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第二章 THE CRAP オブ・ザ・くず、バイ・ザ・くず、フォー・ザ・くず
02 仁科 充
しおりを挟むあるとき突然、落とし穴に落ちる。
いつもと同じ時間に、いつもと同じ道を、いつもと同じメイクで、いつもと同じようなオフィスカジュアルスタイルで歩き。
連日の残業は深夜を軽々超過し、終電を目の前で逃すのは二日に一度の割合。締め切り前は徹夜が当然。休日出勤以前に、休日が安定して存在しない。
完全実力主義の社内で、学歴などひけらかす者ほど、三月もせずに去ってゆく。
掴み取る人脈。企画力に分析力、編集能力、管理調整能力、効率化アップのスキル。
目まぐるしい毎日の中、わたしは生きていると感じる。
いま、まさに生きている。
それだから、もちろん体はクタクタだけど、気力は失われない。
たまの休みに家に閉じこもることほど、バカげていることはないとも思う。
まだ見たことのない場所へ足を運び、都合のよさそうな相手を引っ掛け、引っ掛けられ。ホテルで一晩過ごし、シャワーと共に関係を洗い流す。記憶にも残らない。
そんな毎日の繰り返し。
そして突然。
すとーん、と視界は暗転する。
仁科 充と出会ったのは、ダイビングスクールだった。
PADIのオープンウォーター・ダイバー・コース。
仕事の休日を利用したスクールで、合宿ではない。
勤務先の編集プロダクションは、主に旅行ガイドブックを手掛けている。
ダイビングについては、企画が上がれば、他に担当している人間がいたから、当分担当する予定はなかったけれど、レンタルショップで『グラン・ブルー』を借りて観てから、興味がわいた。
土曜日は休日出勤で潰れることがほとんど。
仕事がないときには、観光ボランティアや、ボランティアで知り合った人たちとの付き合い、ボディコントロールのトレーニングや学習等に当てていたため、日曜日のみの参加でスクールの予定を三回分取った。
日曜日は土曜日に比べれば、休日出勤は少ない。
スクール内容は、まずはマニュアルとDVDで事前自宅学習。
それから実習が三回。
オリエンテーションと登録後にプール実習、そのあとにクイズとエグザム。海洋実習、そのあとにRDPテーブルのクイズとエグザム。海洋実習とオプション追加ダイビング、そのあとに申請手続きと認定式。
Cカード取得のための第一日目は、プール実習。
わたしはショップが出してくれたマイクロバスに乗り、インストラクターと生徒を載せたバスの到着を現地集合組が待っていた。
ミツルは現地集合組の一人で、その日のわたしのバディだった。
「初めまして。仁科 充です。今日はよろしくお願いします」
「初めまして。結城 蘭です。こちらこそ、よろしくお願いします」
プールサイドでそれぞれバディ同士の自己紹介をするようインストラクターに促され、向かい合った青年。
仁科 充。
幼い顔つきの青年。まだ学生だろうか。
どこかふわふわとしている。
頼りなく見えるのは、その顔つきだけでなく、華奢な体のせいでもある。
海水パンツ一枚のその姿。ラッシュガードを羽織らせてやりたくなる。
青白くて小さくてヒョロヒョロで、深い海になんて潜ったら、海藻と同化してしまうんじゃないか。
空からの光がまだ届くような、グラデーションに青い海中。
ウエットスーツに包まれても薄いと知れる、貧相な体ではなく、圧縮空気入りの大きなシリンダーの方が本体であるかのように。揺れる海藻と一緒になって、静かな泡を口元から立ち昇らせながら、ゆらゆら揺られている様子が脳裏に浮かんだ。
思わず噴き出しそうになって、慌てて頭を下げて誤魔化す。
「ええと、結城さんは、どちらかで体験ダイビングをなされてからの参加ですか?」
「いえ。体験はしたことがないです。仁科さんは?」
「ぼくは大学の夏休みにサークルの仲間と。それでダイビングの世界に魅了されて、ライセンスが取りたいなと」
やはり学生か。
夏休みにサークル仲間とダイビング体験とは。これはお坊っちゃん達の集うお坊っちゃんサークルだな。
おそらく大学もそれなりなんだろう。
