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第3章 サヨナラCOLOR

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 その日は、バー「ホワイトデー」に史美が仲間を招集した。この間は教頭の嫌がらせ残業で顔を出すことが出来なかった。
 5人は店の隅のいつものテーブルに座っている。

「アタシ、俊ちゃんにプロポーズされちゃった。」

 史美の言葉に一同一斉に凍り付いてしまう。和明たちが一斉に秀輝を見る。秀輝は、その雰囲気を察知して明るく振舞う。

「おめでとう!よかったなぁ!なぁ!」
「ありがとう。」

 照れながらも史美は秀輝たちの祝福を素直に喜んだ。
 眞江は尊と顔を見合わせ複雑な表情をする。

「俊ちゃんの仕事が忙しくて、今はそれどころじゃないんだけど。」
「OKしたってこと?」

 プロポーズに対しての史美の返事を、眞江は催促するように問いかけた。

「・・・返事は、まだしてない。」

 罰悪そうに史美は答える。
 秀輝たち4人は一斉に首をかしげている。何故返事をしなかったのかという仲間たちの視線が史美に突き刺さる。

「・・・いきなりだったし、びっくりしたんだもん。そういうのって、心の準備ってものがあるじゃん。」

 秀輝は動揺する気持ちを必死に抑えていた。覚悟していたつもりだが、心に受けた衝撃は凄まじく呼吸が苦しくなる。秀輝の気持ちを察している和明たちは、史美のプロポーズの報告を素直に喜べない。
 誰も喋らない状況に、史美は言い訳がましく理由を言った。

「アタシ、4月に担任持ったばかりで忙しいし・・・。」
「何で?何で、すぐ返事しなかったの?嬉しかったんでしょ?」

 責め立てるように喋る眞江に史美は気後れして口籠りながら答える。

「・・・嬉しかったよ。」

 口籠りながら答えた言葉は4人には届いていない。眞江などは返事を即答しなかった事に理解できないとばかりに何度も首を傾げる。

「忙しいって・・・。プロポーズの返事には関係なくない?」
「なんで?大変なんだよ、クラス担任って。」

 眞江は執拗に史美に詰め寄る。

「それはそうかも知れないけど、アタシならその場でOKしたよ。」

 和明と尊は身を乗り出すように史美の言葉を待っている。秀輝は黙ったまま俯いていた。

「もぉ~何よ~、なんか尋問されているみたいじゃない。」

 その場の雰囲気を誤魔化すように史美は笑う。

「心配しなくても大丈夫!」
「別に心配なんてしてないけど・・・。」

 尊は、秀輝を横目で見る。

「佐古さんとなら、きっと幸せになれるよ。」

 必死で作り笑顔をしている秀輝が痛い。
 どうしてこんな雰囲気になったのだろう。史美は、一同を何気なく見渡した。和明も眞江も尊も、心成しか表情が強張っているように見える。違っているのは秀輝だけ。いつもの優しい目で史美を見ていた。

「ねぇ、篠塚。」
「ん?」
「アタシと俊ちゃんのイラスト描いてくれないかなぁ。」
「イラスト?」

 秀輝は昔から絵が上手かった。史美の似顔絵を、秀輝は幾度となく描いている。一度だけ誕生日に大きなサイズのイラスト画を貰ったことがあった。

「結婚が決まったら、席次表とか作るじゃない。そのときの表紙を描いてもらいたいなぁって・・・。」
「・・・いいよ。」

 何のためらいもなく、秀輝は二つ返事で史美の依頼を受けた。

「ホント?ワ~イ!」
「ウェルカムボードのほうがいいだろ。」
「うん!」

 無邪気に喜ぶ史美の横で、眞江は秀輝の顔を見つめている。秀輝の表情は、史美への溢れる想いで優しかった。事情を知らない史美に何の罪もないが、締め付けられるような胸の痛みで眞江は笑うことが出来なかった。


※                ※                 


 史美が住むマンションは、いくつかの棟が建ち並ぶ中にあった。小高い丘の上にあるマンションは、夏になると港の花火大会を見ることが出来た。
 日付が変わる時刻をとうに過ぎて、どこの部屋も電気が消えていた。道路に設置してある街灯だけが寂しい光を灯している。
 タクシーが街灯の下で停まり、史美と秀輝、そして近所に住む眞江が降りてくる。

「じゃあね~」

 史美は秀輝と眞江に手を振り、自分のマンションへと入っていった。
 秀輝は史美が部屋に入っていくのを見届けると、歩いて10分程のアパートへ歩き出す。

「ねぇ。」

 眞江は自宅アパートへ帰ろうとする秀輝の背中に声を掛ける。

「ん?」

 眞江に呼び止められ秀輝は振り返った。
 眞江が心配そうな表情で秀輝を見つめていた。史美が結婚を決めてしまうかも知れない。秀輝の心境を思い遣るといたたまれなくて声を掛けた。

