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第一章

第十二話 そして好色王子は魔女と悪巧みをする

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 私室兼、執務室兼、娯楽室兼、寝室兼、化粧室兼、衣装室兼、その他諸々全部兼、の夫婦の部屋。
 ぐるりと見渡すと家具やら衣装やら何やらで囲まれている。その真ん中にテーブルがあった。
 部屋を埋め尽くす勢いの、あらゆる物から押し寄せられるように置かれたテーブル。
 そこへ、城下にてヘクセの買ってきたバターサンドとアイスヴァインが置かれていた。

 王宮にて兄姉弟らと存分に語らい、愛する我が宮へと戻ってきたコーエン。
 侍従であるニヒトを引き連れ、城下散策を楽しんだ後、帰宮した夫を出迎えたヘクセ。

 二人はテーブルにお腹がくっつくくらいチェアを前に押し出し、座っていた。
 だってとても狭いから。
 一応はテーブルセットの周囲に余白はあるものの、なんとなく前に出てしまう。
 だってとても狭いから。

 面積は広いはずの部屋なのに、混沌と無秩序でごちゃ混ぜの部屋。
 その真ん中にあるテーブルセットは、そこだけぽっかりと浮かぶ離れ小島のようだ。

 目前に並べられたバターサンドに目を落として、ヘクセは頬に手を当て困ったように眉を下げる。

「今いただいてしまうと、夕餉はいただけそうにないですわ」
「俺がヘクセの分も食べてやるよ」
「あら。それが狙いでしたの?」
「バレたか」

 へらっと笑い返すコーエンにヘクセが「どうぞわたくしの分までたっぷり召し上がってくださいませ」と肩を竦める。

「そんなにいただいたら太ってしまいますもの」
「なあに。ちょっと激しくすれば平気だって。なあ?」

 コーエンが意味深長に流し目を送ると、ヘクセが悲しそうに眉根を寄せた。

 天井より垂れ下がる灯す火を節約しているシャンデリアから光が注ぎ、ヘクセの長い睫毛が瞬きの度、頬に影を落とす。ぱたりぱたり。音がしそうな影。
 黒い睫毛の先が時々白く光る。

「……わたくし、今日は城下に降りたのですよ……?」
「知ってらぁ。なんせコレはそんとき買ってきたものだろう」

 コレと指さしたのはバターサンド。
 ヘクセとニヒトが二人で城下に降りると必ず何か土産を買ってくるが、その中の様々な菓子のうち、コーエンの好物となったもの。ヘクセとニヒトの情事の証のようなもの。
 この土産そのものをやり取りを、エーベルならば悪趣味だと言うだろう。呆れて笑うだろうか。それとも心配して悲しむのだろうか。
 わからないけれど、きっとこれを知ればエーベルはますますニヒトを疎むのだろう。
 ニヒトもコーエンの大事な家族だから、あまり嫌わないでやってほしいのだが、この感覚を理解してもらうのはきっと難しいとわかっている。

「ええ……。まあそうですけれど……」

 どことなくヘクセの歯切れも悪い。
 それもそうだ。
 ヘクセは幾度も幾度もコーエンにこんなことはやめたいのだと言っていた。コーエンの妻なのだからと。それなのに構わないからと押し切ってきたのはコーエンだ。
 それがヘクセを傷つけていることも知っていた。だからエーベルは今日、あんなにも怒ったのだ。

 コーエンはワインを口に含む。とろりと濃厚な甘さが口腔内に広がって鼻腔に香りが抜ける。
 グラスをテーブルに置くとコトリと小さな音がした。ヘクセが目を見開く。音を立てるなど、普段のコーエンならばありえない。これでも王子様なのだから。それなりにマナーは叩き込まれている。正しく振舞うかどうかは別として。

