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第一章 ダフネはアポロンに恋をした

13 ストーカーは実力を発揮しない

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「おかしいでしょ? なんであんたみたいな小娘が、ミツルに歌ってもらえるの?」

 ねえ。だっておかしいでしょ。
 あたしはミツルのエースなのよ。
 なのに、ラスソンで歌ってもらったこともないのよ。
 ねえ。だっておかしいでしょ。

 壊れたレコードのよう。父が大事にしていたLPレコード。ドーリー・ウィルソンの『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』。再生針を落としても、同じメロディを狂ったように延々と垂れ流すだけになった。回転数を合わせても、ちゃんとした音は奏でられない。

 ねえ。だっておかしいでしょ。ねえ。だっておかしいでしょ。ねえ。だっておかしいでしょ。

 無表情の中年の女の口から延々と流れる言葉。抑揚もなく、ずっとずっと繰り返されるそれはまるで呪詛のようでもあり、祝福のようでもあり。どちらにせよ現実味がない。
 そしてまた、目の前の中年女が、医者一族の女とはまた違うタイプのキャリアウーマンのような、きりっとした知性をにじませた、強くて美しい女性だということが、劣等感のような何か『絶対に敵わない格上の存在』に対峙したときの気後れを呼び起こす。
 無意味に相手の機嫌を伺おうとする卑屈な笑みを浮かべてしまう。きっと今のあたしの顔は、ハリー・ポッターに出てくるスクイブのホグワーツ魔法魔術学校の管理人アーガス・フィルチが、厳格で公正なグリフィンドール寮監ミネルバ・マクゴナガルに弁解しようとしているときみたいになっているだろう。

「あの……」

 目の前の圧倒的な力を見せつける婦人の気を損ねないようにと口を開いたところで、自分の声がうまく聞き取れないこと、左耳がとてつもなく熱いこと、なにかがトロリと漏れ出しているような、妙な気配を感じた。首を傾げると、めまいに襲われる。

 そしてあたしは、ようやく左耳をぶたれたことに気がついた。

 中年の女の右手に嵌められた大きな石のついた指輪。街頭の光とそれを受けて輝きを跳ね返す指輪の石。それらの像が歪んだ視界の中で、ぶれて重なっていた。









 いつも通り、退勤後の夜学に向かう途中。
 その日は男が職場ホスクラの引退イベントについて話があると早めに出勤することになった。前日から男はそわそわとしていて「なにかあったら、すぐ連絡しろよ」と何度も念押しされた。
 仕事が終わってスマホを取り出すと、男から鬼のような数のラインがきていた。

『おつかれ。仕事終わった?』
『終わったら連絡して』
『まだ?』

 不在着信

『なんかあった?』

 不在着信
 不在着信

『スマホ見ろ!』

 不在着信
 不在着信
 不在着信

『連絡しろよ!』

 不在着信
 不在着信
 不在着信

『ごめん。心配だから、ホント連絡して』

 不在着信



 ぎょっとした。いったいこれはなんだ。
 普段は既読スルーが基本の男。それなのに。男の執念のようなものを目の当たりにして、初めてぞくっとした。
 右上の音声通話ボタンにタップしようとしたとき、スマホのバイブレーションが男からの着信を告げた。

「今終わった。遅くなってごめんなさい」

 急いで電話に出ると、前面スピーカー部分から吐息まじりのかすれた声がした。

「……そか。よかった」
「心配かけてごめんね」

 弱弱しい声に申し訳なくなる。同時にとんでもなく胸があったかくなった。

「いや。俺こそ。すげぇしつこく悪かった。びっくりしただろ?」

 少し明るくなった男の声にほっとする。

「うん。どうしたの? これまでこんなにかけてくることなかったでしょ? なにかあった?」
「なにかあったっていうか、あるかもって」
「どういうこと?」
「前にユミが、駅前でおまえのこと待ち伏せしてたろ」
「うん」
「あれ、誰の差し金かなんて、まあ一人しかいねぇよなって…」

 濁されたその先を察する。男が心配していること。そしてユミさんが忠告してくれたこと。

『アンタ殺されるよ?』

 どこか冗談だと思っていた。二の腕がぞわりとした。

「でも、まじでよかった……。あとすこしで歯医者に電話する寸前だったわ」
「…………叔父さんが取ったら、ガチャ切りされたかもね」
「たしかに。っつーか院長先生って電話とんの?」
「とるよ。診療時間中はさすがにとらないけど。休憩中とか診療後なら、叔父さん、そういうの嫌がらない人だから」

