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クリスマスのお話
シュヴィップボーゲンを覚えてる
しおりを挟む「そんじゃ、クリスマスマーケットに行こうぜ」
これまで二人の間に漂っていた、忍耐や鬱憤に不満なんていう重苦しいものは、最初から少しも存在しなかったかのように。
充さんは軽やかに言った。
日が暮れてから家の外に出れば、目の前にすぐ、光の洪水。
庭に置かれた雪だるまやトナカイ、シンボルツリーや壁に光の雪を投影するプロジェクター。ベランダや窓を飾るLEDのツララ。
気合いの入った自宅イルミネーションを通り過ぎれば、駅へ近づくにつれて街路樹が青いLEDで光り輝く。
電車に乗り込むと、吊り広告や窓上ポスターといった広告が、百貨店やアミューズメントパークのクリスマスの商品にイベントを見せびらかし、車内ビジョンでもクリスマスソングが流れる。
街中がクリスマスの色を帯びている。
充さんもあたしも、そのことにはとっくに気がついていた。だけど口にはしなかった。
やるべきことが、あまりに山積み過ぎたのだ。
一度クリスマスの存在に目を向けてしまっては、途端に投げ出してしまう。
獣の本能のような感覚で、お互いに理解していた。
充さんは土日休み。あたしは木日休み。
日曜日が二人揃う休日で、充さんは休日出勤も珍しくない。
仕事の延長線上の交友関係もあるし、その逆もある。そしてそれらすべてがとても大事。
私的時間の切り売りとは毛色が違うけれど、充さんはできる限りの誠実さでもって友情を示す。
二人何も予定のない休日は、ついこの間まで、終わりの見えない打ち合わせが、ひたすら詰め込まれていた。
資金計画に始まり、その他、とてつもなく楽しくて気分が高揚すること。とてつもなく面倒で、うんざりして投げ出したくなること。意見が合わずに不穏になること。全部混ぜこぜのグチャグチャ。
理想と現実の妥協点を探って落ち着くまで。
それから、これでいいと納得するまでの、ありとあらゆる話し合いに時間を費やしてきた。
それでようやく、一つ目の登頂の旗を立てたところ。
登り始める前までは、気軽なハイキングのつもりで。ティーシャツにジーンズ、履きつぶしてソールのすり減ったスニーカーといった出で立ち。
登り始めて早々に、ベースレイヤー、ミドルレイヤー、アウターレイヤーに登山靴を身に着けるべきだったと後悔する。
それから登山用ザックにレインウエアも水筒に行動食、非常食に絆創膏、コンパスに地図、トレッキングポールにグローブを用意しなかったことに泣きを見る。
万事がその調子だった。
お互いクタクタ。
何か別の、楽しくてウキウキすることが必要。それも急いで。
輝かしい『二人の未来』を夢見て始めたことのせいで、すっかり消耗してすり減り、色あせ始めた『二人の未来への展望』。
麗しく匂い立つような希望に戻さなければいけない。
さぁ、はやく!
週末はどうしようか。何かしなければならないこと、したいことはあるか。
夕食時に互いの予定を確認すれば、お互いに特に何もなかった。
久しぶりにお互いが一日まるまるフリーな休日。
久しぶりにデートらしいデート。
だから充さんは、二人に必要な、楽しくてウキウキする、二人のこれからが明るくしか見えなくなることを提案した。
それが「クリスマスマーケットに行こうぜ」
充さんの素晴らしく愛すべき長所。たくさんあるうちの一つ。
舵を切るタイミングを見逃さない。
そしてやって来ました。クリスマスマーケット、イン・ジャパン。
クリスマスマーケットは、ドイツやオーストリア、プラハなどを中心に毎年開催される、年末の夢のような一大イベントだ。
ヨーロッパのクリスマスマーケットでは移動遊園地がつきもの。ここにはない。
とはいえ、それでも目の前には、ドイツ、ニュルンベルクのクリスマスマーケットによく似た景色が広がって、キラキラと夢を振り撒いている。
クリスマスマーケットといえば、屋外。
もちろん、寒い。
とてつもなく寒い。
最強クラスの大寒波到来だって、天気予報で聞いてしまった。
今夜は雪が降るそうだ。平野部でも積もるらしい。
そんなの寒いに決まってる。
西ヨーロッパ風のきらきらクリスマスは大歓迎。西ヨーロッパ風の寒さはノーセンキュー。
それだから、充さんは黒ビールにニュルンベルガー。あたしはグリューワイン。
お昼を食べてからそれほど時間は経っていなかったけれど、着いてすぐに買った。
紙コップに口をつけると、スパイスと柑橘類の香りが鼻腔をくすぐる。
口に含み喉を伝うと、温かなグリューワインが、その通ったところ、くちびる、喉、胸元、と順々に体をほっこりと温めてくれた。
「クリスマスマーケットといえば、レープクーヘンにシュトレンだろ。あとはマジパン巻き込んだ揚げパン。どっかにねぇかな」
直火で焼いた、香ばしい薫りのするニュルンベルガーをぺろり。
添え物のザワークラウトもすべて食べ終えると、充さんは紙皿を小さくたたみ、キョロキョロとあたりを見渡した。
その様子は、クリスマスに浮かれた少年のようで、がっちりと大きな体との対比が、とてつもなく可愛い。
でも、そのラインナップ。ちょっと食べ過ぎじゃない?
