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第2部
34 歌劇『リナルド』
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前カドガン伯爵はアスコット子爵をじっと見つめると、瞑目した。額に手を当て、小さく首を振る。鼻から吐き出される息が、疲れたような音を滲ませている。
「なんだ? 何かおかしなことでも?」
利かん坊に戸惑うような前カドガン伯爵の素振りに、アスコット子爵が気色ばむ。前カドガン伯爵は手のひらを見せ「いや」と断った。
「すまない。呆れているのは己自身についてだ。セシル、君にではない」
アスコット子爵がますます不可解そうに眉をひそめ、顎をそらした。
前カドガン伯爵は親指でくちびるをなぞる。
「つまり」
もう一度大きくため息をついた。
「以前はレティを。今はポリーを。パートナーである女性に、自身の受けるべき悪徳の咎や非難を押し付け、私はのうのうと被害者であるかのように振る舞っていたということだ。それすら気が付かずに」
前カドガン伯爵が肩をすくめる。
「とんだ悪党だな、私は。その上、救いようのない阿呆ときた」
そう言うと、前カドガン伯爵は無理やりに笑って見せた。そのぎこちない道化に、アスコット子爵が言葉を詰まらせる。
その隙にアボット侯爵が前カドガン伯爵へ、一杯のコニャックを差し出す。
「口滑りがよくなりますよ、ギルバート坊ちゃん」
「ええ。感謝いたします、先生」
前カドガン伯爵は苦笑を浮かべて受け取り、グラスを傾けた。ほとんど一気というように呷ると、粗野と評してもいいような仕草で口元を拭う。
大抵において紳士的な振る舞いを崩さない前カドガン伯爵。似つかわしくない振る舞いに、思わず目を瞬くと、真珠姫がこっそりと耳打ちしてきた。
「ギルはお酒に弱いの。お可愛らしいでしょう?」
訳知り顔で真珠姫がアラン様に目配せする。アラン様は慌てて咳払いをした。
あら。
アラン様ったら、もしかして。
「ふふ。メアリーさん。伯爵にお願いごとをなさるなら、一杯おすすめになるとよろしいわよ。うんとお強いものをね。アブサンなんていかがかしら」
「――ニガヨモギはあまり好みません」
口元を覆い、アラン様が視線を彷徨わせる。
「あら。ニガヨモギは歯痛にも効きますのよ。好き嫌いしてはダメですわ」
コロコロと笑う真珠姫。アラン様が困ったようにわたしを見る。見えないお耳がペタリと垂れて、くぅんと鳴き声までしてきそうな様子に、思わす口元がゆるんでしまう。
「メアリー……」
ああ。そんな情けないようなお声を出されて。
「ごめんなさい。だってアラン様があまりにお可愛らしくて」
「――ヘンデルの、あのアリアを思い出した」
「アリアですか?」
「ああ。歌劇『リナルド』の第二幕だ。『私を泣かせてください』」
「まぁ」
珍しくアラン様が冗談など口にするものだから、おかしくなって軽口が弾んでしまう。
「では総司令官の娘アルミレーナがアラン様で、騎士リナルドがわたしかしら」
そこへ真珠姫が悪戯っぽく割り込む。
「するとあたくしは美しい娘、アルミレーナに横恋慕するエルサレムの王アルガンテかしら? それとも彼の恋人、アルミーダかしら」
コニャックのグラスを片手にくすくすと笑う真珠姫につられ、顔を寄せて笑い合う。真珠姫の吐息には甘い酒精が漂い、目を見れば赤く潤んでいた。
真珠姫もさほど酒に強いわけではないのかもしれない。
アラン様はますます困ったようにため息をついた。
けれど、その束の間の和やかな空気が一変する。
「アルミーダに決まっているでしょう。人の男を奪い取ろうとする悪役の魔女。あなたにぴったりだわ」