「大丈夫?」
「何が?」
「何がじゃないよ。田原、結婚しちゃうよ。」

 俯く秀輝は黙ったまま立ち尽くしている。

「ウェルカムボードなんかも引き受けちゃって・・・。ただでさえ辛いのに・・・。何でそんなこと引き受けるのよ!」

 俯いたまま秀輝は一向に顔を上げない。

「田原も何なのよ!」

 堪え切れなくなった眞江は声を荒げてしまう。秀輝の気持ちを知らない史美を責めることではない、それは十分分かっている。しかし、心を削りながら尽くしているような秀輝を思うと胸の痞えが下りないのだ。

「アイツは知らないんだから・・・。」
「でも!・・・。」

 秀輝の優しく悲しい目を見て、眞江は激高する気持ちを抑えた。

「ねぇ・・・。そうやって自分の気持ち、一生抑えていくつもりなの?」

 深夜の沈黙は僅かな時間でも長く感じてしまう。秀輝はゆっくり顔を上げると心配している眞江に静かに呟いた。 

「・・・佐古さんと結婚する事が田原の願いなら・・・。それが田原の幸せなら、それでいい。・・・それでいいんだ。」
「篠塚・・・。」
「アリガトな。」
「何それ・・・。」
「いや、色々気遣ってくれてさ。」
「そんなこと・・・。」
「じゃあ、おやすみ。」

 秀輝は眞江に別れを告げ自宅へと帰って行った。そこには秀輝の史美への思いが残っているような気がしてならない。立ち去った後も眞江は一人、そこから直ぐに歩き出すことが出来なかった。


※                ※                 


 史美が住むマンションの前に公園がある。定番の滑り台とブランコ、そして砂場と鉄棒があった。その公園で子供たちが、代わる代わるにブランコを漕いで遊んでいる。
 この公園は、史美も秀輝も幼い頃によく遊んだ場所だ。2人の様々な思い出が詰まった公園だった。
 秀輝は来る途中で買って来た崎陽軒のシューマイ弁当を史美に渡した。美味しそうなシューマイ弁当の匂いに、二人は満足そうに目を閉じる。

「腹減った~。」

 秀輝が天を仰ぎながら呟いた。
 休日の昼間に暇を持て余しているのは、秀輝ぐらいだろうと史美が電話で呼び出していた。天気がいい日は外で食べると気持ちがいいと、秀輝は史美を部屋から連れ出した。
 史美と秀輝は、買ってきた弁当の蓋を開けて嬉しそうに覗き込んだ。
 秀輝のシューマイ弁当を、史美は獲物を捕捉した鷹のようにじっと見つめている。

「なんだよ。」
「別に・・・。」

 このシューマイ弁当を買ってくると史美は必ずある要求を秀輝に言ってくる。それを察知してか、秀輝はさりげなく史美に背を向け弁当を隠した。
 史美が物欲しそうに目で訴えてくる。

「お前、マジかよ。」
「いいじゃん。」

 史美は自分のシューマイ4つと秀輝のタケノコ煮全部を取り換えようと言ってきた。

「たまにはシューマイ食えよ。」
「だって好きなんだもん。」

 そう言うと史美は次々に秀輝の弁当からタケノコ煮を根こそぎ奪っていく。その様を呆れて見ている秀輝だが、史美の嬉しそうな顔が堪らなく可愛くていつもされるがままだった。

「しかし、あれね。電話したら案の定、暇そうに電話に出るんだもん。彼女くらい早く作りなよ。」

 美味しそうにひとつひとつタケノコ煮を頬張りながら史美は言った。

「お前は学校の先生のくせに頭悪りぃな。」
「はぁ?」
「前にも説明したよな?俺はな、世界中の女が悲しむようなことはしないの。」

 よくもまぁぬけぬけと、そんな言葉が出てくるものだと呆れてしまう。呆れている史美をよそに、秀輝は隣で何やら楽しそうに笑っている。秀輝の陽気さは、史美の心の不安をいつも和らげてくれていた。

「昨日、琢磨君からメールが来たよ。」

 史美はペットボトルのお茶を飲みながら唐突に話を切り出した。

「・・・何て?」

 いつの間にか秀輝の顔から能天気な笑顔が消えていた。

「練習は出来ないけどバスケも出続けているって。それから、リハビリも元気にやっているって。」
「順調そうで良かったな。」
「うん・・・。」
「写真も添付されてて、元気そうだった。」
「そうか。」

