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前編:アンジェリカ
しおりを挟む先程王宮の夜会で元婚約者となった王太子から、聖女に危害を加えた罪で婚約破棄をされ北の修道院に送られることになった。
王宮の裏門には王太子が用意したみすぼらしい馬車が止まっている。もちろんそのような馬車に乗るはずがない。従者がそのボロ馬車の御者に金を渡して追い払う。
そしてあらかじめ用意していた最新の設備を備えた4頭立ての馬車に乗る。
この国の筆頭公爵家の長女アンジェリカ・フォスターの為に用意された馬車である。
この国は祖となる国王が自身の魔力で結界を張ったことによって自然災害から守られている。その結界を維持するためには魔力が必要である。
国民は大なり小なり魔力を持っている。いわば生体エネルギーなのでその力は生きる源であるが、魔力で何かの力を行使することはほぼ出来ない。
すべての国民の義務として毎日神殿で神玉に触れると、生活に支障をきたさない程度の魔力が抜かれる。その魔力を集めて結界を維持しているのである。
時折、魔力量の多い女性が現れる。神官は神が遣わした聖女と崇め神殿に囲う。
実際は神のお告げなどで現れた聖女ではなく、ただ魔力が多いというだけなので魔力が不足した非常時にその聖女からごっそり魔力を奪うための口実である。王太子はその事実を知らないようで隣にいる女が聖女だと本気で思っているようだ。阿呆である。
その少女は神玉に初めて触れた時、タンポポの花が3本現れたそうだ。周りは奇跡だと大騒ぎだったらしい。
先程の断罪の時には王太子に甘えるように抱き着きながらアンジェリカを憐れむ振りをして嘲笑っていた。
ちなみにアンジェリカの時は魔力が多すぎて金粉と薔薇の花びらが舞い散った。片付けが大変だったと愚痴られた……。このことはその場にいた神官に賄賂を渡し黙らせてある。
アンジェリカは常々、自分勝手で勉強嫌いの王太子との婚約を破棄したいと思っていた。
そもそも生理的に苦手なのだ。努力ではどうにもならない。だが嫌いだからでは破棄できないので大義名分が必要だった。
有難いことに向こうも婚約破棄をお望みの様でいろいろ画策してくれたのでそれに乗ったのだ。
馬車の中は毛足の長い絨毯が敷かれふかふかのクッションも用意してある。アンジェリカは寛ぎながら置かれてあるフィナンシェを食べ始めた。断罪の時間が無駄に長くてお腹が空いてしまった。
そういえば、断罪の終わりに調子に乗ったどこかの伯爵令嬢……名前は思い出せないがアンジェリカにワインをかけた。その報復を与えなければと正面で世話を焼くアンジェリカの忠実な従者エルに話しかけた。
「エル、断罪の時、私にワインをかけた女を覚えている? その女に相応しい報いをあげてちょうだい」
アンジェリカは自分が他人にしたことは忘れてしまうが、自分が他人にされたことは絶対に忘れない。
「はい、既に指示を出してあります。伯爵は爵位返上と財産没収の上、平民として放逐します。あの令嬢は葡萄農園の労働者として引き渡すことになっています」
それを聞いて満足げに頷く。あのワインは最高級のものだったのに、ぶちまけるなど勿体ない。ものを粗末にする人間がアンジェリカは嫌いだ。
お菓子を食べたらコルセットがきつくて脱ぎたい。
「もう少しで、今夜の宿泊先に着きますよ。それまでドレスは我慢してください」
可笑しそうにこちらを見ている。エルはアンジェリカの心を読んでしまう。
「明日からの旅が楽しみね」
元婚約者は北の修道院と言えば過酷だと思っている。確かに雪深い時期は寒さも厳しく大変だろうが今は夏なので避暑にちょうど良く、地元では花まつりも行われている観光地だ。アンジェリカとしては完全にバカンスである。
普段は王太子の婚約者として旅には行けない。行先は念入りに調べられ王都内の移動だけでも護衛がぞろぞろ付いてきてまったく楽しくないのだ。それが今回は公爵家の優秀な護衛と複数の影が付くだけなので存分に楽しむことが出来る。
元婚約者が3か月前から断罪を計画していたので、そのときから過ごし易いように修道院を改修してすでに完成している。
その夜は宿のスイートでぐっすりと休むことが出来た。翌朝は早くから出発して馬車の中で朝食をとった。
エルが街で評判のスコーンとジャムそして紅茶を給仕してくれる。
さすが公爵家の威信をかけて作った馬車はほぼ揺れないので快適に食事が出来る。
食べ終わるとエルがアンジェリカの手を甲斐甲斐しく拭いてくれる。気分はお姫さまである。今までの忙しさが嘘のようにゆったりとした馬車の旅をエルと満喫し、いよいよ修道院に到着した。
建物は古いが白く塗り替えられて外観はアンティーク調で美しい仕上がりだ。
入り口には王宮で侍女をしていたのに、理不尽にもここに送られた女性たちが出迎えてくれた。その中には筆頭侍女をするほどの優秀な人や教師をしていた人もいる。
教師だった人が代表で嬉しそうに挨拶をする。その目は喜びで潤んでいた。
「お久しぶりです。アンジェリカ様。私たちを助けてくださりありがとうございました。会える日を心待ちにしておりました。ご滞在中は心からおもてなしをさせてくださいませ」
