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第二章 THE CRAP オブ・ザ・くず、バイ・ザ・くず、フォー・ザ・くず

03 仁科 賢治

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みつるの心に決めた女だというから、どれほど知的で品があり、楚々とした落ち着きのある女かと思えば」


 眉間にマッチ棒がはさめるくらいのシワを刻んだ男がジロジロとわたしを品定めしている。
 険悪な表情をゆるめれば、おそらく端正な顔立ちなのだろう。ミツルとは似ていない。
 どこかに面影はないかと眉間のしわの一本ずつのはもちろん、そこから続くおおよそのところまっすぐな鼻筋や、短めの人中、厚さも色も薄いくちびる。細くてとがった顎から耳までのすっきりとしたライン。奥二重で切れ長の目。じっくりと観察する。
 ひげのそり残しや毛穴。もしかしたら鼻の穴から飛び出ている毛の一本でも見つけられないかと。そのほか、挙げ連ねて意地悪く嘲笑してやれそうな何か。
 残念ながら、見つけられなかった。
 ミツルとの共通点も、鼻毛も。
 とても残念。


「ミツルのお兄さんだというから、どれほど魅力的な男かと思えば」


 鼻で笑ってやれば、生まれ落ちたときからあったのではないかという眉間のシワがゆるみ、目を見開いて間抜け面を晒した。


「なにを……」

「中卒低脳女なら、誰でもあなたにと思ってた? ごめんなさいね。わたし、わからないの。教養がなくて、バカだから。
「ご実家がお金もち。それなりの名家。名門医学部卒業。研修を終えた総合病院の駆け出しの勤務医。がんの薬物療法が専門の内科医。そこそこルックスがいい。
「これだけ? あなたのウリってこれだけ? これだけなのに、どうして女がみんなあなたの言うことを聞くと思うの? 学のないバカにもわかるように教えてよ」


 漆喰の壁に馴染んで溶け込んでいきそうだった、男の青白い頰が、うっすら赤く染まった。






 ミツルが一人暮らしをしたいとご両親に打ち明けると、猛反対した人間がいた。
 それが仁科にしな 賢治けんじ
 ミツルの二人いる兄のうちの一人。
 ミツル曰く、優秀な兄二人。


「優秀って、たとえばどんなところが?」


 似合わない投げやりさを口元に浮かべていたミツルは、斜め下に向けていた視線をわたしの目に合わせた。なにか途方もないモンスターに怯えるような目で、わたしを見ている。


「どんなところ? 医者一族って言ってたわね?
「たとえば、双子の姉のおなかの中でずっと寄生してた『アッチョンブリケ』を摘出して、内臓だとかを組み立て直したとか? 植物人間の母親と、母親との交流を望む息子との脳波をつないだとか?」

「なんだい、それ」


 ミツルがいぶかしげに眉をひそめる。


「手塚治虫の『ブラックジャック』。驚いた。医者を目指す人間で、知らない人がいるなんて思わなかった」


 またもや卑屈な色がミツルに戻った。


「ブラックジャックね。聞いたことはあるよ。彼は無免許とはいえ外科医だろう? ぼくは歯科医だ」

「わたしからすれば同じ医者よ。聞いたことはあるのに、中身を知らないのはなぜ?」

「友人達との会話に出てきたから、名前と概要だけは。漫画やアニメ、それにゲームは禁止されていたんだ」

「ずいぶん高尚だこと」

「そうだね。家なんだ」


 手を握る。冷たい。うつむいてしまった顔は戻ってこない。


「それで? お兄さん達はどう優秀なの? まさか試験の成績がよかっただけとか言わないわよね?
「入学した大学の偏差値がよかった? 好成績で卒業した? なにかで学校代表に選ばれた? 生徒会役員だった? 校長先生から表彰された? 走るのが速かった? 花形運動部の部長でエースだった? ラブレターを山ほどもらってきた? ほかには何かある?」


 ミツルの笑顔が戻ってくる。


「ある。彼らは医学部だ」

「ばかばかしい」

「言うと思った。ぼくの家では、それが何より重要なんだ」

「そう。でもの中では、すこしも重要じゃない。よ」


 それで、ブラコン男がわたしに物申したいと貴重な休日を潰すよう要求した。
 そんなことに付き合う義理はないと思ったけれど、家族とは厄介なものだということは、骨身に染みて知っている。
 だからミツルがそこから抜け出したいというのならば、少しくらい手伝うのもいいかと思った。


「言えない? あなたがわたしの教祖になれる理由。それならもういいでしょ? 
「お忙しいお医者さまの貴重な時間をいただくのは気が引けるし、なによりわたしも、休日はとても大事に思ってるの。一分一秒も惜しいくらい」


 一秒だって、あなたに費やす価値はない。

 コーヒーカップの華奢な取っ手に指をかけ、一口含む。鼻先にゆらゆらと立ち昇る湯気とコーヒーの芳香がかすめた。
 話は終わったと思うのに、ブラコン男は立ち上がらない。
 目をやれば湯気の向こう側で、苦虫を噛み潰したような凶悪な顔。腕を組んだまま唸り声をあげる。
 勘弁してほしい。