 嬉しそうに頷く史美の顔を見て秀輝も微笑む。

  三咲みさき 琢磨たくまという名の生徒は、かつて副担任として受け持ったクラスにいた。その琢磨という生徒に不幸な事件が起こってしまうのである。
 史美は、その日を思い出していた。
 授業の合間の休み時間、生徒たちは授業からの解放感で廊下や教室で飛び回っていた。三咲琢磨は、教室内の窓際でクラスメイトと遊んでいた。
 窓枠に腰掛けて遊んでいる琢磨を、史美と担任教師の 伊藤いとうが見かけて注意をした。

「危ないわよ。降りなさい。」

 史美も伊藤に続くように声を掛ける。

「コラッ、伊藤先生の言うこと聞きなさい。」

 言うことを聞かない琢磨たちに、史美が歩み寄ろうと一歩踏み出した。

「あっ・・・。」

 普段施錠してある筈の窓が開いて、琢磨はバランスを崩し窓から転落していく。

「琢磨くん!」

 史美と伊藤は、慌てて窓に駆け寄り下を覗いた。
 1階へ転落した琢磨が苦痛に顔を歪めている。

「田原先生、救急車!」
「はい。」

 史美は救急車を呼びに職員室へと急ぐ。教室からは生徒たちの泣き声と悲鳴が響いていた。


※                ※                 


 幸いにも琢磨の命に別状はなかった。しかし、脊椎への衝撃が凄まじく、下半身への麻痺が残ると診断される。この事故により琢磨は、車椅子での生活を強いられてしまうのだった。
 校長室に学校長の 八木沢やぎさわ 克弘かつひろと教頭の池本が、琢磨の両親・ 哲郎てつろう/ 和佳子わかこと話し合いをしていた。父である哲郎は興奮状態で体を震わせながら話をしている。
 史美と伊藤は部屋の隅に立って、その様子を肩をすぼめて聞いていた。

「それじゃ、学校側には責任はないっていうんだな?」
「責任というよりも・・・。注意をして効かなかったのは、お子様ですからねぇ・・・。我々には、それ以上どうすることも出来ないじゃありませんか。」

 八木沢は哲郎に理解を求め訴える。

「当日のことは担任からも、事前に注意はしたと言っておりますし・・・。」
「施錠してある筈の窓が何故開いていたんだ!」
「だから先程から何度も申し上げているではありませんか。琢磨くんたちが注意を聞かずに遊んでいたせいで外れたんだと・・・。」
「子供に罪を擦り付けるつもりか?」

 八木沢と池本は、平行線のまま先へ進まぬ展開に大きな溜め息をつく。

「謝罪するつもりなどないということか。じゃあ、裁判で訴えるしかない。あぁ、訴えてやるよ。」

 三咲夫妻は史美と伊藤を一瞥し校長室を出て行った。


※                ※                 


 琢磨の父・哲郎は、執拗に担任である伊藤を責め続けた。その日も、哲郎は伊藤が帰宅するのを外で待ち伏せていた。
 残務処理を終え史美と伊藤、他の同僚教師が校門扉を開け出てくる。
 史美たちが出てくると同時に一台の車が急停車し、琢磨の父・哲郎が降りてくる。

「おい、あんた琢磨の担任だろ?何で学校側は過失を認めないんだ。鍵は閉め忘れていたんだろ?」

 哲郎は、伊藤の襟を掴んで執拗に責め立てる。無言を貫く伊藤の態度に、哲郎は掴んでいた手に力を込める。

「おいっ、良心の呵責ってもんがないのか?それで、よく教師が務まるな?」

 伊藤は哲郎に詰め寄られてたじろぐ。

「これからずっと、琢磨は車椅子生活なんだ!あんた少しも負い目を感じないのか!」

 伊藤は哲郎に洋服の襟を掴まれ、されるがままになっている。

「ちょっとやめて下さい。まだ、裁判は終わってないじゃないですか。」

 他の同僚教師たちが哲郎を伊藤から引き離す。

「学校側に過失がないなんて信じられるか。・・・そんな馬鹿なことが、そんな馬鹿なことがあってたまるか!」

 史美は、憔悴しきった伊藤を抱え足早に歩いて行った。


※                ※                 


 職員室では職員会議が急遽行われた。池本教頭が議事進行を務め教師たちに説明をしていた。

「え~、伊藤先生は一身上の都合により、本日付で退職されました。」

 誰一人顔を上げて聞いている者はおらず、神妙な面持ちで説明を聞いている。

「それから事故で重傷を負った児童の父兄が、校門の前などでいろいろと接触してきていますが取り合わないようお願いします。この件は全て弁護士先生にお任せしておりますから・・・。」