「……どうかなさったのですか」

 訝し気にコーエンを見つめ、鼻先を近づけようとするヘクセ。
 思ったより緊張しているらしい。
 苦笑してコーエンはヘクセの白い円やかな頬へと手を伸ばす。ワイングラスは邪魔だがコーエンが手を伸ばせば届く距離にヘクセの顔がある。
 このテーブルもとても小さいのだ。

「今日はさぁ。きょうだい皆に叱られちまったんだよ」
「まあ。それはいったい何をしでかしたのです?」

 きょとんと首を傾げながら、コーエンの手に頬を摺り寄せるヘクセ。そのままコーエンの手のひらに鼻先を埋める。
 ふんふんと嗅ぐ仕草が愛おしい。ヘクセの吐息がくすぐったい。それから少し湿る。

「あら。緊張なさってる」

 ふふふと笑うヘクセに、コーエンはへにょりと情けなく笑い返す。

「ああ。緊張してる。初夜んとき以上かもしれねえ」
「まあ! それは酷い! あのときのコーエンったら、見ていられなかったですもの。あんまりに可愛くて」
「そいつはひでぇな。ヘクセだっておんなじくらい緊張してたじゃねえか」
「ええそうですわね。うっかりニヒトの名を出してしまうくらいに」
「そうだったな。だけどそいつのお陰で俺の緊張も緩んだんだ」
「ニヒトはコーエンにとって、ですものね」
「ああ。そうだ。大事だ」

 リヒャードは言った。既存の形に留まらずともよい、と。コーエンとヘクセとニヒトと。傍から見れば異常で不自然な形を、それでもいいと言ってくれた。
 独り善がりになるなと、エーベルは言った。相手と腹を割って話し合えと。何も見ようともせず、臆病な心を見えないふりをして、傲慢に自分の気持ちだけを押し付けるなと。
 話し合った結果同じ形になるのと、何も見ないようにして現状を固持することは違う。

 ヘクセがコーエンの手に頬ずりをした。
 目を細めた穏やかで柔和な微笑みに、背中を後押しされる。

「俺はずっとヘクセにニヒトと繋がっていることを強いてきた。それはヘクセを傷つけただろう。苦しめてきただろう。それはわかってる。ヘクセは俺にもうやめてぇんだと訴えてきたな。何度も。何度も聞いて、その度俺は構わねぇ気にするなとお前に言い聞かせてきた。本当はお前達が体を重ねることを認める俺に傷ついてたんだろ。
「なあヘクセ。お前は俺に遠慮してたのか? 怖かったのか? 怯えていたのか?」

 ずっと内に秘めてそのまま仕舞っておくつもりだった懺悔のような悔恨のような叱責のような糾弾のようなグチャグチャなものを吐き出しつくすと、コーエンはヘクセの頬に当てている指先が震えているのを感じた。
 ヘクセは目をぱちぱちと瞬かせる。

「まあ……。それは一体誰の入れ知恵ですの?」
「誰のって……。いやまあ、はっきりさせなきゃいけねえって思ったきっかけはエーベルだけど、他の誰でもねえ俺の正直な気持ちだ」
「それはまあ……。なんと申し上げればよいのか……」

 困ってしまいますわね、とヘクセは眉を下げ、困ったように微笑んだ。頬を寄せていたコーエンの手に指を絡めて、ヘクセがぎゅっと握る。コーエンも握り返す。手は震えたままだ。

「そうですわねぇ……。ええと、まずは遠慮していたか、でしたっけ。いいえ。しておりません。わたくしはだっていつもコーエンの前で泣きわめいておりましたでしょう。嫌だやめたいと幼子のように心のままにコーエンにぶつかっておりましたわ。ですから遠慮などしておりません」

 確かにヘクセはコーエンの前でよく泣いた。癇癪を起こして当たり散らした。
 コーエンはその姿を可愛い愛しいと、まるで神にでもなったかのように。ヘクセの心に寄り添うではなく、庇護者の顔をした尊大さで見下ろしていた。

