上 下
291 / 338
Episode⑤ 女の勝ち組/女の負け組

第29章|誰も知らないふたりの話 <5>川瀬花蓮と海へ行った朝(鈴木風寿の回想)

しおりを挟む
<5>


 風の強い日だった。


もう消えてしまいたい、という気持ちが高まるにつれて、俺はどうやったら人に迷惑をかけずに死ねるかを毎日、具体的に考えるようになっていた。飛び降りは死体の処理で人の手を煩わせる。死ぬとしても飛び降り自殺はしないつもりだった。ところがその日は、精神科外来の帰りに病院の屋上に行ってみたら、衝動的にフェンスを登りたくなってしまった。

どんな景色が見えるのだろうか。

落ちたらひと思いに死ねる高さなのか。

ちょっと見てやろうと足をかけると、フェンスの金網が、俺の体重で儚くたわんだ。それまで、死にたいという気持ちは誰にも話していなかった。いざとなったら本気で実行するつもりだったから、完遂するためにこそ、誰にも希死念慮は悟られてはいけないと思っていた。

しかし足をかけて登りかけたところで、逆に、誰かに止めて欲しいと思っている自分に気づいた。あと一歩。あと一歩。今日はまだ、死ぬ予定ではなかったはずが、順調にフェンスを乗り越えてしまえば、そのまま地面に吸い込まれてしまいそうで怖くなった。


「君! 何しているの」
後ろから女性の声がして、振り向くと医師らしき白衣姿の女性が立っていた。
「ここ、たまに自殺者が出る場所なんだよね。飛び降りて死んじゃう人もいるし、死に損ねて大学病院の整形外科に入院する人もいる」


「……死のうと思ってないです」反射的に嘘が口をついて出たが、彼女は俺の言葉など、意に介していない様子だった。


「あたしね、ここから見る景色が好きでさ。時々診療とかサボって、ここに来るんだ。君、教授の患者さんだよね? たしか医学部の学生さん……。教授診察の陪席で見たことあるよ。あたし精神科で修行中の医者なの、川瀬花蓮って言います」彼女は胸の名札を軽く見せた。


「はぁ……そうでしたか」

確かに大学病院では、教授診察の際に後ろに若い医師が同席していることがあった。彼らは神妙な面持ちで教授と一緒に患者の話しを聞き、カルテを書いたり、うなずいたりするのだ。その中に彼女がいたのかもしれない。

川瀬花蓮はフェンスにもたれかかった。顔立ちの綺麗な女性だった。風が彼女の柔らかそうな髪の先を揺らした。

「君、心の病気になって長いの?」

「大学に入ったあとに精神の調子を崩して………、もう4年くらい………」


同級生には言えなかった身の上話もさらりと話せてしまったのは、彼女が精神科医だからか、それとも俺はもうすぐ死ぬつもりだったからか。


「ふーん。そっか………」

大変だったねぇ、と言いながらも彼女は呑気な様子だった。しょせん他人事なのだろう。しばらく話した後で時計を見て、「あ、もうカンファレンスの時間、行かなきゃ」と呟いた。

「どうぞ。行ってください」

薄っぺらい口先だけの同情は聞き飽きていた。これまで皆、そうだった。哀れな、様子がおかしい俺を見つけて、声をかけてくれる人は沢山いた。話を聞いてくれるクラスメイトや先輩もいた。だがそれはいつも表面的で、好奇心と隣り合わせだった。俺の話をひとしきり聞いたら、彼ら彼女らは立ち去っていく。“大変だね。じゃあ頑張って”と言い残して。


「そうね……」川瀬花蓮もそう言って、屋上のドアに向かって歩いていった。だがそのあと振り返って彼女は言った。

「ねぇ、あなたどうせよく眠れないんでしょう? 明日の早朝、君の家まで車で迎えにいくから、ちょっとあたしに付き合ってよ。名前と電話番号教えて。どこに住んでるの? 」


-----------------------------------------------

 翌日の午前4時すぎ、本当に川瀬花蓮は俺のアパートにやってきた。

「あ、おはよう。今アパートの下に来ているんだけど、降りてこられるかな? あたしさ、サーフィンするのよ。これから一緒に行こう!」

「はぁ……」

携帯電話から聞こえる声に、この人はいきなり何なんだという不可解な気持ちと、一応は目上に当たるであろう人に約束通り家まで来てもらったのに無下に断るのは申し訳ない、という義理のような感情が混じり、仕方なく顔を洗って部屋を出た。

彼女が乗って来たフォルクスワーゲンには、でかいサーフボードが載っていた。促されておずおずと助手席に乗り込んだところ、車中は潮の匂いがし、座席は汚れていて、足元のゴムシートは砂だらけでジャリジャリした。


 空腹だからコンビニエンスストアへ行こうという彼女の提案でコンビニに寄り、それから海へ向かった。俺は財布を忘れていて何も買わなかったが、車の中で「あげるよ」と川瀬花蓮が三角にビニールで包まれたおにぎりと野菜ジュースをくれた。