「そんなに食べるの?」
「レープクーヘンもシュトレンも日持ちする。レープクーヘンの焼きしめたやつはオーナメントにもなるぜ。お菓子の家。あれもそうだろ。揚げパンは――まあ、食うかな」
途中までよどみなく答えていた充さんは、目があったところで、少しバツが悪そうに肩をすくめた。
そして片方の眉と片方の口の端をあげる。
「いますぐ食べたい?」
「いや。すげぇ腹が減ってるってわけじゃない」
「それじゃ、色んなもの、ぐるーって見て回ろう。そのうちに見つかるよ。それでどう?」
「それでいい。部屋に飾るもんも探そうぜ」
「うん」
ビールを飲み終えた充さんが、あたしの残ったグリューワインを飲んでくれた。
「そんじゃ行くか」
紙コップと紙皿を屋台前のゴミ箱に捨てると、充さんが手を差し伸べてくれる。
手袋をしていない手同士。指を絡めてぎゅっと握る。
隣りを見上げれば、光によって表情を変える神秘的な色合いの目を細め、形のいい口元までほころばせている充さん。
まっすぐな鼻筋と長いまつ毛。すっきりとした頬。
出会った頃よりすっかり短い髪の毛は、あちこちメッシュを入れたダークブロンドではなく。就活にあたって黒染めしたときのような、不自然なくらい真っ黒でもなく。
ザッハトルテみたいな焦げ茶色。生来の髪の色。
チカチカと点滅するカラフルな灯りに照らされた横顔を眺め、つくづく綺麗な顔をした男だと改めて思う。
賑やかで華やかなクリスマスマーケットの景色の中。
溶け込むようでいて、完全に存在の際立つ男。
彼を目にした女性が繰り返し振り返って、目を丸くしては微笑んだり、うっとりとしたり。友人に囁きかけ、小さい歓声をあげたりする。
まるでそこだけ、映画の世界。
スクリーンに切り取られたかと錯覚しそうになる程度には、優れた美貌の男。
彼の容姿が日本人の母親ではなく、ドイツ系アメリカ人の父親に酷似していること。
それもきっと、このクリスマスマーケットを急設特別シアターに変えてしまった理由の一つ。
さっきのあたしの台詞。
感じが悪かったかもしれない。かもしれないじゃない。きっと悪かった。
もう一度ちらりと横目をやると、充さんは目をキラキラさせてあたりを見渡している。
ちっとも気にしていなそうで、こっそり胸を撫で下ろす。
あたしはいつまで経っても、小さいことを気にしいだ。
『そんなに食べるの?』
責めたかったわけじゃない。
可愛いな。もしかしたら浮かれてるのかなって思った。それだけ。
普段、脂質と糖分はそこそこ控えている充さんは、可能な朝は出来るだけランニングして、毎晩筋トレして。休日の合わない日にはジムに通っている。
つまり、それなりに体型に気を使っている人だ。
ホストを辞めてからも、彼の美意識が急激になくなるということはなかった。
スキンケアはきちんと続けているし、ファッションはアクセサリーが少し減ったのと、かちっとした装いもするようになったくらいで、やっぱりお洋服も小物も靴も、たくさん揃えている。
ホスト時代のように、クローゼットを開ければ、次々に新顔さん、あらこちらも新顔さんね、はじめましてこんにちは、というわけではないけれど。
彼のエースだったランさんが、メンズメイクが好きではなかったのと、彼のキャラクターとして似合わなかったから、もともとホストとして出勤するときのメイクは、ごくごくシンプル。
スキントーンと眉を整える。それだけ。
今は眉のカットくらい。シェービングと同じ。
つまりここまでのまどろっこしい説明は、次の言葉を繰り返すため。
充さんの根本的な美意識は変わらない、ということ。
だから、充さんがクリスマスマーケットで勢いづいて甘い物を買い占め、暴飲暴食してとんでもないことになりそうだなんて、そんなことは全然思わない。
BGMに合わせて、小さく口ずさむ充さんは、目の前の光景に夢中。