 コーエンは冷たくなっていきそうな指先をヘクセの指に絡める。
 しっかりと体温のあるヘクセの細く柔らかい指。節くれてかさかさとしたコーエンの手によく馴染む。

「それから怖かったか、ですわね。はい。怖かったのは確かですわ。だってコーエンはニヒトと離れたわたくしを愛してくださるかわからなかったから。ニヒトのいないわたくしに価値はないのかもしれないと思えば怖くてたまりませんでしたわ」
「そんなことは……」
「いいえ。そんなことはない、とは言えませんでしょう? だってコーエンはわたくしを愛してくださってはいるけれど、『ニヒトつきのわたくし』を気に入ってくださったのですもの」

 そう言って寂し気に笑うヘクセは、しかし吹っ切れたかのように清々しい表情をしていた。

「わたくしの夢を聞いてくださいますか?」
「ああ。なんでも」

 片目を瞑って「なんでも叶えてやるよ」と茶目っけたっぷりに応えると、ヘクセは絡めていた指をそっと抜き取った。
 失われた熱が名残り惜しい。
 コーエンはテーブルの上に肘をついたまま、離された手を下ろし軽く拳を握った。

「まあ。それはそれは。わたくしの夫はなんて雄々しく勇烈なのでしょう。ですが不可能なことを可能にすると口にしてはいけませんのよ? コーエンは王族なのですから」
「可愛い妻の願いも叶えられないんじゃあ、王族の資格なんざねえなあ。なんだ? どっかの国でも獲ってくるか? 隷属させて一国の主にでもなってみるか。この『色欲の塔』を砦にでもするか」
「そうしましたら、ますますコーエンとわたくしと、この宮殿の悪名は轟きますわね」
「それは楽しそうだなあ」
「ええ。とても。あら、でも今、戦をふっかけられるようなお国はございまして?」
「うーん……。丁度いい国があるにはあるが……。エーベルの嫁ぎ先になっちまったからなぁ」
「まあ。エーベル様の旦那様になられる方のお国を奪ってはいけませんわね」

 物置部屋のように雑多に押し込められた私室で、コーエンとヘクセは国盗り物語をいつか読んだ冒険譚のように無邪気に諳んじる。幼い頃に少年少女のする戦争ごっこ。勇者の役をする少年と捕らわれのお姫様の少女と。
 好色王子役のコーエンと魔女役のヘクセで仕掛けた戦争ごっこはもっと小規模で、ヘクセの父から所有する全ての爵位を褫爵ちしゃくし領地を取り上げ、義母と異母姉からは実母の形見であった宝飾品の一部を奪い返したに過ぎない。
 勇者は魔王や魔族ら一族郎党余すことなく弑して倒すけれど、好色王子は公爵一家を粗末な家に移しただけで貴族籍もそのままだ。親族を含めた寄子は軽微な罪状のついた家もあるし、つかなかった家もある。降爵した家は一つもない。

「まーなあ。その上戦ごっこは後始末も面倒だからな」
「確かにそうですわね。奪ったあとはきちんと面倒を見なくてはなりませんもの」

 かつての公爵領は第二王子管轄領となり、その他細々とした領地は王室所有領となった。
 厳格で清廉な人物だと名高い王太子リヒャードとは対称的に、好色王子と悪名高い第二王子コーエン。それからその妃である、魔女と呼ばれた先の領主のお嬢様、ヘクセ。

 領主が代わったことに、かつての公爵領の領民は当初、小さな反発を見せていた。
 しかし新しい領主の爛れた噂話を交わすだけで、そのうち大して気にも留めなくなった。
 領民にとって、徴収される税が減るのならば、領主が悪名高い奇人変人に変わろうと、自身の生活に何の支障もない。

 奇人だと噂される新しい領主夫婦は領地に足を運ぶわけでもなく、優秀な領地代官に領地の経営を任せているようだった。
 不運にも顔を合わせて理不尽なことで叱責されたり無理難題を押し付けられるような不快なこともない。

