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#8 幽霊船
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メリーゴーラウンドの横を回り込むように抜けると、目の前に大きな幽霊船の船尾が迫ってくる。
とはいっても幽霊船は、累ヶ崎ホラーランドを二つのエリアへ分ける壁に突き刺さるように作られており、船尾部分しか存在しない。
なのでこの圧倒的に感じる威圧感は、幽霊船というよりは大きく高い壁そのものからのものなのだろう。
エリアはこちら側、全体の2/3ほどの広い方が『古の土地エリア』、残りの狭いが高台にあるのが『新大陸エリア』だ。
両端は園の外側のフェンスにまで達しているらしく、二つのエリアを行き来するには、壁の内側を通るか上から越えるか、だけ。
しかも上を越える手段というのはあの猿の電車のことなので、廃墟化している今は実質的に使えないのと同じ。
そして壁を通り抜ける方法だが、三つあるトンネルはいずれもアトラクションと一体化している。
アトラクションを使わずにはエリアを行き来できない作りなのだ。
三つのトンネルは入り口ゲートに近い方から、ゾンビロード、目の前にあるアクアツアー、そしてホラーメイズ。
ただ、トワさんが昼間の――まだ誰もおかしくなっていないうちに確認したところによると、ホラーメイズは「使えない」らしい。
ホラーメイズは『古の土地エリア』側の屋外迷路「シュバルツシルト」と、『新大陸エリア』側の屋内迷路「開拓時代」とが、大壁を挟んでつながっている。
シュバルツシルトは巨大な植木で作られていて、開拓時代は電子制御で時間経過によって迷路の中身が変わってゆく構成。
そのシュバルツシルトだが、森のように育ちまくり、もはや人が立ち入れる状態ではなかったとのこと。
そればかりか開拓時代の方も、ネイデさん情報では「一度通った道を、時間が経って道が変わってからもう一度通らないと出口へたどり着けなかった」らしいから、電気が来ていない今は抜けられないだろうとのこと。
残されたエリア間の移動手段はアクアツアーとゾンビロードの二つだけ。
選択肢が少ないということは、待ち伏せされている恐れも十分にあるわけで――気が重い。
気ばかりか足まで重くなりそうな理由はもう一つあった。
アクアツアーにも変な噂があったんだよね。
『謎の生き物の影が見えた』とか『白い手に襲われた』とかいうやつ。
ここに来るまでは面白都市伝説程度にしか思っていなかった数々の噂も、実際に遭遇したモノがあると残りも俄然リアリティを帯びてくる。
この白い手というのは開園当時に既に噂になってたらしいし、トワさんの黒い手とは違ってガチっぽいんだよな。
鏡で「人が変わった」ヤツラってのは、少なくとも外側は生身の人間そのままっぽいし、集団に囲まれたりしなければまだ対処のしようがありそうだけれど、あの見えなかった獣――思い出しただけでも耳の奥が痛くなってくる。
あの手のオカルト系だったら嫌だな。
「アクアツアーの入り口はこの幽霊船のデッキにあるはず。昼間、そこまでは回れなかったんだよね」
このへんの壁は大海嘯を模しているというが、マンションの四、五階くらいの高さがゆうにある。
デッキまでは丸太で作ったような螺旋階段が備え付けてある。
僕らが立っている階段の入り口は、壁と同じような波の色に塗られているのだが。
どうにもその壁に目が行ってしまう。
この子どものシルエットみたいな汚れがいくつも並んで見えるのは、ホラーランドという名に合わせた演出なのか、それとも。
「このへんは壁が波のイメージだよね。ホラーメイズの方は背の高い森のデザインだったよ……どうしたの?」
僕が壁の下の方をじっと見つめていることにトワさんも気付いたようだ。
「あ、あの汚れ? やっぱり気になる? あたし昼間はあんまりこっちの方来てなかったから気付かなかったけど、あの壁の汚れがなんか子どもがたくさん立っているみたいに見えるってツアー参加者の誰かも言ってたんだよね」
