9 / 53
第一章 ダフネはアポロンに恋をした
07 ゴールデンレトリバー、飼い始めました
しおりを挟むどれほど互いの話を聞きたい、打ち明け合いたい、いますぐ秘密を共有したいと切望しても、時間は有限。目が覚めた時には、昼食にも遅い時間で、慌ててお腹に詰めこめる何かをがあるか、冷蔵庫を探った。
結果発掘できたのは、冷凍させて小分けにしたご飯と、たまごと、ネギ、人参、しょうが、しめじ。あとはニンニクと玉ねぎが野菜室に入れない『その他』のかごの中で転がっている。
肉のない炒飯でいいかとフライパンを煽っていると、男はテーブルに肘をついて興味深そうにこちらを眺めていた。
「それ、俺の分もある?」
火からおろして皿に盛っていると、男がおそるおそるといった様子で聞いてくる。
何を言っているのだろうか。起き抜けに「腹が減った」と耳元でわめいていたのは、いったい誰だ。
「ちゃんとある。たくさん食べて。あなたがいなかったら、炒飯は作らなかったよ。あたし、寝起きはあまり食べないの」
男の前にスプーンと炒飯を置く。それより半分もない量を盛った皿を手前に置くと、男は「ありがと」と笑った。照れくさそうにしているのが、こそばゆい。
「なに飲む? 炒飯にアイスティーは嫌でしょ? 烏龍茶は切らしてるけど、ほうじ茶ならあるよ。麦茶も沸かせばあるし」
「アイスティーでかまわねーけど」
「そうなの?」
「ああ。っていうか、逆にアイスティーのなにが変なんだ?」
「なにがって……。あれ。そういえばなにが変なんだろ」
首を傾げると、ずきりと首の付け根が痛む。
気怠い腰のほかに、男に抱きこまれた体勢のまま眠る、という不自然極まりないポーズをシングルベッドで長時間続けていたせいで、首や肩、あちこちが痛い。
「うーん。なんとなく炒飯には烏龍茶な気がしてた。たぶん、最初に食べた炒飯が烏龍茶と一緒だったからもしれない」
「あんたんちのおふくろさんは、メシに合わせて茶を変えてくれるんだな」
「え? 母は料理しないよ?」
「あ? じゃー誰がメシを……いやそれはいーや。そんじゃ外食でってこと?」
「うん、そう。叔父さんが連れてってくれたの。中学生のころ、どうしても炒飯が食べてみたいってお願いしたんじゃなかったかな」
「へー……。なんかいろいろ突っこんで聞いてみてぇんだけど、時間がねぇな…」
床に転がる時計に目を眇めると、男は舌打ちした。
「仕事が終わったら、また来ればいいよ。待ってる」
大丈夫。断られない。
そう思いながらも、すごくドキドキした。
寝て起きてみたら、やっぱり違った。そんなふうに思っていたらどうしよう。でもきっと男なら、別れる間際まで、優しくて甘い夢を見せてくれるだろう。
冷酷で突き放すような言葉なんて、きっと投げかけない。
「…………いいの?」
スプーンをくわえたまま上目づかいで縋る姿は、従順な大型犬のようだ。
寝癖であちこち跳ねるダークブロンドの髪。
こういう犬がいた。
こげ茶色の垂れ目に黒い湿った鼻。ピンク色の舌を出してはっはっと息を切らす。耳がペタンとたれて、穏やかで賢くて好奇心旺盛で忠実な狩猟犬。
そっくり。口元がゆるむ。
「当然。言ったでしょ? 部屋にも人生にもいてほしいって」
「勢いに飲まれてんのかと」
「それ、あたしの台詞」
わざとらしく頬をふくらませてみせると、男は笑った。
よく笑う男だ。歯医者で見せていた、あの無愛想っぷりはなんだったのか。
夜学部の始まる時間と男の出勤時間はほとんど同じ。だからこそあの駅で男はあたしを見かけることがあったのだろう。
男は出勤前のヘアメイクに。あたしは実習の準備に。
「そんじゃ、また夜に」
頭にぽんと手をのせると男は駅前の雑踏に消えた。
その日の実習は、顎模型をテーブルに載せてのスケーリングだった。あたしは歯根に印したピンク色のマニキュアをうまく消すことができなかったのに、ずっとヘラヘラしていた。
同じ実習班で隣の席に座るのは、歯科助手として数年働いている、あたしよりいくつか年上の優しい人で、彼女はあたしの手元を見て、それからあたしの顔を見て、おっとりと微笑んだ。
「手に持ってるそれ。プローブよ?」
歯周ポケットを測るためのプローブ。その目盛りにはところどころピンク色のマニキュアがまとわりついていた。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
前略、旦那様……幼馴染と幸せにお過ごし下さい【完結】
迷い人
恋愛
私、シア・エムリスは英知の塔で知識を蓄えた、賢者。
ある日、賢者の天敵に襲われたところを、人獣族のランディに救われ一目惚れ。
自らの有能さを盾に婚姻をしたのだけど……夫であるはずのランディは、私よりも幼馴染が大切らしい。
「だから、王様!! この婚姻無効にしてください!!」
「My天使の願いなら仕方ないなぁ~(*´ω`*)」
※表現には実際と違う場合があります。
そうして、私は婚姻が完全に成立する前に、離婚を成立させたのだったのだけど……。
私を可愛がる国王夫婦は、私を妻に迎えた者に国を譲ると言い出すのだった。
※AIイラスト、キャラ紹介、裏設定を『作品のオマケ』で掲載しています。
※私の我儘で、イチャイチャどまりのR18→R15への変更になりました。 ごめんなさい。
【完結】王太子妃の初恋
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
カテリーナは王太子妃。しかし、政略のための結婚でアレクサンドル王太子からは嫌われている。
王太子が側妃を娶ったため、カテリーナはお役御免とばかりに王宮の外れにある森の中の宮殿に追いやられてしまう。
しかし、カテリーナはちょうど良かったと思っていた。婚約者時代からの激務で目が悪くなっていて、これ以上は公務も社交も難しいと考えていたからだ。
そんなカテリーナが湖畔で一人の男に出会い、恋をするまでとその後。
★ざまぁはありません。
全話予約投稿済。
携帯投稿のため誤字脱字多くて申し訳ありません。
報告ありがとうございます。
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる