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第十九章
最期まで夢を追う
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暦は7月となった。
その初旬のある夕暮れ時、
正栄は、8月から始まる夜の槍イカ(ケンサキイカ)漁に向けて、新正栄丸の漁火の点検をしに来た。
正栄は軽トラから降りると、ふと白灯台の人影が目に映った。
白灯台の袂では、武と亜由子が肩を並べ、いつものように夕陽を見ながら夕餉の最中であった。
「福永はんと亜由やん!
ほんま、仲がええこと!」
と、正栄はそっと囁き、2人の大事な一時を邪魔せぬよう、2人に声を掛けることなく、漁船に乗り込んだ。
正栄は漁船の真上の停泊灯から船首、船尾に繋がっているマストにぶら下げた漁火を点灯し、白色が灯るのを何度も確認した。
そして、船尾に移り、最後に両色灯の点灯を確認し、
そろそろ2人の逢引ならぬ夕餉を邪魔してもよかろうと思い、
「福永はん、イカ釣りの漁火やでぇ~」と白灯台の2人に向かって声を掛けようとした。
その時であった。
正栄の心に得体の知れない何かが突き刺さった。
正栄は声を発することなく、口を開いたまま、茫然と立ち尽くしてしまった。
正栄の意思のない視界の中には、夕陽に照らされた2人の姿が周りの風景から別離し浮かび上がっているように映った。
正栄は感じた。
2人だけの世界には決して入り込めないと…
そして、2人が醸し出す雰囲気、オーラに何かを思い出そうとしたが、思い出すことは出来なかった。
「夜のイカ釣りはワシ一人で船を出すか…」と
正栄は小さく呟いた。
次の日
新正栄丸は土日のイサキ釣りの下見として、冠島沖に停泊していた。
いつものとおり、正栄は舵を握り、武と亜由子は操舵室の横を陣取り竿を出していた。
この日、正栄は珍しく無口で居た。
いつもは、武と棚の深さ、潮の流れ、サビキの具合等を話したり、武にべったりとくっ付いている亜由子を揶揄ったりするところであるが、
今日は敢えて2人に目を向けないように、じっと遠目で凪た海面を眺めていた。
昼餉時
正栄は操舵室で弁当を食べていた。
この日は至って静かな海で海鳥や鳶の鳴き声も聞こえて来なかった。
武と亜由子は船尾のベンチに腰掛け、仲良く弁当を食べていた。
弁当を食べ終わった正栄は、前方船首から目を離し、何気に後ろの船尾に目をやった。
「あっ!」
正栄の口から思わず声が漏れた。
昨日の夕暮れ時、白灯台で佇む2人を見た時に感じたのと全く同じ感覚が、弓矢のように正栄の心に突き刺さった。
「あん時と同じや…」
正栄は静かに呟いた。
正栄の視界に飛び込んで来たものとは…
それは、穏やかに微笑み、2人とも、何とも言えない優しい視線で見つめ合っている穏やかな横顔であった。
「彼奴と同じ微笑みやん…」
正栄はやっと思い出した。
思い出したくはない哀しい記憶が蘇った。
2年前に亡くなった妻が、最期、正栄に見せた「微笑み」
妻からの最期の言葉は無かった。
全てを包有している微笑み
先に逝くことの赦しを乞う想い
これまで夫婦として契り、一緒に歩んだ人生の相棒への感謝の想い
死ぬのは怖くない心配しないでと死ぬ間際でも夫に尽くそうとする内助の想い
「女房と同じ微笑みや…、福永はんも、亜由も、同じ微笑みをしてはる…」
正栄は2人の行先に蜻蛉のような「儚さ」を感じてしまった。
正栄の見開いた眼から、寂しさ、悲しさ、無情さを燃料とし、熱く滾った体液が溢れて行った。
「そうなんか。福永はん、亜由…
あんたらもワシを置いて先に逝ってしまうんやな…」
正栄は、溢れ出す涙を拭こうともせず、操舵室から和やかに微笑み合う2人をずっと眺めていた。
正栄と2人との距離
その僅か数mの空間の隔たりの中には、この先も生き続ける定めの者と、間もなく神の領域に足を踏み入れようとする者達とが、決して融合することはない、見えない境界線が引かれていた。
新正栄丸は予定どおり午後2時に帰港した。
3人で船から魚を下ろし、船内を洗浄し、先に武が桟橋に降り立ち、係船ロープを杭に括り付けた。
続いて亜由子が桟橋に飛び降り、
「正栄さん、お疲れさん!」
と正栄に声を掛けた。
いつもなら、「お疲れさん!」と操舵室の、点検をしながら、返事をする正栄が、
この日は、
「福永はん、ちょっと待ってくれや。」と静かに言いながら、一緒に船を降りて来た。
「福永はん、今度の土日、三国町海洋センターで船舶免許の試験があるんや。
あんた、受けてみなはれ!」と
いきなり武に言い放した。
「えっ、でも土日、遊漁船の予約が入ってるじゃないですか!」と武が応えると、
「遊漁船なんか、構わんさかい!
