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第二章
第一話 勃たない(1)
しおりを挟む「殿下。抱いていただけますか?」
「……は?」
コーエンは目の前に現れた褐色の肌の美女を目にするなり固まった。手にしていたカトラリーが床に滑り落ち、かちゃーんと音をたてる。
「……は? ……え?」
しばし呆然としたあと、コーエンは額に手を当て目を瞑る。燭台の上の蝋燭の炎はじじじ、と静かに燃え、蝋がぽたりと垂れる。
大きな手で顔を覆うコーエンを前に、ヘクセは僅かな物音を立てることもなく、上品に小さくナイフで切り分けた白身魚のソテーを口に運んだ。アスパラガスとポテトといった付け合せの野菜にレモンマスタードソースを絡ませて食べると、ふわっと香る爽やかなレモンとピリっとしたマスタードが効いて、とても美味しい。
今晩のメイン、白身魚のソテーに合わせたのはリースリングだ。洋梨や白い花の甘い香りのする、華やかで上品な白ワイン。微発泡のミネラル感のある辛口で、ヘクセの好きな銘醸地の品。
ヘクセはワイングラスのボウル底を手に傾け、口に含むとコクリと喉を鳴らした。
「…………ちょっと待て。それはもしかして…」
大きな手で顔を覆い俯いたまま、低く唸るように声を絞り出すコーエンに、ヘクセは感情を声にのせずに答えた。
「お察しの通り、ニヒトですわ。コーエン」
ヘクセが静かにワイングラスをテーブルに置く。ヘクセとはまた違う種類の妖艶さを漂わせた褐色の肌の美女は、それを目にするなり、ワインクーラーからボトルを抜き取った。カラカラと涼しげな氷の音。
ボトルに滴る水滴を真っ白に輝くトーションで拭って、ニヒトだと呼ばれた美女が空いたグラスにワインを注いだ。
「ありがとう」
にこりと微笑むヘクセに、褐色の美女もとろりとした琥珀色の瞳を細めて礼をする。そのまま下がろうとする麗しい異邦の美女のしなやかな腕を、ヘクセがとどめた。
そしてワインボトルを手にしていない、トーションを肘下に垂れさせた方の腕にするりと自らの手を絡めた。
「コーエンはニヒトが男だから抱く気にはならないと仰っていたでしょう?」
コーエンはテーブルに肘をつき両手で顔を覆っていた。そんな夫の苦悩する姿に、ヘクセは赤い紅を引きぽってりと官能的な唇を吊り上げる。
「女性のニヒトでしたらいかがです? 抱きたくなりまして?」
コーエンはのろのろとした仕草で両手を下ろし、顔を上げる。そこには麗しい美女二人が互いの腕を妖艶に絡ませ、誘うような怪しく魅惑的な様子でコーエンに笑いかけていた。
コーエンは再び手で顔を覆った。
「あら?」
ヘクセが小首を傾げる。豊かな黒髪がふわりと揺れ、褐色の美女の腕を撫でる。褐色の美女――ニヒトはコーエンが目を覆っているのをいいことに、手にしていたボトルから手を放し、宙に浮いたそれをワインクーラーへと滑り込ませる。
からり、とボトルと氷の触れ合う涼やかな音と蝋燭に灯された火の燃える音。
静かな部屋で衣擦れの音が加わる。
「ニヒト、コーエンが俯いてしまったわ」
うっとりと琥珀色の瞳を揺らめかして見下ろすニヒトへと、ヘクセは顔を上げる。
ニヒトは空いた手でヘクセの髪を一房持ち上げた。
途端にリースリングとは違う、南国の果物のような、濃厚な甘い匂いがヘクセの鼻先をかすめる。
嗅ぎなれた、けれどだいぶご無沙汰になった、ニヒトの官能と淫蕩を誘う匂い。
「では奥様。久しぶりに私めと遊びますか?」
ニヒトがヘクセの髪に口づけを落としたところで、がたりとテーブルが揺れ、ヘクセの向かい側で椅子の倒れる大きな音がした。
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