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第一章 ダフネはアポロンに恋をした

15 叔父さん、叔父さん、お父さんがいるよ

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 男とはその日、二人で話すことはできなかった。真っ赤な目をした男がグシャグシャの顔で何度も「ごめん、ホントにごめん」と謝るのを、見ていることしかできなかった。
 呼び止めて、手を握って。心配してくれたのに台無しにしてごめんなさいと謝りたかった。あたしは大丈夫だと伝えたかった。
 こんなことになったけれど、変わらずあなたが好きだと。そしてあなたもあたしを好きでいてくれてるのかと。確かめ合いたい気持ちが溢れて、でも男の目に映るあたしの頭は包帯でぐるぐる巻きで。
 どうしたって今のあたしは、男にとって苦しみをもたらす存在でしかなかった。






 その晩、与えられた個室に父が叔父さんとともにやってきた。母は来なかった。
 幻聴のシューベルトの歌曲リート「魔王」が父の背後で臨場感たっぷりに煽っている。

「久しぶりだな」
「はい」
「元気そうだな」
「…………はい」

 恋人の母親に殴られて、耳小骨の関節が外れて手術が必要になって。頭に包帯ぐるぐる巻きの娘を見て。
 それで出てきた言葉が「元気そうだな」。確かに見た目ほど大袈裟なものではないけれど。
 叔父さんがため息をついた。

「賢治兄さん、入院した娘にかける言葉がそれなのかい……」
「なにがおかしい」
「おかしいに決まってるだろ」

 父は眉間に刻み込まれてしまった深い皺をさらに寄せて、迫力のある顔をさらに凶悪にさせた。
 なまじ整っているだけに、父の顔は怖い。医師としては威厳があっていいのかもしれない。がん患者さんと密に触れる腫瘍内科医としては、親しみやすさの方が患者にとってはありがたい気もするけれど。

「外傷性耳小骨断離だろう。頭部への衝撃がそれだけで済んでよかったじゃないか」
「それが医者の言うことか」
「それは頭部外傷のダメージのことを指しているのか。出血や後遺症等の…」
「そういうことじゃないよ。そうじゃないでしょ」
「だがみつるは『それが医者の言うことか』と」
「ああ! もう! 悪かったよ! 父親の言うことか、と言い直せば、賢治兄さんにはわかるかい!」

 父はむっつりと黙り込み、顎に手を当てる。この人はいったい何をしにきたのだろうか。

「…………なるほど。理解した。さすがみつる
「賢治兄さんは相変わらずだね…」
「努力はしている」

 父がちらりとあたしを見る。あらゆる努力を放棄した娘。勤勉な父にとって受け入れ難い存在。

「疲れているだろうが、あなたには弁明をしたい」
「はい」

 いつも通り肯定のみ返す。父は満足そうに頷いた。叔父さんは「休ませてあげなければいけないのに、押しかけてごめんね」と眉尻を下げる。

「いえ。お聞かせいただけるのであれば、とは思っていたので……」

 とはいえ、それは父ではなく叔父さんと男の母親についてではあったけれど。
 叔父さんは備え付けの椅子をひとつ、テレビ前に置かれたテーブル側からベッドサイドに持ってくると父に座らせた。それから降りたたんで立て掛けてあったパイプ椅子を広げて腰掛ける。
 弁明をしたいと述べた父は腕を組み、こちらを品定めするように眼光鋭く、厳しい顔つきで口を引き結んでいる。
 この父の目が、あたしはとても苦手だ。バカで愚かで甘ったれた心を余すところなくすべて見透かされているようで。
 父親の愛情ではなく、厳しい断罪者の視線。冥王ハデスの前で、地獄行きかを判じられているようだ。

 その視線から逃げるように叔父さんを見る。叔父さんの顔は強張っていた。

「ぼくの名前が『充足』の『充』と書いてみつると読むのは知っているね?」
「はい」
「彼の名前が、ぼくと同じ字を書くことも、知っているね?」
「はい」

 男の名はたかしだ。そして源氏名は『ミツル』。

「彼の――たかしくんのお母さんは、蘭さんといって」

 ふうと叔父さんが息をつく。父の鋭い視線を頬に感じる。

「ぼくが昔、ともに生きようと駆け落ちをそそのかし、そして逃げ出した先で振られてしまった女性なんだ」
「え…………」
みつるが振られたのは、私のせいだ」
「はっ?」

 叔父さんの告白に驚いていたところに、父がさらにわけのわからない乱入をしてきた。思わず礼儀をかなぐり捨て、間抜けな声を出してしまった。慌てて口を塞ぐ。
 父が眉間の皺を深くする。