そんなところで水を差すのは野暮。
だけどモヤモヤするし、「なんでも言え。くだらねぇって思うことでも、気になるなら吐き出せ」と小さな子供に教え聞かせるように、何度も言ってくれるから、あたしはその優しさに甘えることにする。
繋いだ右手をぎゅっと握る。
「どした?」
振り返った顔は優しくて、笑顔で。髪の色と同じ、ザッハトルテみたいにこっくりと甘い。
「さっきの。責めるつもりじゃなかったの。感じ悪い言い方しちゃったなって」
さっき? と首を傾げるも、充さんはすぐに、「ああ」と頷いた。
「そんなふうに思ってねぇよ。大丈夫。安心しろ。気にすんな」
「うん。ありがと」
ふはっと笑う充さんの目尻に、甘いシワが寄り、それからあたしの顔を映すオリーブ色の瞳が、「どういたしまして」と近づいてきた。
冷たい鼻先がかすめる。
「溜め込まねぇようになったの、進歩だな」
そう言って、冷たいくちびるも触れた。
人前でイチャつくのは、進歩ではないと思った。
ここは日本。たとえクリスマスマーケットで、西ヨーロッパ風の雰囲気が漂っていても、紛れもなく日本。
仕事柄、渡航したり、海外の方と触れ合う機会の多い充さんには、そこのところ、ちょっと意識を改めてほしい。
……なんていうのは、照れ隠し。
だって、恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しい。幸せ。大好き。
胸の中、ひっそりと自分で自分に照れ隠し。
我ながら。ほんとうに。ほんとうに。
なんてめんどくさい女。そう思う。
村上春樹作品の主人公みたいに、「やれやれ」と嘯いてみる。
これでは果たして、進歩しているのか。
充さんが「あそこ入ってみようぜ」と、可愛らしい木製のオモチャが並べられた仮設店舗に向けて、顎をしゃくった。
クリスマスオーナメントが所狭しと並ぶ、狭い店内。
二人で雪だるまやサンタ、くるみ割り人形といった、木製の小さなオーナメントを手に取ったり、鼻先を近づけたりして、あれやこれやと物色して回る。
シャンシャンとスレイベルが鳴らされたり、サックスのうなるBGM。
赤に緑、金色といったウキウキするようなクリスマスカラー。
楽しそうな女の子達の「可愛い!」「ほしいー!」「買っちゃえば?」「うーん。どうしよう。迷う~」と、笑い声。
その場の全てが、クリスマスというキラキラとした定番。その非日常の高揚感で満ちていて、どれだけ歩き回っても足は疲れず。地面から数センチくらい、フワフワと浮かんでいる。
なんといっても、繋いだ右手。その温もり。
ぎゅっと握れば、「ん?」と振り返ってくれるのが嬉しくて、何度も握ってしまう。
また握ってみると、暖色の光で瞳の色が茶色からオリーブになった、充さんの温かな瞳とぶつかる。
「なに?」
慌てて話題を探し、目の前のオブジェに目を留める。
てっぺんに羽のついた、ツリー状の木工民芸品。
幾段かに分かれ、それぞれの台の上に天使や羊、羊飼いの子供達の人形、もみの木といったモチーフ、そしてキャンドルスタンドが置かれている。
「これ、映画かなにかで見たことある気がする。ホーム・アローンかな?」
「どれだ?」
こちらに顔を寄せるものだから、充さんの髪が頬に触れた。
いつものワックスの匂いと、モンタルのデイドリームの甘くて深い、スパイシーな香り。
そこに充さんの体から立ち昇る匂いが、ぜんぶ混じり合う。
名付けて、スウィート・タカシ・フレグランス。
この上なく大好きな匂い。
うっかり浸っていると、充さんが繋いだ手に軽く力を込めた。
あたしは慌てて、繋いでいない手で木工品を指さす。
「これ」
「ああ、クリスマスピラミッドか。ホーム・アローン……どうかな。アメリカ映画だしなぁ」
最後のほうはあたしに聞かせるというより、自分の中の記憶と対話して独り言ちているようだった。
