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第三十五章

本能の違い

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 次の日、バーハムはサンタフェの森林保安官事務所を1人で訪れていた。

 ジョンの見舞いは、浩子1人に行かせた。

 明日早くニューメキシコ州アルバカーキ国際空港からシアトルに帰ることから、残された1日を2人だけの時間にさせてやりたかったのだ。

 そして、今日中に用事を済ませて置きたく、救助してくれた保安官へお礼を言いに訪れていた。

「どうも、お待たせしました。森林保安官のビリー・ジョーダンです。」

「シアトルイエズス会のバーハムと申します。ジョン・ブラッシュの件でお礼を言いたくて参りました。」

「それはわざわざ。昨日、病院からブラッシュさんの意識が戻ったと連絡がありました。大事に至らなくて良かったです。」

「ありがとうございます。あなた方の救助のお陰です。」

「今、丁度、救助に当たったもう1名が事情聴取に病院へ向かったところですよ。」

「事情聴取?」

「いえ、大したことはありません。熊被害の状況把握です。この時期になると熊に襲われる事件が多発しますので、その予防策を検討する上での参考聴取です。」

「なるほど。それで、救助に要した費用等はいかほどになりましたか。」

「あ、費用弁償は要りません。今回の事件は過失責任には該当しません。事故扱いですよ。」

「そうなんですか。」

「えぇ、自己責任を問われるような遭難事故にも該当しません。道路傍の杉林に入っただけですので。
 あんな所までハイイロクマが降りているとは…」

「通常はありえないと。」

「絶対ありえないとは言い切れませんが、これまで無かった案件です。」

「ジョンは運が悪かったのか…」

「その通りです。」

 バーハムは最後にお礼を言い、席を立とうとした。

 すると、保安官のビリーがこう尋ねた。

「もう1人の少女は大丈夫ですか?」と

 バーハムは明日には一緒に飛行機でシアトルに帰ると言った。

「そうですか。いや…」

「どうしたのですか?浩子に何か?」

 ビリーは今までの穏やかな事務的な表情を変えた。

 そして、眉間に皺を寄せて、鋭い眼差しで、こうバーハムに語った。

「正直、僕は驚いてます。18歳の少女が、あんなSOSをしたこと自体に。」

「SOS?」

 ビリーは言った。

「助けたのはあの少女です!

僕たちではない。」と

「浩子が?」

「聞いていませんでしたか?」

「浩子からは何も…」

 それを聞いたビリーは暫し目を閉じた。

 そして、再び毅然とバーハムを見つめ、ゆっくりと語り始めた。

「彼女は、暗闇の中、火を熾し、煙を昇らせ、ライフルを撃ち続けたんです。

 2時間で30口径の銃弾を100発以上、撃ち続けたんです。」

「浩子がライフルで…」

「助けを求め、全米最大の森林地帯のど真ん中から、途方に暮れることもなく、

 誰かが気付いてくれるのを信じて、

 撃ち続けたんです。」

 言葉を失ったバーハムを見ながらビリーは話し続けた。

「普通ならあきらめるところです。

 どうしようないと…、普通ならあきらめます。

 僕でもあきらめます。

 しかし、彼女は、あの18歳の少女は、決してあきらめなかった!

 真っ暗闇の山の中で、況してや熊に襲われた現場で…

 怖がりもせず、ただ、ただ、救助が来ることを信じ続けて…

 僕は…、彼女の下に散らばっていた空薬莢を見て…、思ったんです。

 10発放った後、彼女は何を思っていたのか、20発、30発…、50発撃ち続けても…、誰も気付いてくれない…、その時、彼女がどんな気持ちで撃ち続けていたのか…

 それを思うと…」

 バーハムがビリーの顔を見ると、ビリーの目は赤くなっていた。

 ビリーは嗚咽を我慢した唾を飲み込みながら話を続けた。

「僕らが到着しても彼女は気づかないんです。

 サイレンも鳴らし、赤色灯も回していたのに、気付いてないんです。

 僕は彼女に叫んだ。

『もう大丈夫だ、もう撃たなくても良いから』って、

 そう言うんだけど、彼女はライフルを握り続けて…、

 彼女の左手は…、赤紫色に鬱血していて…、ぱんぱんに腫れ上がっていて…

 その時、僕はこう思ったんです!

『この子は人を助けたいと欲する本能を持ってるんだ。』と

 本当に良かった…

 救助できて。

 あの少女の懸命なSOSに応えることができて、本当に良かったです。」

 ビリーは語り終えると、涙を拭い、そして、笑って、こう言った。

「あの子に伝えて下さい!