 広い職員室に沈黙が漂っている。

「田原先生。」

 突然、史美の名を呼ぶ池本の声に驚く。

「あなたには、今後も父兄が接触してくる可能性が高い。取り合わないよう、よろしくお願いいたしますよ。」
「はい・・・。」

 同僚教師たちの視線が史美に突き刺さる。
 史美の後ろに座る教師たちが小声で話すのが史美にも聞こえる。

「伊藤先生、うつ病だって・・・。」
「気の毒にね~。」

 史美は同僚教師から社会の怖さを痛感していた。


※                ※                 


 当時を思い出す史美と秀輝の顔が曇る。
 秀輝はタバコに火を点け空に向け煙を吹く。煙は風に吹かれることなく、ひとつの塊として空へと登って行った。史美は秀輝が吐き出したその煙を、ボンヤリと見つめていた。

「ねぇ、自分のしていることに不安を感じることってある?」

 秀輝も空を見上げ吐き出した煙の行方を追っていた。

「どうした、急に。」
「別に、ただなんとなく。」 

 秀輝の横顔を見つめながら、何か言い出すのを史美はジッと待った。

「自信ないのか?」
「自信?」
「琢磨くんの事だろ?」

 史美は秀輝を見つめながら頷いた。

「アタシ、人助けが出来るほど経験豊富じゃないし、アタシみたいなのがこんな事していいのかなって思うの。」
 秀輝は、史美の言うことを黙って聞いている。
「でもアタシ、琢磨くんの事を放っておけなかった。」
「うん。」

 史美は転校していった琢磨の様子を見に行ったことがあった。塞ぎ込み人生に絶望したような琢磨だった。居ても立ってもいられなかった。後先考えずに気持ちのまま、琢磨の前に飛び出していた。副担任とはいえ、史美にとっては教師になって初めての生徒だった。校庭の隅で迎えに来る両親を待っている琢磨に、寄り添って慰め必死になって励ましていた。
 最初は史美の一方的なやり取りだけだったが、その熱意は徐々に琢磨の心に届いていた。そして、LINEから始まり電話番号の交換まで出来るようになったのだ。

「ねぇ・・・。」
「ん?」
「どう思う?アタシのしていること。」

 史美は秀輝の顔を覗き込む。

「何が出来るか分からないけど、元気になってもらいたいの、希望を失わないで欲しいの。」

 秀輝は黙って史美の話を聞いている。

「もしかしたらこんなこと、アタシの一人よがりかも知れない。特別なことが出来るわけじゃない。メールをしたり、LINEで話しをしているだけ。ホントにそれだけしかしてない。」

 無力な自分を思うと、史美は情けなくて泣きそうになる。

「時々・・・ううん、いつも考えているかも、本当にあの子の為になっているのかって。」
「お前、琢磨くんに早く元気になってもらいたいんだろ?」

 秀輝の優しい声が史美の心を包んでいく。

「うん。」
「怪我なんか克服して、強い子になって欲しいんだろ?」
「うん。」
「いいんじゃねーか、そういうのってさ。誰かが自分の事を励ましてくれる。それだけでも、嬉しいし頑張ろうって励みにもなるんだ。お前は琢磨くんのために、出来ることをやっている。それでいいんじゃないのか。」
「・・・うん。」
「琢磨くんは、お前のことを必要としてる。」

 秀輝は史美の肩をポンと叩いた。

「それに多分、今は・・・。」
 史美は、考え込んでいる秀輝の顔を乗り出すように見つめている。
「お前のために頑張っていると思う。」
「えっ?」
「頑張れば、お前が喜ぶだろ・・・。つまり、そういう事だ。」
 琢磨にとって、史美は初恋の相手と秀輝は言いたいのだ。
 年齢は違うが互いに同じ女を好きになった者として、秀輝は琢磨の気持ちが理解出来るような気がしていた。
「・・・俺は、とことん付き合うぜ!」
「うん。」

 秀輝に相談して良かったぁ・・・史美は心の底からそう思った。

「あ、でもよ・・・。」
「ん?」
「なんて言うか・・・だからって、あまり頑張り過ぎるなよ。」
「大丈夫!」

 史美はベンチから立ち上がり背伸びをする。
 秀輝に後押しされ心のモヤモヤが一気に消えて行った。史美は晴れ渡る空を見上げ太陽に手をかざした。

「さぁて、俺もやるぞ!」

 秀輝もベンチから立ち上がり背伸びをしている。

「彼女作るとか?」
「アホ。」
「へへへっ。」
「シナリオだよ。またコンクールに応募しようと思ってさ。」
「ふ~ん。」

 秀輝には脚本家になるという夢がある。最初は漫画家になりたいと思っていたらしい。しかし、漫画も土台となる物語が出来ていないと整合性が無くなり辻褄が合わなくなる。好きなアイドルの映画を観ているうちに、自分だったらこんなストーリーを作りたいと思うようになり脚本家に目覚めたというのだ。

