長が食い下がると、

「ならシャンパン代、連帯責任でお前が弁償せえよ。確か以前にシャンパン抜いたときの栓をお客様の顔に飛ばして俺が会社まで行って謝ったこともあったよなあ?」

 と店長が言い、桂木は慌てて、

「わあ~すんません。こいつにはよく指導しますんで」

 と調子よく言って逃げ出し、そのまま客席に着いて一杯もらっていた。その席はまさかの、死ね、と言ったホステスの席だった。ちらちらとこちらを伺いながら笑っているそのホステスと桂木を見ながら、涼平は自分が大変な店に来てしまったことを実感していた。






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