「……かまわない。あなたは、そうやってすぐに口を塞ぐが、その姿はみっともないのでやめなさい」
「はい」

 失言は潔く認めろ、ということか。

「賢治兄さん……。つくろわれると寂しいから、打ち解けてほしいと言わないと、伝わらないよ」

 叔父さんはゆっくりと首を振る。しかしそれは的外れというものだ。現に父はぎりぎりと奥歯を噛みしめ、無礼で愚鈍な娘であるあたしへの怒りを、どうにかこらえようと努めている。

「叔父さん、お気を遣われずに……」
「そうだ。気など遣うものではない」

 はっきりと断言する父に、やはりと落胆した。父親の愛情などとうに期待しなくなったと思っていたのに、目の前にしてしまうと、浅ましく求めていた幼い自分を見つけてしまう。

「……うん。この問題は、またあとで取り組もうか」

 額に手を当てた叔父さんはボソリと「似た者同士だからなぁ…」と呟いた。
 誰と誰のことだろうか。まさかあたしと父というわけではないだろう。父が叔父さんに向かって「そうだな」と頷いているのだから。

「話を戻そうか。ぼくが蘭さんに振られたのは、ぼく自身の優柔不断のせいで、賢治兄さんのせいではないよ。駆け落ちなどしたものの、研修途中の身で、他になんの能力もなかったぼくが、お腹に子供を抱えた蘭さんを養っていけるのか、不安だったんだ」

 お腹にこども。まさか。いやしかし、男の顔は、あのロックバンドのギタリストにそっくりだ。純和風の塩顔な叔父さんには、決して似ていない。
 冷や汗が背中を伝う。

「蘭さんのお腹には、ぼくとは違う男性が父親のこどもがいてね。それで交際を反対されていたんだ」
「しかもこどもの父親は日本人でないばかりか、認知せずに出国してしまったからな」
「うん。当時ですら既に連絡も取るのは難しい人になってしまっていたからね」
「蘭くんは遊ばれてしまったのだな」

 苦々しい口調ではあったが、蘭さんを庇うような台詞を父が口にしたことに驚く。婚前交渉はおろか婚前妊娠など、軽蔑以外に感想を持たない人だと思っていたのに。

「うーん……。どうだろうね。蘭さんは奔放な人だったから」

 叔父さんは苦笑して頭をかいた。

「まぁ、それはともかく。家族皆から反対されてね。しかしまぁ、反対されると燃え上がってしまうのが恋というものだから……」

 叔父さんと目が合う。

「それがわかっていたのに、ぼくはきみに、まったく同じことをしていたんだねぇ……」

 気まずくてなってうつむくと、視線の先に肩幅より広げてくつろいだ叔父さんの膝と、同様に広げながらも、膝上にきっちりと拳を置く父の様子が目に入る。

「そんな経緯で情熱的に飛び出したものの、日常生活を送るうちに、ぼくは不安になってしまってね。血を分けた父親のいない子を妊娠していて誰より不安だったろうに。唯一の支えであるはずのぼくが頼りにならないと、蘭さんはぼくに見切りをつけたんだよ」

 父が唸り声をあげる。叔父さんはそんな父に首を傾げ、それから苦笑した。

「とはいえ、生まれたこどもにぼくの名と同じ漢字をあてるとは思わなかったな」
「叔父さんは、最初から彼が――たかしさんが、蘭さんのこどもだって、わかっていたんですか?」
「いや。ぼくは蘭さんのお相手についてはよく知らなかったからね。きみが交際を始めた軽薄そうで信用ならない男が、どうも蘭さんの昔の恋人に似ているらしいということは、最近姉さん――姉から聞いたけど。だから、きみと彼が交際を始めるまでは。いや、ごくごく最近まで、ぼくも知らなかったよ」
「そうですか」

 伯母さんは知っていたのだな、と腑に落ちた。
 男の名前を聞くのは、また今度にする、と言っていた。しかしとうに知っていたのだ。男の名が叔父さんと同じ漢字を持つこと。男の母親が、叔父さんの昔の恋人であったこと。叔父さんが未だに蘭さんを忘れられずにいたこと。

「……違う」

 父がギロリと叔父さんを睨む。

「賢治兄さん?」
「蘭くんが逃げ出したのは、みつるからではない。私から逃げたんだ」
「何を言っているんだい?」

 叔父さんの表情も声も、完全に当惑していた。父が突然何を主張し始めたのかと。

「私は当時、蘭くんに惹かれていた。つまり弟であるみつるの恋人に横恋慕していた」
「「はっ?」」

 叔父さんとあたしの声が、完全に重なった。


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