「やっぱりそう見えるよな?」
トワさんの手のひらに力が入る。
「そう言われたからそう思っちゃうのかも。気にしないで早く行こうよ」
「だな。行こう」
この壁に沿って右側へ行ってしまうと、さっきの女性が逃げて行ったのと同じ方向になってしまうし、左側へ行けばシュバルツシルト。
ここしかないよな、と幽霊船のデッキへと至る階段を上ろうとしたら、トワさんが立ち止まった。
「先、行ってよ」
トワさんが急に手を放し、僕の後ろ側へと回り込んだ。
マネキンの手はさっきの現場に置いて来たようだけど、彼女に背後を取られることに対してはどうにもまだ抵抗がある。
「いいけど……なんで?」
思わず理由を尋ねてしまった。不信感を前に出すつもりはなかったのに。
「あ、あのさ、この階段……手すりで腰から下は見えないようになってるじゃない」
「だね」
「ここ昇る時、四つん這いで行けば、下から見ても昇っていることがバレないと思うんだよね」
「そうだね」
トワさんは、螺旋階段の一段目に右足をかけ、膝上までのニーハイと横に広がる短めのスカートとの間の絶対領域を主張する。
そこは素肌っぽい――って、ああ、そういうことか。
僕の背の高さから見下ろしていると彼女は全身黒装束のように見えたからあまり気にしていなかったけど、トワさんのスカートは長くはないのだ。
「ごめん。僕が先に行くから」
身を低くし、音をなるべく立てないよう四つん這いになって、螺旋階段を上り始めた。
トワさんも無口でついてくる。
音を立てれば近くにヤツラが来たときにバレてしまうから当然なのだが、トワさんがずっと黙っているのはそれだけじゃない気もしている。
もう少しトワさんを信用すべきなのかもな。
トワさんの雑というか大胆な部分、それでいて時に細やかな部分、どちらも僕にはない。
彼女はトラブルメーカーのようにも見えるけれど、実は仲間として案外頼りがいがある存在なのかもしれない。
そう自分に言い聞かせる。
ただ、息をひそめて上りながら時折は周囲の音に耳を澄ます――そんなことを続けるうち、余計な雑念は消えてゆく。
無事にここから脱出するためには、確実な敵とわかっている連中を避けるのが必須条件だから、そちらへの注意を怠ってはならないのだ。
何度も耳を澄ますうち、ここでは蝉の声が遠くにだが聞こえることに気付く。
蝉の声がこんなにも嬉しかったことなんて人生にそうない――それ以外には特に気になる物音はしない。
こんなに慎重に上って、でも実は幽霊船のデッキから何者かが僕らのことを見てバレてて、デッキの上で隠れて待ち構えていたら嫌だな。
それ以外にも急激に膨らんでゆく別の不安があった。
トワさんも気付いているみたいだった。
「どうする? 進む?」
振り返って小声でトワさんに尋ねると、彼女はしばらく考えたあと、眉間にシワを寄せながら首を縦に振った。
さらに螺旋階段を一周半。
僕らはようやくデッキへとたどり着く。
「う」
思わず声が出てしまった。
アクアツアーの入り口となる幽霊船のデッキはそれほど酷い状態だったのだ。
一見して中世ヨーロッパを思わせる帆船の船尾半分。
大波を模した壁はこのデッキよりもなお高く、その壁の一部は帆やマストに模してある。
骸骨のしなだれかかった大砲とか、剣が刺さったままの骸骨とか、マストに登りかけの骸骨とかあちこちに骸骨があるが、風雨にさらされて塗装が剥げたり壊れたりしている。
ちなみにマストはしっかり登れないように作ってあるので、アトラクションの中を通る以外に壁というかほぼ崖の向こうへ行く手段はなさそうだ。
船内へ通じる木製のドア――アクアツアーへの真の入り口は半開き。
いかにも何かが待ち構えていそうで、なかなかの雰囲気だ。
でも、僕らが感じた酷さはそういうことじゃない。
臭いのだ。
強烈にカビ臭いのだ。
ここで呼吸すると肺の中が汚染されてしまうんじゃないかと不安になるほどに。
異臭のもとはおそらく半開き扉の向こうから。
牛乳こぼしたのを雑巾で拭いてそのまんまにした臭いの三十倍は酷い。
あの中に本当に入って行くのか?
その勇気が僕にはあるのか?