「――家を出るという選択は誤りだ。研修中の身で、学びに集中すべきであり、他些事に気を取られるべきではない」

「医者になる人達って、誰一人、自分で自分の面倒も見られないの? 実はわたしが思うより、あまり優秀ではない?」

「そんなことを言っているのではない!」

以外に、なんの問題が? これまで勉学だけしていればよかったことに、ちょっと加わる手間。自分の暮らしを自分でするってだけでしょ? ただそれだけじゃない」


 血管が浮き出そうなくらい、赤黒く変色した顔は、やはりミツルとはすこしも似ていない。
 芯からお坊っちゃんといった甘えきった姿勢も気に食わないけど、本人がそれでよくて、周囲もまたそれを許すというのなら、勝手にすればいい。
 兄だからとミツルに自分の主張を正義だと押し付けないでいるのなら。

 自分より出来が悪いと見下していた弟の独り立ちが認められない? 反対理由って、ただそれだけじゃないの?
 呆れ返る。


「あなたのようなハイエナに惑わされるようなことがあってはならないから、反対しているんだ!」

「あら。ハイエナって優秀なのよ。腐った肉を漁るから嫌悪されるけど、自分達で狩りだってするし、ハイエナの仕留めた獲物を横取りするのは、ライオンだったりするのよ。種類によってはリーダーがオスではなくてメスだそうだし。
「ああそうか。あなたはメスの力がオスより勝ることが許せない性質なのかしら」

「わたしは比喩としてハイエナの名を出しただけで、ハイエナの生態について異論があるわけでは――」

「賢治兄さん」


 それまで置物のようにわたしの隣で静観していた――いや、目の前のブラコン男にすっかり萎縮して黙りこくっていたミツルが口を開いた。
 思わず隣を振り返ると、目の据わったミツルが口の端を挙げている。静かにコーヒーカップをソーサーの上に置くミツル。


「帰ってくれないか」


 テーブルには三つのコーヒーカップとミルクとシュガー。手つかずのモンブランが一皿に、あらかた片付いたベイクドチーズケーキ。端っこだけスプーンで掬い取られたティラミス。
 テイラミスは夜のデザート。以前関係した男から聞いたフレーズがふと頭によぎった。
 急いで目の前のこれをかっこんで、ホテルに急行しなければならない気がした。

 手つかずのモンブランはどうしようか。
 わたしのおなかは膨れきっている。弟を踏み潰した牛を怪物だと勘違いした、他きょうだいの子カエル達に『もっともっと大きかった』とごねられて、おなかを破裂させる寸前の母カエル並み。
 ミツルはまだ食べられそう? それとも残していこうか。
 結局ミツルが食べた。「もうこれ以上なにも食べられない。水だって入る余地がない」と苦しそうに。










「兄がごめんね……」


 疲れたように肩を落とすミツル。
 ベッドの両サイドに取り付けられたオレンジ色の電球がミツルの右肩と後頭部、右耳から頰にかけて照らしている。
 落とされる光によって、より色濃くなる影。
 ミツルの頰に手を当てる。汗ばんでじっとりとしている。


「なぜ? ミツルが謝る必要はないでしょ?」

「いや、でもぼくのせいだし」


 こめかみに指を滑らせていくと、頭皮も髪もまた湿っている。少し癖のある柔らかい髪。


「ミツルのせいじゃない。あの男が自己中心的で傲慢で粘着質で、人の話を聞かないのは、あの男がそういう人間だからで、ミツルのせいじゃない。別の人間でしょ?」

「それはそうなんだけど……。蘭さん、言ってくれるね。気持ちいいくらいだよ」


 ミツルが苦笑する。
 わたしにはあの男に、それほどの価値はないように見えるのに、ミツルはあの男に劣等感を抱えている。
 医者の世界は知らないが、少なくともわたしの見てきた業界では、学歴だなんだと御大層なものをひけらかす者ほど


「でもほら、どうしたってこれからも、兄は無関係ってわけにはいかないし……。もちろんぼくも間に入るけど。今日はごめん。遅すぎた」


 申し訳なさそうにこちらを見るミツル。
 首を傾げる。
 遅すぎた。べつに構わない。はわたしに売られた喧嘩で、わたしがそれに応じただけのこと。
 今後はあの男が呼び出しをかけてこようとも、ミツルがきっぱりと拒絶すればいいだけのこと。わたしには関係がない。間に入る必要などない。


「なぜ? ミツルは兄弟だろうけど、わたしがあの男と関わりを持つことなんてある?」


 ミツルが目を丸くして「なぜって」と言ったところで、息を呑んだ。


「結婚すれば、姻族になるよ。どうしたって無関係ではいられない」


 虚をつかれた。全く頭になかった。
 結婚とは家族になるということ。相手の家族と縁が繋がるということ。今日のブラコン男も。二人いる兄のうち、残りも。姉も。母親も。

 父親も。

 誰からも忘れ去られた、かび臭い犬小屋に置いてきたはずのチャッキー人形が、頑丈に施錠しておいた――それも幾重にも、さまざまなタイプの鍵で――扉をぶち壊して、ようやくシャバの空気が吸えたと不気味に笑っている気がした。
 手にはブードゥーナイフ。赤に白の蛇のような波線。黒い柄に白のドクロ。黄土色の葉。




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