あんたは船の免許を取るんや!」と正栄は強く言った。
「しかし…」と武は亜由子の方を見遣った。
武は心の中でこう呟いた。
「正栄さん、ありがとう。本当にありがとう。
でも、長くはないんだよ。
船を持ちたかったけど…
もう長くはないんだ…」と
武は、下を向き、何か苦しみに耐えるよう歯を食いしばった。
それを見て正栄が言った。
「分かってます。福永はん。
何も言わんでも、分かってますから。
ワシはな、
あんたに夢を叶えて欲しいんや。
それだけや。」と
正栄は武の肩に掌を載せて、そう優しく語った。
すると、
「分かりました。受けてみます。」と
武が真っ赤に滲んだ眼をし、正栄を見据えてそう答え、
次いで、こうも言った。
「亜由も一緒に連れて行っていいですか?」と
「もちろんやぁ!あんたら、どんな時も一緒に居ないとあかん!
亜由も一緒に免許取ってくるんや!」と
やはり、真っ赤な眼をした正栄が震える声で叫んだ。
その時、武の後ろに居た亜由子がこう囁いた。
「最期まで夢を追う…、
正栄さん、
本当にありがとう。」と
その初旬のある夕暮れ時、
正栄は、8月から始まる夜の槍イカ(ケンサキイカ)漁に向けて、新正栄丸の漁火の点検をしに来た。
正栄は軽トラから降りると、ふと白灯台の人影が目に映った。
白灯台の袂では、武と亜由子が肩を並べ、いつものように夕陽を見ながら夕餉の最中であった。
「福永はんと亜由やん!
ほんま、仲がええこと!」
と、正栄はそっと囁き、2人の大事な一時を邪魔せぬよう、2人に声を掛けることなく、漁船に乗り込んだ。
正栄は漁船の真上の停泊灯から船首、船尾に繋がっているマストにぶら下げた漁火を点灯し、白色が灯るのを何度も確認した。
そして、船尾に移り、最後に両色灯の点灯を確認し、
そろそろ2人の逢引ならぬ夕餉を邪魔してもよかろうと思い、
「福永はん、イカ釣りの漁火やでぇ~」と白灯台の2人に向かって声を掛けようとした。
その時であった。
正栄の心に得体の知れない何かが突き刺さった。
正栄は声を発することなく、口を開いたまま、茫然と立ち尽くしてしまった。
正栄の意思のない視界の中には、夕陽に照らされた2人の姿が周りの風景から別離し浮かび上がっているように映った。
正栄は感じた。
2人だけの世界には決して入り込めないと…
そして、2人が醸し出す雰囲気、オーラに何かを思い出そうとしたが、思い出すことは出来なかった。
「夜のイカ釣りはワシ一人で船を出すか…」と
正栄は小さく呟いた。
次の日
新正栄丸は土日のイサキ釣りの下見として、冠島沖に停泊していた。
いつものとおり、正栄は舵を握り、武と亜由子は操舵室の横を陣取り竿を出していた。
この日、正栄は珍しく無口で居た。
いつもは、武と棚の深さ、潮の流れ、サビキの具合等を話したり、武にべったりとくっ付いている亜由子を揶揄ったりするところであるが、
今日は敢えて2人に目を向けないように、じっと遠目で凪た海面を眺めていた。
昼餉時
正栄は操舵室で弁当を食べていた。
この日は至って静かな海で海鳥や鳶の鳴き声も聞こえて来なかった。
武と亜由子は船尾のベンチに腰掛け、仲良く弁当を食べていた。
弁当を食べ終わった正栄は、前方船首から目を離し、何気に後ろの船尾に目をやった。
「あっ!」
正栄の口から思わず声が漏れた。