「息止めて、一気に行く? この臭いだったら中で待ち構えてなんていないと思うんだよね」
トワさんの意見に同意する。
万が一下から灯りが見えたりしないようマグライトは点けないまま、僕らは半開きの扉の奥へと足を踏み入れた。
ジャリッ、ジャリッ。
デッキからつながる船室部分は予想よりも広かったが、床一面にガラスの破片が散らばっていた。
暗がりに目を慣らしてゆくと、デッキ付近には割られた水槽がいくつも見える。
床に散らばっているのはこの水槽の破片だろうか。
つい観察してしまったが、いつの間にか僕の右手をつかんでいるトワさんは僕を引っ張って先へ先へと急いでいる。
そんなに急ぐと床の破片で足を滑らせかねないし、安易にそこいらに手をつくと割れたガラスで怪我をするかもしれないし――いや、この臭いの方がしんどいか?
本当はハンカチで鼻と口を塞ぎたいところだが、周囲を確かめるためにマグライトの柄で障害物や壁を探るのと、足を滑らしたときに支えたり暗闇ではぐれたりしないよう手をつないでいるのとで、二本の手は使い切っている。
息が苦しくなってきた頃、足元がわずかに前の方へ傾斜して下り坂になっているのを感じる。
マグライトより伝わる壁の感触は固く、ゴツゴツと鈍い音。
金属ではなくコンクリとかモルタルとかそういう材質の壁だろう。
臭いから逃げるためか、進む方向が下っているためか、僕の右手をつかんでいるトワさんのスピードが徐々に増している。
しばらく歩いた。
さっきまで賑やかだった足元だが、今はもうガラスの破片はないようだ。
しかもようやくあの臭いも収まってきて、今は普通に呼吸もできる。
悪臭ゾーンはなんとか通り抜けられたっぽいが、今度はほんのりと磯の香り。
入り口からそれなりに下ってきたし、そろそろ灯りを点けたいのだが――僕の右手は相変わらずトワさんにぎゅっとつかまれたまま。
マグライトは柄の先端を回すことにより点灯させることができる。
ということで片手では点けられない。
「……そろそろ、かな?」
そう言いながらトワさんの手を離そうとした。
しかし彼女の反応は予想とは違った。
「……うん、話すね。あたし、今でこそこんな感じだけど、学生時代はもっと調子に乗っててさ。その時一本だけAVってのに出たことあったんだ」
えーと。
明かりつけようとしているの伝わってませんね。
しかもちょっと遮りにくい話を始めちゃうし。
「女優やってたとか、お金に困ってたとかじゃなく本当に興味半分で。友達の付き添いだったんだ……二十人くらい居たうちの一人。本番なんかしてないし、裸になって男のアレしごくだけっていう簡単なバイト……その程度に思ってたの。普段しないメイクだったし、絶対にバレっこないって思ってたんだけど。でもさ、さっき殴った男いたでしょ……鬼畜の菊池。あいつだけは気付きやがったんだ、あたしに」
彼女を脅していたという男。
あんまりそういう感じには見えなかったが、彼女の話を否定するほどの根拠ではない。
「あのキチ野郎ね、同じ会社なの。おとなしいし仕事ができないわけでもない。見た目もけっこうフツーでしょ。でもそれはキチ野郎の手口なの。平凡で人畜無害な一般人ぶっているだけで、中身はとんだゲス男。ある日ね、仕事帰りに声かけてきて、急にエロいパッケージのDVDを見せてきたわけ。『これ、坂本さんだよね』って」
トワさん、本名は坂本さんなのか。
初耳ですが――というか名乗ったってことは、彼女から僕への信頼アピールなのかな。
マグライトの柄で周囲の壁を確認する手を、一瞬止めてしまった。
「うんうん」
相槌を打ってから壁の確認を再開する。
アクアツアーは確か両側に水槽が設置された一本道で、水槽の中に時々、縛られた海賊が落ちてきたリ、魚に食われた哀れな人の骸骨が落ちていたり、という趣味の悪い水族館型アトラクションだったと聞いている。
さすがに通路の水槽はガラスじゃなくアクリルガラスだろうからこうやって叩いても割れたりはしないと思うけれど――あっ。
