『愛の霊感』〜風と共に祈りを〜

第五章

風の谷の少年

　新しい神父の名は、ジョン・プラッシュ、シアトルの神学校を卒業し、恩師であり育ての親である老神父に頼まれ、この地に神父として赴任した。今年で22歳である。

　ジョンは、アメリカのシアトル出身ではあるが、実際はアリゾナ州の岩山の谷底で生まれた。
　生まれたと言うより、見つけられたと言う方が正しいであろう。

　ジョンの父親は先住民ナバホ族のインディアンである。

　この地、アメリカ合衆国西南部のユタ州南部からアリゾナ州北部にかけて広がる地域一帯、今で言う『※モニュメント・バレー』は、古くからのナバホ族居住地域であった。

【※ メサといわれるテーブル形の台地や、さらに浸食が進んだ岩山ビュートが点在し、あたかも記念碑（モニュメント）が並んでいるような景観を示していることからこの名がついた。】

　1965年、この地にジョンの母親が先住民ナバホ族の自由主義を唱えに訪れた。

　ジョンの母親は、白人至上主義に反対するリベラル派（民主党）の政治団体に属し、ウーマン・リブの先導者であり、白人であった。

　しかし、この時代、1915年～1970年にかけて、アメリカでは「リンチの時代」と言われ、黒人を始め、先住民など「肌の色」が異なる人種を対象に非道なリンチ事件が多発していた。

　特に白人至上主義者は、白人女性の性を黒人又は黄色人種から守ることを至上命令とし、白人女性と恋に落ちる白人以外の人種を槍玉に上げていた。

　白人至上主義は南北戦争の影響により主にテネシー州やテキサス州といった南部地方で活発化していたが、その勢力は拡大し、1960年台にはこの中西部に位置するユタ州やアリゾナ州にも及んでいた。

　奇しくもその時、ジョンの父親と母親は恋に落ち、そして、母親は子を授かった。

　ナバホ族の酋長は、白人至上主義者の惨虐的行為を危惧し、この2人を岩山ビュートの谷底に匿った。

　しかし、白人至上主義者の追手は政治的折り合い（居住地拡大案）をナバホ族に交渉し、2人の居場所を突き止め、2人は居住地に連れ戻され、先住民である父親は多くの聴衆の前でリンチされた。

　そのリンチは惨虐非道なもので、絞首台にロープで吊るされ、白人女性を汚した性器をナイフで切り落とした。

　父親は悲痛な叫び声を上げ、「早く殺してくれー」と叫んだが、見せしめであり、儀礼的な側面を持つリンチは、それだけでは終わらなかった。

　下半身が血の色に染まり、苦しみ捥がく父親の足元にガソリンが撒かれ、そして火が付けられた。

　父親の身体全身に炎が覆い、断末魔の絶叫を上げながら、一つの罪のない命が炎の中に消えて行った。

　母親はその光景を強制的に目視され続け、リンチの後、精神に異常を来たし、狂人となり、ビュートの谷底に消えて行った。

　その後、その白人女性を見かける者は誰一人居なかった。

　そのリンチの何週間後、キリスト教として白人至上主義に異を唱えていたイエズス会がナバホ族居住地で起こった惨虐事件に神の平穏を唱えるため1人の伝教師を向かわせた。

　その伝教師があの老神父、バーハムであった。

　バーハムは、その時代の南部福音主義の白人至上主義に猛然と異を唱えていた宗教家であった。

「神イコール白人、神の怒りは、白人の怒り、血の儀式、リンチ、我がアメリカは必ず神の怒りを蒙る。神は決して人を選別しない全能の神であり、神が白人なんて誰が決めたのか！イエス・キリストが白人だから神も白人なのか！愚かな非道な行いは神の大罪に値するものだ。」とキリスト教内における白人至上主義とリンチの正当性に真っ向から対決していた。