振り返ると、オルグレン婦人がしかめつらをしてワイングラスを睨んでいた。ステムが折れそうなほど、力をこめて握りしめている。泡黄色のワインの水面は波打っていた。
真珠姫がオルグレン婦人のかすかに震える青白い手に、自身の手を添える。
「では前カドガン伯爵元夫人。いいえ。スカーレット様」
「――図々しい人」
オルグレン婦人の悪態に、真珠姫はくるりと目玉を回した。
「それがあたくしですから」
「よく知っているわ」
ぎこちなく引きつったオルグレン婦人の微笑みに、真珠姫が微笑み返す。
「スカーレット様がアルガンテ王の役をしてくださるの? アルミレーナ=カドガン伯爵に求愛するのかしら?」
「いいえ。ヘンデルは古いわ。確かに素晴らしいけれど、もう見飽きたもの。今は『薔薇族の男達』が流行りよ。国立歌劇場ではなく、小さな芝居小屋で。楽団の演奏はどうにも野暮ったいけれど、歌も芝居も。それに俳優が素晴らしいわ」
きっぱりと断るとオルグレン婦人は、目をすがめて言った。
「アラン。相変わらずお前は、流行から外れているわね」
アラン様は両手で顔を覆って、深く深く息を吸い、そして吐き出した。
「ええ。母上。俺はまったく。最新と名のつくものにはついていけませんよ。あなた方女性の、最新の結びつきも」
真珠姫とわたしとオルグレン婦人と。声をあげて笑った。
疲れたようにうなだれるアラン様と姦しい女たちを、前カドガン伯爵は苦笑して。アボット侯爵は好奇心を隠さずに。アスコット子爵は驚愕に目を見開いて眺めた。
部屋の中はしばらく、蝋燭の炎よりずっと明るい声で溢れていた。
-------
※ アブサン…ニガヨモギが主原料の薬用酒。
※ ヘンデル… バロック音楽を代表する作曲家。『リナルド』はヘンデルのロンドンにおける初演が初となるオペラで、発表当時、プロテスタントのプロパガンダを担ったオペラ。
以上の品、また人名等について、今世界でも同等のそれらが存在することにしております。
偉人を讃えることはあれども、貶める意図はございません。
お目こぼしいただけますと幸いです。
「なんだ? 何かおかしなことでも?」
利かん坊に戸惑うような前カドガン伯爵の素振りに、アスコット子爵が気色ばむ。前カドガン伯爵は手のひらを見せ「いや」と断った。
「すまない。呆れているのは己自身についてだ。セシル、君にではない」
アスコット子爵がますます不可解そうに眉をひそめ、顎をそらした。
前カドガン伯爵は親指でくちびるをなぞる。
「つまり」
もう一度大きくため息をついた。
「以前はレティを。今はポリーを。パートナーである女性に、自身の受けるべき悪徳の咎や非難を押し付け、私はのうのうと被害者であるかのように振る舞っていたということだ。それすら気が付かずに」
前カドガン伯爵が肩をすくめる。
「とんだ悪党だな、私は。その上、救いようのない阿呆ときた」
そう言うと、前カドガン伯爵は無理やりに笑って見せた。そのぎこちない道化に、アスコット子爵が言葉を詰まらせる。
その隙にアボット侯爵が前カドガン伯爵へ、一杯のコニャックを差し出す。
「口滑りがよくなりますよ、ギルバート坊ちゃん」
「ええ。感謝いたします、先生」
前カドガン伯爵は苦笑を浮かべて受け取り、グラスを傾けた。ほとんど一気というように呷ると、粗野と評してもいいような仕草で口元を拭う。
大抵において紳士的な振る舞いを崩さない前カドガン伯爵。似つかわしくない振る舞いに、思わず目を瞬くと、真珠姫がこっそりと耳打ちしてきた。
「ギルはお酒に弱いの。お可愛らしいでしょう?」
訳知り顔で真珠姫がアラン様に目配せする。アラン様は慌てて咳払いをした。
あら。
アラン様ったら、もしかして。
「ふふ。メアリーさん。伯爵にお願いごとをなさるなら、一杯おすすめになるとよろしいわよ。うんとお強いものをね。アブサンなんていかがかしら」