 それに領主が変わってから時々訪れる、気さくでどこか口の悪い貴族風の青年と、美しく淑やかな貴族風のご婦人が、領民に何くれとなく声をかけ、気を配ってくれる。領地代官とも顔見知りのようだし、もしかしたら領主夫婦にも顔が利くのかもしれない。
 あの悪辣な噂ばかりの第二王子夫妻との交流など、この人の好さそうな二人が心配でならないが、貴族とは好きだ嫌いだで交流を決められるものではないのだろう。貴族の事情は平民にはわからない。
 だから領民は身分を振りかざさない快活な青年貴族と、しっとりと優美でいながら領民の冗談に笑ってくれる懐の大きい貴族婦人が安寧でいられることを願うだけだ。



 コーエンは執務机に山積みとなった書類を一瞥すると、嘆息して口をへの字に曲げた。

「ああ。今あることだけで手いっぱいだ。ってーことで、ヘクセ。願い事はちっちぇえもんで頼むよ。情けねえが、俺はそんなに器のでけぇ男じゃねえからな」
「あら……。それは聞けない要望ですわ」
「なんだって? 俺の可愛い奥さんは強欲だったのか?」

 両肘を小さなテーブルに置いて腕を組み身を少し沈めると、コーエンは下からヘクセの顔を覗き込んだ。
 にいっと笑って、キラキラと輝く黒い瞳と目を合わせれば、ヘクセも目を細めて微笑み返す。

「ええ。だってわたくしは魔女ですもの。この強欲は天井知らずですの」
「へえ。その強欲なヘクセが願う夢はなんだ?」

 きらきら。黒曜石の双眸が光を受けて煌めく。
 ぱさりぱさり。上向きに弧を描く長い睫毛が影を彩りながら、舞うように揺れる。

 形のよい眉が下がり、赤い紅を引いた唇が小さく開き、すぅっと静かな息を吸う。豊かな黒髪が微かに揺れ、胸の前で細く白い手が合わされる。
 乙女の祈りのようなその姿で、ヘクセは夢見がちな乙女のように、詩を諳んじるかのように、歌うように。
 とろりと甘い夢に浸る黒い瞳がコーエンの灰青色の瞳を捕える。

「わたくし、恋がしてみたかったのです」

 コーエンは静かに目を見開く。
 グラスに注がれたアイスヴァインの芳醇な甘い香り。ヘクセの熱を孕んだ瞳がゆるりと細められていく。

「これほどまでに汚れた体と心を持て余して我ながら滑稽ですけれど。それでも憧れてしまったのですわ。わたくしはコーエンに、夫に恋をしようと決めたのです。ですから怯えることもなくなりましたの。コーエンがわたくしに恋をしなくても、わたくしがコーエンを恋い慕えばよろしいのですから。それに――……」
「……それに?」

 組んでいた腕を解き、コーエンはテーブルに乗り出していた身を後ろに引いて背もたれに体を預けた。コーエンが続きを促すと、小さく息を吸って止まった歌が、ヘクセの口からまた軽やかに続いていく。

「本当のところ、ニヒトと寝台にあがることは、もうずっとしていないのです。わたくしがコーエンの前で泣き喚かくなったこと、お気づきでしたかしら?」
「……そんなら二人で何してたんだ?」
「あら。うふふ」

 口元に細い指をやり、ヘクセは楽しそうに笑う。
 気がついていなかった、と白状するのはバツが悪くて、コーエンは話を逸らす。
 思い返せば、確かにそうだった。それにニヒトの苦言は増すばかりだったけれど、そういえば謝罪は聞かなくなった。

「ニヒトと二人でコーエンを取り合って競争をしていたのです。わたくしとニヒト、ライバルですのよ。どちらが早く、単騎でコーエンの心に潜り込めるのか。これまで五分五分の戦いかと思っておりましたけれど、もしかしたらわたくしの一歩リードかしら」
「なんだよ。俺を盤上にチェスでもしてたのか」
「そのようなものですわ」