「これはドイツの伝統工芸品。あのあたりの国のクリスマス映画なら、出てんじゃねぇかな」
大きな手が伸ばされ、てっぺんの羽を長い指で示す。
「キャンドルに火を点けると、……なんだっけな。まぁ、とにかく火を点けると、このプロペラが回る」
羽に触れるか触れないかのところで、充さんはぐるぐると人差し指を回す。
「火で?」
「そ。火。……あ、そうだ。火の熱。上昇気流。そんでプロペラが回るんだよ。暗い部屋でやると、陰影がキレイなやつ。気に入った?」
ここでうん、と言うと「じゃあ買うか」になってしまう。
値段に素早く目を走らせ、首を振った。
「ううん。場所をとりそうだから」
「ふーん。ちいせぇのもあるけど……。まぁ、円柱型だしな」
充さんの視線がクリスマスピラミッドの隣りに移動して、留まる。
その先には、アーチ型の木製キャンドルスタンド。
キャンドルスタンドといっても、そこに挿されているのは、キャンドル型の電球だ。
そして、やはり、とても高い。
大きさや緻密さもあるのだろうけれど、クリスマスピラミッドより、高い。
しかし充さんの目が輝いている……。
「おっ。シュヴィップボーゲンもある。こっちは? 平べったいから、場所とらねぇよ? クリスマスの雰囲気出るし、おまえの部屋にも合うんじゃねぇ? ほら、窓際。おまえの部屋、窓際になんもねーじゃん」
うん。
声のトーンもテンポも上がった。
これは気に入ったんだな。
ちなみに窓際に、今なにもないのは、先日まであったガジュマルの木が枯れてしまったからだ。
何度も充さんが悪気なく蹴っ飛ばすものだから、窓際に避難させたガジュマルの鉢植え。
それがよくなかったのか、シオシオと元気がなくなったと思うと、あっと言う間に萎れてしまった。
「シュヴィップボーゲンは、窓際に飾るもんだからさ」
シュヴィップボーゲンという、アーチ型の木工民芸品を手に取る充さんの横顔。弾むような声。
毎日、贅沢ばかりしているわけじゃない。
高すぎるってわけじゃない。
充さんの笑顔、声、匂い。
寒さ、BGMと人々のざわめき。
きっとこれを見るたびに思い出すだろう。
それはすごく、すてきなことだと思った。
「うん。すてきだね。買おうよ」
ぐるりとこちらを向く充さんのオリーブ色の瞳が、気のせいだろうか。揺れている。
「買う? おまえ……じゃなかった。君江も気に入った?」
言い直さなくてもいいのに。
そう思っているけれど、名前を呼ばれることは素直に嬉しいから、充さんの努力を止めたりしない。
仕事で充さんがLAに滞在していたとき、仲良くなったらしい中東系の男性。充さんはたまに彼とテレビ通話をする。
そしてその彼は日本語を勉強しているらしい。「よくない。愛する人、『おまえ』と呼ぶ」と主張。
しばらく沈黙した充さんの横顔を、あたしは紅茶を飲みながら、隣で見ていた。
それ以来、充さんは意識してあたしの名前を呼ぶ。
「うん。木目の見える白っぽい素朴な色も好き。細い板を何層にも重ねた立体感も好き。木が重なって森みたいになってるのも、森の中に建つ小さな家も、家の中にいる家族団らんみたいな温かい様子も、全部好き」
「そっか」
納得したように頷くと、充さんの視線は木工民芸品に戻った。
素朴で繊細でゴージャスで大胆。
矛盾してる言葉なのに、それらが全部しっくりくるシュヴィップボーゲン。
誰かさんみたい。
「一番気に入ったのはね。これを見るたびに、今日のことを思い出すだろうなって思ったから」
木工品を前に、細めていた目が見開かれる。
充さんが息を吸うヒュッという音が耳に届いた。
何かおかしいことを言っただろうか。
強張ってしまった充さんの顔。
でも繋いだ手が、ぎゅっと強く握ってくる。だからあたしも握り返す。
目を伏せ、静かに息を吐いて。それからバチっと音がするくらい、強い目力でこちらを射抜く、オリーブ色の瞳。