「あーあ、大賞取りてーなぁ・・・。」
「出来たら読んであげよっか?」

 秀輝は史美の言った言葉に戸惑い始める。

「あれ?嫌なの?」
「嫌じゃないけど・・・、なんていうか・・・その~・・・。何でお前に見せなきゃいけないんだよ。」
「いっつも読め読めって言うじゃない。」
「ん?・・・うん。」

 秀輝は、そう言えばそうだったと慌てる。

「いいじゃない、彼女がいるわけでもないんだからさぁ。どうせ読んでくれるような人、いないでしょ。」

 口を尖らせて秀輝に言う。

「お前なぁ。彼女、彼女ってうるせーんだよ。」
「心配してるんでしょ。アンタだけ彼女いないんだもん。」
「俺が本気になれば直ぐ出来んだよ!」

 自信あり気に自分の作品を読ませる秀輝が、今日は少しばかり様子がおかしい。史美に読ませていいものか迷っているようにも見える。

「何?それとも、自信ないわけ?」
「自信はあるよ。」
「じゃ、問題ないじゃない。」

 史美は信じていた。秀輝は必ず自分の夢を叶え、素敵な作品を世に送り出すと・・・。秀輝が賞を取り脚光を浴びる姿をイメージする。ネガティブだった先程までの気持ちは、いつの間にか今日の天気と同様に晴れやかな気分に変わっていた。

「な~に、ニタついてんだお前は。」

 何の確証もないのに、史美はもう秀輝が大賞を取るかのようにはしゃいでいる。史美のこの笑顔に秀輝はいつも励まされている。そして、そうなると信じて疑わない史美の言葉には、どんな事にも挑める勇気が湧いて来るのだった。

「作品が出来上がったら必ず読ませてもらうからね。今度は出来栄えを採点してあげるからさ。」

 秀輝は史美の屈託のない、この笑顔にやられてしまう。その笑顔を出されてしまうと、秀輝は何も切り返せなくなる。

「楽しみにしてるね。秀ちゃん!」
「採点ってなんだよ。学校の先生みたいな事言いやがって。」
「だって、アタシ先生だもんね。」

 史美は、“ してやった ”とばかりに笑い出す。
 面白くないとしかめっ面の秀輝を見て、笑いが止まらない史美だった。

※                ※                 

 有楽町センタービルの前は、行き交う人々で賑わっている。途切れることなく都道304号線を車が走り、ヘッドライトの眩しさに信号待ちの歩行者は目を細める。有楽町センタービルにあった西武は閉店し、現在は阪急百貨店とルミネが後を受け継いで営業している。ショッピングだけでなく映画館も併設した複合商業施設なのだ。
 秀輝と沙帆が、人混みの中を掻き分け有楽町センタービルから歩いてくる。土曜日か日曜日の休みの日に秀輝と過ごしたかった沙帆だが、なかなか予定が空いていない秀輝だった。平日の仕事帰りなら空いているだろうと沙帆は約束を取り付けたのだった。沙帆ははぐれないように、秀輝の手を取り先導して歩く。
 ショットバーの看板を見つけた沙帆は、秀輝の背を押しながら店内に入る。照明が少し落とされ、店内を流れるジャズが落ち着いた雰囲気を出している。秀輝と沙帆は酒を飲みながら、映画の話題で盛り上がっていた。

「あの映画、最後はハッピーエンドで良かったね。」
「俺、恋愛映画ってハッピーエンドじゃないと嫌なんだよね。」
「そうなの?」
「別れる映画なんて見ても、嫌な気分になるだけだよ。」
「でも、あれなのね。」
「何?」
「ヒデ君って恋愛映画も見るのね。」
「映画であれば何でも観ますよ。ジャンルは問わない。」

 秀輝と沙帆は、史美たちとは別の小学校時代の幼馴染であった。秀輝は小学校6年に進級する時、親の都合で引っ越しが決まり転校したのだ。
 10数年振りの出会いから1年が過ぎ、沙帆は前々から気になっていたことを切り出す。その体は無意識に身を乗り出していた。

「ねぇ、ヒデ君。」
「ん?」
「ヒデ君ってさぁ・・・彼女の話とかしないね。」
「そんな人、いないから・・・。」
「ホントに付き合っている人とかいないの?」
「いるわけないじゃん、いたらこうして沙帆ちゃんと映画なんか観に行かないよ。」
「・・・好きな人はいるんだ。」
「えっ?」

