上 下
20 / 45
外伝 そして令嬢は悪魔の戯れに堕ちた

第六話 神話と説教

しおりを挟む



 しかしニヒトから目をそらして内心葛藤していると、ニヒトがブツブツと小声で何かを漏らしている。
 なんだろう? と耳を傾けてみると、案の定というべきか。またもやオーディン様を罵っている。


「……まったく口惜しい。フェンリルなぞに弑されておらねば、私めがこの手でくびり殺してやったものを……」

「ニヒト!」


 ニヒトの手を振り払って厳しい声を上げると、ニヒトはそれまでの憎悪に満ちたおぞましい表情を改め、麗しい顔立ちに柔和で優美な微笑を浮かべる。


「はい。なんでございましょう」

「『なんでございましょう』ではないわ! あなた今、またオーディン様に不穏なことを呟いていたでしょう!」


 厳しく問い詰めようと顔を近づけると、ニヒトは琥珀色の瞳をとろりと細め、頬を染めて近寄せてくるので、思わず身を引いた。


「まさか。私めがお嬢様のお言いつけを破るわけがございません」


 ぐいぐいと近寄ってくるので、その分後ろに引くのだけれど、もともと左右の脚にガタつきのあるスツールに腰掛けていただけだったため、ついにバランスを崩してスツールから転げ落ちる。


「……危ないところでした」


 ニヒトの長くしなやかな手がわたくしの腰に周り、ふわりと膝に載せられる。思わず顔に血が上りそうになるのを堪えるため、ニヒトから顔をそらす。
 ニヒトから漂う香りはいつも甘すぎる。純度の高い酒のようで、酔ってしまいそうで嫌になる。


「ありがとう。でももう平気よ。離してほしいわ」

「はい。お嬢様」


 壊れ物を扱うかのように腰に回されていた手はそのままに、紳士的に差し出された片方の手を借りる。しっかりと手が載せられたことを確認したニヒトは腰を支え、立ち上がる手助けをしてくれる。
 そんなことをしなくても立ち上がれるのに、となじりたいけれど、足腰がガクガクと震えていることには気がついている。きっとニヒトも気がついていて、何も言わない。

 この奴隷は、本当に悪魔のようだ。

 ニヒトの常人より低い体温と、香りに包まれていては頭が正常に働かない。この異国の美貌もよくない。
 今ではニヒトの纏う香り、そして継母や異母姉がニヒトに向ける熱っぽい眼差しと、そのときに発するベトついて不快な匂いの意味をわかっている。

 だからこそ。わたくしは飲み込まれたりしない。


「それでニヒト? あなたまたオーディン様を害したいような、不穏なことを口走っていましたわね?」


 スツールはガタガタとして頼りないため、ぺたんこの薄い布切れを敷いただけの簡素な寝台に腰掛けるようニヒトに促される。言うことを聞かない足腰が無様に転げないように、ゆっくりと腰掛け、ふう、と息を吐いた。
 ニヒトはそれを確認するとわたくしから離れ、足元で膝をつく。


「いいえ。私めはフェンリルに弑された数多の神々を罵っていただけです。世界の滅亡ラグナロクでは多くの神々が死にましたから。主犯であるロキですら、あの戦いで命を落としました。お嬢様にも以前、お話ししましたでしょう?」


 この二枚舌め。だけど建国神話については気になる点がある。


「ええ。アス神族と神聖アース帝国の建国神話についてでしたわね。……神官様から伺ったお話とは相違点がありましたけれど」

「それは神官どもが都合のよいように神話を作り変えていますから。でもまあ、大筋は同じことですよ。オーディンは死んだ」

「その後復活なされたはずです」

「復活したのはオーディンの息子のバルドゥールなんですがね……。まぁ、どちらでもよいかと。私めからすれば、苛烈で被虐嗜好のオーディンか、きらきら鬱陶しいバルドゥールか。どちらが信仰対象になろうとも、大差はない」