マグライトの先端が不意に空を切った。
とはいっても幽霊船は、累ヶ崎ホラーランドを二つのエリアへ分ける壁に突き刺さるように作られており、船尾部分しか存在しない。
なのでこの圧倒的に感じる威圧感は、幽霊船というよりは大きく高い壁そのものからのものなのだろう。
エリアはこちら側、全体の2/3ほどの広い方が『古の土地エリア』、残りの狭いが高台にあるのが『新大陸エリア』だ。
両端は園の外側のフェンスにまで達しているらしく、二つのエリアを行き来するには、壁の内側を通るか上から越えるか、だけ。
しかも上を越える手段というのはあの猿の電車のことなので、廃墟化している今は実質的に使えないのと同じ。
そして壁を通り抜ける方法だが、三つあるトンネルはいずれもアトラクションと一体化している。
アトラクションを使わずにはエリアを行き来できない作りなのだ。
三つのトンネルは入り口ゲートに近い方から、ゾンビロード、目の前にあるアクアツアー、そしてホラーメイズ。
ただ、トワさんが昼間の――まだ誰もおかしくなっていないうちに確認したところによると、ホラーメイズは「使えない」らしい。
ホラーメイズは『古の土地エリア』側の屋外迷路「シュバルツシルト」と、『新大陸エリア』側の屋内迷路「開拓時代」とが、大壁を挟んでつながっている。
シュバルツシルトは巨大な植木で作られていて、開拓時代は電子制御で時間経過によって迷路の中身が変わってゆく構成。
そのシュバルツシルトだが、森のように育ちまくり、もはや人が立ち入れる状態ではなかったとのこと。
そればかりか開拓時代の方も、ネイデさん情報では「一度通った道を、時間が経って道が変わってからもう一度通らないと出口へたどり着けなかった」らしいから、電気が来ていない今は抜けられないだろうとのこと。
残されたエリア間の移動手段はアクアツアーとゾンビロードの二つだけ。
選択肢が少ないということは、待ち伏せされている恐れも十分にあるわけで――気が重い。
気ばかりか足まで重くなりそうな理由はもう一つあった。
アクアツアーにも変な噂があったんだよね。
『謎の生き物の影が見えた』とか『白い手に襲われた』とかいうやつ。
ここに来るまでは面白都市伝説程度にしか思っていなかった数々の噂も、実際に遭遇したモノがあると残りも俄然リアリティを帯びてくる。
この白い手というのは開園当時に既に噂になってたらしいし、トワさんの黒い手とは違ってガチっぽいんだよな。
鏡で「人が変わった」ヤツラってのは、少なくとも外側は生身の人間そのままっぽいし、集団に囲まれたりしなければまだ対処のしようがありそうだけれど、あの見えなかった獣――思い出しただけでも耳の奥が痛くなってくる。
あの手のオカルト系だったら嫌だな。
「アクアツアーの入り口はこの幽霊船のデッキにあるはず。昼間、そこまでは回れなかったんだよね」
このへんの壁は大海嘯を模しているというが、マンションの四、五階くらいの高さがゆうにある。
デッキまでは丸太で作ったような螺旋階段が備え付けてある。
僕らが立っている階段の入り口は、壁と同じような波の色に塗られているのだが。
どうにもその壁に目が行ってしまう。
この子どものシルエットみたいな汚れがいくつも並んで見えるのは、ホラーランドという名に合わせた演出なのか、それとも。
「このへんは壁が波のイメージだよね。ホラーメイズの方は背の高い森のデザインだったよ……どうしたの?」
僕が壁の下の方をじっと見つめていることにトワさんも気付いたようだ。
「あ、あの汚れ? やっぱり気になる? あたし昼間はあんまりこっちの方来てなかったから気付かなかったけど、あの壁の汚れがなんか子どもがたくさん立っているみたいに見えるってツアー参加者の誰かも言ってたんだよね」
「やっぱりそう見えるよな?」
トワさんの手のひらに力が入る。
「そう言われたからそう思っちゃうのかも。気にしないで早く行こうよ」