 脳裏に史美の顔が浮かび一瞬戸惑う。

「いるんだぁ~。へぇ、どんな人?」

 秀輝の微妙な表情の変化を沙帆は見逃さなかった。

「教えてよ。」

 取調べの刑事のように追究する沙帆に、秀輝は圧倒されていた。しかし、その追究も後一歩となりそうになった時、秀輝は後ろから羽交い絞めにされ仰け反る。
 秀輝が振り返ると、和明が恋人の中島なかじまあきらと立っていた。

「よぉ~。何してんだよ、こんな所で。」
「見てわかんねぇのか、デートだよ。デート!」
「篠塚君、ごめんね。この人酔っているから。」

 沙帆は追究の邪魔をされ怪訝な顔をしている。口調から秀輝の友人らしいのだが、やはり遠慮して欲しい。
 沙帆の表情に気付いた和明が、向き直って自己紹介をする。

「あっ、いきなりスミマセン。こいつとは小学校からの付き合いでね。はじめまして加藤和明です。彼女は中島晶。よろしくお願いしますね。」
「和明の彼女だよ。」
「あぁ・・・。」
「二人とも、とりあえず座れよ。」

 和明と晶は余っている椅子に座る。

「こちらは俺が前にいた小学校時代の幼馴染、花村沙帆ちゃん。よろしく。」
「沙帆です。よろしくお願いします。」

 改まって挨拶する沙帆に和明と晶は恐縮してしまう。

「あのさ、来週の土曜日また皆でバーベキューやろうぜ。もう古谷と桐原と田原には話がついているんだ。お前も来いよ。」
「あぁ、わかった。」

 和明は隣にいる沙帆に視線を滑らせた。

「あの~花村さんでしたっけ?君も予定が空いていたら一緒に行きませんか?」

 和明が突然沙帆を誘い出した。驚いた秀輝は飲んでいた酒を吹き出しそうになり、激しく咳き込んでしまう。
 沙帆は、デートを邪魔され終始不機嫌な顔をしていたが、思わぬ誘いを受け一瞬にして表情がほころぶ。

「何言ってんだ、沙帆ちゃんが暇なわけねぇだろ。それに突然そんなこと言ったって予定ってもんがあるだろ。」
「だから、空いてたらって言ってるじゃんかよ。」
「無理矢理、誘っているみたいだろうが・・・。」
「いつもお前だけ一人だから、彼女が来ればみんなペアになれるだろ?・・・。」
「アタシ、別に予定もないからいいですよ。」
「あ、そう?じゃあ、おいでよ。迎えには篠塚を行かせるからさ。」
「楽しみにしてます。」

 勝手に決めるなと食ってかかる秀輝に、沙帆が来るという嬉しさは感じられない。沙帆はバーベキューに参加して、秀輝が思いを寄せている女が誰なのか突き止めるつもりでいた。

※                ※                 

 史美は部屋のベッドに横たわり雑誌を読んでいる。ふとドレッサーにある俊一との写真を見る。そろそろゼクシィなどの結婚情報誌を読んで、知識を集めなければならない。式場選びから新居などやることは山ほどあった。
 情報よりも、何より一番しなくてはならないことが史美にはあった。俊一からのプロポーズに対する返事である。しかし、嬉しいはずなのに億劫に感じられる理由が分からなかった。俊一の写真を見つめながら、史美は結婚への思いを巡らせていた。
 思案中の史美を邪魔するように、携帯電話の呼び出し音が鳴る。携帯に和明の名前が表示されている。

「もしもし、和明?」
― よぉ。今、大丈夫か?―

 陽気な声が電話向こうから聞こえて来る。

「ん?酔っ払ってんの?」
― 篠塚と飲んでたんだ。―
「ずるい!誘ってよ!」
― ここは有楽町で~す。―
「あ、そう。」

 さすがに東京には行けないし行く気もない。

― 晶も一緒。へへへっ。―
「良かったね。」

 酔っ払いの相手は面倒だ。

「どうしたのよ?もう寝るんだけど。」
― 来週末のバーベキューだけどさ。俺んとこと田原のとこと、えっ~と、桐原のとこで買出し行こうと思ってさ。―「それ今、決める話?」

 電話口で晶が “迷惑だから早く切れ”と話す声が聞こえて来る。

― ちょっと思いついた事があったからよ。忘れねぇうちに連絡しようと思ってさ。―
「買い出しするのはいいけど、何でアタシ達が?」
― 古谷は場所が近いから場所取りに行ってもらう。篠塚は新メンバーのお迎えだ。―
「新メンバー?誰?」
― 花村沙帆ちゃんっていう女の子だよ。―
「沙帆ちゃん?」
― 篠塚が、うち等のところへ転校してくる前に一緒にいた幼馴染だってよ。―
「ふ~ん。」
― さっき有楽町のショットバーで二人一緒のところに偶然居合わせちゃってさ。―
「えっ?」
― 結構可愛かったよなぁ・・・。―
 和明が側にいる晶に確認している。
「付き合っているの?」
― 詳しいことは知らねえよ、さっき会ったばかりだからさ・・・。ま、とにかく篠塚が連れて来るから当日はよろしくな!―

