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第2部
24 僕の武勇伝、聞いてくれる?
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「……思いもよらないことがたくさん起こりましたが、アラン様がお傍にいてくださったので心強かったですわ」
アスコット子爵がどこから切り込んでくるのか。
初めての夜会での社交がこれだなんて。
顧客相手の駆け引きとは種類の異なるやり取り。
留意することが違う。落とし穴にはまったときに被る不利益が違う。
せっかく学園に通っているのだから、貴族令嬢の方々と商売目的だけでなく、私的な関わり合いを目的にもっと積極的に交流しておくのだったと後悔する。
アスコット子爵はグラスを飲み干すと目を眇められた。子爵の唇がワインで濡れている。
「そのアランが目論んだことかもしれないけどね」
「……どういうことでしょう?」
何をどこまで知り、疑っているのか。
アラン様から何も知らされていないわたしを丸め込もうとしているのか。
グラスの脚を掴む手にぎゅっと力が入る。
「さあね。僕もよくわからないよ。ただ今夜の夜会にはなぜか交流の途絶えて久しい寄親から招待された」
アスコット子爵は肩を竦め、ワインクーラーからボトルを抜き取る。
氷がカラカラと涼し気な音を立て、玉のような水滴がボトルから滴った。アスコット子爵はワインクーラー脇に置かれたトーションでボトルを拭い、グラスに注ぐ。
手慣れた流麗な所作に見惚れ、全く手が出せないうちに、グラスは冷えた白ワインで満たされている。
わたしの所在なさげに浮かんだ手に気が付いたアスコット子爵は目を瞬き、それから思わずといったように眉尻を下げた。
目尻に柔らかな皺を刻み、お顔全体をくしゃっとさせて。
それはとても自然な笑顔で、肩の力の抜けた、気の張らないアスコット子爵本来のお姿のようにも見えた。
「失礼。こういったことには慣れていてね。若い頃、真面目に大学に通わず友人と遊び歩いていた時期があるんだ。まあ遊ぶには何にしても金のかかることだ。身分を偽って給仕の真似事をして食いつないでいたよ」
懐かしそうに過去に思いを巡らすアスコット子爵は、目を細めて目尻の皺を刻み。口元には悪戯な微笑を浮かべられている。
アスコット子爵にとってよい思い出なのだろう。
穏やかなお顔に邪気の一欠けらもなく、まるで少年のようだった。
「……あの時の貴方はどうかしていたわ」
お母様が疲れたように、けれどしっかりとしたお声でお言葉を口にされた。
「心外だな……いや、確かにそうだ」
くつくつと笑ってアスコット子爵は手にしたグラスをぐるりと回される。シャンデリアから注ぐ温かなオレンジ色の光が淡黄色の液体の水面で揺れる。
「だがそのおかげで妻と出会った」
アスコット子爵は揺れるワインの水面をじっと眺めている。
お母様は眉根を寄せられた。
「貴方が彼女を連れてきたとき、我が家が驚天動地一色になったこと、忘れられないわ」
額に手を当て溜息をつかれると。お母様はジロリとアスコット子爵を睨めあげる。
「全く貴方ときたら。散々遊び歩き回ってなかなか落ち着かないと思ったら、突然彼女を連れてきて。
お母様は倒れられてしまうし、お祖父様なんてあまりのことにお父様に爵位返上させるところだったじゃないの」
「お祖父様は特に貴族として誇り高くあろうとされたお方だったから」
くどくどと恨み言を連ねるお母様に、アスコット子爵は肩を竦ませる。そして銀色の瞳に冷たい光が差す。
「してやったりだと思ったよ。あのお方のお陰で、姉さんも僕も散々人生を狂わせられた」
「……お祖父様はアスコット子爵として貴族として当然のことをしたまでよ。非道なことなんて何一つしていない」
お母様はアスコット子爵から視線を外すと俯き、小さいお声で反論された。
細い指と指が絡められ、ドレスの上でぎゅっと握りしめられる。
ワインを口に含まれたアスコット子爵は痛ましげにお母様を見られ、ふっと口の端を歪められた。