「いいのよ。助けるのが遅くなってごめんなさい。みんな元気そうでよかったわ。しばらくお世話になるわね」
彼女たちは王妃教育などで王妃から嫌がらせを受けるアンジェリカを助けてくれた人たちだ。
王太子が聖女を王宮内に連れ込んで我儘放題を許した結果、彼女たちは聖女に無礼を働いたと罪を着せられ修道院に送られたのだ。
アンジェリカは自分にしてもらったことは忘れない。受けた恩は必ず返す主義だ。
修道院、いや元修道院の中に入っていく。中もアンティーク調にこだわった内装で、案内された最上階の部屋は素晴らしくアンジェリカはすっかり気に入った。
公爵家の力で修道院はなくなった。この修道院に収容されていたのは冤罪の人がほとんどで政治的な都合で送られてきた者たちばかりだ。収容されていた人たちはここで働くか別の仕事先を紹介してある。
今は観光施設として他国の貴族が利用している大人気の宿泊施設である。
「エル、明日は早速花まつりに行きたいわ。町娘に見えるワンピースを用意してね。それとここに居る間は敬称なしでアンジェと呼んでちょうだい。もちろん敬語もなしよ」
エルは仕方ないと苦笑いして受け入れてくれた。
「わかりまし……分かった。アンジェ、花まつりのほかに希望は?」
「行ってから決めるわ。言っておくけどこれはデートよ」
そう、ずっとエルと二人で出かけたかった。
婚約者にエスコートをされるたびにその手がエルでないことが悲しかった。
婚約者とダンスをする度に腰を支える腕がエルでないことが辛かった。
嫉妬して欲しいのにいつだってその様子を冷静に見ているのも悔しかった。
それでも耐えてきたのは、いつも周りを警戒して神経を尖らせているのに、アンジェリカと目が合うと僅かに目を細めて見つめ返してくれるエルの瞳があったからだ。そこにはアンジェリカを思う優しさがあった。側にいてくれさえすればいいと自分に言い聞かせてきた。
次の日からお金持ちの町娘風のワンピースでエルと手を繋ぎいろいろな所へ行った。
もちろん隠れている護衛はいるが、アンジェリカの気持ちを知っているので無粋な真似はしない。
はじめて屋台でクレープを買って二人で分け合って食べた。口元に着いたクリームをエルがそっと指で拭ってくれる。
喫茶店ではいつもエルが美味しそうに飲むコーヒーを注文した。あきれ顔で忠告された。
「アンジェの口には合わないからやめた方がいい」
「エルは美味しそうに飲むでしょ? 私も味わってみたいわ」
ミルクと砂糖をたっぷり入れても苦くて残してしまったら、残りをエルが飲んでくれた。でも甘すぎるって顔をしかめてぼやいていた。
晴れた日には一面に美しい紫色のラベンダー畑をただ見て一日を過ごした。
夕方になり肌寒くなればショールを掛けてくれる。
そろそろ帰ろうと立ち上がった時、後ろからふんわりと抱きしめられた。エルの顔がアンジェリカの肩に乗り耳たぶに口が触れるギリギリのところで小さく何かを囁いたが、風に流されて聞こえなかった。風がなくてもドキドキしすぎて聞き逃していただろう。でもその言葉はアンジェリカの欲しいものだと思う。
そんなここでの日々は楽しくて言葉に言い尽くせない程幸せだ。
ある夜、エルにアンジェリカの隣に座るように頼んだ。そしてアンジェリカは自分の体を横たえエルの膝に頭を預ける。暫くするとエルがアンジェリカの頭を優しく撫でてくれる。自分をいつも守ってくれる温かくて優しい大きな手だ。
「ねえ。エル。私あなたが好き。だからこれからもずっと側にいて。私を欲しがって。お願い」
懇願する声だった。
エルは物心ついた時から一緒にいた人。父親に捨てられて母親を早くに亡くしフォスター公爵家に引き取られた。そしていつの間にかアンジェリカの従者をしてくれている人。いつだって一番にアンジェリカの事を考えて大切に守ってくれる大好きな人。従者と自分の身分を考えれば諦めなければならないし、そのつもりだった。
3か月前にお父様からエルの真実を聞かされるまでは。
いや、うすうす気づいていた。だって普段前髪で隠しているエルの瞳は金色で王族にしか現れない色だ。
元婚約者は王太子だったがエルにも王家の血が流れているならこの人と結婚できる可能性もあったのだ。
真実を聞いたら気持ちを誤魔化すことはできなくなった。そしてエルを手に入れることを選んだ。
エルの決断によってフォスター公爵家はいつでも動く用意は出来ている。エルが王族になることを選ぶのか自分の従者でいることを選ぶのか、どちらでも構わない。王族にならなくてもアンジェリカに甘い父ならなんとかしてくれる。
アンジェリカの気持ちはもう決まっている。彼は私のものだ。手放すことなどありえない。
フォスター公爵家の者が神玉に魔力を注ぐことをやめたので国を守る結界が弱まっている。このままでいけばじきに結界は消滅する。自然の摂理を曲げた結界が無くなった時の代償はどれほどのものだろうか。
王太子が入れ揚げている聖女の魔力ではどうにもならない。
もちろん公爵領や公爵家と懇意にしている領地には対策を立ててあるので結界が無くなっても問題ない。
そのとき……決めるのはエルだ。
彼の頬にそっと手を伸ばす。
「エル。私のラフェエル。愛してるわ」
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