 とはいえ、叔父さんのペースで予定外の時間枠に捻じ込まれたりして、あとから予約表を見て焦ることも多々あるのだけれど。

「へー。優しいんだな」
「うん。叔父さんは優しいよ」
「そんな優しい院長先生に俺、拒否られてんのかー……」

 男の苦笑が耳元にくすぐったかった。

「あ。今改札入った」
「ん。ホーム端っこ寄るなよ」
「なにそれ。こどもじゃないから、そんなことしないよ」
「ばっか。おまえみてーに体重の軽い女なんか、突き飛ばされたら終わりなんだかんな? ちゃんと周り見ろ」
「歩きながら電話させといて言うこと?」
「…………たしかに」

 男は「んんっ」と喉を鳴らすと「そんじゃ、また乗り換えの駅ついたら連絡して」と言った。

「電話で?」
「あー……。おまえの声聞けば安心するけど、そーすっとおまえの注意力が散漫になるからな……。スタンプでもなんでもいーや」
「わかった。じゃあ、駅に着いたらラインして、学校についたらちょっとだけ電話する」
「…………頼んだ」
「頼まれました」

 ぼそりとつぶやかれた低い声。嬉しくて幸せでくすぐったくて。弾んだ声で返すと、男から最高のご褒美が返ってきた。

「ん。愛してるよ」

 ホームで端っこに寄らなかったかどうかは、正直覚えていない。














 そこからどうしてこうなったのか。


 男が路上で歌っていた場所。ユミさんに声をかけられた場所。そこでは何もなかった。だから男に無事に乗り換えしたよ、とラインを送って、男からスタンプが返ってきて。幸せな気持ちで改札口をくぐって、それから電車に乗って。学校の最寄り駅で降りて。男に着いたよラインを送って。そして。




「ちょっと! 困るよ、ランさん! この子、ちょっといいとこのお嬢さんでさぁ。問題起こすと厄介だって言ったじゃないの」
「あなた達があてにならないから、こうして私が直々に躾けてるんじゃないの!」
「いやー。だからさー。ランさん、息子クンのことになると、ちょっとクルクルパーになるからなぁ」

 いつのまにか側にいた、胡散臭いサングラス男がこめかみのあたりで人差し指をぐるぐると回す。ランさんという女性がきっと睨みつけると、サングラス男は肩をすくめた。

「うるさいっ! ミツルは私のよ! 私の男で、私の息子で、私が股から捻り出して産んだんだ! ミツルをどうしようが、私の勝手でしょ! それを横から掻っ攫うなんて、盗っ人猛々しい!」
「うーん。まぁさぁ。息子クンをランさんがどう扱おうが、知ったこっちゃないんだけどさぁ。その子はマズイんだって」

 男と出会った駅前。ユミさんに声をかけられた、あの場所を超えたから、すっかりもうなにもないと学校へと歩いていた。そこで声をかけられたのだ。「あなた、『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』って歌、知ってる?」と。
 不審に思って振り返ると、とても綺麗な女性がにっこりと笑っていた。そして自身のスマホを取り出すと「この曲よ」と言って、YouTubeの画面を鼻先に突きつけてきた。白黒の。ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマン。ドーリー・ウィルソン。
 頭の中でちかちかと赤いランプが点滅し、ウーウーと警報が鳴り響く。

「あ……の……」
「知らないわよねぇ? 若い人だものね? 流行りの歌くらいしか、聞いたことはないでしょ?」

 気位が高くて美しい、教養のありそうな女性。あたしはバカだから。どうしてもそういう人に。気に入られたいと、まるで本能のように思ってしまって。
 するりと口をついて出たのは。

「いえ。知っています。好きな人が好きな歌なんです」

 あたしは、本当にバカだ。







「こんな小娘! 風俗に沈めなさいよ! アッチに売ったって、」
「おい、そこまでにしとけよ?」

 突然ドスのきいた低い声が響き、ランさんという女性がびくりと肩を震わせた。

「アンタにゃ、色々融通してもらってるし、持ちつ持たれつでやってきてるけどな? だけどこっちのシマまでアンタが口出すのは許されねぇんだ、わかるな?」

 ランさんという女性は顔を赤くしたり青くしたり。二人の会話から締め出されたあたしは、ぼんやりとぐるんぐるん回る小さな宇宙に取り残されたように、なんとか立っている。

「このおじょーちゃんはカタギだ。だけどなぁ。この子の家がな。カタギだけど、そんでも親父も、も世話んなってんだよ。何度も言ったろ? あんまり聞き分けが悪いと、ランさん。アンタが沈むことになるぜ?」

 沈むのは、どこへ。

「ま。とりあえず、このおじょーちゃんは親御さんのところに戻さないとねー」

 サングラス男が眉尻を下げてあたしを見る。おおげさなくらい大きなため息をつき、肩を落とした。

「はぁー。こりゃめんどくさい仕事になっちゃったなぁ」

 男に連絡しなくては。あんなに気にしてくれていたのに。あんなにも。それなのにあたしはバカで。ああ。心配しているだろうな。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
 世界が歪んでいく。


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