「今日はご友人とご一緒ではないのですね?」
「ええ。恥ずかしながら、ぼくはあまり運動神経がよくなくて」
言葉通り、恥ずかしそうに笑う青年。もじもじと海水パンツの紐を指で弄ぶ。
確かに、運動神経は優れていそうにない。おそらくベッドのほうも。
素人童貞がいいところかも。
青年が口を開いたので、ゲスな勘繰りを頭から追いやる。
「友人達は体験ダイビングのあと、さっさと合宿でライセンス取得したんです。ぼくも誘われたのですが……」
なるほど。
長期休暇のある、時間を持て余しているだろう学生が、全過程を一気に終えられる合宿ではなく、わざわざこのスクールにした理由。
合宿で詰め込み式に、底上げされたくなかったのだろう。
慎重派でもあるらしい。おそらく真面目な性質。
このスクールの参加者は、主に社会人。
だから平日ではおそらく、一人参加の彼のバディがいなかったのだろう。
奇数人数でもインストラクターがバディを務めることで、実習催行はされるようだが、スクール側のプールレンタル料金を考えると、一人催行するより、他の参加者のいる日にちに詰め込みたいだろう。可能ならば。
予約を取るとき、スケジュール管理帳をスタッフが覗き込み「プール実習ですと、この日とこの日が空いてますね。海洋実習はこのあたりですと、プール実習から日を置かずにご予約がお取りになれます」と言われたことを思い出す。
「こちらのスクールは、少人数の丁寧な指導で評判がいいらしいですよ」
「はい。そのように伺って、こちらにしたんです」
石橋を叩いて渡るタイプ。
わたしとはきっと、合わない。
バディなのだから、彼のペースで進めるしかない。今日の実習は疲れるかもしれない、と思った。
自己紹介タイムが終わり、マスクにシュノーケル、グローブ、ウエットスーツ、ウエイトベルトやBCDにブーツとフィン、レギュレーターにオクトパス、コンソールゲージ等の装着について、インストラクターが説明し始めた。
「結城さんは、次の実習のご予定はいつですか?」
面倒だな、というのが正直な感想。
想像通り、仁科 充という青年と組んだ潜水は、苛々させられた。
カンが悪いのか、耳抜きがなかなか出来ないことだとか、安全を確認して進めるインストラクターの潜水スピードを遥かに下回る遅さだとか、コンソールゲージやハンドシグナルの確認がしつこいとか、浮上もまた遅すぎて、ようやく二人上がった頃には、他メンバーがプールサイドで白けた顔をしていたことだとか。
「スケジュール帳が手元になくて。ごめんなさい」
思い切り突き放すか迷い、仔犬のような目に屈した。
バスの通路を挟んだ向こう側で、青年がニコリと笑う。
「このあとショップに戻ってから、次の予定を入れるんです。結城さんと同日で予約を取りたいと考えています。結城さんのご予定をショップで確認してもいいですか? またあなたとバディを組みたい」
「ごめんなさい。わたしは組みたくない」
繕ったことを後悔する。
結局こうなるなら、最初から突き放せばよかった。
だが青年は柔和な微笑みを崩さない。
「苛立ってらしたのは、知っています」
「お気づきならどうして?」
「隠しきれていないのが、可愛いなって思って」
「バカにしてるの?」
囁くくらいの小声で会話していたなかで、少しだけ声のボリュームが上がる。
車内は静かだ。
プール実習で疲れた受講者達は、シートにもたれかかって寝息を立てている。
マイクロバスは大きく揺れることもなく、高速道路を走る。
「していません。すみません。浮かれているだけです」
耳を後ろにペタリと倒した、叱られた仔犬のように、小さく縮こまる。
打たれ弱く、そのまま引き下がるかと思いきや。
「あなたはきっと、ぼくのことを苦手に感じている。だけど、ときどき気遣うような顔を見せる。
「潜水前の段階で、いつまでも耳抜きが出来ずにいるぼくに、インストラクターですら苛立っていたのに、あなたはぼくの耳を指でつまんで、ぐるぐる回してくれたり、マスクの上から一緒におさえてくれたり」
「バディなんだから、当然でしょう。協力しなくちゃ次のステップに進めないのだし」
「ふふ。当然ですか? 素敵ですね」
頼りなくて純粋無垢な坊ちゃん。
本当に?
