夏草の露

#1 閉ざされた門

　エンジンを切ってキーを抜き、いつもの癖でバックミラーを確認しようとして慌てて目を反らした。
　考え過ぎなことはわかっている。
　それにトリーの手紙に書いてあったシチュエーションでもないし。
「僕はバカかな」
　独り言で気を取り直す。怒られた犬猫が水を飲んで気持ちをリセットするみたいに。
　それでも気持ちが収まっていないのは、心配だからなんだろうな。
　目を閉じて深呼吸する。
　蝉の声が幾重にも降ってくるように感じる。
　この音の中に自分の存在が染み込んで消えてしまいそうな気がして、目を開く。
　まだ明るいものの空には赤みが混ざり始めている。
　渋滞がなければ、もっと早く来れたのにな。
　なんてぼんやりしている時間ももったいない。
　日没まで時間はそれほどないし、早く目的地へ急ごう。
　日が暮れる前に着いておきたい。
　特に廃墟なんて場所には。
　リュックの中にトリーからの手紙を再確認すると、もう一回だけ深く息を吐いて扉を開けた。
　生暖かい風がゆるりと僕の頬を、撫なでる。
　ひび割れたアスファルトへと降りると車にロックをかける。
　まずはさっき見たあの門を目指そうと足早に歩き始める。
　田舎の山道にしては道幅がやけに広い。
　かつて大型バスが通っていたってのも肯うなずける。
　森を拓いた道は、ゆるやかないくつものカーブに合わせて細長く空を切り取り、暗い森の中を空色の巨大な蛇が頭上をうねっているようにも見える。
　奇しくも蛇の鱗を思わせるうろこ雲が、赤銅の輝きを失い闇色に染まるまであとどれくらいの猶予があるだろうか。
　本当はあの門のすぐ手前に車を停めるんでも良かった。
　ただ、門の向こうから丸見えというのがなんとも落ち着かなくて、わざわざ門が見えなくなるこんな離れた場所まで戻ってしまった。
　こんなにも不安が募るのは、手紙の内容だけが原因ってわけじゃない。
　この場所について調べてしまったせいでもある。

　そもそもの発端は昨日の夜のこと。
「明日は来ないから。夕飯、私の分まで用意しなくていいよ」
　トリーはいつものように僕の部屋で僕のノートパソコンで原稿を打ちながら、突然そんなことを言った。
　そう、いつも突然。
「明日？　ごめん。言ってなかったっけ？　僕は泊まりで出張なんだ」
　居間に貼ってあるカレンダーに書き込んだ「出張」の字を指でとんとんと叩くと、トリーは僕のすぐ横にやって来てそれを覗き込む。
　色気のないジャージ姿なのに、いい香りをさせやがるせいで僕はドキドキしてしまう。
「……そう。私も泊まりなんだ」
　トリーが自分のスケジュールを発表するときは「僕もついて行こうか？」と言うのを待っている時。
　決して自分から「来て」なんて言わない。
　フリーのライターなんてのをやっているくせに車の免許も持っていないし、携帯はいまだにガラケーだし、カメラも僕が撮る方が上手とか言って押し付けてくるし。
　しかもさ、日帰りじゃ行けないようなところでも、トリーは宿を取るってことを知らない。
　僕の車で一緒に仮眠なんてのもしょっちゅう。
　おかげで僕の車は後部座席がフラットになるし、寝袋やらテントやらちょっとしたキャンプ用品まで常備しているほど。
「ごめん。車ないと困るよな？」
　なんで僕が謝ってるんだろう、なんて思わなくなったのはもうだいぶ前のこと。
　普段なら遠出の取材は一応、僕の仕事休みに合わせてくれていたっぽいんだけど。
　もうね、フリーダムな子どもを甘やかす親みたいな気分。
「うーん……今回は運転手とかカメラマンとかはいるんだ。ツアーでね、他にも人がいて」
「ツアー？　へぇ、珍しいね。どんなツアー？」
　平静を装いながらも僕は少なからず動揺していた。
　あてにされることに慣れきっていて、トリーが他の人と組むなんてことを全く考えていなったから。
　トリーの文章や視点には昔から他の人にはない魅力があったし、こんなことがもっと前からあってもおかしくなかったのに。
　トリーはいつも当たり前のように、仕事仲間ですらない僕の隣に居たから。
「……廃墟のね、ツアーなんだ……」
　あの時のトリーは少し困ったような顔してたから、話をさほど膨らませずに切り上げた。
　でもその印象的な顔は僕の中にしっかり残っていて、トリーからの手紙を見つけたとき、すぐに思い出したんだ。
　その手紙を見つけたのは今日。
　急に進路を変えた台風のせいで出張先への飛行機が欠航となり、出張そのものも延期となってしまった僕は、昼前には自宅へと戻り、とりあえず冷房をつけ、冷蔵庫にビールを探しに行って――その途中で、閉じられたノートパソコンから妙にはみ出している封筒に気付いた。
　トリーからの手紙。
　そこには思いもよらないことが書いてあった。