「ほらまた! オーディン様に無礼なことを!」


 思わず指差すと、ニヒトは鼻先につきつけられた指にそっと触れ、優しくおろしていった。


「お嬢様。私めには構いませんが、相手を指差してはなりません」

「うっ……。ごめんなさい……」


 大変不道徳なこの奴隷は、こうしてわたくしに道徳的指導をする。
 実際、わたくしの倫理観も道徳も礼儀も作法も。ほとんどがニヒトの指南によるものだ。道徳観念や倫理観については、とても不安が残るため、時々神官様にお話を伺って、正していただいたり、それでよいと肯定していただいたりしている。
 つまりニヒトは持論とは別に、真っ当な道徳観念も倫理観も知識としてきちんと頭に入っているのだ。


「お嬢様のその素直な性質。己の間違いを認め、相手の話をきちんと聞くところ。何にも代えがたい美徳です。だからこそ私めはお嬢様を敬愛しているのです」


 自称悪魔のくせに、慈悲に満ちた微笑みを浮かべて頭を撫でてくるのだから、本当に意味がわからない。


「……ニヒトのおかげだわ。わたくしがひねくれずにいられたのは、ニヒトがわたくしの側にいてくれたから」


 そうでなければ、継母と異母姉、使用人からの仕打ち、実父の無関心に心が折れていたことだろう。
 あの日、ニヒトが奴隷として屋敷に残ったとき。わたくしの心は砕ける寸前だった。
 ニヒトはわたくしを救ってくれた。奴隷として買われ、人間としての尊厳を貶められ、屈辱を引き受ける代わりに。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

あなたの瞳に映る花火 〜異世界恋愛短編集〜

恋愛
中世ヨーロッパ風の架空の国で起こるヒストリカルラブロマンス。恋愛以外のジャンルもあります。 ほのぼの系、婚約破棄、姉妹格差、ワガママ義妹、職業ものなど、様々な物語を取り揃えております。 各作品繋がりがあったりします。 時系列はバラバラです。 小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。 表紙は結之志希様(@yuino_novel)からいただきました。

【完結】引きこもり王女の恋もよう〜ハイドランジア王国物語〜

hazuki.mikado
恋愛
傾国の美女で才媛と称される、ハイドランジア王国のシンシア第二王女。  彼女は他国の王族から引く手あまたと言われている妖艶な美女だが実は超絶運動音痴で、ゆっくり動くことを心掛けている為その緩慢な動きが優雅に見えるだけであり、特別自分が優れているとは思っていないコンプレックスの塊である。  情報国家トリステス帝国に留学をする事を一大決心するが、あまりの『鈍臭さ』に周りからやたら心配され反対されていた。  偶々トリステスの皇城内部に転移門を設置する機会があり、そのお陰でようやく許可される。  そしてそこで出逢ったのは・・・ ★『転生聖女は諦めない』変更→【完結】『転生した元社畜男子は聖女になって人生逃げ切る事を諦めません!』の外伝です。 本編の約一年後です。  悪女スレスレでセーフティゾーンに(主に執筆担当の画策により)放り込まれたシンシア王女のその後。ミリアンヌとミゲルのイチャコラもちょっとだけ挟みつつ、メルヘンやネイサン(聖王)そして帝国のアレヤコレヤでお楽しみください。 ★本編に出てきたキャラクターはチラホラ登場しますが、外伝だけでもお読みいただけます(_ _) ×××××××××× ※執筆者が偶にちゃちゃを入れてしまいますが、気になる方は貴方の秘めたるパワー、スルースキルを発揮してくださると嬉しいです♡ ※ギャグ・コメディたまにシリアスでざまあは基本的にはナシw ※R15指定はありますが保険でしかございません。ほぼ健全で御座います。R指定無くてもいい位です〜(*´ω`*) ☆なろう エブリスタでも公開

泥を啜って咲く花の如く

ひづき
恋愛
王命にて妻を迎えることになった辺境伯、ライナス・ブライドラー。 強面の彼の元に嫁いできたのは釣書の人物ではなく、その異母姉のヨハンナだった。 どこか心の壊れているヨハンナ。 そんなヨハンナを利用しようとする者たちは次々にライナスの前に現れて自滅していく。 ライナスにできるのは、ほんの少しの復讐だけ。 ※恋愛要素は薄い ※R15は保険(残酷な表現を含むため)