「だな。行こう」
この壁に沿って右側へ行ってしまうと、さっきの女性が逃げて行ったのと同じ方向になってしまうし、左側へ行けばシュバルツシルト。
ここしかないよな、と幽霊船のデッキへと至る階段を上ろうとしたら、トワさんが立ち止まった。
「先、行ってよ」
トワさんが急に手を放し、僕の後ろ側へと回り込んだ。
マネキンの手はさっきの現場に置いて来たようだけど、彼女に背後を取られることに対してはどうにもまだ抵抗がある。
「いいけど……なんで?」
思わず理由を尋ねてしまった。不信感を前に出すつもりはなかったのに。
「あ、あのさ、この階段……手すりで腰から下は見えないようになってるじゃない」
「だね」
「ここ昇る時、四つん這いで行けば、下から見ても昇っていることがバレないと思うんだよね」
「そうだね」
トワさんは、螺旋階段の一段目に右足をかけ、膝上までのニーハイと横に広がる短めのスカートとの間の絶対領域を主張する。
そこは素肌っぽい――って、ああ、そういうことか。
僕の背の高さから見下ろしていると彼女は全身黒装束のように見えたからあまり気にしていなかったけど、トワさんのスカートは長くはないのだ。
「ごめん。僕が先に行くから」
身を低くし、音をなるべく立てないよう四つん這いになって、螺旋階段を上り始めた。
トワさんも無口でついてくる。
音を立てれば近くにヤツラが来たときにバレてしまうから当然なのだが、トワさんがずっと黙っているのはそれだけじゃない気もしている。
もう少しトワさんを信用すべきなのかもな。
トワさんの雑というか大胆な部分、それでいて時に細やかな部分、どちらも僕にはない。
彼女はトラブルメーカーのようにも見えるけれど、実は仲間として案外頼りがいがある存在なのかもしれない。
そう自分に言い聞かせる。
ただ、息をひそめて上りながら時折は周囲の音に耳を澄ます――そんなことを続けるうち、余計な雑念は消えてゆく。
無事にここから脱出するためには、確実な敵とわかっている連中を避けるのが必須条件だから、そちらへの注意を怠ってはならないのだ。
何度も耳を澄ますうち、ここでは蝉の声が遠くにだが聞こえることに気付く。
蝉の声がこんなにも嬉しかったことなんて人生にそうない――それ以外には特に気になる物音はしない。
こんなに慎重に上って、でも実は幽霊船のデッキから何者かが僕らのことを見てバレてて、デッキの上で隠れて待ち構えていたら嫌だな。
それ以外にも急激に膨らんでゆく別の不安があった。
トワさんも気付いているみたいだった。
「どうする? 進む?」
振り返って小声でトワさんに尋ねると、彼女はしばらく考えたあと、眉間にシワを寄せながら首を縦に振った。
さらに螺旋階段を一周半。
僕らはようやくデッキへとたどり着く。
「う」
思わず声が出てしまった。
アクアツアーの入り口となる幽霊船のデッキはそれほど酷い状態だったのだ。
一見して中世ヨーロッパを思わせる帆船の船尾半分。
大波を模した壁はこのデッキよりもなお高く、その壁の一部は帆やマストに模してある。
骸骨のしなだれかかった大砲とか、剣が刺さったままの骸骨とか、マストに登りかけの骸骨とかあちこちに骸骨があるが、風雨にさらされて塗装が剥げたり壊れたりしている。
ちなみにマストはしっかり登れないように作ってあるので、アトラクションの中を通る以外に壁というかほぼ崖の向こうへ行く手段はなさそうだ。
船内へ通じる木製のドア――アクアツアーへの真の入り口は半開き。
いかにも何かが待ち構えていそうで、なかなかの雰囲気だ。
でも、僕らが感じた酷さはそういうことじゃない。
臭いのだ。
強烈にカビ臭いのだ。
ここで呼吸すると肺の中が汚染されてしまうんじゃないかと不安になるほどに。
異臭のもとはおそらく半開き扉の向こうから。
牛乳こぼしたのを雑巾で拭いてそのまんまにした臭いの三十倍は酷い。
あの中に本当に入って行くのか?
その勇気が僕にはあるのか?