言葉の先を促している、と思った。
「充さんが目を細めて、この子を見てたこと。楽しそうにこの子の説明をしてくれたこと。充さんの横顔も声も。屋台から漂うソーセージの香ばしい匂いも、クリスマスソングも、ざわめきも全部。
「この子がタイムカプセルみたいに大事にとっておいてくれて、クリスマスシーズン、この子がクローゼットから掘り起こされる度、今日の思い出が蘇る。この子が全部抱えてくれるから」
繋いだ手は固く結ばれ、繋いでいない大きな手はシュヴィップボーゲンを持ったまま。
「それが一番、すてきだと思ったの」
ぎゅっと握った手を小さく前後に振り、見つめ返して充さんの言葉を待った。
「……あのさ」
「うん」
これから口にする言葉がまるで、ビックリさせて恐ろしくて、見当もつかない惨状を引き起こす、その暴れっぷりに誰も手を出せないような。ヒステリーと暴力がセットになった、早熟ではないアンファンテリブルそのものであるかのように。
もしくは取り扱いの危険なことは明らかなのに、肝心の取り扱い説明書も、なにが危険なのかは未知の危険物であるかのように。
充さんは注意深く、とびきり慎重に口を開いた。
「君江にお願いがある」
「いいよ」
即答すると「聞かねえで頷くなよ」と、コールドスリープからたった今目覚めたばかりの人みたいに、充さんはカチコチに固まった目元や頬をぎこちなくゆるめた。
「このシュヴィップボーゲン、君江に買ってもらいたい」
「よろこんで」
「二人の共同財布じゃなくて」
「もちろん」
「少しはためらえよ」
「なんで?」
「なんでって……」
言いよどむ充さんを見て、納得した。
あたしも大概めんどくさい女だけど、充さんも十分、ガラスの少年だ。
「まあ、おまえがいいならいいけど」
「いいよ」
「あっそ。じゃああともう二つお願い」
充さんは呆れたように、吹っ切れたように投げやりに言った。
「たぶん、俺は毎年、『覚えてるか』って聞く。そしたら『覚えてる』って言ってほしい。おまえがすっかり忘れてても、それでも『覚えてる』って言ってほしい」
「ちゃんと言うよ。『覚えてる』って。充さんが今着てるキャメルのステンカラーコートも、モカのクルーネックのラグランニットも、カーキブラウンのセンタープレススラックスも、黒のパラブーツのミカエルも。全部『覚えてる』って言うよ」
「そこまで求めてねーよ」
大げさに肩をすくめて、呆れたような口ぶり、眉間に寄せたシワ、への字に曲げた口。
『強欲スクルージおじさんじゃない』と示したがっているのはわかるけれど、必要以上の拒否反応が、内心喜んでいることを強調している。
嬉しいくせに。
でもそれは口にしない。
プライドの高さも知ってるし、カッコつけて強がりたいんだってことも最近は気がついてる。
何より充さんは、あたしがわかっていることをわかってる。
「二つ目は?」
「毎年聞くし、何度も聞くけど、毎年、毎回、つきあってほしい」
「毎日だっていいよ」
「それはさすがにうぜーわ」
これは心からのノーセンキューだ。
目を合わせて笑い合い、シュヴィップボーゲンをレジに持って行った。
「新居でも飾ろうな」
「うん」
「あー。楽しみ」
「そうだね。着工、いつからだっけ」
「その前に地鎮祭もある」
「うん。初穂料と、近隣の方々に挨拶回りもしなくちゃ。――充さん、初めての戸建て住まいだね。楽しみ?」
「それもだけど。おまえ……君江と俺の家ってのがさ」
「うん」
「人数増えてもいいし」
「準備、整えたもんね」
「そ。あと単純に、もうすぐゴムつけなくていいの、すげー嬉しい」
「そうだね」
「だろ?」
「うん」
「早く家帰りてぇな」
「そうだね」
「わかってる?」
持参したエコバッグいっぱいの荷物と、それでは足りなくて、店頭で購入した大きな布製の、イベントロゴがプリントされたショッピングバッグ。