 ヘクセは小首を傾げて「わたくしにはエーベル様がいらして、ニヒトには他の誰も駒がおりませんでしたから、だいぶズルをしておりましたわね」と言う。

「そしてね。ニヒトと作戦を練っていたのですわ。どうしたらわたくし達二人を弱虫で臆病なコーエンが信じてくださるのかって。わたくし達、何があってもコーエンから離れていくことなどないのに」

 弱虫で臆病なコーエンは深く息を吐きだすと、片手で顔を覆った。

「お前達を『見よう』ともしなくなったからか」
「ええ。コーエンがわたくし達の裏切りを怖がっているのは、わかっていましたもの。そんなこと、ありえませんのに」
「……もう愛想尽かされても仕方ねぇって思ってた」

 想像以上に情けない声が漏れて、コーエンは思わず失笑する。
 離宮の主として振る舞い、保護した者達の庇護者として立ち。ヘクセとニヒトがコーエンの両隣に立って、弱者と呼ばれる者達を集わせ君臨する。
 小さな小さな楽園。
 コーエンの作った箱庭。欲しいもの守りたいものをただひたすらに集めた傲慢の証。色欲の塔という、コーエンの秘密基地。
 誰にも穢すことを赦さない聖域。


 はあ、と嘆息してコーエンは目を覆っていた手を外した。にっこりとヘクセが微笑んでいた。

「わたくし、きちんとわかっております。あの日コーエンがこの離宮を穢すなと仰った意味。エーベル様をこちらに招き入れたくなかったのですよね。コーエンにとって、ここはコーエンとわたくしとニヒトだけの大切な大切なおうちだから。コーエンとわたくしとニヒトの間に他人をいれることが許しがたかったのでしょう? わたくし、とても嬉しかった……。とても嬉しかったのです」

 胸元で両手を組み、ヘクセは陶然と語る。どこか遠くを見つめるような姿に、コーエンは苦笑した。

「はは。ヘクセも大分歪んでんな」
「あら。だってそうでなければ、コーエンはわたくしを気に入らなかったのでなくて?」

 先程まで夢の世界にたゆたっていたヘクセが目を細め、口の端をニヤリとあげる。コーエンもそれを受けて片方の眉をあげた。

「違いねえ。まあ、誰が相手でもそれなりにうまくやってこうとは思ってたよ」

 肩を竦めるコーエンに、ヘクセは首を振る。

「それなりでは嫌なのです。コーエン以上にわたくしもニヒトも家族が欲しかったのです。ずっとずっと。温かくて優しくて、わたくしを愛おしんでくださる家族が欲しかったの」

 ちらちらと光を受けては輝く黒い瞳を、じっとそらさず見つめる。ヘクセは歌い続ける。

「わたくしに家族を与えてくださってありがとう」

 ありがとう、とヘクセが何度も言う。
 ありがとう。家族になってくれて。
 ありがとう。ニヒトを逃さないでくれて。
 ありがとう。ヘクセとニヒトを縛り付けてくれて。
 ありがとう。生家に復讐してくれて。
 ありがとう。弱者を庇護する万能感を教えてくれて。
 ありがとう。愛をくれて。
 ありがとう。愛することを許してくれて。

 ありがとう。ありがとう。ありがとう。

「わたくし、コーエンと出会えて、とても幸せよ」

 ヘクセはいつの間にか立ち上がっていた。
 広く分厚いコーエンの肩を抱く。歯を食いしばって目をきつく瞑る夫の顔を隠すように、ヘクセは自らの胸に抱き、赤みがかった夫の金髪をゆっくりと撫でる。
 熱く湿った吐息がヘクセの胸元を温める。
 何かを堪えたような唸り声がヘクセの耳に届くも、ときどき髪を梳いてやりながら、ゆっくりとゆっくりと撫でる。
 肩に回した手に伝わる、衣服の下にある固く逞しい肉の感触。
 馬から移った青い草の匂い。藁の匂い。軽い酒精と汗の匂い。悔恨と嘆きの苦い匂い。激情と多幸の濃く甘い、刺激的な匂い。ヘクセの鼻腔を擽って、言葉より雄弁に細やかに教えてくれる匂い。