「そうだね。出来の悪い僕が悪かったんだろう。お祖父様曰く『由緒正しいオルグレン=アスコット家』の嫡男たる資質が、僕にはなかったんだ」
「そんなことは……」
「ない、はずがないよね? 姉さんだって知っているだろう。どれだけ優秀な教師陣から高等教育を施されようが。なんとか追いつこうと努力しようとも、僕はギルに敵わなかったし、実力差を素直に認めることも出来やしなかった。
不貞腐れて恨んで憎んでヤツの足をどう引っ張ろうか、それだけしか頭になかった」
グラスのボウル部分を持って傾け、一気に煽ったアスコット子爵は、たんっと小気味のいい音を立ててテーブルにグラスを置かれる。
「未だに僕は貴族でいなくちゃいけないことに、座りが悪くて仕方がないよ」
グラスの脚を握ったままオルグレン姉弟の会話の外でおいてけぼりを食らっていたわたし。
姉弟以外の他人の存在をたった今思い出したかのように、アスコット子爵は悪戯っぽく微笑まれた。それから、やや演技がかったように、額に落ちた前髪をかき上げる。
その仕草は、エインズワース様が学園で、女生徒の前で振る舞われる様子を思い起こさせた。
「僕の武勇伝、聞いてくれる?」
「武勇伝ですか?」
「そう。酒の席で大仰に誇張されるやつさ。年を取った男が若い娘の気を引くために、過去の栄光――それも虚飾に彩られた悪行譚に縋る、どれだけみっともなくて愚かだったかの自慢披露ってわけ」
アスコット子爵は立ち上がり、ウォルナットのキャビネットからコニャックのボトルとグラスを手に取られた。
慌ててわたしも立ち上がり、アスコット子爵が飲み干されたワイングラスをテーブルから下げ、子爵からボトルを譲り受ける。
アスコット子爵は抵抗されることなくわたしにボトルを預けられ、ソファに沈み込まれた。
「僕の妻は元娼婦なんだ」
真っ直ぐアスコット子爵を見つめてお話を聞いていることを示すために軽く頷き、グラスにコニャックを注ぎ入れる。アスコット子爵は「ありがとう」と微笑まれた。
「没落した貴族のご令嬢が身を崩したっていう、よくある話なんだけどね」
コニャックのボトルをワインクーラーから少し離れた場所に音を立てずに置く。琥珀色の美しい液体が僅かに波立った。
アスコット子爵の正面に腰を下ろすと、子爵はコニャックを口に含まれているところだった。グラスを手にしたまま膝の上に置かれる。
「メアリー嬢。君をここに招いたのは、愚かな男の自分勝手な懺悔をしたかったからなんだ」
「懺悔……」
「君にとってはとてもじゃないけど、聞いていて楽しい話ではない。申し訳ないね」
肩を竦めて自嘲されるかのように、投げやりな様子さえ見せるアスコット子爵。
お母様はソファに凭れかけていらしたお体を起こしながらも、怯えたように御身を震わせる。
「何を言い出すの!」
蒼白なお顔でお母様が悲痛なお声で叫ばれる。
「姉さんごめんね。全部僕のせいだ」
「セシル!」
悲鳴を上げて立ち上がろうとするお母様の側に寄り、アスコット子爵はお母様の肩に手を置かれ、やんわりとソファに押し戻そうとされた。
「アスコット子爵位はアボット侯爵の了承を得てから、アランに委譲する。子爵位を継ぐ正当性のためにも、アランが姉さんをコールリッジ家から追い出すことはないから安心して」
「……あの子はギルバートを除籍したじゃないの……」
弱々しく反論されるお母様に、アスコット子爵は目を瞬いた。
「カドガン伯爵位を生前譲位したギルとは違うよ。明らかにギル本人の意志で嫡男に譲位しているんだ。難癖のつけようがない」
項垂れてお顔を両手で覆ってしまわれたお母様には聞こえないくらいの小さなお声で、アスコット子爵は呟かれる。「除籍だってどうせギルの望みだろう」と。
わたしもそう思う。
とはいえ、前カドガン伯爵を恨んでおられるご様子のアスコット子爵が、なぜそこまで察しておられるのかは不思議でならない。
「だけどアスコット子爵位はそうはいかない。オルグレン家の血を引くとはいえ、アランはコールリッジ家の当主だ。姉さんまで追い出して子爵位を継ごうものなら、さすがにオルグレン一族が黙っちゃいない」