昨日の夕暮れ時、白灯台で佇む2人を見た時に感じたのと全く同じ感覚が、弓矢のように正栄の心に突き刺さった。
「あん時と同じや…」
正栄は静かに呟いた。
正栄の視界に飛び込んで来たものとは…
それは、穏やかに微笑み、2人とも、何とも言えない優しい視線で見つめ合っている穏やかな横顔であった。
「彼奴と同じ微笑みやん…」
正栄はやっと思い出した。
思い出したくはない哀しい記憶が蘇った。
2年前に亡くなった妻が、最期、正栄に見せた「微笑み」
妻からの最期の言葉は無かった。
全てを包有している微笑み
先に逝くことの赦しを乞う想い
これまで夫婦として契り、一緒に歩んだ人生の相棒への感謝の想い
死ぬのは怖くない心配しないでと死ぬ間際でも夫に尽くそうとする内助の想い
「女房と同じ微笑みや…、福永はんも、亜由も、同じ微笑みをしてはる…」
正栄は2人の行先に蜻蛉のような「儚さ」を感じてしまった。
正栄の見開いた眼から、寂しさ、悲しさ、無情さを燃料とし、熱く滾った体液が溢れて行った。
「そうなんか。福永はん、亜由…
あんたらもワシを置いて先に逝ってしまうんやな…」
正栄は、溢れ出す涙を拭こうともせず、操舵室から和やかに微笑み合う2人をずっと眺めていた。
正栄と2人との距離
その僅か数mの空間の隔たりの中には、この先も生き続ける定めの者と、間もなく神の領域に足を踏み入れようとする者達とが、決して融合することはない、見えない境界線が引かれていた。
新正栄丸は予定どおり午後2時に帰港した。
3人で船から魚を下ろし、船内を洗浄し、先に武が桟橋に降り立ち、係船ロープを杭に括り付けた。
続いて亜由子が桟橋に飛び降り、
「正栄さん、お疲れさん!」
と正栄に声を掛けた。
いつもなら、「お疲れさん!」と操舵室の、点検をしながら、返事をする正栄が、
この日は、
「福永はん、ちょっと待ってくれや。」と静かに言いながら、一緒に船を降りて来た。
「福永はん、今度の土日、三国町海洋センターで船舶免許の試験があるんや。
あんた、受けてみなはれ!」と
いきなり武に言い放した。
「えっ、でも土日、遊漁船の予約が入ってるじゃないですか!」と武が応えると、
「遊漁船なんか、構わんさかい!
あんたは船の免許を取るんや!」と正栄は強く言った。
「しかし…」と武は亜由子の方を見遣った。
武は心の中でこう呟いた。
「正栄さん、ありがとう。本当にありがとう。
でも、長くはないんだよ。
船を持ちたかったけど…
もう長くはないんだ…」と
武は、下を向き、何か苦しみに耐えるよう歯を食いしばった。
それを見て正栄が言った。
「分かってます。福永はん。
何も言わんでも、分かってますから。
ワシはな、
あんたに夢を叶えて欲しいんや。
それだけや。」と
正栄は武の肩に掌を載せて、そう優しく語った。
すると、
「分かりました。受けてみます。」と
武が真っ赤に滲んだ眼をし、正栄を見据えてそう答え、
次いで、こうも言った。
「亜由も一緒に連れて行っていいですか?」と
「もちろんやぁ!あんたら、どんな時も一緒に居ないとあかん!
亜由も一緒に免許取ってくるんや!」と
やはり、真っ赤な眼をした正栄が震える声で叫んだ。
その時、武の後ろに居た亜由子がこう囁いた。
「最期まで夢を追う…、
正栄さん、
本当にありがとう。」と
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