 コーエンの好みの胸元が広く空いた妖艶なドレス。
 魔女のようだと評されるのが楽しくて、深紅に黒のレースをあしらって、仕立てさせたもの。胸元の黒いレースがぺたりとヘクセの胸に張りつき、深紅の絹は一部がじんわりと色を増して濃くなる。

 以前コーエンの肩口に縋りつき、その肩から胸にかけて涙と鼻水でぐちょぐちょにしたことをヘクセは思い返し、眉を顰める。
 どうもコーエンの泣き方はヘクセよりずっと綺麗でお上品なようだ。さすが王子と言うべきか。淑女であるはずの自分より美しく泣く、普段は粗野な素振りを見せる夫に、ヘクセは少し複雑な気持ちになった。
















「これが恋かはわからねぇ。正直、俺には恋ってもんがわかんねぇんだ。ヘクセが相手だからじゃない。俺自身の問題だ。でも何より大事だ。愛してる。本当に。愛してるんだ」

 じっとヘクセを真っすぐに見つめるコーエンの灰青色の瞳は未だ潤んでいる。
 赤く充血し涙の名残のある眼差しは、精悍な顔つきと重なって、見慣れた夫の顔だというのに異様に色香に満ちていて、ヘクセの胸をぎゅうっと締めつけた。

「ええ。存じております。コーエンの愛を疑ったことはございません」

 ヘクセが微笑んで頷いてみせると、コーエンは悲しそうに目を伏せる。

「恋は……できるかは、わからねぇ」

 ヘクセは細い指先でつつっとコーエンの頤を押し上げる。
 驚いたように目を見開く夫の顔が可愛い、とヘクセはニンマリと満足そうに笑った。
 三日月のように細められた目と、豊かで艶やかな髪。赤い唇が弧を描く様は妖艶な魔女のようだった。

「では賭けをいたしましょう。コーエンがわたくしに恋に落ちたのなら、わたくしの勝ち。そうでなけれはコーエンの勝ち」

 コーエンはふっと笑って、ヘクセの細い指を握った。

「どうやって判断するんだ?」
「いつかコーエンが、わたくしとニヒトが寄り添う姿に、嫉妬できるようになったなら。わたくしとニヒトの距離を離したいと思えるようになったのなら。そのときはコーエンがわたくしに恋をしたのだと判断いたしますわ」

 コーエンは眉を顰める。

「……そりゃ、どうなんだ? それが基準なのか?」
「何か問題でも?」

 こてん、と首を傾げるヘクセにコーエンは口をへの字にする。

「ヘクセは何か勘違いしてるみてぇだが、俺はお前がニヒトに抱かれてる姿を想像すれば、ニヒトに腹が立つし、とことんブチのめしてやりてぇって気持ちにもなる。ヘクセの身体中、ニヒトに触られたところ全部洗い流してぇから、俺は毎回、お前を風呂に入れて洗ってるんじゃねぇか。俺は前にも言ったよな? 嫉妬くらいするって」
「ええ……。まあ……。そういえばそんなことも……。仰っていましたわね……」

 ぽかん、と間の抜けた顔を晒すヘクセに、コーエンは眉間の皺を深くしていく。

「でもこりゃあ、好きな女を独占したいただの男の性だろう?そりゃあ、ニヒトが他の誰と寝ようと気にもならねぇが、あいつは男で、いくら色っぽかろうが、抱きてぇなんて思ったことは一度もねぇし。ヘクセとニヒトには俺の傍にいてもらいてぇから、俺に罪悪感を抱いててほしいから、お前らに秘密を強要しただけで、ヘクセがニヒトに抱かれること自体を喜んでたことなんか一度もねぇぞ。お前らが俺から離れていかねえで済む手段が他にあるんなら、わざわざニヒトに抱かせたりなんかしてねえよ」