「息止めて、一気に行く? この臭いだったら中で待ち構えてなんていないと思うんだよね」
トワさんの意見に同意する。
万が一下から灯りが見えたりしないようマグライトは点けないまま、僕らは半開きの扉の奥へと足を踏み入れた。
ジャリッ、ジャリッ。
デッキからつながる船室部分は予想よりも広かったが、床一面にガラスの破片が散らばっていた。
暗がりに目を慣らしてゆくと、デッキ付近には割られた水槽がいくつも見える。
床に散らばっているのはこの水槽の破片だろうか。
つい観察してしまったが、いつの間にか僕の右手をつかんでいるトワさんは僕を引っ張って先へ先へと急いでいる。
そんなに急ぐと床の破片で足を滑らせかねないし、安易にそこいらに手をつくと割れたガラスで怪我をするかもしれないし――いや、この臭いの方がしんどいか?
本当はハンカチで鼻と口を塞ぎたいところだが、周囲を確かめるためにマグライトの柄で障害物や壁を探るのと、足を滑らしたときに支えたり暗闇ではぐれたりしないよう手をつないでいるのとで、二本の手は使い切っている。
息が苦しくなってきた頃、足元がわずかに前の方へ傾斜して下り坂になっているのを感じる。
マグライトより伝わる壁の感触は固く、ゴツゴツと鈍い音。
金属ではなくコンクリとかモルタルとかそういう材質の壁だろう。
臭いから逃げるためか、進む方向が下っているためか、僕の右手をつかんでいるトワさんのスピードが徐々に増している。
しばらく歩いた。
さっきまで賑やかだった足元だが、今はもうガラスの破片はないようだ。
しかもようやくあの臭いも収まってきて、今は普通に呼吸もできる。
悪臭ゾーンはなんとか通り抜けられたっぽいが、今度はほんのりと磯の香り。
入り口からそれなりに下ってきたし、そろそろ灯りを点けたいのだが――僕の右手は相変わらずトワさんにぎゅっとつかまれたまま。
マグライトは柄の先端を回すことにより点灯させることができる。
ということで片手では点けられない。
「……そろそろ、かな?」
そう言いながらトワさんの手を離そうとした。
しかし彼女の反応は予想とは違った。
「……うん、話すね。あたし、今でこそこんな感じだけど、学生時代はもっと調子に乗っててさ。その時一本だけAVってのに出たことあったんだ」
えーと。
明かりつけようとしているの伝わってませんね。
しかもちょっと遮りにくい話を始めちゃうし。
「女優やってたとか、お金に困ってたとかじゃなく本当に興味半分で。友達の付き添いだったんだ……二十人くらい居たうちの一人。本番なんかしてないし、裸になって男のアレしごくだけっていう簡単なバイト……その程度に思ってたの。普段しないメイクだったし、絶対にバレっこないって思ってたんだけど。でもさ、さっき殴った男いたでしょ……鬼畜の菊池。あいつだけは気付きやがったんだ、あたしに」
彼女を脅していたという男。
あんまりそういう感じには見えなかったが、彼女の話を否定するほどの根拠ではない。
「あのキチ野郎ね、同じ会社なの。おとなしいし仕事ができないわけでもない。見た目もけっこうフツーでしょ。でもそれはキチ野郎の手口なの。平凡で人畜無害な一般人ぶっているだけで、中身はとんだゲス男。ある日ね、仕事帰りに声かけてきて、急にエロいパッケージのDVDを見せてきたわけ。『これ、坂本さんだよね』って」
トワさん、本名は坂本さんなのか。
初耳ですが――というか名乗ったってことは、彼女から僕への信頼アピールなのかな。
マグライトの柄で周囲の壁を確認する手を、一瞬止めてしまった。
「うんうん」
相槌を打ってから壁の確認を再開する。
アクアツアーは確か両側に水槽が設置された一本道で、水槽の中に時々、縛られた海賊が落ちてきたリ、魚に食われた哀れな人の骸骨が落ちていたり、という趣味の悪い水族館型アトラクションだったと聞いている。
さすがに通路の水槽はガラスじゃなくアクリルガラスだろうからこうやって叩いても割れたりはしないと思うけれど――あっ。
マグライトの先端が不意に空を切った。
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