　虫の羽音が耳元をかすめて飛び、我に返る。
　いつの間にか門に着いていた。
　そして空も静かに夜を帯びていた。
　門とは言ってもこれは駐車場入口の門。
　こんな田舎の山道には似つかわしくない重厚なゴシック装飾の鉄格子で、かつてはとても立派だったのだろうが、今は全体的に錆びが酷い。
　扉の向こう側の閂かんぬきも腐食によりもはやその機能を失っているかのように見える。
　代わりにその防犯機能を支えているのが、無造作に巻き付けられた太い鎖だ。
　鎖自体は比較的新しく、門の向こう側に大きなダイヤル式南京錠がぶら下がっているのが見える――なぜこちら側じゃなく向こう側から施錠してあるんだ？
　トリーは本当にここに居るのか？

　ここが廃墟になる前の名前は「累ヶ崎かさねがさきホラーランド」。
　バブル全盛期にわずか十三ヶ月間営業しただけ、しかも当時から所在地が秘密にされていたという伝説の遊園地。
　累ヶ崎という地名は日本のどこを探しても見つからないが、どうやらこれはオーナーの姓だという話。
　都心から一ルートだけ出ていた送迎バスのみがここへ唯一到着できる交通手段だったため、当時行ったことのある人でさえも正確な場所がわからず、そのことがまたこの場所を伝説へとのし上げるのに一役買っていた。
　トリーの残してくれた手がかりがなければ僕だって到底たどり着けやしなかっただろう。

　閉ざされた門の向こうへと視線を移す。
　幅を変えぬままの道がしばらく続き、百メートルくらい先で道がわずかに膨らんでいるっぽい。
　その奥行きの短そうな部分は恐らく駐車場で、その先には歪んだ人の顔をモチーフにした禍々しいデザインの正面ゲートとが道幅分だけ見えている。
　あの大きな顔、キング・クリムゾンのアルバム・ジャケットにどことなく似ている。
　その顔を越えた向こう側にはいくつかのアトラクションの先端部分がはみ出ていて、さらにその奥にそびえ立つ山の斜面には、ヨーロッパから移築したと噂される古城が重々しく佇たたずんでいた。
　灯りと呼べるものは、山の頂より昇り始めた月以外に何もなく、改めてここが廃墟なのだと実感する。
　その月さえも夕焼けに染まったのか紅い色をまとい、血を連想させる。
　この光景の寂しさを助長こそすれ拭い去ってはくれない。
　満月を少し過ぎたいびつな形が、円というより閉じかけの瞳にも感じるのは、ずっと誰かに見られているような気がしているせいだろうか。
　ふと不安になって、周囲をキョロキョロと見回す。
　視界に人の気配はないのだが、それでも視線は常に視界の外側から感じ続けている気がする。
　踏み込みたくない。
　帰りたい。
　それが正直な感想。
　でも向こう側にはトリーが居る――居るはずなんだ。
　そのことだけが僕をここに留め、先へ進もうとさせる原動力だった。