 和明はそう言い終えると、そそくさと電話を切ってしまった。

「へぇ~篠塚、女の子連れて来るんだ・・・。」

 史美は切った電話を、しばらくボンヤリと見つめていた。今までバーベキューなどのイベントに、女の子を連れて来るのは大抵和明や尊だった。それが今度は、秀輝が女の子を連れて来るという。史美は胸の中にかすかな違和感を抱いていた。
 ボンヤリしている史美を引き戻すように、再び電話が鳴り出した。驚いた史美は、その拍子に携帯を落としてしまう。慌てて拾い上げ電話を見ると、今度は眞江からだった。

「あ、サーちゃん?」

 眞江を呼ぶ愛称は大人になった今でも変わらない。眞江の“ サ ”をもじって“ サーちゃん ”と呼んでいる。今さら変えられないし、史美はこの呼び方を気に入っている。

― 今、平気?―
「うん、さっきまで和明と話してた。」
― あ、バーベキューの事?・・・。―
 眞江のところにも、和明から電話があったのだろうか、バーベキューの話が即座に出て来た。
「そう。」
― ねぇねぇ、今度のバーベキューさ。アタシも彼を連れて行くけど、田原は佐古さん連れて来るの?―
「う・・・うん。」
― どうしたのよ・・・。―

 眞江には俊一を連れて行くことを、 躊躇ためらっているように聞こえてしまう。

「サーちゃんさぁ・・・。篠塚って彼女出来たの?」
― えっ!聞いてないよ、そんな話。―
「だって今度のバーベキューに、女の子連れて来るって聞いたから・・・。」
― あぁ、それって篠塚の幼馴染のことでしょ?― 
「そう・・・。っていうか詳しくは知らないけど。」

 秀輝の周囲で、女の話は今まで一度も聞いたことがない。秀輝も全くと言っていいほど話をしないからだ。

― アタシも詳しく知らないよ。会ってからのお楽しみって感じじゃない。―
「そう・・・だね。」
― どうかした?―

 眞江の心配そうな声が電話口から聞こえて来る。

「ん?ううん、何でもない。ほら俊ちゃんが来れば、またアイツ一人になっちゃうなぁ・・・って思ってさ。」

 判然としない理由を、眞江に悟られたくない史美は早々に電話を切った。その夜は、何故か寝つきが悪かった。

※            ※             ※            

 週末の土曜日。史美は自分の部屋に秀輝を呼んでいた。
 俊一は休みを返上して会社に出勤している。一日暇を持て余しているのは、秀輝しかいないと史美は電話で呼び出したのだ。
 2人はベッドを背に肩を並べて、正面にある液晶テレビに映し出される映画を見ていた。秀輝はDVDを持参して、史美の家にやって来たのだ。その映画は「サヨナラCOLOR」という作品だ。
 主人公の医者の元に、高校の同級生で初恋の相手が癌を患い入院してくる。献身的な治療を続ける主人公に初恋の相手はしだいに心を開き、やっと彼を思い出すようになる。そして、思いは通じ合い、二人の距離は近づき始める。しかし、主人公の医者も肝臓癌という病に侵されていて、余命わずかの体だったのである。
 映画の主演女優の大ファンである秀輝は、この作品を30回以上観ているという。何度も観ているはずなのに、隣で秀輝は感動して号泣している。

「いい映画だろ?」
「うん、まぁまぁ。」

 史美の隣で鼻をかむ秀輝は、期待していた反応がないことに不満気である。

「なんだよ。感動したろ?」
「したけど、可哀想なお話じゃん。」
「どこが?」
「だって愛している人の病気を一生懸命治してあげたのに・・・。やっと、やっと思いが通じたのに、自分が病気で死んじゃうじゃん。」
「そうだけど・・・。」
「なんかヤダ、そういうの・・・。」

 史美もどちらかというと、ラブストーリーはハッピーエンドがいい。この映画はある意味バッドエンドかもしれない。主人公の死によって、ヒロインは大きな悲しみを背負うことになってしまうからだ。秀輝は特に、そういう物語は好まないはずだった。