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

【完結】烏公爵の後妻〜旦那様は亡き前妻を想い、一生喪に服すらしい〜

七瀬菜々
恋愛
------ウィンターソン公爵の元に嫁ぎなさい。 ある日突然、兄がそう言った。 魔力がなく魔術師にもなれなければ、女というだけで父と同じ医者にもなれないシャロンは『自分にできることは家のためになる結婚をすること』と、日々婚活を頑張っていた。 しかし、表情を作ることが苦手な彼女の婚活はそううまくいくはずも無く…。 そろそろ諦めて修道院にで入ろうかと思っていた矢先、突然にウィンターソン公爵との縁談が持ち上がる。 ウィンターソン公爵といえば、亡き妻エミリアのことが忘れられず、5年間ずっと喪に服したままで有名な男だ。 前妻を今でも愛している公爵は、シャロンに対して予め『自分に愛されないことを受け入れろ』という誓約書を書かせるほどに徹底していた。 これはそんなウィンターソン公爵の後妻シャロンの愛されないはずの結婚の物語である。 ※基本的にちょっと残念な夫婦のお話です

婚約破棄されたら魔法が解けました

かな
恋愛
「クロエ・ベネット。お前との婚約は破棄する。」 それは学園の卒業パーティーでの出来事だった。……やっぱり、ダメだったんだ。周りがザワザワと騒ぎ出す中、ただ1人『クロエ・ベネット』だけは冷静に事実を受け止めていた。乙女ゲームの世界に転生してから10年。国外追放を回避する為に、そして后妃となる為に努力し続けて来たその時間が無駄になった瞬間だった。そんな彼女に追い打ちをかけるかのように、王太子であるエドワード・ホワイトは聖女を新たな婚約者とすることを発表した。その後はトントン拍子にことが運び、冤罪をかけられ、ゲームのシナリオ通り国外追放になった。そして、魔物に襲われて死ぬ。……そんな運命を辿るはずだった。 「こんなことなら、転生なんてしたくなかった。元の世界に戻りたい……」 あろうことか、最後の願いとしてそう思った瞬間に、全身が光り出したのだ。そして気がつくと、なんと前世の姿に戻っていた!しかもそれを第二王子であるアルベルトに見られていて……。 「……まさかこんなことになるなんてね。……それでどうする?あの2人復讐でもしちゃう?今の君なら、それができるよ。」 死を覚悟した絶望から転生特典を得た主人公の大逆転溺愛ラブストーリー! ※最初の5話は毎日18時に投稿、それ以降は毎週土曜日の18時に投稿する予定です

【完結】アラサー喪女が転生したら悪役令嬢だった件。断罪からはじまる悪役令嬢は、回避不能なヤンデレ様に溺愛を確約されても困ります!

美杉。節約令嬢、書籍化進行中
恋愛
『ルド様……あなたが愛した人は私ですか? それともこの体のアーシエなのですか?』  そんな風に簡単に聞くことが出来たら、どれだけ良かっただろう。  目が覚めた瞬間、私は今置かれた現状に絶望した。  なにせ牢屋に繋がれた金髪縦ロールの令嬢になっていたのだから。  元々は社畜で喪女。挙句にオタクで、恋をすることもないままの死亡エンドだったようで、この世界に転生をしてきてしあったらしい。  ただまったく転生前のこの令嬢の記憶がなく、ただ状況から断罪シーンと私は推測した。  いきなり生き返って死亡エンドはないでしょう。さすがにこれは神様恨みますとばかりに、私はその場で断罪を行おうとする王太子ルドと対峙する。  なんとしても回避したい。そう思い行動をした私は、なぜか回避するどころか王太子であるルドとのヤンデレルートに突入してしまう。  このままヤンデレルートでの死亡エンドなんて絶対に嫌だ。なんとしても、ヤンデレルートを溺愛ルートへ移行させようと模索する。  悪役令嬢は誰なのか。私は誰なのか。  ルドの溺愛が加速するごとに、彼の愛する人が本当は誰なのかと、だんだん苦しくなっていく――

処理中です...