　それにしてもまずは目の前の門をなんとかしないと。
　ダイヤル式南京錠は数字だけのようだが五桁ある。となると組み合わせは一万通り。
　試しに手を伸ばそうとしてみたが、門の厚さと鎖の太さに阻まれて、門の向こうの南京錠まで手が届きそうにはない。
　となると、この道の両側に生い茂る森へ踏み込んで回り込むしかないか。
　ん？
　ふと漏れ出た自分のため息に紛れて、何かが聞こえたような気がした。
　それも人の声のような。
　また聞こえた。
　呼吸を小さめに抑えて辺りを見回すが、特に目につくモノはない。
　なんだったんだ今のは。
「……て……もげ……」
　今度はけっこう言葉として聞こえた。
　手、もげ――そこから連想される言葉は「手がもげる」。
　背中に嫌な汗が流れる。
「……て……もげ……」
　まだ聞こえる。どうやら空耳ではないようだ。
　しかも方向は森の中だし、子どもの声のようにも感じる。
　なんでこんな場所でこんな時間に子どもの声？
　子ども――そのキーワードから来る前に集めたこの廃墟遊園地にまつわる噂の一つを思い出してしまう。
　『開園当時、子どもが時々居なくなった』なんてのがあったはず。
　勘弁してほしい。
　自分には霊感なんてない。こんなところで突然そんな能力が開花なんてしなくていいから。
「……てん……も、げ……」
　こういう時って聞こえないフリをした方がいいのか、それとも反応した方がいいのか、いったいどっちが正解なんだろう。
　幼い頃に聞いた都市伝説、マントの怪人を思い出す。
　赤いマントがいいか青いマントがいいか聞かれるやつ。
　あれ、どっちを選んでもアウトだったよね。
「ぐーてんもるげー」
　今度ははっきりと聞こえた。
　ひょっとして外国語？
　それにかなり近い。
「ぐーてんもるげー」
　かなり近づいてきている。ガサガサと草をかき分ける音と共に。
「に、日本語しかわかりませんよっ」
　つい反応してしまったその後で、もしかしたら「開園当初からある入場者を驚かせる仕掛け」みたいなものか、などと新しい選択肢が頭に浮かぶ。
　もしも後者だとしたら、この門の近くにスピーカーとかが隠してあったりして――って草むらを靴先で軽く探すが、そんなものは見つからず。
　第一あったとしても、もう電気なんて通ってないよね。
　廃墟なんだし。
　空を見上げる。
　そろそろ黄昏か。
　リュックから強力なＬＥＤマグライトを取り出す。
　海外ドラマで警官が持っているような細長くてゴツイやつ。
　紐を手首に巻いて構え、声の方向を照らした。
「うわぁぁぁぁぁぁっ！」
　思わず声が出たのは、ライトで照らされた門横の茂みから子どもの顔がぬっと出てきたから。
　そして僕の叫び声が終わるよりも早く全身が出てきた。
「ライトッ！　消して！　あと声大きい！」
　今、なんて？
　今度は日本語？
　ライトの中に浮かび上がったのは少年。小学校の高学年くらいだろうか。
　Ｔシャツに半ズボン、むき出しの脚には擦り傷や泥がいくつもついている。
　しかも見るからに日本人っぽい顔。
「お願いします！　ライト！」
　僕は慌ててライトを消した。
　この少年はいったい――そう考える間もなく少年は僕に走り寄り、ライトを持っていない方の手をつかんで茂みへと引っ張り込もうとする。
　つかまれた手のひらの暖かさにほんの少しだけホッとしたものの、反射的に手を振り払ってしまった。
「ちょ、ちょっと待って。君は」
「おにいさん、ヤツラが来ちゃうよ！　早く逃げないと！」
　少年は、そう言い残すと森の中へさっさと戻ってしまう。
　ヤツラってのはなんだ？
　逃げないとまずい何かが？
　門の向こう側をもう一度見つめる。
　誰かがこちらを監視しているとでも？
　でもそれを聞けるのは今はあの少年だけか。
　それにもしも言っていることが本当だとしたら、その「ヤツラ」ってのはヤバい連中なの確定だよね。
　僕は意を決して森の中へと踏み込んだ。