 森林保安官が言ってたと。

『君に教えられたと、『決して、あきらめない。』、強い気持ちを君から学んだと。』

 そう伝えて下さい。」

 バーハムはビリーに言った。

「そんな子なんです。浩子は、そんな子なんです。」と

~~~~~~~~~~~~~

 その頃、浩子はジョンの病室に居た。

「ジョン、意識が戻った時、『小熊』って言ってたよね?」

 ジョンはぼんやりと天井を見つめながら、こう言った。

「僕を襲った熊は母親だったんだ。

 小熊が2匹いた。

 僕はね、母熊に斧を投げつけたんだ。

 胸元に刺さっていたよ。

 恐らく、母熊は死んだと思う。」
 
 浩子が言った。

「仕方がなかったのよ。そうじゃないと、ジョンが死んでいたのよ。」

 ジョンは浩子の言葉を意に留めず、構わず言った。

「夢を見たんだ。僕が小熊を殺す夢をね。」

「ジョン…」

 浩子はいつものジョンではない別人が居るように感じた。

 ジョンは浩子に構わず話し続ける。

「あの小熊たちが自分に思えてね。

 母親が死んだことも理解できない赤ん坊が、死体に縋って、出もしない母乳を求め、ただ、泣いている。

 生きるという宿命

 本能という残酷な力によって

 生きることが苦しみであることも知らずにね。」

 浩子は堪らず、ジョンに問うた。

「今もジョンはそう思ってるの?

 あんなに幸せだったのに…」

 ジョンは顔を振りながら、こう答えた。

「人は変わらない。今の僕は欲張りなだけさ。」

「欲張り?」

「欲が出たんだ。今ある浩子との幸せを、この先も続けたいと思う欲がね。」

「何でそんなこと言うの…、欲張りなんかじゃないよ…、幸せになりたいと思って当然だよ…、欲張りなんかじゃない。」

 浩子は突然のジョンの心の変化に戸惑った。

 ジョンは構わずこう言った。

「無理なんだ。このままじゃ、このままの僕では無理なんだよ。」

「何が?」

「浩子を幸せにしてあげられないんだ。」

「そんなことないよ!ジョンと一緒に居るだけで、私は幸せだよ!」

「夢と現実は違うんだよ。

 僕には幸せな未来なんか訪れないんだよ。」

 浩子は目に涙を溜めてこう言った。

「何で急にそんなこと言うの?

 ジョン、おかしいよ…、

 何でそんなこと…」

 ジョン自身も、どうして、こんなに浩子を悲しませることを言うのか分からなかった。

 それでもジョンは話を続けた。

「結局、運命なんだ。僕の両親と同じ運命なんだ、僕は。

 幸せになってはならない人間なんだ。

 あの時、生まれた時、死んで居れば良かったんだ。

 小熊も一緒だ。

 だから、僕は夢の中で小熊を殺した。

 僕自身を殺すように…」

 浩子は椅子から立ち上がり、

「そんなこと聞きたくない!

本当のジョンはそんなこと思ってない!」と叫んだ。

 ジョンは自分を止めることが出来なかった。何故か浩子を追い込むような言葉が口から出てしまう。

「これが本当の僕なんだ。未来を見るのを怖がる、意気地なしの人間なんだ。」
 
「もう…、そんなこと聞きたくない…、あんなに幸せだったのに…」

 浩子は泣きながら病室を出ようとした。

 その時、病室のドアを「トントン」とノックし、森林保安官のマリアが入って来た。

 浩子は慌てて涙を拭き、作り笑顔で「どうぞ。」とマリアに席を譲り、病室から出て行った。

「ご一緒でも構わないのに…」と言いながらマリアは椅子に座った。

 マリアは改めてジョンに挨拶をした。

「森林保安官のマリア・ディアスです。意識が戻られたとお聞きしまして。」

 ジョンは何かを思い出したように、

「マリア…」と一言声を発した。

 マリアはジョンが聞き取り難かったのかと思い、もう一度、

「ええ、マリア・ディアスです。」と名乗った。

 マリアは事務的に本日の要件を説明し始めた。

 熊に襲われた時の状況、それを聞き取り、予防策を講じる云々と

 ジョンにはマリアの言葉の内容が頭に入って来なかった。

 ジョンはマリアの問いに空返事をしながら、別のことを考えていた。

『やはり運命には逆らえない。結果、ナバホ族を毛嫌いするこの女に会うことが出来たじゃないか。
俺は結局、バーハムが言う、知らなくても良いアイデンティティを探す運命にあるのか。』と、

 その時、

「聞いてますか?ブラッシュさん?」とマリアが怪訝そうな顔をしてジョンの顔を覗き込んだ。

 ジョンは慌てて、

「あっ、熊に襲われた時の状況ですよね?」と取り繕い、粛々と回答した。

 マリアはそれを事務的に書き留めるだけで、何の感情も表さなかった。

 マリアはマリアで、ナバホ族の者との接触は早く終わりにしたかった。

 ビリーが言ってた余計なことを聞かれる前に。

 無事、参考聴取が終わり、マリアはジョンにお礼を言った。

「今日はお疲れのところ、ご協力ありがとうございました。」と、

 そして、早々と帰ろうとした時、ジョンが唐突にマリアに聞いた。

「ナバホ族が嫌いですか?」と


 
 


 

 
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