カチャリと扉が開き、アスコット子爵が振り返る。
「そうだよね?アラン」
扉の向こう、仄暗い廊下に立つアラン様は眉間に皺を深く刻み口元を固く引き結ばれていた。
アスコット子爵がどこから切り込んでくるのか。
初めての夜会での社交がこれだなんて。
顧客相手の駆け引きとは種類の異なるやり取り。
留意することが違う。落とし穴にはまったときに被る不利益が違う。
せっかく学園に通っているのだから、貴族令嬢の方々と商売目的だけでなく、私的な関わり合いを目的にもっと積極的に交流しておくのだったと後悔する。
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「……どういうことでしょう?」
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「さあね。僕もよくわからないよ。ただ今夜の夜会にはなぜか交流の途絶えて久しい寄親から招待された」
アスコット子爵は肩を竦め、ワインクーラーからボトルを抜き取る。
氷がカラカラと涼し気な音を立て、玉のような水滴がボトルから滴った。アスコット子爵はワインクーラー脇に置かれたトーションでボトルを拭い、グラスに注ぐ。
手慣れた流麗な所作に見惚れ、全く手が出せないうちに、グラスは冷えた白ワインで満たされている。
わたしの所在なさげに浮かんだ手に気が付いたアスコット子爵は目を瞬き、それから思わずといったように眉尻を下げた。
目尻に柔らかな皺を刻み、お顔全体をくしゃっとさせて。
それはとても自然な笑顔で、肩の力の抜けた、気の張らないアスコット子爵本来のお姿のようにも見えた。
「失礼。こういったことには慣れていてね。若い頃、真面目に大学に通わず友人と遊び歩いていた時期があるんだ。まあ遊ぶには何にしても金のかかることだ。身分を偽って給仕の真似事をして食いつないでいたよ」
懐かしそうに過去に思いを巡らすアスコット子爵は、目を細めて目尻の皺を刻み。口元には悪戯な微笑を浮かべられている。
アスコット子爵にとってよい思い出なのだろう。
穏やかなお顔に邪気の一欠けらもなく、まるで少年のようだった。
「……あの時の貴方はどうかしていたわ」
お母様が疲れたように、けれどしっかりとしたお声でお言葉を口にされた。
「心外だな……いや、確かにそうだ」
くつくつと笑ってアスコット子爵は手にしたグラスをぐるりと回される。シャンデリアから注ぐ温かなオレンジ色の光が淡黄色の液体の水面で揺れる。
「だがそのおかげで妻と出会った」
アスコット子爵は揺れるワインの水面をじっと眺めている。
お母様は眉根を寄せられた。
「貴方が彼女を連れてきたとき、我が家が驚天動地一色になったこと、忘れられないわ」
額に手を当て溜息をつかれると。お母様はジロリとアスコット子爵を睨めあげる。
「全く貴方ときたら。散々遊び歩き回ってなかなか落ち着かないと思ったら、突然彼女を連れてきて。
お母様は倒れられてしまうし、お祖父様なんてあまりのことにお父様に爵位返上させるところだったじゃないの」
「お祖父様は特に貴族として誇り高くあろうとされたお方だったから」
くどくどと恨み言を連ねるお母様に、アスコット子爵は肩を竦ませる。そして銀色の瞳に冷たい光が差す。
「してやったりだと思ったよ。あのお方のお陰で、姉さんも僕も散々人生を狂わせられた」
「……お祖父様はアスコット子爵として貴族として当然のことをしたまでよ。非道なことなんて何一つしていない」
お母様はアスコット子爵から視線を外すと俯き、小さいお声で反論された。
細い指と指が絡められ、ドレスの上でぎゅっと握りしめられる。
ワインを口に含まれたアスコット子爵は痛ましげにお母様を見られ、ふっと口の端を歪められた。
「そうだね。出来の悪い僕が悪かったんだろう。お祖父様曰く『由緒正しいオルグレン=アスコット家』の嫡男たる資質が、僕にはなかったんだ」
「そんなことは……」
「ない、はずがないよね? 姉さんだって知っているだろう。どれだけ優秀な教師陣から高等教育を施されようが。なんとか追いつこうと努力しようとも、僕はギルに敵わなかったし、実力差を素直に認めることも出来やしなかった。