「――ニガヨモギはあまり好みません」
口元を覆い、アラン様が視線を彷徨わせる。
「あら。ニガヨモギは歯痛にも効きますのよ。好き嫌いしてはダメですわ」
コロコロと笑う真珠姫。アラン様が困ったようにわたしを見る。見えないお耳がペタリと垂れて、くぅんと鳴き声までしてきそうな様子に、思わす口元がゆるんでしまう。
「メアリー……」
ああ。そんな情けないようなお声を出されて。
「ごめんなさい。だってアラン様があまりにお可愛らしくて」
「――ヘンデルの、あのアリアを思い出した」
「アリアですか?」
「ああ。歌劇『リナルド』の第二幕だ。『私を泣かせてください』」
「まぁ」
珍しくアラン様が冗談など口にするものだから、おかしくなって軽口が弾んでしまう。
「では総司令官の娘アルミレーナがアラン様で、騎士リナルドがわたしかしら」
そこへ真珠姫が悪戯っぽく割り込む。
「するとあたくしは美しい娘、アルミレーナに横恋慕するエルサレムの王アルガンテかしら? それとも彼の恋人、アルミーダかしら」
コニャックのグラスを片手にくすくすと笑う真珠姫につられ、顔を寄せて笑い合う。真珠姫の吐息には甘い酒精が漂い、目を見れば赤く潤んでいた。
真珠姫もさほど酒に強いわけではないのかもしれない。
アラン様はますます困ったようにため息をついた。
けれど、その束の間の和やかな空気が一変する。
「アルミーダに決まっているでしょう。人の男を奪い取ろうとする悪役の魔女。あなたにぴったりだわ」
振り返ると、オルグレン婦人がしかめつらをしてワイングラスを睨んでいた。ステムが折れそうなほど、力をこめて握りしめている。泡黄色のワインの水面は波打っていた。
真珠姫がオルグレン婦人のかすかに震える青白い手に、自身の手を添える。
「では前カドガン伯爵元夫人。いいえ。スカーレット様」
「――図々しい人」
オルグレン婦人の悪態に、真珠姫はくるりと目玉を回した。
「それがあたくしですから」
「よく知っているわ」
ぎこちなく引きつったオルグレン婦人の微笑みに、真珠姫が微笑み返す。
「スカーレット様がアルガンテ王の役をしてくださるの? アルミレーナ=カドガン伯爵に求愛するのかしら?」
「いいえ。ヘンデルは古いわ。確かに素晴らしいけれど、もう見飽きたもの。今は『薔薇族の男達』が流行りよ。国立歌劇場ではなく、小さな芝居小屋で。楽団の演奏はどうにも野暮ったいけれど、歌も芝居も。それに俳優が素晴らしいわ」
きっぱりと断るとオルグレン婦人は、目をすがめて言った。
「アラン。相変わらずお前は、流行から外れているわね」
アラン様は両手で顔を覆って、深く深く息を吸い、そして吐き出した。
「ええ。母上。俺はまったく。最新と名のつくものにはついていけませんよ。あなた方女性の、最新の結びつきも」
真珠姫とわたしとオルグレン婦人と。声をあげて笑った。
疲れたようにうなだれるアラン様と姦しい女たちを、前カドガン伯爵は苦笑して。アボット侯爵は好奇心を隠さずに。アスコット子爵は驚愕に目を見開いて眺めた。
部屋の中はしばらく、蝋燭の炎よりずっと明るい声で溢れていた。
-------
※ アブサン…ニガヨモギが主原料の薬用酒。
※ ヘンデル… バロック音楽を代表する作曲家。『リナルド』はヘンデルのロンドンにおける初演が初となるオペラで、発表当時、プロテスタントのプロパガンダを担ったオペラ。
以上の品、また人名等について、今世界でも同等のそれらが存在することにしております。
偉人を讃えることはあれども、貶める意図はございません。
お目こぼしいただけますと幸いです。
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