「でも、彼女の命を救ったんだから・・・。」
「えーっ。」

 そんな秀輝の言葉は、史美には予想外だった。ラブストーリーで、どちらかが死んでしまうような設定は安易で嫌だと言っていたのだ。全ての作品とは言わないが病気で命を失うストーリーは、総じてその死を美化して陰惨さを伝えてはいない。史美は観たことはないが秀輝に言わせてみれば、名作“ ある愛の詩 ”も好きな作品ではないと言っている。

「俺は、彼が羨ましいよ。」
「何で?」
「言葉じゃなくて、彼女への想いだけで行動しているだろ?」

 この映画の主人公は、愛の告白は一切していない。しつこいほどに献身的に尽くし、ヒロインの命を救うために奔走している。

「それに・・・。」
「何?」
「愛している人のために、自分の命や時間を使えるなんて・・・やっぱり羨ましいよ。」
「死んじゃうんだよ?」

 史美は秀輝の顔を覗き込み、納得いかない思いを訴えた。
 訴えるような史美の言葉も思いも全て包み込むかのように秀輝は喋り出した。

「僕が死んで・・・あなたに食べられて少しでも栄養になるんだったら・・・僕を食べたくなくても食べてくれるといいな・・・。」
「えっ?」
「こんなセリフ、劇中にあったろ?」
「あった・・・かな?」

 30回以上も観ている秀輝は、各場面のセリフをよく覚えている。

「大切な人のために、その人の幸せのためなら・・・本望なんだよ。」
「自分が死んじゃったら何にもならないじゃん。」

 史美はムキになって秀輝に言った。

「何にもならないわけじゃないさ。」

 秀輝がそう呟いても、史美には理解出来ない。死んでしまったら彼の想いは実を結ばないではないか。

「愛する人が幸せなら・・・それでいいんだよ。」

 そう呟く秀輝の顔は優しく和やかだった。でも、やはり悲しそうで・・・寂しそうな顔でもあった。しんみりとした空気が、史美と秀輝の間に漂っている。
 史美はそうした雰囲気を、取り払うかのように立ち上がった。

「じゃあ早く、その愛している人を見つけなきゃね。」
「ハイハイ。」   
「今度、女の子連れて来るんだって?」

 史美はDVDプレーヤーからディスクを取り出しながら言う。

「ん?・・・うん。」
「良かったじゃん。」
「何が?」
「バーベキュー来てくれて・・・。」
「別に・・・。」

 DVDをベッドの上に置いて、史美はまた秀輝の隣に座った。

「前の小学校の幼馴染なんでしょ?」

 秀輝は不機嫌そうに顔をしかめる。
「彼女になってくれるといいね。」
「うるせーな!」
「頑張ってよ、ヒデちゃん。ハハハッ」

 彼女ネタで秀輝をイジると、いつも言い負かすことが出来る。

「コーヒー淹れて来るよ。」

 秀輝は、勝ち誇ったように部屋を出て行く史美を呆れ顔で見送った。

※                ※                 

 秀輝が帰った後、史美は部屋のベッドで横になっていた。ふとドレッサーに目をやると秀輝が忘れていったDVDが置いてあった。

「もう!忘れてるよ。」      

 史美はベッドから起き上がり、DVDを手に取り眺めている。ジャケットは、全体的に晴れ渡る空の色であるブルーに統一され、重厚なテーマを描いている作品にしては爽快さが感じられる。
 晴れ渡る空が海と砂浜を輝くように映し、フランスの大衆車/ルノー・キャトルの前に主演の女優が微笑み佇んでいる。そして、隅に物語の役を現しているかのように、ひっそりと主人公の医者が立っている。

“ 愛する人が幸せなら。それでいいんだよ。”

 とても実感を込めて秀輝は言っていた。秀輝が帰った後も、この言葉が頭から離れず心に引っかかっていた。
 そう呟いた秀輝の顔も、脳裏に焼き付いている。

“ それって愛する人のためなら死んでもいいってこと?”

 史美の中で、ある思いがフッと湧き上がる。

“ 違う、絶対違う。”

 本人はそれで満足かも知れないが、残された人は悲しみを一生背負うことになる。そんなの絶対間違っている。
 今度、秀輝にそう言ってやろう。
 そう思った史美の胸に突然、言い知れぬ不安が過る。これから先、秀輝は映画のような事を本当にやってしまうかも知れない。秀輝は口に出して言ったことは、必ずやってしまう男だ。良くも悪くも、昔からそうだった。
 冗談だと普通なら聞き流してしまう言葉も、秀輝なら冗談では済まされない。似たようなシチュエーションになれば、命の危険を顧みず行動してしまうだろう。
 それは秀輝が何気なく言った言葉が妙に現実的で、まるで誰かのことを思いながら言っているように聞こえたからだった。
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