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第1部 高級クラブのお仕事

高級クラブの飲み代

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「ここってセット料金いくらなんですか?」

 という涼平りょうへいの質問に、

「うちは5万くらいかな?」

 と、夏美なつみはさらっと答えたが、涼平はその額に目を見開いた。

「え⁉俺そんなに払えません…」
「ふふふ。今日はめぐちゃんが払ってくれるやろうから、大船に乗った気でいていいのよ。ワインは私持ちだしね」
「何かすみません。ちょっと俺の生活からしたら額が違い過ぎて…」

 もとより萌未めぐみも自分が払うと言って連れて来てくれたのだったが、改めて額面を聞くとホイホイ付いてきた自分の浅はかさに汗顔する。異世界に放り込まれたような居心地の悪さを、今更ながらに涼平は感じた。そんな涼平を夏美は観音様のような温かい笑顔で包み込んでくれる。

「でもそんなにたくさん給料もらってたらストレスも大きそうですね」
「そうよ~。でもね、夜には夜の楽しいこともあるのよ」
「どんなことですか?」
「そうね…こういうクラブにはね、会社の社長さんとかお医者さんとか芸能界の人とか…その世界で何かしら成功した人がよく飲みに来られるのね。そんな、この仕事してなかったら口もきけないような人たちがね、お酒を飲んで酔っぱらって、普段昼間には見せない顔でいろんな話をしていくの。そういうお話を聞けることが楽しいことの一つかな?」

 涼平のような小学一年生には完璧な答えに思えた。きっと、さっき萌未が愚痴を言っていたような、嫌なこともたくさんあるだろうに…やさしくこの世界の楽しいことだけを話してくれる夏美は、似ているだけではなく、本当に観音さまのように後光が射していた。それを言ったらきっと怒られるだろうけど… 




 次に萌未めぐみが戻ってきたときにはもうかなり酔っぱらっていた。ドスン、と座るや否や涼平に寄りかかり、ワイングラスを倒してしまうほどに…

「あらあら、できあがっちゃってるわねぇ…大丈夫?」

 夏美は零れたワインを拭いてくれていたが、すぐに黒服が彼女を呼びに来た。夏美のお客さんが来たから萌未が戻されたということらしい。

「社会見学、楽しかった?」

 そう聞いて涼平がにっこり微笑むのを見たあと、ウインクを残して立っていった。

「ね~涼平!酔っぱらっちゃったぁ~!あっちでゲームに負けてテキーラ一気させられちゃったのぉ」

 萌未はさっきより虚ろになった目でそう言うと、新しく運ばれてきたワイングラスに並々と注ぎ、

「涼平も一気しなしゃい!ほれっ」

 と口元にグラスを押し当ててきた。

「ふがっ、うっ、ごきゅ」

 涼平は窒息しそうになりながら無理矢理一気させられた。ジーンズはこぼされたワインと口からあふれたワインでグショグショになっていた。

「あら、ごめんなしゃい」

 萌未は一応謝ると、涼平のあまり触れてはいけない部分をおしぼりでグイグイ拭いてくる。ほとんど人生で初めて飲むシャンパンに加えて高級ブランデーにワイン一気、そして下半身への刺激…涼平は一気に頭に血が上ると、意識が朦朧としてきた。

「今日ね、涼平と逢えてよかった。涼平とずっと一緒にいたかったの。ほんとよ」

 そう言ってしなだりかかる萌未の腰の、ジャケットからだと分からなかった細さを腕で感じて、儚さと愛しさで胸が張り裂けそうになる。こんなに華奢な彼女が、魔物の巣食う伏魔殿のようなクラブで懸命に働いている……強烈な睡魔と闘いながら、涼平は萌未の顔をまじまじと見た。客に酔わされたと言うその健気な顔に、まぶたが熱くなった。