車を30分ほど走らせると、海岸近くに到着した。薄暗い海辺の駐車場に車を停めて「今日は良い波、来そうだね~」と浮かれている彼女を見て、俺はどうリアクションしていいかわからなかった。サーフィンなんてしないし、川瀬花蓮のこともよく知らないし。


 不意にボツボツと途切れるFMラジオの音をBGMに、車のフロントガラスの向うにある、まだ夜明けになりきらない空を眺めながら、コンビニで仕入れた朝食を摂り、静かに二人で話をした。出身地とか、部活とか、好きな科目とか。川瀬花蓮は大学の先輩だったらしい。卒業後そのまま、大学病院の精神科で働いていると言った。「風寿くん、今朝もう死んでたらどうしようと思ったけど、まだ生きててよかった」と笑われて、俺は黙った。


「さて、そろそろ行こう。すぐそこ浜辺だから」

サーフボードを抱えた彼女に強引に連れられて、足元の悪い道を、海岸まで下りた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

女の子にされちゃう!?「……男の子やめる?」彼女は優しく撫でた。

広田こお
恋愛
少子解消のため日本は一夫多妻制に。が、若い女性が足りない……。独身男は女性化だ! 待て?僕、結婚相手いないけど、女の子にさせられてしまうの? 「安心して、いい夫なら離婚しないで、あ・げ・る。女の子になるのはイヤでしょ?」 国の決めた結婚相手となんとか結婚して女性化はなんとか免れた。どうなる僕の結婚生活。

【R18】豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網〜策士な後輩から逃げられません!〜

湊未来
恋愛
「ねぇ、本当に陰キャの童貞だって信じてたの?経験豊富なお姉さん………」 30歳の誕生日当日、彼氏に呼び出された先は高級ホテルのレストラン。胸を高鳴らせ向かった先で見たものは、可愛らしいワンピースを着た女と腕を組み、こちらを見据える彼の姿だった。 一方的に別れを告げられ、ヤケ酒目的で向かったBAR。 「ねぇ。酔っちゃったの……… ………ふふふ…貴方に酔っちゃったみたい」 一夜のアバンチュールの筈だった。 運命とは時に残酷で甘い……… 羊の皮を被った年下オオカミ君×三十路崖っぷち女の恋愛攻防戦。 覗いて行きませんか? ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ ・R18の話には※をつけます。 ・女性が男性を襲うシーンが初回にあります。苦手な方はご注意を。 ・裏テーマは『クズ男愛に目覚める』です。年上の女性に振り回されながら、愛を自覚し、更生するクズ男をゆるっく書けたらいいなぁ〜と。

【R18】鬼上司は今日も私に甘くない

白波瀬 綾音
恋愛
見た目も中身も怖くて、仕事にストイックなハイスペ上司、高濱暁人(35)の右腕として働く私、鈴木梨沙(28)。接待で終電を逃した日から秘密の関係が始まる───。 逆ハーレムのチームで刺激的な日々を過ごすオフィスラブストーリー 法人営業部メンバー 鈴木梨沙:28歳 高濱暁人:35歳、法人営業部部長 相良くん:25歳、唯一の年下くん 久野さん:29歳、一個上の優しい先輩 藍沢さん:31歳、チーフ 武田さん:36歳、課長 加藤さん:30歳、法人営業部事務

親戚のおじさんに犯された!嫌がる私の姿を見ながら胸を揉み・・・

マッキーの世界
大衆娯楽
親戚のおじさんの家に住み、大学に通うことになった。 「おじさん、卒業するまで、どうぞよろしくお願いします」 「ああ、たっぷりとかわいがってあげるよ・・・」 「・・・?は、はい」 いやらしく私の目を見ながらニヤつく・・・ その夜。

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

会社員だった俺が試しに選挙に出てみたら当選して総理大臣になってしまった件

もっちもっち
経済・企業
(第2巻 新革党の選挙戦)の内容紹介です。  会社員古味良一は、討論番組や政治のニュースをはしごするのが好きなだけの、30歳独身のしがない男・・・だったが、試しに立候補した衆議院選挙で当選してしまう。今期限りで政治家はやめて、再就職を目指す予定が、紆余曲折を得て、渦川俊郎が結党した「新革党」から再選を目指すことになった。   --- 登場人物 --- 古味良一・・・この物語の主人公。新革党の候補者。あだ名は風雲児。選挙区:茨城県。 -新革党- 渦川俊郎・・・新革党の党首。選挙区:滋賀県。 緒川順子・・・渦川俊郎の政策秘書。 会田敬一・・・新革党の現職。渦川俊郎の盟友。選挙区:滋賀県。 前澤卓・・・新革党の現職。選挙区:埼玉県。 田辺正勝・・・新革党の現職。選挙区:大阪府。 高野清一・・・新革党の新人。選挙区:和歌山県。 -民自党- 阿相元春・・・現内閣総理大臣。選挙区:京都府。 秋屋誠二・・・現国土交通大臣。選挙区:福井県。 水園寺幸房・・・民自党の現職。選挙区:茨城県。 水園寺義光・・・民自党の現職。選挙区:茨城県。 -地方の風- 水本上親・・・地方の風代表。新人。選挙区:長崎県。

処理中です...