不貞腐れて恨んで憎んでヤツの足をどう引っ張ろうか、それだけしか頭になかった」
グラスのボウル部分を持って傾け、一気に煽ったアスコット子爵は、たんっと小気味のいい音を立ててテーブルにグラスを置かれる。
「未だに僕は貴族でいなくちゃいけないことに、座りが悪くて仕方がないよ」
グラスの脚を握ったままオルグレン姉弟の会話の外でおいてけぼりを食らっていたわたし。
姉弟以外の他人の存在をたった今思い出したかのように、アスコット子爵は悪戯っぽく微笑まれた。それから、やや演技がかったように、額に落ちた前髪をかき上げる。
その仕草は、エインズワース様が学園で、女生徒の前で振る舞われる様子を思い起こさせた。
「僕の武勇伝、聞いてくれる?」
「武勇伝ですか?」
「そう。酒の席で大仰に誇張されるやつさ。年を取った男が若い娘の気を引くために、過去の栄光――それも虚飾に彩られた悪行譚に縋る、どれだけみっともなくて愚かだったかの自慢披露ってわけ」
アスコット子爵は立ち上がり、ウォルナットのキャビネットからコニャックのボトルとグラスを手に取られた。
慌ててわたしも立ち上がり、アスコット子爵が飲み干されたワイングラスをテーブルから下げ、子爵からボトルを譲り受ける。
アスコット子爵は抵抗されることなくわたしにボトルを預けられ、ソファに沈み込まれた。
「僕の妻は元娼婦なんだ」
真っ直ぐアスコット子爵を見つめてお話を聞いていることを示すために軽く頷き、グラスにコニャックを注ぎ入れる。アスコット子爵は「ありがとう」と微笑まれた。
「没落した貴族のご令嬢が身を崩したっていう、よくある話なんだけどね」
コニャックのボトルをワインクーラーから少し離れた場所に音を立てずに置く。琥珀色の美しい液体が僅かに波立った。
アスコット子爵の正面に腰を下ろすと、子爵はコニャックを口に含まれているところだった。グラスを手にしたまま膝の上に置かれる。
「メアリー嬢。君をここに招いたのは、愚かな男の自分勝手な懺悔をしたかったからなんだ」
「懺悔……」
「君にとってはとてもじゃないけど、聞いていて楽しい話ではない。申し訳ないね」
肩を竦めて自嘲されるかのように、投げやりな様子さえ見せるアスコット子爵。
お母様はソファに凭れかけていらしたお体を起こしながらも、怯えたように御身を震わせる。
「何を言い出すの!」
蒼白なお顔でお母様が悲痛なお声で叫ばれる。
「姉さんごめんね。全部僕のせいだ」
「セシル!」
悲鳴を上げて立ち上がろうとするお母様の側に寄り、アスコット子爵はお母様の肩に手を置かれ、やんわりとソファに押し戻そうとされた。
「アスコット子爵位はアボット侯爵の了承を得てから、アランに委譲する。子爵位を継ぐ正当性のためにも、アランが姉さんをコールリッジ家から追い出すことはないから安心して」
「……あの子はギルバートを除籍したじゃないの……」
弱々しく反論されるお母様に、アスコット子爵は目を瞬いた。
「カドガン伯爵位を生前譲位したギルとは違うよ。明らかにギル本人の意志で嫡男に譲位しているんだ。難癖のつけようがない」
項垂れてお顔を両手で覆ってしまわれたお母様には聞こえないくらいの小さなお声で、アスコット子爵は呟かれる。「除籍だってどうせギルの望みだろう」と。
わたしもそう思う。
とはいえ、前カドガン伯爵を恨んでおられるご様子のアスコット子爵が、なぜそこまで察しておられるのかは不思議でならない。
「だけどアスコット子爵位はそうはいかない。オルグレン家の血を引くとはいえ、アランはコールリッジ家の当主だ。姉さんまで追い出して子爵位を継ごうものなら、さすがにオルグレン一族が黙っちゃいない」
カチャリと扉が開き、アスコット子爵が振り返る。
「そうだよね?アラン」
扉の向こう、仄暗い廊下に立つアラン様は眉間に皺を深く刻み口元を固く引き結ばれていた。
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