 ヘクセが呆然とした顔のまま「困りましたわね……」と言う。

「何がだ?」
「これではわたくしも、何が恋なのかわからなくなってしまいましたわ……」

 コーエンも眉を下げて頭を掻く。

「な? 恋ってわかんねぇだろ? だってヘクセのことは愛してるんだよ。ずっと笑っててほしいし、俺が幸せにしてやりてぇ。だけど、それはニヒトも同じなんだ。だってあいつも俺の大事な家族だから」
「……わたくしもですわ。コーエンのことを愛しておりますけれど、ニヒトも大事な家族ですもの……」

 コーエンとヘクセと。灰青色の瞳と黒の瞳がぶつかり合う。
 ふにゃりと笑み崩れるコーエンに、ヘクセもよく似た笑顔で返す。

「ニヒトとの違いは、抱きてぇかどうかってことと、一日の最初と最後に言葉を交わすのがヘクセであってほしいってことくらいじゃねえかなあ……」
「そうですわねぇ……。そう言われますと、わたくしも同じかもしれませんわ……」
「ああ! あとヘクセにはこうして夕餉前の間食に寝酒を付き合ってもらいてえな。ヘクセと笑って、軽口叩き合って、互いの一日を報告し合って、そういう他愛もない時間をヘクセと重ねていきてえんだ」
「わたくしも……あら?」

 ヘクセが何かを考えこむように、口元に手を当てる。コーエンはそれを見守る。
 目線を床に落とし、眉を顰めて唇を突き出す表情が愛しくて、コーエンは額に落ちた一束の髪を撫でるようにそっと耳にかけてやる。
 ゆっくりとヘクセは顔を上げた。

「わたくし、やっぱり、恋は必要ないみたいですわ」

 だって今がとても幸せなのですもの。
 そう言ってへにょりと笑うヘクセに、コーエンも笑った。

「おいおい。それじゃあ賭けになんねぇじゃねえか。それに俺にも教えてくれよ。恋がどんなものなのか」
「ええっ!でも……わたくしも正直なところ、恋がなんなのかわからなくなってしまったのです……」

 心底困ったように眉を下げてコーエンを見上げるヘクセ。その細腰をぐっと引き寄せる。
 ふわりとジャスミンの香りが漂って、コーエンはとてもいい気分になった。
 目を凝らして黒い瞳をじっと見つめる。

「……そんじゃあ、俺は、『恋をしたい』っていう可愛い奥さんの夢をこれから叶えてやらなくちゃなんねぇなあ」

 ヘクセはヒュッと息を呑むも、途端に不満そうに唇を尖らせた。

「今! 今、コーエンはわたくしを『見た』でしょう? どうだったのです? コーエンにはどう『見えた』のです?」
「さあ? どうだろうな?」

 ヘクセの吊り上げられた眦に、コーエンはそっと口づけを落とす。

「ねぇっ! わたくしは恋をしているの? どうなの?」

 とんっとコーエンの胸を叩くヘクセの細く頼りない手。その手を掴み、そこにもまた口づけを落とす。

「だから俺にはわかんねぇって。恋なんざわかんねぇんだし。ヘクセが教えてくれよ」
「何を仰るの! 王太子殿下と王太子妃殿下のお姿をご存知のコーエンならば、わたくしがどんな状態なのか、おわかりになるでしょう?!」
「いやぁ、だってあいつらとヘクセは違う人間だからさあ。わかんねぇなぁ」
「嘘おっしゃい! だいたいでいいから教えてくださいな! ねぇ、どうなの? これは恋なの?」
「知らねぇよ。ヘクセこそわかるんじゃねぇのか? なぁ?」