　バーハムは、ナバホ族の居住地に入ると、先ず最初に門前に見せしめとして吊るされ真っ黒な炭の人形が目に入った。

　バーハムは失望した…

    同じキリスト教徒でありながら神をもせぬ、この愚かな宗教儀式に…

　そして、バーハムは、ナバホ族の酋長に真のキリストの教えを説くよう集りの場を求めた。

　だが、政治的折り合いを決断したこの酋長が首を縦に振ることはなかった。

　仕方なく、バーハムは、せめてこの炭となった人形の相手であるリベラルウーマンの白人女性の所在を聞いたが、酋長はビュートの岩山を指差すだけであった。

　バーハムは、やる術もなくナバホ族の居住地を後にした。

　見送る者は誰もなく、烏に突かれている炭の人形だけが『リンチの時代』の残物として焦げた肉の匂いを風上から漂わせていた。

　その晩、バーハムはビュートの谷底の水辺でキャンプを張った。

　谷底を流れるせせらぎは岩山から滲み出た塩分の強い真水であり、その水中に生き物の存在は何も無かった。

　バーハムは、谷底に枯れ果て岩に付着している木々を拾い集め、火を起こし、ハンゴウで真水を汲み、豆を煮た。

　キャンプの辺りは月夜に照らされ、焚き火の光が必要もないほど明るかった。

　しかし、静寂さは海底よりも深く、月光と焚き火に照らされたビュートの岩肌は黄色というより赤色にさえ見え、何千人、何万人の死者の血が滲んでいるように感じられた。

　バーハムは、毛布に包まり眠ろうとしたが深々とする冷気によりなかなか寝付けなかった。

　時折、この静寂さを打ち消すようにコヨーテの鳴き声がビュートの岸壁に木霊していた。

　その時！

　バーハムにはコヨーテの規律ある鳴き声とは違う不規則な風音のような鳴き声が聞こえたように思えた。

　バーハムは、その風音の正体を探るべく松明を持ち、谷底に降りて行った。

　松明の灯りが示す谷底は、枯れた小川があり、その小川には巨巌が何個も転がり落ち、生命体の存在は皆無の正に地獄谷の様相を呈していた。

　しかし、バーハムは感じていた。

　あの風音は、確実に生き物の鳴き声を乗せていると。

　バーハムは躊躇することなく、風音を頼りに歩み続けた。

　そして、一際大きな巨巌の近くに行くと、落石により凹んだ穴が見えた。

　どうもその穴の中からあの鳴き声がしているように思えた。

　バーハムは、その穴に近づき松明で中を照らした。

　そこには！

　既にミイラとなった屍が一体あり、その屍の下から、赤子が、懸命に懸命に、泣き続けていた！

　バーハムは天を仰ぎ、大きくため息をつき、そして、涙し、そして心の底から湧き上がる怒りを感じた。

「この屍は、あのリンチにあった先住民の相手であった白人女だ…

　そして、この赤子は…

　そう…、『リンチの時代』の悲劇に晒された声無き人々の声だ！」と

　バーハムは、その屍を穴から引き摺り出し、懸命に泣き叫ぶ赤子を抱え、キャンプ地に戻った。

　バーハムは、赤子を毛布に包みコヨーテに喰われぬよう岩陰に隠すと、再び、斧を持ち谷底に戻った。

　バーハムは、屍を埋葬するための穴を掘った。

　そして、枯れ木で十字架を作り、屍を埋めた上に数個の石と一緒に建立した。

　次の日、

　バーハムは、赤子を抱え、谷底の十字架の前に行くと、

　ヨハネ福音書第14章第27節の主キリストの約束の言葉を述べた。

「　『平和』こそ、わたしのあなたがたへの最後のことばである。わたしはわたしの『平和』をあなたがたに与えよう。」と

　そして、谷底に差し込む太陽の純然たる曙光に翳すよう赤子を両手で持ち上げると、

　聖アウグスティヌスのことばを赤子に説いた。

「過去はすべて神のあわれみにまかせ、

　現在はすべて神の深い愛情にゆだね、

　未来は神の偉大なる摂理、

　つまり神のお前に対する計画にすべてをゆだねるのだ！」と

　その後、バーハムは、赤子を抱きながら旅を続けた。

　そして、シアトルの教会に辿り着くと、その赤子を教会の孤児院に託した。

　その赤子が、ジョン・プラッシュ、新しい神父であった。

　ジョンは、バーハムに寵愛され、孤児院ですくすくと育った。

　ジョンは、成長するにつれ、バーハムのような宗教家を目指すようになった。

　そして、ジョンは、迷うことなく、シアトルの神学校に入学した。

　その１年目の夏休み。

　ジョンは、神学校入学の報告をバーハムにするため、バーハムが滞在している久住の教会を訪れた。

　その時、

　あの風の小径ですれ違った浩子に…

   ジョンは、自身の感じる風の匂い、

　「愛の霊感」を感じたのだ。

　そうである。

　屍の下で泣き叫ぶ赤子のジョンをあやしていたのは、谷底を吹き抜ける風達であったのだ。

　浩子とすれ違ったあの瞬間！

　ジョンに風達が呼びかけたのだ！

「ジョン、ようこそ！

　そして、この子も俺たちの仲間だよ！」と