「さっきだってぼくの問いに、冷たくあしらおうとしたのに、やめてしまった。
「なんて可愛らしい人なんだろうって。気持ち悪いですか?」
「ええ。すごく」
青年は口元に手を当て、笑いを噛み殺した。
想像していたタイプとは違っていた。おもしろい、と思った。
だから。
「このあと、予定は?」
またバディを組むのなら、相手を知っておいても損はない。
その結果、相性最悪なら、次の予定日を変更すればいいだけ。第一、仕事が急に入って、予定変更せざるをえない可能性も大いにある。
「なにもありません」
「食事に行かない?」
「喜んで」
頰を染めてもじもじと笑う姿は無邪気で、やはり早まったかと後悔しかけた。
だが食事を終え、これからホテルに向かうことに少しの憂鬱を覚えながら店を出たところで、青年はホテル街とは真逆の、駅へ向かって歩き出した。
「あなたに惹かれています。ここでホテルに行くことは可能なのでしょう。けれどそれでは、あなたの中に、ぼくは残らない」
よほどわたしが理解不能という顔をしていたのか。
青年の口から、噛み殺そうとした笑いが漏れる。
「セックスにそれほど自信があるわけじゃないのは事実ですけど。それだけが理由じゃありません」
「それなら、なぜ?」
「わかっているでしょう?」
沈黙で返すと、青年は手を差し出した。
「結城 蘭さん。来週の海洋実習でのバディ、よろしくお願いします」
握手をして、その日は別れた。
次の海洋実習のあとも食事をした。駅まで送られ、そこで別れる。
その次の海洋実習もバディを組み、オプションでつけていた追加ダイビングでも、やはりバディを組み。
認定式の後はまた、食事をしに。
「これで晴れて、オープンウォーターダイバーね」
「おめでとう」
「ミツルも」
ビールのなみなみと注がれたジョッキを持ち上げる。
「それにしてもログ付けが早いのは意外だったわ」
「潜水スピード並みだと思った?」
「ええ。トロトロいつまでも続いて、昼食に移動できないんじゃないかって思ってた」
「記録をつけるのは、カルテで慣れているからね」
ミツルは歯学部生だ。
「蘭さんも、さすがに早かったね」
「そりゃ、わたしは本業だもの」
「絵はヘタだけどね」
「イラストレーターとカメラマンは外注だからいいのよ」
ダイビングログブックへの記録つけで、見た魚の名前とその姿を簡単に走り書きしていた。それをミツルが覗き込んできて「うわぁ」と小さく口にした。
たしかに「うわぁ」な出来だと自覚している。
インストラクターもサインするときに、固まっていた。「これはクマノミ? ウミウシじゃなくて?」と聞かれた。
となりに描いたミノカサゴに至っては「これは……イソギンチャク――いや、ミノカサゴなのか」と渋面で頷いていた。
「あーあ……。来週からは、実習は実習でも、病棟かぁ。蘭さんもいないし。憂鬱だな……」
残りわずかなビール。ミツルはぐっと飲み干すと、静かにジョッキをテーブルに置いた。
ジョッキの内側にへばりつく白い泡。今日海で見た、アオリイカの卵のよう。残念ながら産卵シーンは見られなかったが。
「へぇ。ミツルは来週から病院実習ってわけ?」
「そう。まいったよ。まさかウチの対立病院が実習先なんて」
眉をハの字にすると、ミツルは「まぁ、医学部に入らなかった時点で、一族の人間とは見なされないかもしれないけど」とため息をついた。
ミツルの実家は代々大きい総合病院を経営している家らしく、多くは語らないが、しがらみがあるらしい。
薄暗い室内を照らすペンダントライトが、ミツルの幼い顔に陰影を描き、憂いが浮かんで見えた。
天井から吊り下げられた和紙の球体は、まるでぽっかりと浮かぶ、橙色の月のよう。
古民家をリフォームした創作和食の居酒屋。
和風モダンといったインテリアで統一されたこの店は、ダイビングスクール後の食事処となった。
ダイビングをしたあとは、なぜか刺し身が食べたくなるのだ。
それとジョッキ入りの泡立ったビール。ジョッキを空けたら、次はもちろん日本酒。
ダイビング直後の飲酒は、テキストに従うならば、あまり奨められない。だけどダイバーのほとんどは飲ん兵衛だ。
「そんなに違うもの? 同じ医者でしょ?」
「同じではないね。少なくとも、ドクターの世界では」
「ふうん」
だが、そんなことはどうでもいい。
「それで? ツラいツラーイ病院実習の前に、英気を養う気はあるの?」
「あるよ」
きっぱりと言い切ったミツルに、内心驚く。
どうせ今日もまた、駅前で別れるのだと思っていた。
とはいえ、ピルは毎日飲んでいるし、コンドームも常に鞄に入れている。
黒鯛の刺し身を箸で口に運ぶ充。
今日のダイビングで、海中を悠々と泳ぐ姿を見た。それどころか、黒鯛はこちらに近寄ってきた。
人懐こい魚なのだとインストラクターが言っていた。
ミツルが箸を置く。静かに音もせず、きれいに揃えて。
はじめは、地味で退屈そうな、どこにでもいる平凡な男だと思っていた。
所作の整っている様は、決して平凡ではない育ちの良さを伺わせるし、純粋さと強かさが矛盾なく共存する会話は、これまでの男達にいないタイプだった。
エリート坊ちゃんの典型、詰め込み型の頭でっかちな知識をひけらかすわけでもなく、頭の回転もそう悪くない。
「結城 蘭さん。あなたが好きです。結婚を前提に、お付き合いしてください」
あまりに重い告白も、初めてだった。
そしてやはり、この晩もホテルには行かなかった。
手を繋いで駅まで歩き、電車に乗り。わたしのアパートまで充が送り届けて。
「じゃあ、またね」
そう言って、ミツルはタクシーを呼んで帰った。終電はすでに出発してしまっていたからだ。
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