それらを両手に持った充さんが、あたしの顔を覗き込む。
オリーブ色の瞳に映るあたし。
充さんもあたしも、瞳の奥に情欲を灯している。
「わかってるよ。でも引っ越しするまでは、つけてね」
「君江~。君ちゃん! 好きだよ。すげぇ好き」
「あたしも充さんが大好き!」
「あー、やっぱ浮かれてる。今日」
「うん」
「荷物が邪魔。今抱きしめる場面だったろ」
「だから持つって言ったのに」
「ヤダ。かっこつけさせろよ」
「じゃあ、あたしがぎゅーする」
「おー。しとけしとけ」
充さんへのプレゼントのシュヴィップボーゲン。レープクーヘンにシュトレン。
ドイツの瓶ビールを数本に、トロッケンとトロッケンベーレンアウスレーゼを一本ずつ。
それから充さんがプレゼントしてくれたマイセン磁器の天使のオーナメント。
充さんの腰に腕を巻きつければ、大荷物達がバッグの中で、ガチャリと心臓に悪い音を立てた。
「抱きつくの、禁止だね」
「……早く帰りてぇ……」
大荷物を抱えて、人の溢れかえる電車に乗り込んだ。
「そういえばさ。最近聞かねぇな、変質者」
何を思ったのか、じっとあたしのコートを見て、充さんが言った。
いくつもの駅を通り過ぎ、車内の人がまばらになって、ふたり並んで椅子に座ったところ。
「そう?」
残念ながら、その手の話題が消え去った記憶はなく、首を傾げる。
充さんはあたしのコートの襟ぐりを掴むと頷いた。
「コートの前を手でおさえてさ。突然声かけてきて、ガバーって前開けたら全裸ってやつ。あれ、今でもいんのかな」
「あー。それは確かに聞かない……」
同意するものの、いったい何を言い出すのか。
いたずらっぽく光る目と、片方だけあがる口の端。
「やっぱ、もう一つお願い足していい?」
「えー……」
「なんだよ。即答しろよ」
だって笑顔がうさんくさい。
「家帰ったらさ。おま――君江、裸コートやってよ。俺、玄関で待ってるからさ。俺がリビング入ったところで『モモンガー!』って」
「モモンガ?」
なんだその珍妙なおたけびは。
「そのコート。モモンガみてぇだから」
身幅と袖幅がたっぷりとしていて、ころんと丸いシルエット。
襟元と折り曲げた袖が黒。全体はライトグレー。バイカラー。
手を広げるとモモンガみたいだから、確かにこの手のコートはモモンガコートと言われている。らしい。
だけど。
「そんな変態行為するためのコートじゃありません」
だいたい、そんなのぜったい寒い。
いろいろと寒い。
「なんだよ。好きなくせによ」
いやらしく笑う充さんの顔を目の当たりにして。
充さんがスクルージおじさんとの差別化を訴えたとき。ニヤけそうになる顔をこらえるために、不自然なくらい厳めしい、しかめっ面をこしらえていたとき。
あのとき。
物分かりよくわかったふりをせず。心のままに。
「嬉しいくせに」
そう言ってやればよかった。
うらみを込めてじとりと睨め上げると、大荷物から解放された、充さんの大きな手が頬へと伸びてくる。
クリスマスマーケットでは、繋いでいても冷え切っていた手。電車内に長らく留まったことで、すっかり温まっている。
あたしの頬をひとなですると、そのまま流れるように、充さんの親指と人差し指が、頬肉を軽くつまむ。
そして宣うことには。
「怒った顔も可愛い――って言ってほしいんだろ?」
今日の充さんは、やっぱり浮かれてる。どうしようもないくらい。
だけど、あたしも浮かれてる。どうしようもないくらい。
帰宅したあとの流れ。その映像がまるで予知夢のように、鮮やかな様子で脳裏によぎる。
あたしはコートの黒い襟元を深く重ね合わせ、ぎゅっと掴んだ。
(クリスマスのお話「シュヴィップボーゲンを覚えてる」了)
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