 ヘクセの手に唇をつけたまま、コーエンは挑むように見上げた。ヘクセはぐっと言葉を飲み込んだ。そして拳を握りしめる。

「……自慢ではございませんが! わたくし、真っ当な恋をしているような知人がおりませんの! 生家はアレでしたし、長く共にいたのはわたくし以上に節操がなくて常識に疎いニヒトでしたし、離宮の皆様は恋どころではないお方ばかりですし……」

 悔しそうに吐き捨てるヘクセに、コーエンは声をあげて笑った。

「なんだそりゃ! 兄貴達がいるじゃねえかよ」

 ヘクセは眉根を寄せてキッとコーエンを睨めあげる。

「コーエンの意地悪! わたくしが王太子殿下ご夫妻の香りを嗅ぎ分けられるほど、お近くに侍ったことがないことくらい、ご存知のくせに!」
「ははは! そりゃそーだ。いくら兄貴とはいえ、ヘクセが俺とニヒト以外の男相手に、そんな近くに寄るのは俺が許さねぇからなぁ。バッチーは兄貴から離れねぇし」
「それじゃあ、わたくし、いつまで経ってもわかりませんわ!」
「なぁに、大丈夫だって。また今度領地にでも出向けば、幸せそうな夫婦だの恋人だの、いくらでも会えるだろ」
「それだってコーエンが、わたくしには男性と距離を取らせるじゃありませんの! わたくしはコーエンのように、遠くでも目を凝らせばわかるというわけではありませんのよ!」
「野郎じゃなくて女でいいじゃねえか」
「お相手のすぐ側にいらっしゃらないと、わたくしにはわからないのです!」
「そんじゃあ風下にでもいけばいいんじゃねぇか?」
「はっ! 確かにそうですわ!」

 目をまん丸にしてコーエンを見上げるヘクセにコーエンは吹き出す。ヘクセの腰に回していた腕をより一層強く抱き、もう片方の腕を背中に回す。

「じゃー近いうちに領地に行くかぁ」
「ええ。楽しみですわ」

 もごもごとコーエンの胸元で声を出すヘクセ。その旋毛つむじに口づけして、ぎゅうぎゅうと抱き締める。ヘクセが抜け出そうと身動ぎするが、きつく囲われたコーエンの腕はますますヘクセを力強く抱き締める。

「コーエン! 苦しいですわ!」
「なんだよ。いいじゃねえか。可愛い奥さんを抱き締めてぇんだ。許してくれよ」
「もう少し、お手柔らかにお願いいたします!」
「なんだよぉ。ヘクセだって、初夜んとき、お手柔らかにって言った俺の言葉を聞かなかったじゃねえか」
「なっ……!」
「そうだろ?」

 ヘクセが抜け出せない程度に、少しだけ腕の力を緩めたコーエンは、真っ赤な顔で目を見開くヘクセの顔を覗き込む。それから目を凝らすと、ニヤリと笑った。

「初夜のとき、朝まで散々わたくしを弄んだのはコーエンでしょうっ! あのあと、どれだけ大変だったか……っ! コーエンなんて、生まれたての子鹿みたいだなんて大笑いしていらしたし! コーエンのせいなのに! それに、それにっ! 今、また『見』ましたわね! ねえっ! 何が見えてるんですの? 笑ってないで教えてくださいましっ! ねぇったら! この甘い香りはなんですのぉおおおおお!」

 胸元で大絶叫するヘクセに、コーエンは首を反らせて大笑いする。腰を抱く腕には力を込めたまま。

「まあ、わかったら俺にも教えてくれよ。な?」

 俺が、恋しているのかどうかを。








 そして好色王子は魔女と悪巧みをする。
 どちらが先に恋を知るのか。先に恋を知った者こそが、二人の大事なニヒトに。それから離宮に住まう家族に。
 恋の伝道師となって、この色欲ラストの塔で快楽こいを教え説き、めくるめく色欲の日々しあわせへと導いていくことを。
 コーエンとヘクセ。どちらが先に恋を知るのか。二人は賭ける。何を賭けたのかは、二人の秘密。


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