 そして、ぼやけ出した視界で周りを見回す。

 真っ直ぐに見据えた先でうごめく黒服たち、

 高級そうなトップレザーの張られた黒いソファー、

 すぐ隣りに座る萌未のワンピースの裾から見える萌未白い脚、

 夕方のトランペットを思い出させるジャズの音色…

 それらがぐるぐると回りだし、同心円状の渦となって涼平はその中に埋没していった。





「あいつはやめとけ」

 どこかで聞き覚えのあるフレーズ。

「ごめんなさい」

 美伽が突風の中で謝っている。

「俺なんか生きる価値ないんじゃあ!!」

 自分が叫んでいる。

「だったら死ねやあ!」

 屈強な男に井戸の中に放り込まれる。暗くてじめじめしている井戸の中に。

「たすけてよぉ。ばあちゃ~ん、ばあちゃ~ん。くらくてこわいよ~」

 幼い子どもの姿になり、また泣き叫ぶ。

「ほらほら、りょうちゃんの好きなお菓子あげるさかい、そんなに泣きなさんな」

 着物を着た小柄な老女が優しく頭を撫でてくれる。懐かしい感覚。その懐かしさに、胸が締めつけられる。

「ばあちゃん、どこ行ってたの?もうどこへも行かんといて!ずっとずっと、僕の側にいといてやあ!」

 幼児の哀願に、老女は首を横に振る。

「それはできないのよ。でもね、ばあちゃんはいつもりょうちゃんのこと、見守ってるからね。ずっと、ずっと……」

 そう言うと老女はしがみつく男の子の腕をすり抜け、すうっと空に舞いだした。天女のように浮き上がっていく老女を追いすがり、男の子は顔をくしゃくしゃにする。

「いかんといて!ばあちゃん!ばあちゃーん!」

 老女の姿は天空に溶け、あとにはぼんやりと薄明るい月だけが煌々と照っていた。男の子は真っ暗な井戸の底に取り残された。

「ばあちゃ~ん、ばあちゃん………う~ん、う~ん…」

 う~ん…

 う~…ん?


 胃の締め付けられるような痛みとともに目を開けた。頬が涙で濡れているのが感触で分かる。モヤのかかった視界の先には、丸い明かりがぼんやりと照っている。耳を澄ますと、コーという乾いたエアコンの音とともに、


 チュンチュン…


 鳥のさえずりも聞こえた。頭上からは柔らかい光も射している。


 朝…?


 顔を上げてみると窓にピンクのカーテンが閉められている。

 え、ピンク?

 ………


 もう一度頭を枕に付け、上を見る。

 広い天井。

 鉄骨むき出しの寮の天井でも、大きな梁の渡った木造の祖母の家でもない。真っ白い天井を、丸い大きなシーリングライトの明かりが反射している。


 ………



 どこ?



 涼平は勢いよく起き上がって辺りを見回した。


(つ…!)


 頭が割れるように痛い。左手には大きめのハイビジョンテレビ。すぐ手前にはシックな木造のローテーブルがあり、座るとちょうどテレビが真ん前にくるようにゆったりとしたソファーが置かれている、涼平は自分がそのソファーで寝ているのに気づいた。

 十畳以上はあるであろうフローリングの床にはテーブル、ソファー、テレビ以外に何もない。床はダイニングキッチンらしきスペースに続いており、自分のいるのがリビングであることが分かった。全く見覚えのない部屋。涼平ははっとしてかけられていた掛け布団をはねのけ、自分の衣類を確かめる。

 Tシャツに…ト、トランクス!

 ジーンズは履いていない。

 早急に重い頭を巡らせ、きのう新地のクラブへ行ってからのことを思い出そうとする。ズキズキする頭で思い出せたのは、学食で出会った萌未めぐみに連れられて北新地に行き、高級クラブに入ったこと。そこでワインを飲んだ後からがどうしても思い出せない。

 どうやって店を出てここまで来たんだろうか…?

 とりあえず今いる場所が知りたくて床に降りてカーテンを開ける。窓の景色からはそこがかなり上階であること、そして目の前のビル群から都会の中であることが分かる。が、見慣れた景色ではない。

 足元がスースーし、せめてジーンズだけでもないかと自分の衣類を探す。キッチンの方に進んで電気を点ける。木製の広いデザインテーブルが真ん中にあり、右手に扉が二つあった。

 手前の木製の引き戸をゆっくり開けると…

 エアコンの空気を吐き出す音が漏れ、甘ったるい柑橘系の匂いが鼻腔を突いた。黒っぽい遮光カーテンが引かれ、部屋の中は薄暗い。かろうじて今からの明かりが目の前に幅の広いベッドの影を浮き上がらせ、その真ん中当たりには毛布にくるまって誰かが寝ているようなこんもりとした盛り上がりを捉えることができた。




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